犬殺し

陸一 じゅん

第一話 犬殺し/前編

「それで? こないだの【イヌ】殺しの犯人の居場所を教えてほしいって? 」

 サルの言葉に、まだ若い【ネコ】はおどおど首を横に振り、控えめに否定した。

「い、いいえ。知りたいのは、犯人ではなく、いっしょにいたはずの【猫】のほうで……」

「ハんっ! おんなじこったろ」

【猫】の言葉を遮るように言い、サルは歯を剥き出して「へッ!」と意地悪そうに笑って見せた。


 飴色の天井で、埃まみれのファンがゆっくりと回っている。

 煮詰めすぎたカラメルのような調度品が並んでいた。黒光りする四人掛けのソファーが、切り株を思わせるテーブルを挟んで置かれている。

 向かい合う二人は、依頼者と依頼人であり、同業者であり、玄人と素人である。


「あ、あなたは、他の【猫】とは違うと聞いて、ここに来ました」

「いかにも。この『サル』めは、何よりも『真実』にこだわる」

 サルはにんまりと白い歯を剥き出しにして笑った。糸のように細い瞼の間からは、黄色い虹彩が覗いている。


「あんた、死んだ【犬】とはどういう関係だった? 」

「姉です。ひとりきりの」

 若い【猫】は、きりりと背筋を伸ばして即答した。

「姉の死の真相を知りたくて、私は【猫】になりました」

「ふうん……」

 サルは葉巻を手に取る。じっくりと火をあて、煙をプカプカさせるまでの数分は、沈黙のまま通り過ぎた。



 依頼人の調べはついている。

 多くの【猫】がいるなかで、情報屋サルのもとへ辿り着くということは、そういうことだ。

「……俺ア、基本的に依頼は断らねえことにしていてな」

 サルがようやく口にした言葉に、若者は顔を明るくする。

「ここに来れただけ上等。合格だ。しばらく俺が面倒見てやるよ」



 【猫】とは、この界隈に住み着いた情報屋たちの隠語である。

 【犬】とは、政府に属する存在……たいていの場合、警官を指していた。

 くだんの【犬殺し】は、多くの【猫】も注目した事件であった。

 時は二年前に遡る。冬の冷たい川から、若い死体が上げられた。

 死んだのは三年前に着任した新任警官パピー。交番勤務に慣れてきたころで、明るく誠実な人柄が評価されていた婦警は、顔立ちも分からないほど損傷が激しかったという。

 本来ならば、こうした突然の死には最も遠い人物像となる。多くの【猫】たちの見解は、警察の結論と同じくギャングの口封じ説であるが、

 サルは、うずうずと貧乏ゆすりをする依頼人を見つめる。

 事件があったのは二年前の冬。たしか二月と記憶している。今は七月。つまりこの若猫キティは、ものの27ケ月で、このサルのところへとたどり着いたことになる。

 若い娘である。一張羅を着てきたのだろう。しみ抜きの痕跡がある砂色の作業着は、赤や青の布地のパッチワークが張り付き、そういう古着のようにも見えないでもないが、年頃らしい華やかさはない。

 だぼっとした作業着を纏った中身のほうは、ヒョロリとした――――良く言えばしなやかそうな――――悪い言い方をすれば痩せて貧相な――――体で、上背ばかり伸びて肉を付けそこなった少年のような体格シルエットだ。

 そしてその顔立ちとなれば、よく分からなかった。「お前はロボコップか」というような大きな楕円のゴーグルがひときわ目立っている。駆け出しなりの処世術だろうか。

(いや、違うな)ソファの向かいから、サルはさらに観察する。

 膝の上で握られている手の甲に、不自然な『まだら』があった。 

(……そうか、移民か)

 十数年前、隣国で内乱があり、住処を追われた多くの人々が移民としてこの国へやってきた。とつぜんの人口爆発に、国内は一時的に混乱に陥り、移民たちは強くバッシングされた。

 毛並みの違いが差別を生むのだと、誰が言ったのだろう。

  『体の色を変える薬』として、特殊な薬品を希釈したものが移民たちの間で出回った。もともとは、工場や実験室などで、厳重な管理のもと扱われる系統の薬品であり、とうぜん肌に触れていいものではなかったが、すでに異国で根を下ろすしかない移民たちの多くが、その『色を変える薬』の使用を選択した。

 粘膜に触れれば失明の危険も確実にある。きっと、あの若者のゴーグルの下には、色を抜くことができなかった南方民族の特徴である黒い毛並みが残っているのだろう。

 移民問題から何年も経ち、いまや彼らはこの国の警察官にもなることができるようになった。

(……なるほどねエ)

 重ねるが、二年前の『犬殺し』は、

 サルは、つるりと顎を撫でた。プフーと吐き出した煙の輪の向こうで、子猫は眠そうにしている。

「……あんた、名前は」

「……あっ! はい! サラ・ドーレルです! 」

手前てめえは馬鹿か。本名を名乗る【猫】がいるかい」

「シャ、シャムです……」

 子猫は恥ずかしそうに、膝を摺り寄せた。

「情報屋は危険な仕事だ。掴んだネタによっては、それだけで命にかかわることも多い。口に出す出さないに関わらず『知る』ということが、武器を持ったことと同義となる。手前てめえも【猫】なら、おれの真似だけはするんじゃねえぞ」

 腕を組むと、重たげにふとった胸元が揺れた。

 化粧っけのない凹凸が少ない顔立ちは、つるりと剥けた茹で卵を思わせ、酒焼けして男のように擦れた低い声色が、よりサルの年齢を曖昧にしている。

 シャムはごくりと喉を鳴らした。

「……覚悟の上で【猫】になりました」

「手前の覚悟はどうでもいい。大切なのは金になるかどうかサ。まずは、あんたの手持ちをさらしてもらうとするか」

 サルは長い指で、テーブルの木目をなぞるように突いた。煙臭い凡庸ぼんような女だというのに、長い爪のしぐさはぞくりとするほど艶美えんびである。

「どこまで知っている? 」

「……姉を殺したのが、ギャングでないことは」

「根拠は」

 促すと、シャムの喉が鳴って言葉の調子が変わった。法廷で警察調書を読み上げるかのような語調。膨大な容疑者ひとりひとりの犯行の否定。オレンジの甘皮を剥ぐように、丁寧に『真実』という柔らかい果実を陳列していく。

(気の緩みは気になるが、腕と接客はいいな)

 結論までを語るには2パターンある。

 ひとつは、結論ありきに述べる逆算した語り。

 もうひとつは、『最初』から、当事者の足跡をなぞって真実まで辿り着く語りだ。

 多くの【猫】が前者の語りを選びがちになる。しかしサルが好むのは、後者の語り。———そのほうがより『真実』に近い。

「ここを紹介したのは『サビ』だね」

「はい。『SARABAサラバ』のマスターです」

 プハーッとサルの口から煙が噴き出した。

「わかった」

 呟くと、サルはとっくに型落ちした文明の利器を取り出した。ジーコ、ジーコ、とダイヤルが回る。

「……サルだ。今から行くから出迎えな」


 ◇


 サルが事務所を構える『マタタビ横丁』一帯は、多くの【猫】が住み着く町である。

 まぶしいネオンに濡れた歓楽街。

 その猥雑を一枚剥いだところにあるピッチリと並んだビル群は、風呂場のタイルに似ている。路地裏などという生易しいものではない。驚くほど整然と並べられたビルとビルの間の隙間には、おりのような埃まみれの闇が、いつのものだか分からない雨に濡れ、カビを生やしたまま放置されている。すべての裏口という裏口、窓という窓は手を伸ばせば開けられる位置にあり、住民たちは縦横無尽に行き来をする。

 マタタビ横丁に踏み入るには、一度表通りに面した建物から入るしかなく、そうした【入口】は必ず番人が絶えず守っていた

 これらの【猫】が最も住みやすいかたちをいったい誰が、いつ定めたのか。古株の【猫】をもってしても知らない謎であった。

 毎日寄せては返す波のように、多くの依頼人たちが【入口】に触れることも叶わず帰っていく。

 駆け出しのうちは、そうした『資格が無い』依頼で経験を積み、迷宮に点在する他の【猫】の縄張りを探りながら、道と縄張りと、『中』に入り込めるグレードの顧客を開拓していく

『顧客』の質も【猫】の質も、迷宮の深くに行くほど洗練されていくシステム。

 それが【猫】の国、マタタビ横丁の大迷宮。

 サルはそんな横丁において、最も深部の【猫】である。

「邪魔するよ」

 真昼間。準備中の看板がかかる酒場の扉を蹴り上げ、静まり返った店内を見渡したサルは、まるで西部劇のガンマンだった。

『サビ』は表通りの酒場『SARABA』を根城としている『猫』である。異国の血を引く軍人崩れ『風』の大男で、体躯に似合わず逃げ足が速いことが良くも悪くも評判だった。

「本当に来やがったぜ」カウンターで半分琥珀色が残ったグラスを抱えながら、サビはキャベツの芯を嫌がる調子で呟いた。

「サルよォ、久々じゃねエか。そんなにその小娘がお気に召したか? 」

「良いケツしてるからね。一目ぼれさア。アンタの軽い尻と違ってな」

「おいおいサルよ。俺は尻軽だって? 」

「アンタの仕事にゃ『ニオイ』が残ってる。この小娘からもプンプンするんだよ。尻軽が積まれた、カネと権力のニオイがさア」

「ハン、そこまで分かってんのかよ。怖いババアだぜ」

「アンタにしちゃあ思い切ったじゃないか。俺にこんな仕事を回すなんてさ」

「面倒事を押し付けて悪かったよ! 」葉巻の灰をグラスの中に落されそうになって、サビは悲鳴を上げた。「俺にゃア荷が重かったんだ! 素直に喋るから勘弁してくれ! アンタに睨まれちゃア商売あがったりだ! 」

 大の男が小さな女に怯えている。戦々恐々として、シャムはサルの後ろで立ち尽くしていた。

pitchピッチンとこが依頼人だよ。とっととそっちに行ってくれ! 」サビは心底嫌そうに手をひらひらさせた。

「……pitch投球? 」

 シャムは聞き返す。サルは唇の端を上げ、ふいごのように煙を吹いて言った。

piccioneピッチョーネ……『鳩の館』のことさ」

「娼館じゃないですか! 」

 サビが、憐れむ目でシャムを見つめた。

「何をいまさら。『鳩の館ピッチョーネ』は女王様のお城だよ」


 遅めの昼食は横丁のはずれ、オフィス街に繋がる十字路にあるカフェで、いろいろな意味で薄いサンドイッチとコーヒーだった。テーブルの向かいに座すサルはパンツに包まれた脚を組み、『ブレンド』と名のついた泥水に砂糖をぶちこんだものを煙草をさかなに啜っている。

 通行人はまばらで、味も良くない店なのに、店内は八割ほども埋まっていた。東向きの窓際ボックス席からは、昼間の『横丁』の閑散とした姿がよく見える。食後の泥水を大量のミルクでごまかし口に運びながら外を見ると、店の前を横切ったゴミ収集車に轢かれそうになりながら新聞売りらしき少年が道路を横断してきてカフェの大きな窓を叩いた。サルが右の眉毛を上げると、すぐにドアベルが鳴る。

 少年は、大きな肩掛け鞄と売れ残りの新聞を持っていなければ、乞食か煙突掃除人に見えた。薄汚れた顔が笑い、明るい青い目がシャムをちらりと見る。

「やあ、サル」

 サルは顎で向かいの席を示したので、シャムは慌てて体を退けた。シャムの尻でぬくもった場所を、少年が陣取る。テーブルに前のめりに頬杖をついた少年は『タイガー』と名乗った。

「『孤児連合チルドレン』の営業係だよ。なんだいアンタ。頼んだ仕事は昨日で終わったろ」

「よろしくシャム。いやア、それがね。サルのおばさまの耳に入れておきたいことがあってね」

「どうしてわざわざ接触する? 」

「この子に関することだからさ」

 タイガーはシャムに向かって、空中でピアノを弾くような仕草をしながら悪戯っぽく笑った。肩掛け鞄から、なんと高価なノートパソコンを取り出し、慣れた様子でサルに画面を見せる。ちらりと何かの書類データのようなものが見えた。

「ここでする話じゃないね」画面を一瞥して彼女は立ち上がった。


 ◇


 サルの事務所に戻るや、タイガーは待ちきれないとばかりにパソコン画面を開いた。

「結論から言うと、ララーナ・ドーレルって婦警は警察学校を卒業していない」

 突然出てきた姉の名前に、シャムは瞠目どうもくした。

「彼女は交番勤務だったのに警官としての正しいプロセスを踏んでないんだ。それどころか、見てよこれ。戸籍の紙の色が緑だろ」

「緑だと何かあるんですか? 」

「ララーナ・ドーレルは『緑紙グリーンシート』、つまり移民者としてこの国の国民として認められていない。そんな人が警察官になれると思う? 」

「そんな。まさか」

「ちなみに続柄はなし。両親は死亡。兄弟姉妹はいないことになってる」

「それは……私の戸籍までは取れなかったからで」

 シャムは小さくなって目を逸らした。

「じゃあ、あんたの姉ちゃん戸籍売買したのか。豪気だなあ! 」

「……無知だったので」


 戸籍売買は当然違法である。服役するのはまだいい。その後、貧困と内乱の嵐の祖国へ戻されたとして、生きる術はない。

 姉は知っていたのだろうか、とシャムは思う。きっと知っていて戸籍売買に手を出したのだろう。幼い孤児が姉妹で生き延びるためには、どちらかがそうするしかなかった。


「タイガー、ずいぶんなネタを掴んだもんだな」

「ふふん。うちはご存じ腕がいいの。弟たちも頑張ってくれたし報酬は弾んでくれよ? 」

「ククッ……営業上手だな。あんまり危ない道を渡るんじゃねえぞ」

「危ない道を行かないためにクラッカーになったのサ。じゃあね! かっこいいゴーグルのお姉ちゃん! 『幸福May theとともにhappinessあらんbe with ことを!you!』」


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