第五章
朝のお勤めが終わり、祭壇に拝礼を終えてから、橘は信乃に向き直った。
「見えるのに、呼べぬと。それはなぜかということなのだな?」
そう、橘は信乃に問うた。
「はい、力が、どのように封じられているのかはわかりませぬ。しかし、昔から、わたくしには風の精霊ハヤテは見えますし、気も少しは感じられます。人に見えぬものも見えたり…。完全には、封じられたわけではないのですよね。」
信乃にそう問われて、橘は深いため息をついた。
「わらわも確かに、そなたのもっておった玉に再び力を封じはしたものの、それは玉のもっておる記憶を借りて、封じた過去を呼び起こしたに過ぎぬ。ただ、そういうことであるのなら、完全に封じ込めておるわけでもないのだろう。おそらくは、危害が及ばぬ程度に抑えこむ、ちょっとした力の制御の役割をになっておるだけなのやもしれぬ。」
「姉は――」
「うん。」
「姉は、わたくしが幼いころ、その玉を持って自らの力を自ら封じるようにしたと申しておりました。そもそもそれは『気封じの玉』というものだそうで。」
「『気封じの玉』…う~ん。」
橘は信乃の言葉をきいて、顔をしかめ、考えこむような様子を見せたが、
「難しいことはわからぬし、そなたら一族が行ってきたことは私にも想像がつかぬ。ただ、そなたの言葉をきいておる限りでは、完全に力が封じられるものでもないようだ。――まあ、力というのはそのようなもので、ある日突然『うまれた』ようにもみえるし、『消えた』ようにもみえる。しかし、それはもともと表に出るかでないかのことだけで、実際はないところから生まれるのでも、完全になくなるわけでもない。」
「では、力そのものはこの体の中にあると。」
「もちろん、そうだろう。玉がどのように作用しておるのかは、私にもわからぬ。」
「ではなぜ、見えるのに、呼んでもハヤテはこないのですか。」
「それは――力を封じられておるからではないのか。」
「見える程度にですか。」
「まあそういうことだな――封じられているために、力が足りぬからそこまでは及ばぬ…。」
そう言って、橘は目を閉じ、黙った。
何か考えているのだろう。
ふと、目を開けた。
「妙な話だな。」
「何が、で、ございますか?」
「そなたの話をきいておると、力はもののけを封じるように封じてしまうわけか。」
橘の言葉に、信乃は首をかしげた。それから橘は、信乃に視線を向け、
「そもそも、気の流れというのも、自然界の動きの一つにほかならぬ。それを、呼ぶ、操るという考え方そのものが、わらわには受け入れられぬ。それは、我らにとっては祈り、畏れ、敬う対象であるからだ。ハヤテと呼ばれた風の精霊を、操るだけの生まれながらの力があるから、呼べる、乗れる、操れる、というのは、不敬以外の何ものでもない。古代から巫女どもは、確かに自然に働きかけ、様々な恩恵や奇跡を神から受けてきた。しかしそれは『操った』がゆえではない。祈り、助けを求め、それを神が受け入れて奇跡を起こしたもうたにほかならぬ。『あやつる』という言葉は、たとえ実際にそう物事が現れたにしても、正しくはない使い方だな。」
「では、操るのではないのですか。姉も、操っていたわけではなく?」
「神職におさまり、そのすべてを神に捧げておったのであれば、精霊ともなると共に生きる神のしもべのような意識で接しておったのかもしれぬ。事実そうしたしもべを遣うものは、能力者にはおるでの。――そう、だが、そなたのようにこれと言って何もしておらぬものに、それが許されるかというと、姉御の念でもかけられておらぬ限りは無理ではないのか。」
「それで、あの日はこの地へとたどりつくことができたと?」
「まあ、そうだな。」
信乃は考え込んだ。
そう言われてみればそうかもしれない。橘がいるこのような土地に、そののち意識を失いながらも到着できたのは、偶然とは言い難い。
あの時姉はこういった。――今度はお前の力で操れるように、私が気をこめた。
しかしこうも言ったではないか。――もう大丈夫だ。これを持って、すぐに逃げよ。
今となってはその真意をうかがうことはできない。あの中に、自分を逃がすために言った言葉がいくつあるのか、見当のつけようもなかった。しかし、この地にたどりつき、一昼夜寝込んだそれを「己の力で操れた」とは、とても思えない。
「力及ばぬものが、それで操ろうとしても、まさか相手はいうことをきくまい。何度もいう、我らの力は、磨かねば光らぬ玉に同じ。しかし生まれ持った力は確かにあるのだろう。わらわはあの日、この村にのみ、そなたの気が災いして風雨をもたらしたゆえ、それを止めるために玉の記憶を呼び覚ました。思うに、力まですべて封じるものではないのやもしれぬ。」
「封じられたがゆえに使えぬのではなく、使い切れるだけの技がないということですか。」
「言うなれば、そういうことだ。ここまで飛べたのも、姉御のおかげやもしれぬ。」
「巫女さま」
「なんだ。」
「では、神職にはあらぬ私には、いえ、姉のように神に捧げた身で修業せねば、ハヤテは私の言うことはきいてくれぬということでありましょうか。」
「とにかく、自分よりも劣るもののいうことを聞こうと思うかや、そなた。」
うっ…と信乃の言葉がつかえた。そして、
「それでは、巫女職につき、ただひたすら修行を重ねねば、無理ということに」
「まあ、待て。そもそも、相手にいうことをきかせようという考えが間違うておる。きかせられねば、――どうするのだ。」
「きいてもらうのですか。」
「そうよ、祈り、頼むのよ。我らでは当然のことではある。」
「お願いです、と?」
「そうだな。」
「ハヤテ、お願いです、私を」
そう言いかけたところで、橘は手で信乃の言葉を制した。そうして胸元で合掌すると、
「風の精霊ハヤテさま、我が願いをお聞きいれください。」
そう言うと、信乃も胸元で合掌し、復唱した。
「風の精霊ハヤテさま、我が願いをお聞きいれください。」
「わたくしを――こう言って、願いをかければよいのではないか。そなたの、力の精錬具合によって、聞ける願いは聞き届けよう、聞けぬ願いはかなわぬであろう。我ら巫祝は、いつもそうして神に願いを届けてきた。修練が未熟であれば、力及ばず助けられるものも助けられない。また、祈りの強さが弱ければ、その心も神へとは達せぬ。」
「それで、ハヤテを使えましょうや。」
「先ほどから気になっておったが、使う必要があるのかや。」
そこで信乃はぐっと息をのんだ。そんな信乃を見ながら、橘はフフフと笑うと、
「確かに、この乱世にあっては、どんなことで役に立つやもしれぬ。だが、使えれば使えるで、またそれがわざわいにならぬとも限らぬ。そなたの姉御のようにな。――過ぎたるは及ばざるがごとしともいうではないか。」
「だから、使わぬ方がよいと」
「さて――しかし、その風の精霊を使うための修練が、そなたの気を、あの玉なしでも他に危害を加えぬようにできる、制御の一役を担うのは確かであろう。我らでも、少しく気を高ぶらせると、他者に同じような気分にさせてしまうことはあるが、そなたらのはとんでもないようだからの。霊能者でも、いろんな得意がある。物の怪退治にすぐれたもの、まじないにすぐれたもの、――そなたらは、それが風であるということよの。しかし、その力がよいことばかりを招くということでもあるまいて。良薬が時として、劇薬にも変わる――世の営みというのは、えてしてそのようなもの――そなたらにとって、風に働きかける力は、時として村を救い、時として暴風の害をもたらすのであろう。」
そこまで話すと、橘は祭壇へと振り返り、いつも目の前においてある経典へと手をのばした。
「突然、いろんなものを覚えるのは難しかろう。般若心経はそらんじておるようだが」
「はい、わが村では、幼いころより覚えさせられます。」
「ふむ、よいことだ。何かあれば、念じるときにこのお経を心の中でとなえ続けなさい。」
「仏壇や墓に向かわぬ時もですか。」
「神仏に、意志を通じようとするなら、いつもだ。」
言いながら、橘はその巻物を開いた。「そもそも」と朗々とした声で読み上げる。
そもそも般若心経と申す御経は、
文字の数わずか二百六十余文字なれど、
釈迦御一代の経、すなわち天台経びるしゃな経、
あごん経、けごん経ほうとう、般若、法華経等
一切千よ巻より、えらみいだされたる御経なれば、
神前にあっては宝の御経、
仏前にあっては花の御経。
まして家のため人のためには祈祷の御経なれば――
(心経奉讃文より)
由良のお館から神社へと向かう道の途中で、白い作業着姿の信乃は立ち止まり、前後の道に人がいないことを確認して、大空を見上げた。
冬の薄い色の空が、晴れ渡って見える。
信乃は胸元で合掌した。
心の中で「風の精霊ハヤテ様」と呼んだ。
未熟な私の願いをお聞きいれください――わが元へと来たりて、そのお姿をお現しください。せめて、この手に触れて――
とたんに、背後の林がざわざわと騒ぎ始めた。
風の気配が、どこからともなく訪れる。
すると、突然頭上に、ハヤテが――ハヤテが、大きな翼をわっさわっさとはばたかせながら、信乃の元へと下りてきた。
驚いて見上げた。
思わず信乃は上に向かって両手をさしだす。
その手にハヤテが乗ろうとするのに、信乃はゆっくりと呼吸をあわせた。
ああ――ああ――姉さま、我の中にも――
信乃の目から涙がこぼれた。
巫女姫が――一族の血が、ここに――
目から涙がこぼれるのに、信乃は笑顔だった。
その嬉しそうな姿を、藤吉郎が下から見上げていた。
不思議のものとたわむれているのに、なぜか恐ろしい気がしない。
まぶしかった。
大木村からの帰途以来、めったとみたことのない信乃の笑顔が、まぶしく藤吉郎の目に映る。
なぜに、こんなところに出会わせるのだろう――信乃が、由良の館を出るころ合いを見計らっていたとはいえ、なぜこんな場面にでくわすのだろう。
それでも、見ていたかった。
かなわぬでもいい、みつめていたかった。
ただ、みつめていたい――
「して、相談とは? ――そちが、改まって珍しい。」
橘は、正しく目の前で正座した藤吉郎に、きゅっとまなざしを上げた。
信乃のいないときをねらって橘のところへ来たものの、改まって尋ねられると、言葉がすらすらとは出てこなかった。
それでも意を決したように、腕に力をこめると、
「橘の君」と言葉をついだ。「不思議のことがありまして。」
橘は顔色を変えない。藤吉郎は話し続けた。
「わたくし、人に見えぬものが、見えるのでございます。」
「幻覚か?」
「橘の君!」
「冗談だ、続けよ。」
「あ、え…その、昨日直衛どのと、館の前におりましたら、直衛どのには見えぬのに、我にははっきりと」
「して、見えるのはなんだ。」
「イヌワシ、で、ございます。」
それでも橘は顔色を変えなかった。ただじっと藤吉郎を見続け、
「それが、何か問題でもあるのか。」
「その…信乃どのにも、見えておられるようで――というか」
「信乃がきてから、見えるようになったのだな?」
藤吉郎はぎょっとした。それから、ややあって「はい。」と答えた。
橘はそんな藤吉郎の顔をじっとみつめた。おもむろに懐から数珠をとりだし腕にかけたが、神に尋ねる気はなかった。
藤吉郎が見えるということは、信乃が目覚めた日に知っている。正月に、信乃の心の声をきいて思わず返答したのも見た。
しかし、この男にそれがなせるのは、なぜか。
この地にきて足かけ四年になるが、藤吉郎に霊感があるなどという兆候はなかった。血脈からいっても、巫女姫一族とは関係はないだろう。剣士特有の素質かと思ったが、それにしても直衛には見えぬという。
そもそも、巫女姫一族はほとんど外部との接触を持たなかったがゆえに、あまり詳しいことも伝え聞いていない。
それが、外に出たから、こういうことが起こるのか。
橘はじっと藤吉郎の顔をみつめた。
相変わらずまつ毛も眉毛もバサバサと濃い。
そういえば、以前とは何やら感じが違ってみえる。全体的に、身に帯びているものが…。
ふと目を閉じて合掌した。
それから静かに目をあけると、藤吉郎の顔を見上げ、
「忍ぶれど」
藤吉郎ははっとした。
「色に出にけり我が」
藤吉郎はかっとなって「橘の君!」と声をあげた。
「なんだ? 平兼盛の歌よ。我は今思いついて兼盛の歌を言うてみたまでで」
途端に藤吉郎は、首から耳にかけてかあっと上気した。
「なるほど。色に出るものだ。」
その橘の関心した顔に、藤吉郎は右手で口元を覆いぼそぼそと、
「橘の君…からかうのはいいかげんにしていただきたい。」
「だから、我は、平兼盛の歌を言うたにすぎぬというのに。」 (※)
藤吉郎は両腕を膝にのせ、正座したまま顔を隠すようにうつむかせた。
俺は当年二十一歳にたたられている。
「で、詳しくは、いつからだ。」
橘が問うのに、ぶすっとした顔にぼそぼそと、
「何がでございますか。」
「その、イヌワシが見えるようになったのは。」
「信乃…どのが、まいられて、目覚められた日の夕方より」
ふと、橘の顔に疑問の影がよぎった。
「して、そっちの方は、いつからだ。」
「何がでございますか。」
橘はまた疑問の色を顔に浮かべた。
それから、「ものや思うと、人の」と言い始めたところで、藤吉郎が「わかりました」と手を向けて橘の言葉を制した。
それから一呼吸おき、
「そんなに、わかりますか。その…」
「いや、今まで気づかなんだ。」
その言葉に、藤吉郎はほっとした顔を見せた。
「で、いつからだ」と橘が催促すると、
「自分でもよくわからぬのです。それがいつだったのか…」
「信乃のことをよく考えるようになったのは」
「それは――最初からです。」
「最初から、というと、あの最初の日か。」
「ええ。」
「一目惚れか。」
「橘の君!」
「なぜに怒る、落ち着かれよ、藤吉郎どの。」
なぜか橘は、落ち着いて表情を変えないながらも、からかっているようにも見える。
藤吉郎は心を落ち着かせようと、すーっと息を吸い込んだ。
一息ついて、
「だから、どう考えても、あの時の信乃どのの、あの位置の倒れ方はおかしくはありますまいか。」
橘のまなざしが真剣になった。
その変化に気付きながらも藤吉郎はつづけて、
「どう考えても、あの倒れ方は不自然でしょう。まるで、天から落ちたような、――いや天から落ちたと考える方が妥当でございます。私はあの姿に合点がいかず、信乃どのと共に大木村へ向かう途中、きいた話を参考にしても、夜明けに白石山を出、早朝にわが村へと至るとなると」
「藤吉郎」
橘はそこで藤吉郎の言葉を切った。
「その話は、他ではせなんだか。」
みるみるうちに、橘の顔が険しくなる。
その顔をみつめながら、ああやはり、これは、秘密のことなのだと藤吉郎は思った。
「いえ、誰にも。」
「全くか。」
「はい。」
そこで橘はため息をつき、体の力を抜いて、藤吉郎から視線を外した。
困ったものだ。
己とて手探りの中で信乃の力に接しているのに、こんな余計な面倒まで出てきた。
さて、どうしたものか。
橘はまた、ちらりと藤吉郎を見た。
先ほどから、少しも姿勢は崩れていない。
悪い男ではないのだ。むしろ、多数の家来を抱える主家の息子にしては、優しすぎる。それは長所ではあるが、断じきれずで頼りない。救いは後継ぎではないこと、しかし後継ぎでないにしては、人をうちとけさせる魅力もある。おっちょこちょいかと思えば、思わぬ思慮に富んでいたりもする。
橘は考えるうちにまたしかめ面になってきた。
巫祝の秘密を知ったとき、とる道はそんなに多くない。
殺すか、忘れさせるか、あるいは――
橘はもういちど藤吉郎の目に視線をあわせると、手を肩の位置まであげた。ちょいちょいと藤吉郎を手招きする。それに応じて、藤吉郎が橘に近づき、橘が手を、内緒話をするようにたてたので、藤吉郎は耳を近付けた。
「このことは、誰にも言うてはならぬ。言うと、信乃の命にかかわるのだ。」
藤吉郎は橘の言葉にはっとした。そのまま橘の顔に目を向けると、橘はじっと藤吉郎を見返した。
「命にかかわる?」
藤吉郎が問い返すと、橘はうなずいた。
「そなた、どこまで感づいておるかは知らぬ。しかし確かに、信乃には特別の力がある。あれは、あの村の、あの一族だけが持つ、独特の力よ。したがそれがために、信乃の姉は高階に狙われ、命を落とした。約束できるか? たとえ、誰に高階軍が攻め入ったわけを問われても、決して、他言はせぬと――。」
見ている藤吉郎の目に、強い光が宿った。
輝いてみえる。
その目の光をみながら、橘はふと、藤吉郎に初めてあった頃のことを思い出した。
まだ十四の少年で、初陣も飾らぬ子供であった。明るく、はきはきと利発ではあったが、どこかにまだ幼さの残る、いとけない少年の面影を残し――それが、人に思いを寄せるようになったか――しかもそれが、すでにいいなずけのいる、稀なる運命を背負った、異郷のおなごへ、とは――
きよらに習った準備運動を終えて、護身のお稽古で習った「型」の一通りを、信乃は順番に繰り返していたが、果たしてこれを一人で続けていて何か上達するのかと思った。そして、正直なところ自信はなかった。
おそらく、今までより筋力はあがるだろう。特に鍛えられていないところは。
しかしそれ以上のことがのぞめるのかというと――
それでも、今はこれをやるより仕方がないのだ。
先ほど、この神社へと向かってくる途中で、ようやくハヤテに触れさせてもらった。
しかし、それ以上のことは何もさせてはもらえなかった。
信乃は自分の腕にとまったハヤテに尋ねた。
「その背に、乗せてはいただけぬのだろうか。」
すると、ハヤテは戸惑うような目をして、ただ信乃をみつめるばかり、何の反応も見せない。
やはリ、だめなのだ。
あの玉は、良くも悪くも、能力をある程度以上は使えぬように、封じているのだ。
橘に習ったところで、あの玉の封印を解かねば、普通の霊能者にできることができるだけ、「巫女姫」のできることまでできるわけではない。封印を解かねば、話にならぬ。しかし、だからといって、今封印をとかれたとて、その力を自在に使うだけの能力が――技がないのでは、結局は力がないのとさして変わらぬ。
それどころか、心乱せば一大事へと通じるだろう。
だから、今は、修練を積んで、姉ほどにとは言わぬ、せめて人には迷惑をかけぬほどに――なんとかもっていくよう努力せねばなるまい。
しかし、できるのだろうか。
正直、本当に自信はなかった。
それでも、人目につかぬように、この境内で、「えいっ、えいっ」と声をあげながら、懐剣の代わりの、短く形よく削った木刀で、「型」の復習をしているしかなかった。
と、何度か目の前の虚空に向かってついているうちに、ふと眼の前に何かが落ちてきて、カツンとその刀をはじくものがあった。
はっとなって、思わず動きを止めると、目の前に現れた人物に目を見張った。
「佐助!」
思わず信乃は叫んだ。
日の下で久方ぶりにその姿を見て、思わず信乃はうつ姿を崩し、姿勢を正した。
あの、正月の夜以来ではないか。
「一人でいくら続けていても上達は遅い。さあ、続けよ。」
佐助は何でもないように続きをうながす。言われるままに信乃は打ってでたが、どこか集中できない。
なぜ――このときに現れるのか――なぜ、こんな形で現れるのか――もっと、落ち着いた形で――いや、それ以前に、忍びの男が自分の相手などしていいのだろうか。
佐助は、己の持つ短刀の鞘を抜かずに相手をしてくる。
「佐助」
信乃は思わず声をかけた。
「なぜに私の相手をする。」
「おれがやらねば、誰がやるのだ。」
信乃には、なんだかよくわからなかった。
佐助という男を思い出す。
光の中で見たのは、あの社殿の中が最後――あの時も――いや、いつも、きりりとして隙がない。姉の前では見張り役として接していたというが、自分と何度かあって言葉を交わすときは、必要以上のことは何も言わない男だった。
――巫女姫どのをみかけぬが、どちらへ行かれたか。
そう――思えば、佐助の尋ねたことは、ほとんどそれではなかったか。
かっと木刀のはじく音がして、次の瞬間には佐助の姿が見えなくなった。
「佐助?」
信乃は粗く息をはずませ、その動きを止めた。
辺りを見回す。
いない。
すると、石段の向こうから足音がして、藤吉郎の姿が現れた。
ああ、それで――と思いながら、佐助の突如消えた理由を心得た。
自分の相手をするなど、忍びらしくない行動だと思ったが、やはり忍びなのだ。
藤吉郎は境内へと足を踏み入れると、「信乃どの」と声をかけた。
呼吸を整えながら、「はい。」と返事をする。
「橘の君にうかがいましたら、一人で神社の境内で剣の稽古をされている、とのことで―― 一人でされていても上達いたしませぬ。この藤吉郎、少しばかりお相手しようかと。」
藤吉郎はそういって近づいてきたが、信乃はその言葉にぽかんとして、しばらく藤吉郎をみつめていた。藤吉郎はなんだか笑顔をつくるのか作らないかの微妙な顔――柔和な顔かもしれない、それを、装って、少しぎこちなく見える。
目の前に立った藤吉郎を見上げながら、
「女子に剣は要らぬのではなかったのですか?」
信乃の言葉に思わず、藤吉郎はぎょっとしたが、すぐに「ハハ」と言って苦笑いを浮かべた。
ちょっと下を向き、それから顔をあげると、
「始められたのなら、上達しなければ意味がありません。お手伝いできるのであれば――。 それに正月、 せっかくご相談くださったのに、何のお力にもなれませんでしたし。」
「はあ――」
「さあ、始めましょう。それとももう、おしまいですか?」
「いえ」そう言って信乃はきりりと背を正した。「お相手いただけるのであれば」言いながら頭を下げた。「よろしくお願いいたします。」
とは言ったものの、この人に直衛のような懐剣の手ほどきができるのであろうかといぶかんだ。そう思いながら、信乃が一歩下がって構えると、途端に藤吉郎が真剣なまなざしになった。
藤吉郎はいつも腰にさしている短刀を鞘ごと抜いて構えると、 信乃のうつのを待った。
「懐剣は、攻撃するには向きませぬ。あくまでも、おのが身を守るつもりでお使いなされ。打つときも、相手のふいをつくつもりで。」
藤吉郎は構えながら言った。
それで、信乃が型どおりにまずは打ってでると、藤吉郎がそれを軽く受け、はじいた。それから、「型」を保ったまま、強くはないがゆっくりと、「攻め」の一手を入れてくる。
信乃はまた、それを型どおりに受けた。
繰り返す。
藤吉郎のゆっくりだが、信乃の受けやすいように、しかし確実に動きを合わせてくる。
信乃は思わず目を見張った。
うまい――!
こんな習い始めの自分が、うまいと思うのは気のせいかもしれない。しかし、それでも思わずにはいられない。
この人は、なんとうまい――!
神社での稽古を終えて信乃が由良の館にある自身の居室へ帰ってくると、橘が待ち構えたように「信乃」と呼びかけた。
「はい」と答えて橘の方を見ると、橘は祭壇の斜め前のいつもの場所で、信乃の居室の方を向いて正しくすわっている。信乃はその姿を見て、改まった話なのかと橘の前まで近づくと、その前へ腰を下ろした。
橘の膝の上に載せられた手を見ると、何か文らしきものを持っている。
信乃が橘の顔を見ると、橘は真剣な面持ちで信乃にそれを差し出した。
「これは?」
「そなたあての文だ。」
「私あて? それで、どなたからの。」
「大木村の村長どのからだそうだ。」
信乃ははっとした。
「大木村、大木村の、村長どの? 村長どのから、なぜ私に――いえ、私がこちらにいることが、知れているのでございますか。」
「うむ、そなたには話さなんだが、我らが大木村へ向かったとき、兵士にそなたの身分を明かしたろう。そこから、お館にいる、大木村のそなたの親族たちに伝わったらしい。」
信乃は膝の上においた手を固く握りしめた。懐かしさより、申し訳なさの方が先に立つ。
信乃はその手を固く握りしめたまま、床の上へと視線を落とした。
すると、橘が、その文を差し出し、
「読んでみよ。 必要とあらば、返事を書くがよい。 文書方を介して届けさせようほどに。」
信乃はしばらくその文をじっと見つめていたが、静かに受け取ると、中を開いた。
文の主はたきだった。長老のあとをついで、今は村長となったその男の嫁で、信乃から見れば従妹おばにあたる。
「しの様
おかわりございませんか、体にさわりはございませぬでしょうか。
あなた様が由良藤吾さまのお館でお世話になっているときき及び、わたくしが代表で筆を執ることにいたしました。
あの日、我ら全員、無事に大木村より脱出し、もれきくところによれば、脱出した村人は一人の脱落者もなく済んだよし、そなたも安心しているがよろしいかと存じます。しかしながら、我らが一番気にかけておりましたのは、あなた方姉妹の行方、中でも、小夜さまのご最期を聞き及んだものの、あなた様のご消息だけがどこからもきこえず、気をもむばかりの毎日でございました。
姉上様にあらせられましては、 まことに残念至極、 あなた様もお辛かったことでしょう。
あの日、我らは、小夜さまがあなた様と二人、後から参ると申されたときき、どうにもふに落ちず、もしやと思って不安でなりませんでした。あなた様と二人、誰よりも安全な策で逃げおおせるなどと、あなた様の姉上様は、そんな方ではないのですから。
しかし、我らにも魔がさしたのでございます。もしや、と。
もしや、過去に遂げられぬ思いを遂げるために、あの場に残られ、そして、あの人とともに、かの地に参るのでは、と。
あの時、姉上様のお気持ちを踏みにじった我らとしては、それをもう、お留めするわけにもいかず、迷いに迷ったあげく、黙ってあなたたちを残し、村を後にしたのでございました。
それが、あのような形でご最期を迎えられようとは。
今となっては、どの時を思っても、後悔のつきることはございませぬ。」
信乃はそこで文を置いた。
「いかがした。」
すかさず橘が問うので、信乃は思わず橘の顔をみつめた。
胸の痛みに耐えかねて、涙がこぼれおちる。
「何かつらいことが書いてあるのか。」
そう橘が問うのに、信乃は慌てて首を振った。
「私の消息が知れぬので心配であったと。」
橘は得心したように、信乃をじっとみつめた。しかし信乃は、その続きのことを言葉に出せず、文の続きを読み始めた。
「二人きりのご姉妹の、姉上様をなくされたあなた様の胸のうち、お察しするにあまりあり、それを思えば胸ふさがることこの上ないことでございます。しかしながら、一つ救いであることは、そんなあなた様に、心の支えとなる方がいらっしゃると、聞き及んだことでございます。
太一どのという許嫁がおられるあなた様ではございますが、もはや我らはそれを無理強いしようとは思いませぬ。むしろ姉上様がとげられなかったものを、あなたが遂げられるならば、それこそ我らが救いともいえましょう。
太一どのにはこちらからなんとでも言い聞かせようほどに、迷うことなく己の道をつらぬくがよし。したが、よくよく考えて、ご決断なさるようにとお祈り申し上げます。
ではくれぐれもお体に気をつけて。
一度我らにその元気なお姿をお見せいただきたく、気が向いたらでも構いませぬ、文の一つもいただければ、幸甚でございます。
由良様、そしてお世話になっているという巫女様にも、我らが何とぞあなた様をよろしくお願いいたしますと申していると、お伝えくださいますように。
たき」
文を読み終えてもしばらくじっと静止して動かない信乃に、 橘がその姿をのぞきこみ、
「いかがした。」
と声をかけた。
それから、声をかけられた信乃が、橘を見上げ、文を見、交互にそれを繰り返すと、
「あの、わからないことが…」
そういって信乃は橘に文を向け、わからない部分を指で示しながら、
「『しかしながら、一つ救いであることは、そんなあなた様に、心の支えとなる方がいらっしゃると、聞き及んだことでございます。太一どのという許嫁がおられるあなた様ではございますが、』」 そう信乃が読み上げると、橘はその続きを目で追った。それから最初から目を通し始めると、少しくして顔をあげた。
顔をあげてから、信乃を見る。未だ涙で湿った頬をぬぐうことなく橘をみつめる信乃ではあったが、橘はその信乃にではなく、なぜか手紙の中味に笑いを禁じえなかった。
しかし、笑うところではない。
目を閉じてぐっと体に力をこめると、心の中の笑いの虫を抑えにかかり、それから、おもむろに頭を下げ、「すまぬ、信乃。」と言った。
「何が、で、ございましょう。それは一体どういう…。」
「我は、嘘をついた。」
「は?」
「お館にいる親族から、そなたの身を引き渡せということだったので、断る口実を思いつけず」
信乃はぎょっとした。
「え、まさか…」
「こちらに、惚れた男がおって、どうしても離れたくないと本人が申しておると、嘘をついてしまった。」
頭を下げながら、橘は必死と笑いをこらえた。しかしこらえようとすればするほど、さらに笑いが沸き起こる。
「すまぬ。」
信乃が橘の姿を見て呆然としていると、
「み、巫女様。」
「すまぬ。」
「い、いえ、巫女様も、お考えがあってのこと。 わたくしもまた、一族の方におあいして、まだ巫女姫の歴史を壊すのが姉の目的であったなどとも、言えませぬ。 あの、わたくし」
と、しゃべりながらも、信乃の頭の中は激しく混乱していた。
「で、でも巫女さま。こ、これは、相手は誰かなどと言われたら、どうすれば…。こんなに心配しているのに、う、嘘などと…わたくし」
そこで橘は顔をあげて、信乃の顔を見た。
「なんとでもなる。」
ふと、橘の頭に藤吉郎の顔がよぎった。よぎって、ふと、そのいたずら心に火がついた。
「その嘘の身代わりを、ひきうけられるような男子は、この村にはいくらもおる。たとえば」
「はい」
「この家の藤吉郎とか。」
信乃の顔がかっと赤くなった。
「し、そ、それはっ、と、藤吉郎様に、ご迷惑というもの。か、しかも、そんな嘘はいつまでもつか、わかりませぬ!」
「迷惑なら、どうせ迷惑のかけついでではないか。それにこの距離なら、いくらでもごまかせよう。」
信乃の動揺をよそに、橘はシラリとした顔で言ってのける。
「ちっ、たっ、たいちどのとのことはっ。」
「これも、まだそう軽々しくは動くまい。そなたの心が決まったと言ったわけではあるまいし。」
信乃は、唖然とした。唖然とする中で、頭の中が激しく混乱してくる。
あ――姉さま、ああ、――姉さま、お、お助けください。これが、姉さまのこととはいえ、ああ、姉様のためとはいえ、――ああ、申し訳ございませぬ。申し訳、ございませぬ。村長どの、たきどの、申し、訳――。
次の日も、信乃はもはや日課となりつつある自主練習に、神社の境内へと出かけて行った。
本日は、誰も現れる気配がない。
天候もうす曇りで、気勢があがらず、なんだかやる気がでなかった。
でも、昨日藤吉郎が相手をしてくれたので、なんとなく勝手がわかるような気がする。力を入れるべき位置、止めるべき位置、それに従って、どう体を動かすのか、どう、相手を見るのか――
それでも、相手がいるのといないのとではずいぶん違う。
頼めば、藤吉郎はまた相手をしてくれるのではないだろうか。
してくれるのではないだろうか、と思いつつも、してくれるような気がした。
どうせやるなら一人でやるよりは上達が早いと、言って、昨日も現れたのだ。
女に剣は無用と言った時とは違う。
それに、あの人は、頼まれてそれを無下に断る人にも見えない。
昨日の橘の言葉が蘇る。
――迷惑なら、どうせ迷惑のかけついでではないか。
ああ、と、また混乱しかけて立ち止まり、一人で首を振った。
あの人が、この私のためにわざわざ時間をさいて、相手をしてくれる、助けてくれるのに、何の義理があるだろう。
何の義理があるだろうと、思いいたったところで、大木村へのあの道行きの、数多くの藤吉郎の手助けに思いいたった。
姉の死をきいて倒れそうになった時も、社殿で血の跡を見て泣きながら話した時も、猟師小屋へ向かう時も、姉の魂と決別して、村を離れがたく思った時も、それから――
――信乃どの。この村へは、留まれぬのです。
あの、どんよりとした景色の中、目の中に映じた、藤吉郎の、つらそうな顔。その顔のままで、藤吉郎は「行きましょう」と言った。
あの藤吉郎がいなければ、自分は歩きだせなかった。
泣きながら、墓所へとたどり、佐助をさげすみながら、姉の眠る墓を掘り起こしていたかもしれない。
信乃はうつむいて静かに息を吐いた。
もう、――これ以上は、ならぬ。
握りしめた短い木刀をみつめる。
そんな義理などないではないか――
すると、その場にうつむいて立ち尽くした信乃の耳に、どこからともなく女の声が響いてきた。
――ならぬ。
その声に聞き覚えのあるような気がして、ふと、由良社社殿の方に顔を向けると、白い装束の、やせた、いつぞやの恨めしげな顔をした女が、すぐそこに立っている。
女は、ゆっくりと口をあけて、信乃に語りかけた。
そうだ、ならぬ。
愕然としてその姿をみつめていると、女は透けそうな体で少しも動かず、そして、気のせいか、足が――ない。
信乃はわななく手で口元を覆った。
女は続ける。
そうだ、ならぬ。
そうだ、そなたは、いきては、ならぬ。
いきては――。
※しのぶれど色に出にけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで 平兼盛
(誰にも知られないよう、せつない思いをずっと包み隠してきたけれど、その顔色に現れてしまったことだなあ、私の恋心は。何かもの思いをしているのかと人が問うまでになってしまった。)
[『百人一首』第四十 『拾遺和歌集』恋一所収]
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