第一話 犬殺し/後編

 ◇


 リュックサックを背負った姉の背中を見ながら、サラは夜の川沿いを歩いていた。小股でせかせか歩くサラと違い、姉の歩調は鷹揚おうようで堂々としていた。

 明るい夜。フェンスの向こうの高速道路で、心電図みたいに光がチカチカしている。

「ララーナ、待って……」

「……サラ」

 姉が何かを言った。うなるエンジン音の重奏が、言葉を掻き消していく。白い光が帯になって伸び、振り返った姉のまだらの顔が浮かび上がる。

「お願い、もう一回言って――――」

「もう少しよ! あたしたち!」

 白い光が帯になって伸び、振り返った姉のまだらの顔が浮かび上がる。

 うなるエンジン音の重奏が、言葉を掻き消していく。

 木枯らしが二人の間を通り過ぎ、ハイビームで照らされる夜に暗幕が落ちる。

 そうしていつしか、冷たい水の中へと夢の中のサラの体は落ちていく――――。


 ◇


鳩の館ピッチョーネ』への訪問は、営業時間にあわせて深夜をまわるということだった。

 束の間の仮眠は、寝床が慣れないソファということもあって、シャムに悪夢と頭痛をもたらす。味のついたものを口にする気になれず、冷たい水を三杯飲み干してようやく頭の芯がすっきりとしてきたころ、シャムはサルに尋ねた。

「どうして私をいろんな人に会わせるんです? 」

「いろんなってほどじゃないだろう」

「言い方を変えます。情報屋の仕事を逸脱していると思います」

「人それぞれさ」

 サルはまたコーヒーを飲んでいた。

「あらゆるものに同じものなんてない。俺はそれに適していると思う形を提示するだけ。善も悪も、正しいも正しくないも、正義のありかも関係がない。それが俺の考える『真実』だ。俺が提供するのは材料でしかない。今回の提供の仕方が特殊なのは認めるがね。『情報』それそのものをどう料理するのかは依頼人の自由だよ」

「哲学的ですね」

「哲学というのは『真実』に最も遠い言葉だろうよ」

 サルは笑いながら、吐き捨てるように言った。


 ◇


鳩の館ピッチョーネの女は全員が『猫』だ。マダム・カリコは総勢40名の『猫』を束ねるボスメス猫ってわけ」

「あそこはレストランも有名ですよね? 政治家も多く利用するって」

「その政治家が落した金と失言で、あの店は繁盛してる」

「ああ、鳩の館ってそういう……」

「あそこは『猫』が『犬』をもてなす場所だよ。それ以外にも『狐』や『ハイエナ』もやってくる。ま、外国人の接待用には最高の店サ」

 サルが部屋をノックするのと同時に、シャムは唾を呑み込んだ。記憶の中にある少女のような声が蘇る。

『『狐』は危険です。お気をつけて、お嬢さん』

「どうぞ」

 扉の向こうで、同じ声が言う。

 贅をつくした応接室だった。一面を暗い緑に塗られた壁と濃紺の天井をキャンバスに、緻密な柄の絨毯や、額縁の彫金が美しい大鏡、高そうなキャビネットには、ガラス製の珍しい茶器などが並べられている。

 異国風であるのは、主人が異国の女だからか。部屋奥は金色の房のついたカーテンで仕切られており、女主人はひっそりとそこから現れた。


「お久しぶりですね、サル」

「アンタも相変わらずだな」

「ええ、お互いに……」


 五十代は超えているはずのマダム・カリコは、鈴蘭のように華奢で儚げな女だった。襟ぐりの大きく開いた白いドレスの装いが、女を夜の住人だと示している。

化粧のせいだろうか。髪型が変わったからか。

彫りの深いの顔は、記憶に残るそれよりより、艶を増しているように見えた。光のない水色の右目は、例の薬品が触れて失明したのだという。


「あんたに会いたいってのが、今回の依頼人の要望でね」

「あらそう……はじめまして。お嬢さん」

 琥珀色の左目だけがシャムを映す。シャムはうつむき、ゴーグルを外した。


「いいえ……ですマダム・カリコ。貴女のもとにもう一度来るのに、二年かかりました」

 ゴーグルの下は、縁取りをしたように目の周りだけが黒い。


「サラ……? いえ、違うわね」

じっとその顔を見て、首を振ると、マダムは唇の端をわずかに持ち上げた。

「……ええ、思い出しました。二年で復帰なされたのね、『狐』のお嬢さん。失礼いたしました。ずいぶん毛色が変わったので、分かりませんでしたわ。二年前あれからお風邪は召されなかったかしら」

「……いいえ。もう私は『狐』ではありません」

 そう言って、シャムは銃口を白いドレスの女へと向けた。



 ◇



「さて……この顔になったのは、十七歳のときです。産まれたのは海のきれいな異国でございました。母は地元有力者の愛妾をしておりまして、船乗りの男と結婚したいと言ったわたくしに『裏切者』と叫んで例の薬を浴びせかけました。もう、四十年近くも前の事でございます。わたくしは、傷を癒しながら夫と共にこの国に流れ着き、それから二十ヶ月で未亡人となり―――紆余曲折あって、今はここ、鳩の館ピッチョーネを仕切らせていただいております」

 二年前。まったく同じ部屋で、マダム・カリコはそう言った。

 上司がトイレに立った合間でのことだった。

「貴女のような同郷の若者が、このようなお仕事をされていること。わたしくしは心苦しく思います」

「この店には、自分程度の不幸自慢はいくらでもおりますでしょう」

 ドーレル巡査は、上司が退席した三分前から待機の姿勢を崩さずにそう答えた。自ら進んでこの道を選んだ彼女としては、はっきりと不快であった。媚びることに慣れた夜の女は、こんな下っ端にすら甘い言葉をかけるのかと、侮蔑さえ覚えた。

 二年前までの彼女の仕事は、昼間は警官服、夜はスーツへと制服を変え、こうして上司の呼び出しにいつでも飛び出していくことも含まれていた。でなければ、娼館など足を踏み入れる機会は未来永劫なかっただろう。

 上司には恩義があった。姉をまっとうな『民間人』にするためには、上司の力は必要不可欠なのだ。


「貴女、身寄りは? 」

「そのような質問にはお答えできません」

「聞かなくても存じております。貴女にはお姉さんがおられるとのこと」

「まるで占い師ですね」


 まだらの女は、儚げな笑みを浮かべた。


「占い師のようなものよ『猫』の仕事は。信用と、運と、権力のあるパトロンと、素敵な笑顔。必要なものは同じですから。『スパイ』は危険です。お気をつけて、お嬢さん」

「……ええ。いつも肝に銘じていますよ」


 大きな鏡に異国の女が二人映っている。まだらの肌をした異国の女と、男の真似のようにジャケットを着た、やせっぽっちの褐色の肌の女。


 ◇


「双子だからシャムというのは安直だなア。サラ……いや、ララーナ・ドーレル」


 サルの言葉に、サラははっと二年前から舞い戻る。


「ま、そう緊張しないで座んなよ。巡査」

 自分も客人のくせに、サルはふんぞり返って自分のかたわらを顎で指した。マダム・カリコに火をつけてもらいながら、流れるシャンソンにあわせて指先がリズムを刻んでいる。

「ああ、いや。話の腰を折ってすまんね。続けてくれ」

「……もう巡査じゃあありません」

 ようやく言ったのは、そんな言葉だった。


「……マダム・カリコ。あなたは姉の最後を知っていますね」

「ええ」

 銃口はいまだ、マダム・カリコの額に定まっている。


「なぜ姉は、殺されなければならなかったのですか」

「口封じでした。彼女は知ってはならないことを知りすぎたのです」

 シャムはいきり立った。

「その内容を知りたい! 私は、『真実』を求めているのです! 」

「いいえ。それを知ることは、お姉さんの犠牲を棒に振る結果になります。お姉さんのやらされていたことを思えば、おのずと察しはつくでしょう。この国では『知らないこと』だけが危険を遠ざけるのです」

「――――あの夜、上司はここに帰ってこなかった。私は一晩をここで明かしました。貴女は私をこの店に足止めしたんでしょう。上司の指示だったことは分かっている。何らかの取引が、姉と上司の間であったことも。それによって私が今生きていることも。分からないのは貴女だ。政府と癒着しているとしても、ただの『猫』。……なぜ加担した? 私をなぜ、あの夜に……」


 ◇


 十数年前、隣国で内乱があり、住処を追われた多くの人々が移民としてこの国へやってきた。

 当時、政府が懸念した問題のひとつは、移民に紛れて多くの諜報員ハトが紛れ込むことだった。

 姉妹の両親は、まさしくその諜報活動を命じられ、この国へやってきた諜報員ハトだった。

 この国では、移民に発行されるビザが一年ごとに更新される。三年以上の滞在で、はじめて『緑紙グリーンシート』と呼ばれる仮の国籍が与えられ、それが十五年継続されると国民として認められ『青紙ブルーシート』と呼ばれる正規の戸籍を取得できる。

 両親が死んだのは、この国に来てたった11ヶ月目のことだった。

 殺したのは、両親に仕事を委託したはずの祖国だ。

 その国に根付き、『犬』のふりをして情報を集める諜報員を『狐』と呼ぶ。いつでも裏切りという餌が顔の前に垂れさがっている『狐』の人選と育成は、どの国も慎重を極めていた。

 二人を拾ったのは、両親の仇である故郷だった。異人の特徴がある孤児であれば、きっと二人でなくても良かったのだ。両親の命も、付けられた名前も、たった一人の姉妹きょうだいを奪われるのは、何も彼女たちでなくとも良かった。それでも選ばれたのは、二人であった。


 ◇


「……私は、姉さんがあの『処置』をされて泣き叫んだ声が忘れられない。になった姉は、すっかり人が変わって笑えなくなったわ」

 希釈した『薬』を含ませた布で、何度も肌を拭くのである。自分も『処置』されるのだと思っていた妹は、部屋の奥で震えるだけだった。

「そのときから、私と姉さんはばらばらになった」

 『処置』をされた瞬間から、二人は他人になった。

 彼らは「お前たちの『運用』に一卵性双生児である利点は不要だった」と口にした。移民である特徴を強調した『狐』である姉の運用と、ただの外国人として『運用』する妹では、立場も役割も違うからだと。

 妹は『ララーナ・ドーレル』として、移民出身の警察官。姉は『サラ』と名付けられ、醜い移民の娘として監視付きで街に降りる。

 他の『狐』や『鳩』との中継役が、求められた役割だった。ララーナがようやく交番勤務となってからは、時に人目を忍んで、時に警察官と市民として姉妹は交流し、慰め合う。

 妹の希望は、功績を上げて『青紙ブルーシート』を手に入れられる十五年を生き延び、姉と二人で暮らす未来だった。

「――それが生きる全てだったのに」

『サラ・ドーレル』は、この世に最初からいない。『青紙ブルーシート』以前に、彼女には戸籍すら与えられていなかった。彼女は妹と同じ『ドーレル』を名乗る前に、『ララーナ・ドーレル』として冬の川で死んでしまったのだ。

 ――結合双生児のことを、俗にシャム双生児と呼ぶ。

 『シャム』はもはや、ララーナでもサラでもない。姉の死後、ララーナ・ドーレルだった名無しの『狐』は放逐された。

 マダム・カリコは口を開く。

「ララーナ殺しに加担したのは、サラと約束したからです。動機は……そうね。同情と共感」

 マダム・カリコは初めて微笑みを消した。

「……それと、同族嫌悪かしらね。わたくしも、死に損ねた側ですもの」

「では姉は……自殺だったと? 」

「……ある意味ではそうだったのではないかと思っているわ。あの子が、死の準備をわたくしに託したのは確かなのだから」

 シャムの銃口はとっくに床を向いていた。声にもならない断片的な独り言が、木枯らしのようにシャムの歯列の奥で音を立てている。

「ララーナとは何度か仕事をしたわ。わたくしのほうから興味を持って、声をかけたの。だから、とても残念に思っているし……」

「おいおいおい! 」突然マダムの言葉を遮ったのは、静観していたサルだった。

「死人の真実だけは誰にも分からねえ。憶測でものを言うんじゃアねえぞ。マダム・カリコ! 」

「でも、サル……」

「あ~、もうだいたい分かった。ゴチャゴチャ言うな。あとは任せろ」

 サルは椅子を引くと、さっそうと立ち上がる。

「行くぞシャム。手に持ってるオモチャをしまえ」

「……わ、私は」

「俺は『真実』にこだわる。そう言ったはずだ。俺は顧客に適していると思う形を提示するだけとも、俺が提供するのは材料で、それをどう料理するのかは依頼人の自由だとも言った。おいシャム。俺の提示したい情報はまだあるぞ。手前てめぇはメインディッシュもナシに、コースを食い終わるつもりか? 」

 銃を握った手を、サルの大きな手のひらが掴み上げるように握った。氷のように冷たいかと思えば、サルの手は、意外なほど熱かった。

 力の抜けた手から難なく武器を取り上げると、サルはそれをテーブルに置き、シャムの尻を文字通りブッ叩いた。

 パァン! 大きな音がする。

「―――――イッ!!! 」

「行かねえのか? 」

「――――ッきます! 行きますよ! 」

『裏口』から出ると、サルはすぐに表通りへと舵を切る。

「次はどこに連れて行こうとしてるんですか! 」

「ごちゃごちゃうるせえ。黙ってついてこい」

「ずっと言おうと思ってたんですけど、私、お客なんですけど! 」

「客を選ぶのは俺だぞ。小娘」

「そうでしたっ! 」

 シャムは地団駄の代わりに歩調を速めて、大股で歩くサルの背中に食らいつく。横町を抜け、どうやら駅へと向かっているようだった。この街には街灯が少ない。車のハイビームが鼓動と同じリズムで二人の姿を撫でるように照らしていく。

「姉貴の遺体は損傷が激しかった。顔のまだらも分からねえくらい皮膚が水を吸っていた。それでもララーナと判断されたのは、身に着けていたのがアンタの制服だったからだ」

「ええ」

「手前が知りてェのは姉の動機だ。しかし逆を考えろ。この事件はアンタのボスには手出しができない。なぜならいくら『狐』を使うとはいえ、アンタのボスは外国人で、この国の司法に介入するにはリスクがある。警官を紛れ込ませるのと殺人偽装じゃ管轄が違う。では誰が姉貴の『死』をお膳立てしたか? 正解は、この国だ」

「ええ、そうかもしれません。祖国だろうと、この国だろうと……」

「おい、まだ分かんねえのか? 姉貴は死にたかったんじゃない。『死んだと見せかけたかった』んだ。それが動機だよ」

「え」

 シャムはぽかんと口を開けた。

「手前の姉貴、生きてるぜ」

 どこかで、クラクションと怒声が飛び交う。

「も―――もう一度」

「シャム。サラは生きてる。持っている情報をタネに司法取引を持ち掛けて、この国へ亡命を願い出たんだ。他国の『狐』とも仕事をする、縄張りのボス猫マダム・カリコすら利用して」

 白い封筒が差し出される。

 封がされていない中身には、新聞の切り抜きがあった。指三本分ほどの小さな記事で、地方都市の祭りが特集されている。添えられた白黒の写真の端で、一人の女が笑っていた。

「俺が提示できる真実はここまでだ。この情報をどう料理するかはお前しだいとなる」

 数少ない街灯の下で、シャムは穴が開くほど記事を見た。顔のまだらはよく分からない。角度も微妙で、顔が半分ほどしか映っていない。それでも面影を見つけた。

「ああ……っ! ああぁ—————!!!」

 シャムはその足で、夜行列車に飛び乗った。


 ◇


「サルにしちゃア、今回はお節介を焼いたじゃねえか」

 『SARABA』のカウンターで、氷を掻き混ぜながらサビが言った。

「分かってないなぁ」

 タイガーがオレンジジュースのストローを咥えたまま、苦笑いをする。


「んだって? 」

「サラをこの国の高官と引き合わせたのはサルだよ。なんなら、マダム・カリコがおじさんに依頼するように頼んだのも、サルのおばさま」

「はぁ!? なんだよ!八百長の片棒担がされたってことか!? 」

「マダム・カリコはやりすぎた。鳩の館ピッチョーネは政府が『スパイ』を炙り出す大きな役目を持ってるけど、他国の『狐』に深入りするのはマズいよね。某国からは、しっかり取引としてお金も貰ってたみたいだし? これは、故郷から逃げ出したい姉のほうのサラ、政府にバレてなんとか挽回したい鳩の館ピッチョーネ、この状況を利用したい政府の、利害の一致で起こったのさ。サラは故郷の影から逃げられた。政府は鳩の館ピッチョーネに来る某国との情報筋ラインを手に入れた。勝手なことをした鳩の館ピッチョーネは、さらにサルの要望も叶えたことで、なんとか横丁の幹部としての顔を立てたってわけ」

「サルはどこからそれを知ってたんだ……? 」

「少なくとも、例の偽装犬殺しの前後じゃない? おばさま言ってたよ。フットワークが軽くて有能な新人がほしいんだって。お姉さんはぴったりだよね。元諜報員なんだし。そんな逸材、スカウトに二年かける価値があると思うよ」

「期待の新人シャムちゃんは、そのこと知ってんのか? 」

「どうだろ? 僕はデータに残らないことは分からないからね。確実なのは、彼女は自分でこの街に戻ってきたってことだけさ」


 サビは椅子の上で引っ繰り返った。

「……あの女、やっぱり悪魔だったか? 」

「『横丁』のボスとしては安心。でしょ? 」

「シャクだが、ちげエねえ」


 ――――俺たちの悪魔に!


『猫』たちは、笑って乾杯をした。

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犬殺し 陸一 じゅん @rikuiti-june

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