第13話 風が届けた最後の約束
手をつないで約束の焼き肉店に現れたふたりに、一ノ瀬は「おやおや」と大仰に肩を竦めてみせた。
「これは、今日はこっちお祝いも兼ねているのかな?」
ふたりは顔を見合わせ、かおりが「ついさっき、そういうことになりました!」と報告した。
祝福を送りながら、心の隅っこをチクリととげがさす。その痛みは無視して、にっこりと微笑みを絶やさず、店員に連れられ席に着いた。
この日の三人は、それぞれの心境から大いに飲み食いした。常ならば一ノ瀬相手にケンカ腰になりがちな墨児も、素直に三人一緒に過ごす時間を楽しんでいた。言わずもがな、かおりはとても幸せそうだ。
途中、席を立ったかおりの背を見送りながら、墨児が言った。
「オレがいなくなった後は、あいつのこと、頼むな」
コーラ片手にカッコつける墨児に、「なにそれ」と突っ込む。
「なんか雰囲気出そうとしてるみたいだけど、そうはいかないからね。彼女のこれからの幸せは、半分は君にかかってるんだから」
知ってる、と墨児は頷く。そして、存外、真剣なまなざしが一ノ瀬を捉えた。
「なぁ、
ドクン、と心臓が波打った。
髪をかきあげる仕草で「いきなりなんだよ」と不機嫌に呟きながら顔を隠す。
「まぁ、そーゆー反応だろうなと思ったけど」
墨児は、静かにコーラのコップを置いた。そして、「一度は話さなきゃなんねぇと思ってたんだ」と静かに話し始める。
「いつか、お前の背負った荷物が軽くなる時がくるかもしれない。ひょっとしたら、一緒に支えてくれる誰かが現れるかもしれない。けど匡、それはお前が決めることなんだ。オレでも、
翠は確かに墨児を養育したが、費用は主に市が負担した。そのほか、学校の手配など市の福祉職員や民生委員の協力も大きな役割を果たした。当時の墨児は、そんな彼らに反抗ばかりしていた。そのことを、今では反省しているという。
「誰かになにかしてもらうのが当たり前だと思ってた。やっぱガキだったんだよな、オレって。してもらうのが当たり前じゃない、そこにいてくれるだけでありがたいもんなんだ……かおりが、気づかせてくれた。翠にはとことん世話んなったし、民生委員のおっさんとかにも、近々礼を言いに行くよ」
物憂げなしぐさで頬杖をつきながら、「どういう風の吹きまわし?」と一ノ瀬は尋ねた。
墨児はこれには直接答えず、「あいつのこと、頼んだからな」と、戻って来るかおりに向かって手を振った。
それから、またひとつ季節が巡って、霜月の初め頃。
墨児は
簡素なお葬式では、かつて墨児の担当だったという民生委員のおじさんが声をあげて泣いていた。「お前、礼を言うなんて殊勝なことそするから、こんなことになるんだ。生意気なクソガキでいいから、おっさんより長生きしろよなぁ」と、理屈にもならないようなことを言っていた。
かおりは、黒いワンピースに黒いジャケットを羽織って、大きな桐箱を持って座っていた。
おじさんにつられて大泣きしたい気持ちはあったが、覚悟があったためか、予想よりずっと落ち着いている自分に驚いていた。それでも昨日はなかなか眠れなくて、目の周りが赤く腫れている。少し迷ったが、墨児に買ってもらったネイビーの生地に小さな真珠があしらわれた髪飾りをつけてきた。墨児が、そばで見守ってくれているような気持ちになれたからだ。
(馬鹿ね。墨児は、今祭壇の上にいるのに)
町の小さな葬儀ホールには、職員を除いてごくわずかな人間しかいなかったが、祭壇は色とりどりの花束、果物、お菓子、電飾で満たされ、華やいだ雰囲気さえあった。その中央で、彼は静かに眠っている。
厳かに式典が始まり、導師の合図で、まず一ノ瀬が席を立った。彼が、喪主をつとめている。
白皙というよりは蒼白に近い顔色で、虚ろな表情のまま淡々とご焼香を終える。かおりが続き、菊池やその奥さん、関係者が続いた。駿も、父親といっしょに駆けつけてくれた。小さな手を伸ばして香をつまみ、かおりたちに向かって深々と頭を下げた。
式典が終わり、祭壇にそなえられた花束を集めて棺に納める際、駿がわっと声をあげて泣き出した。横たわり、物言わぬ墨児の姿をじかに見たからだろう。父親がなだめながら斎場の外へ連れて行く。
かおりは、胸に熱いものがこみあげるのをこらえながら、桐箱を開け、中身を取り出した。「それは?」と式場の職員に尋ねられたので、「いっしょに棺に納めてください」と広げて見せた。
「紋付き袴です。本当は、成人式で着る予定だったのだけれど……間に合わなかったので」
職員はそれ以上何も言わず、かおりを手伝って着物を棺に納めた。一ノ瀬はその様子をぼんやりと見つめながら、淡々と生花を切り取り棺に納めていった。
出棺した霊柩車を追うように、かおりが遺影を抱え、一ノ瀬が位牌を握り締め、菊池とともに三名、別の乗用車に乗り込んで斎場から火葬場へ移動した。ここに姿は見えずとも、翠の心も一緒に寄り添っていることだろう。
最後の読経が終わると、静寂が訪れる。
職員が粛々と、棺を火葬場に押し入れていった。
誰も言葉を発する者はなく、火がつけられるのをただ静かに見守っていた。
墨児がゆらりゆらり天へと昇っていく間、生きている人間は待合室で線香に火をともしながら最後の時を過ごす。
菊池は膝の上で硬く両手を握り締めて微動だにせず椅子に腰かけ、一ノ瀬は虚ろな様子でぼんやりと線香から立ち上る煙を眺めていた。かおりは静かに、ふたりの隣に座っている。
「……この煙にのって、墨児はいくんだね」
唐突に一ノ瀬が言った。「そうね」とかおりが頷く。
またしばらく沈黙が下りた後、「いつから、知ってたの? 翠様も、ご存じだったの?」と虚ろな一ノ瀬の声が響く。
かおりは、「付き合った日から、知ってたました」と答えた。髪飾りを外し、愛し気にそっと撫でる。
「詳しい話を聞いたのはもう少し後だったけど……本当は、赤ん坊の時に重い病気にかかっていたのを、翠さまが哀れんでつい
菊池が、ついと眼鏡を押し上げた。それは、表情を隠すための仕草であるように、かおりには思われた。
「まだ生まれてもいないうちの子どもに、熱心に話しかけてくれました。私といっしょに、名前を考えてくれたり……彼は、自分に待ち受けるものを知っていたのですね」
かおりは、小さく頷いた。
「知っていて、いつもどおり過ごしました。そして、静かな最期を迎えました」
墨児の態度は、翠の告白以前となんら変わらなかった。時に悪態をつき子どもっぽい仕草で猫グッズに目を輝かせる彼の姿が、かおりの心のスクリーンに焼き付いている。彼のバイクで、いろんなところに遊びに行った。そのどれもが、輝かしく忘れがたい思い出だ。
朝、目覚めたら。隣に、まだ温かい墨児の体があった。でも、何度呼びかけても彼は目を覚まさなかった。ついに、かおりの手の届かないところへ、旅立ってしまったのだ。
一ノ瀬が、両の拳をテーブルに叩きつけた。組み立て式の簡素なテーブルは、ビィンと嫌な音を立てる。
「なんで…! 知っていたなら、どうして……!」
どうして……どうして欲しかったのか、一ノ瀬自身にも分からないのだろう。彼は泣きそうに顔を歪め、それでも涙はこぼさず、震える体で遺影を見上げた。
笑顔の墨児が「お前、取り乱しすぎじゃね?」とでも言っているようだった。
火葬が終わり、三人は火葬場の隣の部屋へ案内された。
そこには、先に墨児が待っていた。物言わぬ白骨、高温でところどころ白い灰となって崩れ落ちた、頭蓋骨の形も定かでない、かつて人であったものの最期の姿――。
「骨壺に、まず喉ぼとけを納めてください。仏様のような、きれいな形をしている骨です」
職員は、抑揚のない声で慣れた説明を繰り返す。
こらえきれず、このとき初めてかおりは涙を流した。箸を持つ手が震える。
(私を抱きしめてくれた、あったかい体はもうなくなってしまった。ここにあるのは、おしゃべりもできないカラカラの真っ白な骨だけ……)
人骨は、本当に目が痛いほどの白だった。
震える手で骨を拾うかおりの隣で、一ノ瀬も静かに涙をこぼしていた。彼にとっては、自分の弟にも等しい人の最期の儀式だ。ここに来てやっと、現実を受け止める心の準備ができたのかもしれない。
菊池も、強張った表情で骨を拾い、骨壺に入れていく。
やがて大きな骨のほとんどを拾い上げたころ、職員の声がかかって三人は手を止めた。残った細かい骨は、火葬場のほうで丁重に埋葬しますとのことだった。
位牌と骨壺を抱えて車に乗り込んだ一ノ瀬が、ぽつりと言った。
「ずいぶんと軽い。ここに、墨児の全部が入ってるわけじゃないんだね」
かおりは微笑し、そっと震える肩に手を置いた。
「そうよ。だって墨児の心は、私たちの近くにいるんだもの」
一ノ瀬は驚いた表情でかおりを振り向き、そして今までに見たことがないほど不器用であどけない微笑をこぼした。
車は滑らかに進み、斎場はもうこの交差点のすぐ先にある。
それから十年後――。
霜月の初めに、かおりがお墓の掃除をしていると、ちいさな子ども連れのサラリーマンらしき家族がやってきた。しきみと猫のぬいぐるみというアンバランスなお供え物を抱えた人物も一緒だ。見慣れた顔ぶれに、かおりは「こんにちは」と気さくに声をかける。
「やぁ、かおりさん。ほら、優児、優奈、挨拶しなさい」
「「かおりおねえさん、こんにちは」」
息の合った双子の挨拶に、「はーい、こんにちは。ふたりとも大きくなったわね」と子どもたちの頭を撫でる。こうしていると、自分が立派なおばさんになったのだななと実感するが、あまり気に病まないことにする。
しきみと猫のぬいぐるみをお供えした人物も立ち上がり、「かおりちゃん、こんにちは」と笑った。その笑顔は瑞々しく、とても三十歳オーバーのおじさんとは思えないほど魅力的だ。
「こんにちは、一ノ瀬さん。可愛いぬいぐるみね」
「駅前の雑貨屋で見つけてね。あとで、あいつの部屋のコレクションに加えておくよ」
墨児の部屋(社務所の一角)は、今でもそのまま猫グッズであふれている。
菊池の奥さんはころんと愛くるしい雰囲気の人で、かおりもたびたび世話になったり、双子と遊ばせてもらったりと交流があった。ひとしきり、最近の双子の面白行動についての話題に花が咲く。その間、男連中は静かに墓参りをしていた。
ひと段落したころ、一ノ瀬が「かおりちゃん。ちょっといいかな」とかおりを誘い出した。かおりはその背に従って、見晴らしの良い坂を下って行く。
もうすぐ冬を迎える高い青空の下、小柄で華奢で色素の薄い髪と瞳が似合う美貌の彼は、優しく微笑むと「あらためて、お願いしたいことがあるんだ」と言った。
風にあおられる髪を片手で押さえながら、「お聞きしましょう」とかおりは頷いた。
「きっと、私たちが新しい一歩を踏み出すのに、これ以上ふさわしい日と場所はないと思うから」
「僕も、そう思うよ」
一ノ瀬は、そっとかおりの手を取った。
十年前。縁結びの神社の片隅に、地蔵尊が
近所のお墓での会話は、風の精を通じて地蔵尊の耳にも届いた。
誰もいない神社の境内で、地蔵尊はにっこりと深い笑みを刻んで佇んでいた。
縁結び、始めました 路地猫みのる @minoru0302
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