イマジナリー・フレンドに、もう会えない

伴美砂都

イマジナリー・フレンドに、もう会えない

 経血を吸ったナプキンはずっしりと重かった。裏側に触れてみるとほんのりと温かい。レオパレスのトイレは寒くて手も足も外側はこんなにも冷え切っている。なのにひとの内臓というのはこういうふうに温かいものなのだろうか。下腹部に鈍痛が走り、ぬるりとした感触と同時に血の塊が便器に落ちた。

 生理は二日目が重いというのが通説だけれどわたしは五日目がいちばん多い。というか、そもそも何日とかの前に一週間前から体調もメンタルも手負いの熊のように最悪なんだけど。手負いの熊に会ったことはないけれど小説の『羆嵐』ならむかし読んだ。不毛な土地に住む貧しいひとたちが容赦なく熊に食い殺される話で、ジャーキーを食べながら読んでいたら吐き気を催して途中でやめてしまった。だから最終的に熊はどうなったのか、知らない。

 いま、安いお給料をすり減らすようにして暮らしているわたしたちは、物質でいえばいちばん豊かな時代に生きている。だったら熊に腹を裂かれて死んだ妊婦はわたしを羨むだろうか。可能性として。まだ、可能性として。ピルを飲んでいれば生理痛も過出血も全部なくなると思っていたのに、薬価が高いだけ損しかしていないような気がする。


 もうすぐ、生理がおわれば彼がやってくる。彼はしかし実在しない。想像上の人物、つまりはイマジナリー・フレンド。フレンドというのは、わたしと彼は恋人同士ではない、という設定だからで、生理がおわるころにやってくるというのは、ふたりの関係性が身体の関係を含む、という設定だからだ。イマジナリー・セックス・フレンドとでもいうべきか。精神科に行けばそれなりの診断名がつくのだろう。けれどわたしは今のところ病院へかかろうとは思っていない。イマジナリー・フレンドの存在はわたしの生活に何の害ももたらさないし、実際問題、これ以上継続的に病院に行くほどの金銭的余裕は無い。イマジナリー・フレンドは避妊しない。ホルモン剤を飲んでいたら、想像上でも妊娠はしないみたいだった。たぶん、今のところ。



 イマジナリー・フレンドの名前は祥平しょうへいという。いかにも実在しそうな名前だ。ショウの字がちょっと書き間違えそうなところも。

 彼に出会った飲み会は大人数すぎてなにがなんだかわからなかった。彼がわたしにしか見えていないということを、開始一時間ぐらいまでは気付かなかった。自己紹介のときから居たような気はするんだけど。いろんな人がいろんなことを好き勝手にしゃべっていてすごくうるさかったので、いつ彼がはっきりと形を成したのか、正確には憶えていない。



 祥平は予想通り生理がおわって二日後に現れた。予想通りというかわたしの想像でしかないんだから、想像したとおりの日程で現れて然るべきなんだけれど。祥平には合鍵を渡してある。という設定だ。だから彼は好きなときにわたしの部屋に来て、好きなときに帰って行く。


 「聡美さとみ、愛してるよ」

 「……付き合ってないのに?」

 「え、そんなん気にするの?」

 「別に、いいんだけど」

 「聡美のそういうとこ好き、俺」


 じゃあね、と言ってイマジナリー・フレンドはあとかたもなく消えた。精液と甘ったるい香水の匂いだけが残る。こんな香りの香水を恥ずかしげもなくつける男。イマジナリー・フレンドはわたしの欲望のあらわれだけれど、だからこそ欲望を具現化し続けるには精神力が足りないときもあるのだ。身体の欲望を満たせるだけ、まだ想像力豊かだろう。





 出勤すると控室で契約社員の亜耶ちゃんがめそめそと泣いていた。めんどくせえ、と叫びたい気持ちを抑えて、どうしたのと尋ねる。


 「……店長、私、もう嫌です、ひどいんです、牧野さん……」


 わざとらしいほど大きくしゃくり上げながら亜耶ちゃんは言う。牧野さんは三か月前に入ったアルバイトの子で、短大卒フリーター。よくよく話を聞いてみると、呼びかけたときにちょっと返事をしなかったとか、いつも自分に対する態度だけが冷たいとか、いつも自分の作った棚をわざわざ整理し直しに行くとか、いやそれって被害妄想じゃないか?って喉元まで出かかって思いとどまる。亜耶ちゃんが前にいた店舗でも似たようなことがあって、うっかりそう言った正社員はパワハラで本社に訴えられて辞めさせられた。という噂。

 だって、とでも、を繰り返して悲劇に浸る亜耶ちゃんを上辺だけの言葉で慰めているうちに、店舗のほうから噂の牧野さんが顔を出した。


 「ラッピングおねがいしまぁす」


 店に出るとレジには長蛇の列ができていた。ラッピングどころの騒ぎじゃない。牧野さんは入って三か月も経つのにレジ打ちがいっこうに早くならない。きつく注意するとこちらも泣いちゃってしまいには過呼吸になって、翌日「怖くて電車に乗れません」という理由で仕事を休むから、あまり厳しくは言えない。なんでなのか雑貨屋店員ってパニ症持ちが多いのよねぇ、と言った系列店舗の同期はもうとっくに結婚して仕事を辞めている。

 ウサギの形の時計に必死で梱包材を巻いていると、背後から、すいませぇん、と間延びした声。


 「あの、打ち間違えちゃったんですけど、どうしたらいいですか?」


 どうしたらいいですかじゃねぇよ。待っている客の顔にもさすがにいら立ちが浮かぶのを見てとって、申し訳ございません、と言いながら急いでレジの戻し処理をする。


 「えっと、牧野さん、ラッピングの続きお願いしていい?」

 「……あたし、こういう形のもの、包んだことないので……どうしたらいいか、わかりません」


 どいつもこいつも、みんな死ね。



 結局、帰宅したのは深夜だった。明日は週休のはずだったのに、突然入った他店舗からの応援要請で休日出勤になった。十数人入ったはずの同期は、もうほとんど辞めてしまった。薄給なわりに転勤も残業も多いし、店長になれば管理職手当というのでごまかされて残業代なんか付かない。でも、就職活動のとき百社以上もエントリーしてここしか受からなかったこと、ずるずると勤めてもうすぐ三十になるのに何の資格も特技も持っていないことを考えると、転職には踏み切れずにいた。


 深夜営業のスーパーのお惣菜コーナーにもさすがにもう何ひとつ残っていなくて、みじめな気持ちで家に帰ると、煙草の匂いがした。祥平がいる、と思うと、少し気持ちが明るくなる。わたしにはまた、想像力が残されている。


 「聡美、遅かったじゃん、腹減った、俺」

 「ごめん、何もなくて、どっか食べに行く?」

 「「たばたや」かな」


 「たばたや」はうちから一番近いチェーンの居酒屋で、わたしが料理を作らない日に、祥平と行くのはだいたい「たばたや」だ。リーズナブルで深夜までやっていて、なにより徒歩2分で終電を気にすることもないから便利なんだけど、二、三駅電車に乗ればもっとお洒落でいい店がたくさんあるのに祥平はいつも「たばたや」に行こうと言う。


 「いいよ」

 「あ、……ごめん、でも俺、金おろすの忘れた」


 わたしの家は最寄り駅から徒歩十五分もかかるし、コンビニは駅前にしかない。だから家賃は安いんだけど。安い、というか、通勤の便利と経済的な兼ね合いで暮らせるギリギリの物件、という意味で、選ぶ余地はなかった。

 いつだって、わたしたちにはあまりにも選択肢が少ない。選べば何でもつかみ取れるというような言葉ばかり、世の中に溢れて。


 「いいよ、わたし出すし」

 「ごめんな、今度、絶対奢る」

 「いいって」


 今度、が来たことはいままで一度もない。そりゃあそうだ。だってイマジナリー・フレンドの財布はつまり想像上の財布であり、そこから出てくる貨幣の正体は、いかに。まさか葉っぱのお金ってわけじゃあ、ないんだろうけど。

 たぶん、そういう実社会に影響を与えちゃうみたいなのは、妄想だとしても制限されているのかもしれない。統合失調症にかかった人の被害妄想も、むかしだったらただ尾行されてるっていうところを、現代だったらGPSで監視されてるっていうふうに、時代に即して変わったりすると聞いたことがあるし。人間の脳っていうのは自分に都合が良いようでいて、意外と外界に影響されているんだ。


 「たばたや」でレモンサワーを飲みながら祥平は、わたしの仕事の愚痴をふんふんと頷いて聴いてくれた。祥平は28歳、という設定で、しっかりした二重瞼に鼻筋が通っていて、居酒屋の薄暗い照明の下で見ても、控えめに言ってかっこいい。

 そのまま消えてしまうのかなと思ったら、アパートまでついてくる。部屋に上がった祥平は、これあげる、と言って、白いビニール袋をこちらへ寄越した。見た目を裏切るずっしりとした重さのその中には、ガサガサした手触りの石でできた、灰色の熊の置物が入っていた。


 「飲み会のなんか、景品でもらったから」


 イマジナリー熊。しかし持ってみるとずっしりとした重さがふたたび、たしかに感じられた。本当は、ガーデニングなんかに使うものなのではないだろうか。言うまでもなく、わたしの部屋には庭はない。ベランダの日当たりが悪いせいで、せめてと置いたサボテンの鉢も、すぐ枯れて腐った。

 ありがとう、嬉しい、と言うと祥平は、おまえ安上がりな、と言って、形のいい鼻をくしゃっとさせて笑った。





 本社での研修を終えて店舗に戻ると、もうとっくに閉店した後なのに休憩室から数人の笑い声が聞こえてきた。明日も早番で勤務だから本当は直帰したかったけれど、メールチェックだけでも済ませておこうと思ったのだ。

 一年半まえに今の店舗で店長になってから、研修の数がぐっと増えた。人権啓発研修、パワハラ防止研修、メンタルヘルス研修。何の意味があるのだろう。そんなことで時間を取られるぐらいなら、本社人事部の偉い人たちにメンヘラを雇わないための教育を施してほしい。もっとも脳内に男をひとり住まわせているという点では、わたしも立派なメンヘラといって差し支えないのだけれど。


 休憩室の中にいるのは、亜耶ちゃんと牧野さんと、エリア統括の朝倉くんのようだった。

 朝倉くん。心臓がどきんと鳴る。朝倉くんは同期で二人だけ入社した男性社員のうちの一人で、同い年。本社営業部、本社企画管理部を経てエリア統括になった。

 わたしも、入社して最初の所属希望調査では、企画管理部と書いた。本社での面談で役員のジジイに、まあ女の子は最初は店舗勤務だから、と半笑いで言われて、もう八年近く経ってしまったことに気付かないふりをしている。女子社員のほとんどは店舗勤務でボロボロになって辞めていったのに、朝倉くんも、もう一人の男性社員である木村くんも、まだ本社に残っている。


 会社の体制については果てしなくクソだと思うけど、朝倉くん本人はとてもいい人だ。もう一人の木村くんは最初から、どこか周囲を見下したような態度が鼻についたけれど、朝倉くんはそんなことはない。背が高いのに威圧感はないし、短く切られた黒髪も感じが良い。そして、店舗回りのときは必ず、わたしが店頭に出ていなくてもわざわざ事務室や休憩室を覗いて挨拶をしてくれる。わたしの顔を見ると、ぱっと明るい笑顔になるのが印象的だった。

 もしも、いつかイマジナリー・フレンドが、祥平が消えるときが来るとしたら、その理由は、朝倉くんなんじゃないかなとひそかに思っていた。あまり強く思ったらすぐにでも祥平が消えてしまうといけないから、ふだんは頭の隅に追いやっているけど。


 休憩室からは亜耶ちゃんと牧野さんの楽しそうな笑い声が響いていた。あんたら喧嘩してたんじゃないのか、と全力で突っ込みたくなるのを堪えて扉を開けようとしたとき、中からひときわかわい子ぶった亜耶ちゃんの声が聞こえた。


 「朝倉さんって独身なんですかぁ?好きなタイプってどんな人なんですか?」


 あ、聞きたぁい、と亜耶ちゃんに負けず劣らず高く作った牧野さんの声。そんなふうにしたって、朝倉くんはなびかないのに。そうだなぁ、と朝倉くんの落ちついた声がして、有名な若手女優さんの名を笑い混じりに挙げてみせる。困っているのだろうに、無難に対応してみせる人なのだ。


 「しっかり系ですね、え、じゃあ、うちの店長とかどうですかぁ?独身ですよぉ」

 「なにそれ、あ、でも朝倉さん同期なんですよね、店長と」

 「え、そうなんですかぁ?」


 うちの店長、と言った亜耶ちゃんの声が馬鹿にしたような笑いを含んでいる気がして、胃の奥底から怒りがこみ上げた。あんたが牧野さんと二人シフトは嫌だっていうから、わたしがそのぶんどれだけ不規則な勤務をしたか、考えてみろ、と心の中ではっきりと声に出して言う。でも、と、一度唾を飲み込んだ。でも、でも、朝倉くんはなんて言うだろうか。


 「え、高木さん?うーん、悪いけど、微妙、っていうか、ちょっとなあ」


 言った朝倉くんの声も、亜耶ちゃんの声と同じ笑いを孕んでいた。後頭部から爪先まで、さぁっと血の気が引く。


 「えー、そうなんですか?」

 「だって……なんかさ、あんまりテキパキした女の子苦手なんだよな」

 「えーそうなんですか、あーでも、なんかわかります、厳しい?っていうか、ピリピリしてますよね店長、なんか悪口みたいですけど」

 「だよね、ちょっと怖いっていうか、バリバリ働いてすごいとは思いますけどぉ、あんなふうにはなりたくないな、みたいな……」

 「え、失礼!うける」

 「え、同期といるときもそんな感じなんですかぁ?」

 「まあ、普通だけどね……でもさ、そういうのって、出るじゃん、表情とか、行動?……本社で一緒になるときもあるけど、なんか必死っていうかさ、俺、余裕ない女って無理なんだよなあ」


 扉を開けずにそのまま、音を立てないよう静かに通用口まで歩いた。あんたたちのせいでどれだけ、あんたたちのせいで、あんたたちの、くそ、くそが、くそが、くそが、と呪詛のように呟くと涙が出てきた。

 さっき少しでも、祥平が消えることを考えてしまった自分が恨めしかった。メンヘラでも気狂いでもなんでもいい。わたしには、イマジナリー・フレンドしかいないのだから。



 帰宅するといつもの煙草の匂いがして、安心する。部屋の電気はなぜか消えたままだ。ベランダに現れた祥平は、煙草を咥えたまま部屋に入ってきた。途中でキッチンの蛇口をちょっとひねって煙草を消し、電気を点けたわたしに、あのさ、と言う。


 「俺さ、もう来ないわ」

 「……えっ、」


 頭の中が真っ白になった。どうして。祥平が消えることを考えてしまったこと、さっきあんなに反省したのに。


 「えっ……え、どうして、」

 「俺、結婚するから」


 本当は祥平にほかにも女がいるかもしれないとは薄々気付いていた。でも、祥平はわたしといるとき本当にリラックスしていて楽しそうだった。彼女との関係に疲れているから、わたしのところに現れるのだと思っていた。仕事の愚痴も嫌がらずに聞いてくれて、わたしの作ったごはんを美味いと言って食べてくれて、そして、そして。

 もし消えるなら、きれいに消えてほしかった。どうせ消えるなら、楽しい思い出だけを残して。どうして、なんで、をばかみたいに繰り返すわたしの顔を見る、祥平の顔は無表情だった。


 「え、……ねえ、結婚してもさ、来たらいいじゃん、わたし、口固いし、わ、別れろとか、言わないし、」


 え、と言って祥平はやっと表情を変えた。それは、軽蔑したような笑いだった。


 「聡美さ、なんか、全体的に、しんどいんだよな」

 「え、」

 「なんか、重力発してる感じ?」


 じゃあね、と言ってわたしの横をすり抜け玄関に向かおうとした祥平の後頭部をわたしはこのまえ彼がくれた熊の置物で力いっぱい殴りつけた。ぐえ、と間抜けな声を上げて祥平の身体がふらつく。首筋を狙ってもう一撃。防御のためか反撃のためか、こちらへ伸ばそうとした手に、もう一撃。

 イマジナリー熊はイマジナリー・フレンドを物理的に傷つけることができるのだなと思った。気づけばわたしは廊下に倒れ込んだ祥平をめちゃくちゃに殴り続けていた。こんな終わりなら、もう消えてくれ。早く消えてくれ、イマジナリー・フレンド。


 スリッパに液体が染みる感触ではっと我に返る。廊下にはまだ祥平が、祥平の死体が倒れている。横に、血まみれになった熊。足もとに血だまりができていて、まさかと思って下着を下ろすが生理は来ていない。

 なぜ消えないんだろう、と思った。祥平の顔だったあたりに手を触れると血やなにかわからないさまざまな液体がべとりと付いた。むっと血液の臭いがする。ふつうの血の臭いと経血の臭いは少し違う。どちらが正しい血の臭いなのかは、知らない。祥平はイマジナリー・フレンドで、わたしの想像上の男で、だから別れのときには、あとかたもなく消え去るはずなのに。


 どうしたらいいかわからない、と思った。どうしたらいいかわからないと言って困った顔をしていればなんとかなると思っているような女は大嫌いなのに、わたしは、どうしたらいいかわからない、と思いながら佇むしかできなかった。血の染みたスリッパはつめたい。祥平の死体がそこにある。ただひとつ、ただ、ひとつだけ、わかることがある。イマジナリー・フレンドに、もう会えない。


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イマジナリー・フレンドに、もう会えない 伴美砂都 @misatovan

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