第六章
信乃、信乃と、信乃の体をゆすって呼びかける声がきこえてきた。
佐助の声だ。
それとともに、兄者、出すぎだ! 人がくる! と、どこからともなく楓の声がきこえてくる。
まもなく、「や、お前!」と、藤吉郎の声がきこえてきた。藤吉郎の「信乃どの!」という声がすると、ゆすっていた手が腕から離れた。
「待て」という藤吉郎の声がする。
足音が近づいて、信乃に触れる主が変わった。
上半身を抱きあげられ「信乃どの!」と呼ばれ、信乃ははっとした。
目をあけ、藤吉郎の顔を認めると、途端にその腕から離れようと、我が手を伸ばして藤吉郎の体を押しのけようとした。
しかし、体がうまくいうことをきかない。震える腕でなおも藤吉郎の体をおしのけようとすると、
「信乃どの、いかがされた。」
と藤吉郎に問われた。答えようとするが、視線が定まらず、体がいうことを聞かない。
失神してしまったのだと、信乃は悟った。
さきほどの、あの白い女――その、恨めしげな顔が蘇る。
――そうだ、ならぬ。
――そうだ、そなたは、いきては、ならぬ。
いきては――。
信乃は藤吉郎の体をなんとか押しのけ、
「大事ありませぬ。少し、――目舞いがしただけで」
そう言って、足に力を込めて、体を起き上がらせようとした。
「しかし」
しっかと見る藤吉郎の目と、目があって、信乃はドキリとした。
「ほん…本当に、大事ございませぬ。」
慌てて視線をそらせると、この人の目は苦手だと思いながら、藤吉郎の体から離れた。さきほど現れたらしい、佐助と楓の行方を、立ちあがりながら目で探す。
神社を取り囲む林の木々に目を向けていると、
「あれが、お館さまからつかわされた忍びですか。」
と後ろから藤吉郎が問い、またドキリとした。
信乃は藤吉郎にゆっくりと向き直ると、
「ええ、姉のところへ来ていた忍びの兄妹です。」
と、答えたが、ふと、答えてよかったのだろうかと、思い直した。
「それが、信乃どののところにも?」
「はい。」
それで、なぜ信乃のところに、姉を見張っていた忍びがきているのかときかれたら、どうしようかと信乃は途端に緊張した。そもそも巫女である姉そのものが忍びに見張られているのも普通に考えればおかしな話だった。
急いで信乃はその場を取り繕おうと考えをめぐらせたが、真剣な眼で藤吉郎に、
「倒れていたのは、本当に目舞いがしただけですか。」
と問われ、はっと我に返った。
「え、ええ…なれぬことを立て続けに…していたから、たぶん、体に無理が」
そういうと、藤吉郎は体の緊張を解いて、ほっとした顔をした。
「今日はもう、休まれたほうがいい。倒れるまでやるなどと…さあ、とにかく今日は館に戻りましょう。」
「え、ええ。」
「一人で歩けますか。」
「はい。」
それで、藤吉郎が信乃を境内へと至る階段の方へとうながしながら、歩き始めた。
「念のために、玄水どのに診ていただいては。」
「いえ、そこまで必要はありませぬ。そんな、たいしたことでは」
そう言っても、何、念のためでございます、なとど藤吉郎が先導して歩きながら話し続けるが、信乃はなんだか胸にわだかまりが残っている。
なんだろう、答えるはずのこと、聞かれるはずのことが、何ひとつ出てこなかったせいだろうか。
「あの、藤吉郎さま。」
改めて信乃は前を行く藤吉郎に声をかけた。
藤吉郎が立ち止まり、振り返る。相手が振り返ったものの、信乃に語る言葉の準備ができていない。佐助のことをなぜきかぬのかと問うわけにもいかず、しばらく藤吉郎をみつめ、ようよう顔をゆがめて、
「なぜここに?」
そう言葉を発した。
「信乃どのが神社の方へと歩く姿が見えましたので、お相手いたそうと。」
藤吉郎が何でもない顔をして話す。
胸がしめつけられるように、きゅっと痛んだ。
さきほど、義理もないのにと思った自分の言葉がよぎって、やはりそうは思ったが、その言葉が口から出てこず、
「藤吉郎さまは、お忙しくはないのですか。」
信乃が問うた。
藤吉郎はしばらく考える様子を見せて、
「私が信乃どののお相手をするのは迷惑ですか。」
と言葉を返してきた。「迷惑」という言葉に信乃ははじかれ、
「いえ! いいえ! ありがたいと思いこそすれ、迷惑などと」
「では、今度から一人で稽古する時は、お声をおかけください。この身が開いている時は、お相手いたします。」
なぜか藤吉郎がニコニコとし始めた。
それからふと、何かに気がついたように「ただ…」と付け足すと、
「この境内でなければいけませんか。」
「は?」
「ここでは人の目が届きませぬ。館の前にも広場はありますし、できたらそちらで…。」
言われて、信乃はお館の前を思い浮かべ、うっとのどをつまらせた。
「あそこは、だって、人の通りが多くて、」視線を落とした信乃の顔を、藤吉郎がのぞきこんでくる。「恥ずかしいものですから」
「恥ずかしいとは――お稽古がですか。」
「ええ、だって」
「はい。」
「――へっぴり腰なのですもの。」
思わず、藤吉郎は小さく吹き出した。
あっはっはと笑い声をあげたので、信乃がかあっと赤くなる。両手で頬を抑えると、泣きだしたい気持ちがこみ上げてきた。それに気づいたのか藤吉郎が、「あ、ごめんなさい。」と途端に笑うのをやめた。
藤吉郎は表情と姿勢をきりりと整えると、
「とにかく、最初は誰でもへっぴり腰には違いありませぬ。ですから次からはなるべく、館の前でなさいませ。館の前とて相当の広さですし、めったなことがない限り、決まった人間しかあがっては来ません。」
だから、あの面子だから、恥ずかしいのではないか、と思いながらも、今倒れたことを思えば口応えもできず、仕方なく「はい。」と返事をした。
「今日はもう戻りましょう。」
「はい。」
藤吉郎はちらりと境内の木々の間に目をやると、 境内から降りる石段へと歩き始めた。
つられて、信乃も木々へと顔をあげる。
むろん二人の忍びの姿が見えるわけはない。
あれは――藤吉郎に姿を見られた佐助のあれは、「失敗」だったのではあるまいか。
そしてこの藤吉郎は、なぜあれ以上を問わないのだろう。
お館からの忍びだから――それで、それ以上、何も不審には思わないのだろうか。
信乃は前を行く藤吉郎の背をみつめた。
この人はなぜに、このように親切なのだろう。
思ってみつめていると、藤吉郎が振り返った。
「そういえば、 帰ったら村を案内するという約束だったのに、果たせてはおりませぬな。」
そう言われてみれば、あの日、大木村に出発する時に、そんなことを話していたのを思い出した。
あの日は、この村へ本当に帰ってくるのだろうかと思いながらの出発だった。
故郷への帰途であって、二度とこの村へは戻らぬような錯覚さえ覚えていたのだ。
信乃は口を開いた。
「館から神社の裏へかけて、だけですが、暮れに少しは自分で見てまわりました。」
「そうですか、暮れは私が忙しかったから、機会を逃しましたな。では、今度は砦から向こうがよろしいか。」
義理もないのに――という言葉がまた頭をよぎって、信乃は苦笑いを浮かべた。
藤吉郎は村の中の話をし始める。
なんだろう、と、話しながら石段へと向かう藤吉郎の後ろ姿をみつめながら思った。
藤吉郎といると、まるで目に見えぬあつい糸がその体からいくつも伸びて、この体じゅうにまとわりついてくるように感じる。
ゆるりとからんで、心をあたたかくする。
心を、甘くする。
不思議な魅力のある人なのだと思った。
不思議な魅力の――
佐助がおかしい。
信乃は、館に戻ってから、佐助のあの日から今までの行動を思い浮かべてみた。
そもそも、自分につく忍びは、楓ではなかったか。
佐助も加わったのだろうか。
今日の、藤吉郎に姿を見られたのも、本来ならば「失敗」なのだろう。藤吉郎は何でもないように見過ごしたが、前もって知っていた藤吉郎でなかったなら、騒ぎになっていたかもしれない。
そして何よりも、あの、白い女――。
佐助が現れると、いつも、現れはしないか。
最初現れたときは、楓が来る直前だった。でも、姿を現さなかっただけで、あの時既にあの場所に、佐助がいたのだとしたら――?
信乃は夕餉の席で橘に、その白い女のことを尋ねてみようかと思った。
しかし、佐助や楓と会っていることは今まで橘に黙っているのに、今更ながらに尋ねるのもためらわれた。
それで、もの問いたげに橘の前で信乃が食事をとっていると、橘の方から、
「何か話しがあるのかや。」
と問うてきた。
信乃ははっとした。
「いえ」と返事をしかけて、しかしもしあれが、姉や一族にかかわる大事であったとしたら、とも思い直した。
佐助は、姉の亡骸を背負って山の中をさまようたのだ。
少し言葉を探してから、箸をおき、改めてその箸をみつめた。
「巫女さま。」
「なんだ。」
「おききしたいことが。」
そう言ってまなざしを橘に向けると、橘もまっすぐに信乃に目を向けている。
信乃はその凛としたまなざしにひるみかけたが、思い直し、
「あの…たとえばの話でございます。」
「ふむ。」
「たとえば、です。長く、亡骸と共寝をしたりすると、魔が寄ったり、死者の霊を呼んだり、するものなのでしょうか。」
「誰の話だ。」
まっすぐに問われて、信乃は心の中でぎょっとした。しかしくっとこらえて、その驚きを悟られないように、
「たとえばの、話でございます。」
橘はじっと信乃の顔をみつめていたが、視線をさげて一つため息をつくと、
「珍しい話――では、ないな。」
「よくあることなのでございますか。」
「よくあること、でもないが、長く亡骸を葬らず一緒にいた例はいくつかある。子供が死んだのを受け入れられずに抱き続ける母親、男が死んだのを受け入れられずに何日も共寝をした女――いずれも悪鬼が憑いて狂ったようになり、それを落としたことは何度かある。そもそも、魔には魔がよりつきやすいもので、特に穢れである亡骸などにも悪霊や魔はよりつきやすい。亡骸とまでいかなくても、人の心に魔がさせば、そこをねらって悪鬼が憑いて、人を操ろうとするのも珍しいことではない。憑いたものがさらにまた別のものを呼び寄せ、身動きできなくなることもある。」
語る橘の言葉に、信乃は自分でも青ざめていくのがわかった。それを橘はじっと見ていたが、視線を落とし、菜に箸をつけ、
「誰の話だ。」
と、また問い返した。
信乃ははっとなって顔をあげた。あげてから、また視線を落として黙る。それでもう一度橘が、
「言えぬ相手か。」と問い返した。
そして、
「言えぬなら言えぬで、それでもかまわぬが、放っておくととんでもないことになるぞ。」
信乃はしばらく目の前の膳の上にある飯椀をみながら考えていたが、ふと顔をあげ、
「姉の亡骸が一時消えておりましたでしょう。」
それで橘は顔をあげた。
「ああ、――結局、大木村に出入りしていた忍びの者が、一族の墓所に埋葬したという。」
「それが、数日姉の亡骸を背負って山を歩き回ったらしいのです。」
「初耳だな。その忍びの話は、どこで?」
信乃はきゅっと唇を結んだが、思いきって口をあけると、
「本人から、直接。」
「その忍びに会うたのだな。」
「はい。」
「その忍びが、何かおかしいのか。」
「ええ。」
「どうおかしい。」
「どうと申されましても――。」
と言ってから、しばらく頭の中をめぐらせた。
何がどうおかしいのだろう。忍びらしくない、自分のところによく顔を出す――しかしそれが、自分ではおかしいとは思っても「奇異なこと」にあてはまることなのか、どうか。
「その、その忍びが現れるごとに、白い女が、現れるのです。」
「白い女?」
「ええ、私の前に――足は、なく、白い装束に白い顔で、とてもうらめしげなのです。もしや、姉の魂と何か関係があるのではないかと」
「それはないな。」
橘は即答した。
「巫女姫どのの魂は、我と兄者で送ったのは確かだし、そなたたちの親族も供養していよう。迷うとは思えぬ。」
その橘の言葉に、信乃は全身の力が抜けるように思えた。
「それでも不安であれば、我らの本拠地である慈眼寺の住職に供養をお願いいたすが。」
「いえ、いえ、姉ではないのならば、それで――いえ、でも、佐助は、血で汚された神殿に入り、数日姉の亡骸を背負って歩いたといいます。ですから」
「その者、佐助というのか。」
「え、ええ、はい。」
橘はため息をついた。
「その佐助というもの、一度つかまえて調べた方がよいな。」
「はあ…。」
「しかしその者なぜ、巫女姫どのの亡骸を背負って山をさまようたのだ。」
「本人が申しますには」
「ふむ。」
「姉の魂が帰ってくるのを信じて、兵にみつからぬように神殿から連れ出し、魂が帰りくるのを待つ間、山をさまよったと。」
「小坂に斬られて助かると思うたのかや。」
「姉には、傷を癒やす力がございましたから。」
橘はその言葉をきいて、目を閉じた。
「なんとも」
箸をおいた。
「あわれな話よの。」
部屋の中がしんとした。
橘は閉じた目を開けた。
「その忍び、いくつだ。」
「確か、今年十九になります。」
「巫女姫どのに、思いを寄せておったか。」
「はい。」
「ふむ。」
そう言って、橘は懐から数珠を取り出した。
「それで、そなたがその白い女を見たのは具体的にはいつだ。」
「あの、大木村からの帰り、泊めていただいたお宅で、巫女様方がお帰りになる少し前と、お正月に藤吉郎様が社殿でお酒を過ごしたときにその社殿に行った時の帰りと、それから、」
「大木村からの帰り?」
橘はそこで、信乃の言葉を切った。それから、何か考える様子を見せたが、出した数珠は手に握りしめたまま、じっと目を閉じた。
ゆるりと目をあけ、
「信乃よ。」
「はい。」
「とにかく、一度、その佐助という男を誰ぞにあわせねばならぬ。我でも、蛇穴の兄者でも、お館様のところにいる我ら一門の櫛羅のあね様にでもいい。次に会う機会があれば、そう言うのだな。それから――」
橘はまっすぐと、信乃にまなざしを向けた。
「はよう玉に頼らずとも力を操れるように、精進せねばの。」
「あ、はい。」
橘はそれで、また箸をとり、食事の続きを始めた。
しばらくあって、廊下からあきの声がかかり、
「信乃さん、玄水先生がいらっしゃいました。」
ぎょっとした。
「え、なぜに、私に」などと言っていると、部屋の扉があいて玄水の声で、
「信乃さんが今日倒れられたとのことで、藤吉郎さまが一度診てほしいと。」
信乃は首から顔にかけて火が出るように熱くなった。
ああ、あの嘘が、こんなことに――思っている間に、医師黒田玄水の顔がのぞく。
「おや、お食事中でしたか、入ってもよろしいかな。」
などと玄水が言うと、橘が「どうぞ」と応え、玄水が入ってくる。
嘘が大袈裟な結果となって申し訳なく、信乃は小さくなった。
改まった口調で、来栖兵衛が橘の元を訪れたのは、その翌日だった。
由良藤吾はじめ重臣にお館からの召集がかかったゆえ、お館へ参らねばならぬ。ついては、広間に起こしいただきたく、というのが兵衛の言葉だった。
橘が六佐に抱かれて広間に入っていくと、既に主だった者たちが集まっていた。由良の二人の子息に、家臣たち、それに直衛をはじめとする家臣の息子たちも数名ふくまれている。
総勢約二十名といったところだろうか。
橘が由良藤吾の右側に腰を下ろすと、皆が橘に会釈し、橘はそれに反した。
来栖兵衛の声がかかって話がはじめられた。
話の内容はこうであった。
大木村に攻め入られて既に一ヶ月。こちらは領国の皆の頑張りもあって準備も着々と進み、後はいつ合戦を始めても何の問題ないほどとなった。此度のお館への召集は、それを前提にしたものである。引き続き準備はぬかりなく続け、いつでも打って出られるように方々には心していただきたい、とのことである。
来栖の話が一応終わったところで、橘が、
「時期を逃せば勢いが落ちましょうな。」
と口を開いた。それに対し藤吾が、
「あちらも十分その気であるようですから、あまり先延ばしとなることもございますまい。」
橘はうなずいた。
「高階の本来の目的は都でしょう。奴らが都を目指すには、稲賀の領地が途中にあって邪魔なもの。それで何度となく戦をしかけては、稲賀の領地を侵そうとする。此度のこととて、その挑発の一つといえなくもございますまい。たとえ此度のことがなかったとしても、高階はまた都を思い戦いましょう。しかし我らの目的はそこにはありませぬゆえ…。」
「ふむ、お館さまは、その兵力を持ちながら、未だに天下をとることを目指されぬ。それに比べ高階は」
藤吾の言葉をきいて、橘はフフと笑った。
「俗な言い回しではございますが、まるで高階は、『飢えた獣』のようでございますな。」
そこで橘は一同へと顔をむけた。
「珍しくもいつもに増して、わが軍は血気盛んになっておりまする。これを機会に高階を完膚なきまでにうちはらって、そろそろ背後の安全を確保し、稲賀どのには天下取りを目指していただきたいもの。のう、方々。」
橘がそういうと、一同のものがおう、おう、そうでございます、と口々に声を上げた。
「たとえそれが戦目的とはいえ、巫女の命を奪うとは、私にとっても許しがたきこと。ぜひ、稲賀殿には高階をこらしめていただきたい。ましてこの村には、巫女殿の妹御信乃どのもおられますれば。」
一同ははっとした。
そこに来栖兵衛が口をはさんだ。
「しかし橘の君、それにのみに思いが寄れば、兵の統率が乱れます。」
橘はうなずいた。
「むろん。」
「特に巫女どのを斬られた小坂靭実への仇討ちへと集中し、手柄功名目当てで小坂をねらうものも少なくはありますまい。」
「でしょうな。」
そこで藤吾はため息をついた。
「つまりは、いかに兵を小坂一手に集中させず、士気を保ったまま、うごかすか、ということでございますな。これも此度の召集での課題となりましょう。」
すると、家臣の中から声が飛んだ。
「先走るものに、罰則を課すなどでございますな。」
それに来栖がうんとうなずき、
「または予め持ち場を徹底するか、此度の戦の第一の目的が、巫女どのの『仇討ち』ではないと、兵に言い聞かせるか、ですな。巫女どのを撃った『高階をこらしめる』とでもせねば」
そこで藤吾が、皆を見渡すと、
「ともかくも、くれぐれも挑発にのってはならぬ。挑発にのらぬよう、各軍徹底せねば。皆、それぞれ受け持ちの兵によく言ってきかせよ。」
そういうと、一同は「ははっ。」と言って頭を下げた。
稲賀軍の中で、比較的戦地から遠く、未申の守りであるここ玉来の駐屯所からは、すべての兵が出陣するわけではなく、半分は残る。しかし近隣他村のものも合流させ、大勢をひきいていくため、稲賀軍の中で大きな位置をしめることに違いはなかった。
それを統率するのはこの由良家の家臣団であり、それぞれ戦に出るものも、出ないものも、一層に気をひきしめる必要があった。
橘は頭をさげた家臣たちに一瞥をくれ、藤吾の方をちらりと見やると、
「高階は、しかけてくるやもしれませぬな。」
「ふむ、いつもよりこちらの方が血気盛んであるゆえ、かえってそこをつかれるやもしれませぬ。それが、あだとなることもございましょう。」
藤吾がふーっと大きなため息をついて腕を組み、背中を丸めた。
そこで一同の雰囲気も一気とゆるんだ。
「橘の君。」
直衛が橘に声をかけた。橘は直衛の方へと顔を向ける。
「相手の手は読めますか。」
「それは、巫女としての我に対する問いでしょうか。」
「いえ、それもありますが、のみならず。」
「直衛どのは、敵が奇策をうつと思うておいでか。」
問われて直衛はしばらく言いよどむようであったが、
「いえ、まあ――はい、せっかく小坂靭実という格好の餌がありながら、これを利用せぬ手はありませぬ。」
「それが寵臣であってもで、ございますか。」
「寵臣であろうとなかろうと、目的のために手段を選ぶ男ではありませぬ。」
その直衛の言葉に、橘は言葉を継がず、黙った。
すると藤吾が、
「して、橘の君の、お考えは。」
そう、橘に言葉を促した。
橘が直衛から視線をはずし、藤吾をちらりと見る。家臣たちのむさくるしい顔へと向き直り、ため息をついてから、
「小坂を餌に使いましょうな。ただ、前面に押し出しては使いますまい。小坂が早々に倒れれば、あちらの士気にもかかわりましょう。しかし、いなければ、餌として役に立たぬ。」
「おとりを、たてますか。」
兵衛が口を開いた。
「そうでしょうな。数名のそれらしき身代わりを立てておとりとし、こちらを翻弄して集中した気のやり場を一気に分散させる、それで気勢はそがれます。そして、別のところに本物を置く。たとえば、こちらの予測がつかない方角や、反対の方向から。――ふいを突くわけですな。」
「どちらにしても小坂を使い、こちらを揺り動かすことを目的として作戦をたてる、と。」
「おそらく。我らはそれに踊らされぬようにせねばなりません。」
「ふむ…。」
一同はまた、考えこむように、それぞれにためをついた。
しかしもし、このように予測がついても、と、橘は思った。
以前と違う、問題が一つあった。
小坂の生国がこちら側で、おそらくそれをあちらが初めて承知しての戦だということである。
茂実の養子になった経緯や、此度巫女姫が小坂を助けて初めてことが動いたことから考えても、おそらく今までは高階も小坂の出自を正しくは把握してはいなかったであろうし、これからも重臣以外に語られることはあるまい。
敵地を出とする将がいると知れることは、兵に無用の動揺を起こさせるだけに過ぎぬ。
小坂靭実が義見朔次郎であったとき、果たして高野で、どの程度領国内部の事情に精通していたのか、そしてこのたびそれをあちらはどの程度使うのか――、その予測の難しいのが問題だった。
だから、以前までの戦とは若干状況が違っているのだ。
いかにしたものか――。
藤吾らは本日昼出立ということで散会になった。
藤吾の立ち際に橘が、「藤吾どの」と声をかけた。
藤吾が立ち止まり、橘が座ったままで藤吾の方を向き直ると、
「信乃どののこと、内々に稲賀どのにご報告されていたと聞き及びました。それはいつのことでございましょう。」
すると、藤吾は、おお、そうであったというような顔をして、またそこへ腰を下ろした。
「それが橘の君、不思議な話でございますが、こちらが何も報告いたさぬのに、お館さまはご存知だったのです。こちらが黙っていると、お館さまの方から、大木村の巫女どのの妹御がそちらにおらぬかと。」
それで橘は驚きを露わに顔に出して、言葉を続けた。
「ご存知であった。報告もせぬのにですか。」
「はい、あれは、いつでしたでしょうかな、昨年の暮れ、橘の君が大木村からお帰りになって間もないころのことでございます。最初は高野の蛇穴さまを通して、お館さまからご報告されたのかと思いましたが、橘の君は信乃どのがこちらにいることを内緒にしてほしいとおっしゃるし、それでは大木村に駐屯する兵から知れたのかとも思いましたが、後から話をきくと駐屯する兵からの報告は年の瀬の押し迫ったころで、そうでもないご様子。そのときもお館さまは、巫女どのが思いあって一人別の方向へと逃がしたのであろうから、他言せぬようにとおっしゃられて。」
すぐに橘の頭に、信乃からきいた忍びのことが浮かんだ。兄妹で巫女姫を監視していたという、稲賀の命で動いているという――。
「まあ、結果としては正月に評定方に呼び出されたときによき方向へと動いたわけですが、一体なぜ信乃どのの行方が知れたのか――橘の君。」
橘が藤吾の話をききながら、何か考えこんでいる様子なので、藤吾は橘に声をかけた。
藤吾がもう一度「橘の君」と声をかけると、橘は我に返り、「いえ」と言葉をついだ。
「どうされました。」
そう問われて、橘は藤吾の顔を見た。
自分の動揺をとりつくろおうと、橘は「いえ」と言ってから、一つ呼吸をして、「信乃どのの話によりますと」と言葉をついだ。
「はい。」と藤吾が返事をする。
「大木村には、忍びの兄妹が出入りしていたそうにございます。稲賀どのに仕えるものだそうで…。」
その言葉に、広間から立ち去ろうとしていた直衛が立ち止まった。彼は橘の方へと視線を向ける。
「ほう、では、そのものの報告ですかな。」
「おそらく。」
「にしては、お館様も一人内密にせずともよさそうなものなのに。大木村の村長どのたちは、信乃どのの行方に相当気をもんでおられたそうで。」
「それは、私も申し訳ないことだと思っております。」
「いえいえ、信乃どのにもいろいろと思うところがおありだったのでしょう。姉君と運命を共にするおつもりだとも申されておりましたからな。」
藤吾が続きを何か話している様子だったが、橘の耳には入らなかった。
何だろう、何かひっかかる――いやな感じがする。
信乃にその忍びの話をきいた後だからだろうか――いったい何がいやな感じにさせるのか。
胸の中がざらざらとして、なんだか落ち着かない。
翌日、信乃が修練場での三度目の護身術の稽古を受けた。帰ろうとしたところで、深田吾郎の娘・妙に声をかけられた。
「信乃さま、わたくし、このようなものを作ってまいりましたの。」
そう言いながら、妙は懐から紙を取り出した。
娘たちが帰っていく中、妙は信乃に並ぶ格好でそれを広げて見せる。みると、いくつかマス目に区切ってあって、いろいろと書きこんであった。縦の列の一番上に右から甲乙丙丁とあり、横の列の一番右に上から修練場、学而館、早乙女館などと書かれている。そこに、護身術・女子だの論語だのお針だのと書きこまれていた。
「これは?」
信乃が問うと、
「この村の中で行われているお稽古ですわ。護身術ばかりではつまりませんでしょうから、つくって参りました。」
「これを、私に?」
「はい。父上も、異郷の地といえど、何かいろいろとやってみるのはよいことだとおっしゃられて、お勧めしてみなさい、と。」
「あ、ありがとうございます。」
妙が真剣な顔で話すのに、信乃は幾分押され気味で、しかし、紅潮した顔でそう言った。
「なるほど、それはわかりやすいですね。同じものを早乙女館にでも貼っておかれたら。」
後ろから直衛の声がして、信乃は心の臓が停まるかと思い、妙はきゃっと声をあげた。見ると、直衛が背後の上の方からのぞきこんでいる。
「な、直衛さま、まだいらしたのですか。」
そう妙が問うと、
「はい、おりました。おってはいけませぬか。」
「いえ、いけぬということでは…。」
「うん、確かに護身術ばかりではつまりませぬでしょう。」
「いえ、わたくし深い意味で言ったわけではなく」
「信乃どのも、いくつか参加してみられては。」
そう言って、直衛は信乃に顔を向けた。
「あ、ええ、はい。」
「村の中にも同じ年ごろの友ができれば、話し相手ができて少しは気も晴れましょう。どうです。」
「え、ええ。」
そう言うと、妙がその紙を信乃の方へと差し出した。
妙はうふふと笑い、
「朱で印をつけているのが、わたくしが参加している分です。」
そう、かわいらしい笑顔で言った。
「ありがとうございます。考えてみます。」
信乃は紙を受け取り、紙の上に目を落とした。
「ぜひ、ご検討ください。今度一緒に早乙女館にも参りましょう。わたくしがご案内いたします。」
と、妙が言い終わるか言い終わらないかのうちに、入口の方から藤吉郎の「信乃どの」という声がかかった。
修練場に残っていた直衛と妙と信乃が一斉に入口に目を向けると、藤吉郎は、
「や、何かお話でも。」
「え、ああ」そう言って、信乃は妙のくれた紙の上にもう一度視線を落とした。「妙どのが、村で行われているお稽古の一覧を作ってくださって。」
というと、藤吉郎は入口のところで履物を脱ぎ、三人のもとへと歩みよった。そして、信乃の手元をひょいとのぞきこむと、
「なるほど。」
そう言った。
「ちょうどよい、村をご案内する約束でした。この一覧にある建物をご案内しましょう。」
「え、でも。」
信乃はちらりと妙に視線をくれた。妙の顔から先ほどの笑顔が消えていたが、その少し不機嫌な妙の顔を藤吉郎が見止めると、
「妙どの、何か。」
するとすかさず妙が、
「いいえ、何でもござりませぬ。どうぞ、信乃さまをご案内してさしあげてください。」
妙がそういうと、藤吉郎はまぶしいばかりの笑顔になった。
「ええ、わかりました。では――参りましょう、信乃どの。」
ささ、参りましょう、参りましょうと言いながら、入口へ向かって藤吉郎が信乃を招きながら歩いて行く。まずは一番近い学而館からなどと言いながら、入口の向こうへと姿が消えて行った。
直衛と妙が修練場の真ん中でぽつんと残された。
「よろしいの?」
妙が二人が去った入口をみつめながら、直衛に話しかけた。
「は、何がです。」
「ですから、立ちますわよ、噂が。」
「ふむ。」
「ふむ、ではありませぬ。」
「さて、わが名はまだき、ですかな。」(*)
そういうと、妙は直衛の方を向いて、
「何とのんきな。信乃様には許嫁がいらっしゃるというのに、あれでは道理が通りませぬ。」
「まあ、まあ、妙どの。」
直衛は妙の勢いに、苦笑いを浮かべた。
「お止めになればよろしいのに。」
「止めればよけいに燃え上がる、そういうものではござりませぬか。」
直衛のその言葉に、妙は途端に悲しそうな顔になった。そして、ふいと直衛から顔をそむけた。
「失礼いたします。」と頭を下げ、妙はその場を去った。その妙の入口へと向かう後ろ姿を見ながら、さて、どうしたものかと思いつつも、直衛には藤吉郎を止めようなどという気は、さらさらなかった。
下手にやけどを負わねばよいが――それだけが、直衛の、一つ、気になるところであった。
村の中を行く信乃と藤吉郎を、修練場の背後にある森の中から佐助がじっと眺めていた。
その後ろから楓が、
「兄者、兄者は兄者のすべきことをせぬでよいのか。」
と尋ねる。
佐助は答えない。
楓はつづけて、
「なぜ人の持ち場を侵すのだ。せっかく私に与えられた任なのに。――兄者、きいているのか?」
楓は問い続ける。しかし、佐助はきいてはいなかった。
楓はそのまま兄者は最近おかしい、なぜこの村にとどまるのだと話し続けるが、佐助の耳には入っていない。ただひたすら二人の行く方を目で追っている。
見つめ続けている。
だって、同じにおいがするのだ、小夜と。
なぜなら、同じ気配がするのだ、小夜と。
この世に残された、ただ一つの救いにように、ひきつけられて、やまない――。
*恋すてふ我が名はまだき立ちにけり 人しれずこそ思ひそめしか 壬生忠見
(恋をしているという私の噂は早くもたってしまったよ。誰にも知られないように、あの人を思い始めたばかりなのに。) [『拾遺和歌集』恋所収、百人一首第四十一番]
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