幻肢痛
湯煙
幻肢痛
息子が買った週刊誌を手に取った。
コミック雑誌……学生時代も読まなかったな。
読書は好きだったけれど、コミックは読まなかった。だけど、妻と付き合ってからは、彼女が好きなコミックは共有できる話題にちょうどいいと読むようになった。そのうち子ども達も買うようになって、それらも読んだ。
長年過ごしているうちに、いろんな話題もできたから、妻との会話のためにわざわざコミックを読むようなこともなくなった。子ども達も大きくなって、コミック以外の会話をするようになったからね。
手にした週刊誌をめくると、ドキッとした。グラビアページの若い女の子の笑顔に見覚えがあった。不意を突かれたように驚いたのは、大学時代に付き合っていた子の笑顔にとても似ていたのだ。
しっかり見ると、記憶にある彼女とそんなに似ていない。
だけど、笑顔はとても似ている気がした。
そして今感じているのは、別れを切り出されたときの辛かった気持ち。
どうして今更?
別れてからもうすぐ三十五年になる。
今の今まで忘れていたのに、この疼きは何だ?
もしも、もしもだ。
今も彼女を想う気持ちが私の中に残っているとしたら……、台所で包丁の音をたてている妻に申し訳ない。そんな罪悪感がじわじわと滲み出て、胸とも腹とも判らない臓腑を冷たくしていく。
だけど、そんなはずはない。
妻のことがとても大切だし、やっぱり好きだなと結婚して三十年近く経った今でもしばしば感じている。
だからこの時感じたのは、過去の想いを引きずっているんじゃない。
自分にそう言い聞かせ、そして忘れようと思った。
だけど、その夜、夢を見た。
別れを話し合ったあと、彼女を見送った時の夢。
当時住んでいた街。
夜も更けたからと送った駅。
振り向かずに通り過ぎる改札。
階段を上っていくクリーム色のノースリーブワンピース。
……その時も今夜と同じ暑い夜だったのを思い出した。
気持ち悪い。
・・・・・
・・・
・
「ここのところ元気ないわね? 体調でも悪いの?」
暗い何かが胸に押しつけられているような気持ちではいたが、何も考えずにソファに座っていた私に妻が声をかけた。
「いや、大丈夫だよ」
「ねぇ? 今日は映画観に行かない?」
外へ連れ出せば気分を変えられるかもと、妻は気遣ってくれている。
歳をとってほんの少しの枯れが感じられるけど、愛らしい声が耳に心地良い。
「そうだな。たまには行こうか」
そう言うと、妻は早速スマホで上映中の作品と映画館を調べ始めた。
二駅隣で私達夫婦が揃って好きそうな作品が上映されている。
妻が外出するにはそれなりに準備の時間も必要だ。
だが、放映開始時間も都合がいい。
「じゃ、準備するわね」
寝室へ向かう妻を見送り、顔を洗うために風呂場へ向かった。
サスペンス風味のラブロマンス映画を観終わり、作中に出てきたお洒落な食器について話しながら帰路についた。
「あのティーカップ、パール調アクセントの模様がお洒落だったわね。あなたもああいうの好きでしょ?」
私が陶磁器、特にティーカップが好きなのを知っていて話題を振ってくる。
(気を使わせている。……すまないなぁ)
「うん、セットで揃えたいくらいだね。でも、ああいうのは一客で数千円するんだよな。我が家で使うのは勿体ないかも」
「子ども達も大きくなったんだし、簡単に壊したりしないでしょ?」
「そうかぁ、そうだよな。じゃ、今日は買わないにしても、観てから帰ろうか?」
妻がせっかく気を使ってくれているのだ。
気分転換も兼ねて、目の保養でもしていこう。
私達は、駅のそばにある食器屋に寄ることにした。
街路からでも店内の様子がわかる大きなガラス壁。
淡い茶色と白を基調とした店内。
床には絨毯が敷かれ、食器もただ並べるのではなく、ランプの光で映えるように置かれている。
高級感あるコーディネイトがなされていて、いつもなら自宅で使用する陶磁器などのためには寄らないお店。
ドアを開けて店内に入ると、「いらっしゃいませ」と女性の落ち着いた声で迎えられる。
妻とともに、様々なティーカップが、シチュエーションごとに分けられているテーブルに置かれているところまで店内を眺めながら歩く。
「素敵ね」
後ろ手を組ながらテーブルを眺め、楽しそうに妻が私に微笑む。
「そうだねぇ。どれも欲しくなっちゃうね」
「ティーカップでしたら、奥にもございますので宜しければご覧になってください」
店員さんの声。
「ありがとうございます。是非……」
そう言って店員と目を合せると、お互いにピクッと瞼が動いた。夢で見た昔の彼女は、面影をはっきりと残していて三十五年経ったというのにすぐ判った。彼女もすぐに判ったようで、次の言葉に困っているようだった。
二人して固まり、時間が止まったようだった。
「あなた、せっかくだから奥も観ましょうよ」
妻の声で止まった時間が動き出す。
止まっていると感じた時間は一秒? 二秒? たぶんそんなものだ。
もう少し長く感じたけれど、妻の自然な笑顔からほんとは一瞬だっただろうと思う。
一瞬顔を合せただけだけど、気付いた。
本人に会ったというのに、何も感じない自分に気付いた。
目も口も、営業スマイルだろうけど笑顔も歳をとっても昔と変わらないのに、何も感じない。胸が疼くような感覚は何も起きない。
突然の再会に驚いたのは確かだ。
……でもそれだけ。
私は何を悩んでいたんだと可笑しくなった。
そしてすぐ判った。
当時はともかく、今の私は、彼女を失ったのが辛いんじゃない。
失って傷ついた自分を思い出して辛かったんだ。
彼女を失い長い年月を重ねても残っているのは喪失感ではない。
振られたときに感じた痛みだけが残っているんだ。
情け無い男だなと思う。
でも妻への罪悪感を持つことはない。
これでいい。これでこれから普通に生活できる。
そしてやはり、食器を眺めて歩く妻を観ていると気持ちが温かくなる。嬉しくなる。私を気遣ってくれる妻が愛おしい。
「フッ、フフフフ……」
何を悩んでいたのかとつい可笑しくて、笑いがこぼれた。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと思い出し笑いをね」
「なぁにぃ? 教えなさいよぉお」
「たいしたことじゃないんだよ、ほんとに」
勘の鋭い妻の追求から逃げたあと、映画内で観たモノに似たティーカップを見つけて購入することにした。子ども達の分は買わず、私達用に二客だけ。
レジで支払いを済ませる際、女性店員にしっかりと目を合せて微笑む。
彼女も自然に微笑む。
「ありがとうございました。またのご来店を」
包装された商品を受け取り、店の外へ出た。
空いた手で妻の手をしっかりと握り駅を向かう。
「今日も楽しかった。ありがとうな」
「急にどうしたの? 変よ?」
「変? そうかもな。でもいいだろ?」
あの日以来感じていた、自分への気持ち悪さが消えている。
「仕方ないしね」
軽くだけど、握り返してきた妻の手がとにかく心地良かった。
「帰ったら早速、新しいティーカップで紅茶を飲もう。私が美味しいの淹れるからさ」
幻肢痛 湯煙 @jackassbark
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます