役に入る――書きおろし
【第7回】役に入る(前編)
背後にいつもあの子を感じている。
もうひとりの私のこと。
生まれる前から一緒で、月を
ある日の不幸をきっかけにして私たちは引き剥がされてしまったけれど、今も気配を感じている。あの子はずっとそばに居て、私のことをいつも見守ってくれている。
いいでしょう。
一緒に夢を歩みましょう。
私は肉体を差し出します。あなたは魂を差し出すの。
ふたりで一つ、二つでひとり。
二人三脚。
さあ、演劇のお時間がやって参りました。
思う存分、現世を
私の可愛い、可愛い――。
「
「
女優・柏原
怪物が挑むは呪われた映画。現場は
「大丈夫なのですか?」
「は、はい! もうトラブルが起こらないよう機材はすべて再点検しました! 二度と事故は起こりません! 起こしません!」
若いスタッフが直立不動で宣言する。機材トラブルで撮影を一時中断していたが、スタッフの管理ミスがすべての原因だったとは思っていない。現場に予期せぬ事態は付き物だから。ベテランの卯月は慣れた様子で大らかに
「肩の力をお抜きになって。皆さんで楽しく作品を作って参りましょう」
どんな名優でもひとりで名作は生み出せない。主役を、物語を、より美しくより感動的に仕上げるのは最後は係わった人間の結束力に掛かってくる。スタッフをまとめ上げるのも主役の仕事であり、看板の
――そうでしょう。
「本番、行きます! よーい、」
カチンコが音を鳴らし、撮影が始まる。
カメラはまずエキストラの様子を映し、徐々に主役の卯月に焦点を合わせていく。
台詞がなく、主人公の性格を動きだけで見せなければならない大事なシーン。
卯月が動いた、そのとき。
セットを照らしていた照明の電球が次々と音を立てて割れた。
撮影はまたしても中断を余儀なくされた。騒然とするスタッフを遠目に眺めながら、卯月は背後の気配に語りかける。
「何が気に入らないの?」
分身はただ居るだけで、何も応えてはくれなかった。
* * *
その日、
いま放映されているのは『トップ会談』という各界のトップランナー同士を対談させるトークバラエティで、一見接点のなさそうな有名人ふたりの、共鳴できる部分を深堀していく展開が視聴者に受けている割と人気のある番組だ。
今回はF1レーサーと舞台女優という組み合わせだった。
「私、この女優の大ファンなんだ」
そう言ったのは由良だ。特定の芸能人を応援しているとは意外だった。
F1レーサーが話を振った。
『柏原さんはいつ頃から演劇の世界を目指し始めたんですか?』
対面したソファに座る舞台女優がそれに応える。前髪を切り揃えた黒髪ロングのヘアスタイルが特徴的なアジアンビューティーだ。
『将来女優になりたいと明確に思うようになったのは中学校に上がってからです。それまでは妹とおままごとをして遊んでおりました。お互いに役を演じあって、即興で設定を上乗せしていったりして。楽しかったですわ』
『それはすごい! 僕もヒーローごっこをして遊んでいた口でしたからよくわかりますよ。アドリブで役を演じるのって本当に難しいですよね。僕の場合、設定とか無視してただ暴れ回っていただけでしたが。じゃあ、演技は妹さんに鍛えられたってわけですか?』
『ええ。そうです。今も、妹には教えられてばかりで』
『大女優の柏原さんに演技指導ができるだなんて、その妹さん一体何者ですか!?』
『自慢の妹ですわ』
淑やかに、優雅に笑う。その艶やかさには同性であってもどきりとさせられた。
美雨は思わず感嘆の息を吐いた。
「はあ――、柏原卯月って本当に綺麗ですよね。歳を感じさせないっていうか。あれ? そういえばこの人、いま何歳くらいなんですか?」
「三十代前半だったと思うけど。でも、見た目は全然若いわよねえ。スタイルもいいし、憧れちゃう」
そう言ってうっとりしているけれど、由良も
兄の初ノ宮行幸は霊能相談士をしている傍らでアイドル活動を行っており、実際に俳優業もモデル業もこなしていた。今は行幸のマネージャーに収まっているが、由良とて芸能界にデビューしようものなら柏原卯月に並ぶ活躍をしそうである。
それに比べて――、美雨は凹凸のない自身の体を見下ろしてより切実な溜め息をこぼした。同じマネージャーでもこうも違いすぎると
「一度でいいから会ってみたいなあ」
「お会いしたことないんですか? 柏原卯月に」
「残念ながらそういった機会はなかったわ。ギョウコウとね、競演させてみようかって話が一度だけあったんだけど、結局実現しなかった。向こうは本格派の舞台女優。こっちはアイドル路線のエセ俳優。方向性が違うから下手すれば企画倒れの共倒れになりかねないってことで流れちゃったんだ。まあ、そんな気はするわよね」
確かに。ふたりとも良くも悪くもアクが強いから、W主演なんかにしたら互いに持ち味を喰いあっちゃいそうだ。
「でも、もったいないですよね。ふたりが競演するなんてことになったら確実に話題
「私だって叶うなら柏原卯月とお仕事したいわよ! でもさ、ギョウコウのせいで柏原卯月の経歴に傷がつくのは嫌じゃない? こういうトーク番組すら共演は難しいでしょうし。あーあ、ギョウコウが柏原卯月だったらなあ」
「す、すごい極論ですね……」
よっぽど柏原卯月が好きなようだ。由良にもこういうミーハーな一面があるんだと知ってますます好感が持てた。
番組ではゲストの生い立ちが編集VTRで流れ始めた。
柏原卯月には双子の妹・皐月がいた。物心付いたときからふたりのお気に入りの遊びはおままごとだった。どちらも配役が何であろうと懸命にこなし、設定を作り込み、大きな物語にして遊んだ。きちんとオチまでつけて。それが姉妹の役者道の始まりだったという。
中学に進学してからはますます演技にのめり込んでいった。演劇部に所属し、双子は競って主役を奪いあった。互いに互いを高めあえる一番身近なライバルだ。
しかし、中学卒業を間近に控えたある日、悲劇は訪れた。妹の皐月が交通事故に遭い他界したのだ。有名音楽学校から合格通知を受け取った直後のことである。
音楽学校入学後、卯月は皐月の分まで演劇に
VTRが終わり、スタジオに画面が切り替わる。
『妹さん、亡くなられていたんですね……』
F1レーサーが遠慮がちに声を落とすと、柏原卯月は反対に明るい調子で応えた。
『いいえ、妹はまだ生きておりますわ』
『え?』
『確かに妹はずいぶん前に他界致しました。ですが、それは肉体だけ。彼女はずっと私の後ろに居て見守ってくれているのです。今もそう、私にはわかります』
不意に、画面越しにもわかるくらい、スタジオの温度が下がった。
妖しい笑みを浮かべて、柏原卯月が背後を仰ぐ。
『演技に入る直前、ここに居る彼女が私の体に乗り移るのです。一つの器に二つの魂、そして別の誰かに成り済ます。それが女優・柏原卯月の正体です。私たちは一つの体を共有しあって生きてきました。ですからこれからも、ふたりで役を演じて参ります』
あまりの異様な雰囲気に、F1レーサーは完全に圧倒されていた。
『そ、それって、幽霊的な何かですか?』
『そう申し上げております』
『へ、へえ。それが柏原さんの役者としてのモチベーションの源泉なんですね。は、はは、何だかすごい話を聞いちゃったな』
『死を感じることは生の活力を呼び起こし、最高のパフォーマンスを生み出します。地上最速のレーサーでいらっしゃる貴方にもこの感覚はおわかりいただけるのではないでしょうか?』
『……あ。た、確かにそうですね。僕も命懸けでレースに挑んでいますから、その感覚はよくわかります。柏原さんもそうなんですね。命を削ってお芝居をしている。でなければ、あそこまで卓越した演技はできない。いまようやく理解しました。どうやら僕は役者さんをどこかで見くびっていたようです』
『舞台は違えども、表現の世界では死に近しい者ほど最高のプレイヤーになり得ます。私は妹を通じてそのことを学んだのです』
『僕にも身に覚えがありますよ。死を身近に感じた経験が。それが今の僕を作り上げたと思います。でっかい要因です』
次いで、F1レーサーの生い立ちを紹介する編集VTRが流れだした。病弱の母を支えていた高校時代、彼にある転機が訪れる――。
「……」
何やら煙に巻くような形で卯月の話が締めくくられてしまったが、霊感を有する者には無視できない内容だった。
「由良さんは知ってました? 柏原卯月が幽霊を
「初耳。ねえ、美雨ちゃん、さっき彼女の背後に何か視えた?」
双子の妹と言っていたから、もし幽霊の話が本当なら柏原卯月そっくりの幽霊が居たことになる。しかし、
「いいえ、何も。妹さんどころか幽霊らしき影は一つも視えませんでした」
「あ、そうか。美雨ちゃんに視えるのは悪霊か、美雨ちゃんが感応しちゃったやつだけだもんね。もし仮に柏原卯月の言ってることが本当で、妹の霊があの場に居たとしても、ただの背後霊なら美雨ちゃんには視えないか」
人間にとって無害な幽霊を視ることはない。行幸のように何でもかんでも視えるようになったら、道行くすべての人の背後霊が視えてしまうのだろうか。そうなったら大変だ。たぶん外を出歩けなくなってしまう。
ちなみに、由良にも霊感があるにはあるが『霊聴』という幽霊の声を聴く力だけが突出していて、幽霊の姿を視ることはないそうだ。それはそれで大変だと思うのだが、視えない誰かの声なんて空耳くらいにしか思わないから何てことはない、らしい。あの兄にしてこの妹と言うべきか。強い。
美雨は仮説を立ててみた。
「これってあれじゃないですか? 妹さんと交霊? するという態で、集中力を高めているだけなんじゃないですか?」
「柏原卯月の勘違いってこと?」
「本気にしているかどうかはわかりませんけど……」
柏原卯月のは役に入ることへの一つの喩えであって、実際に憑依させているわけではないんじゃないかと思ったのだ。
「本人も言っていたように、死を意識することで最高のパフォーマンスを得られるってたぶん本当なんだと思うんです。命の危険が迫ると周りがスローモーションに見えるのって集中力が高まるからだって言うし」
それに、タイプは違うかもしれないが、美雨も学生時代、柔道の試合がある日はいつも『死んだ祖母が天国から見守ってくれている』と自らを励ましていた。そうやって精神統一を図るのは誰しもよくあることだろう。
「うーん、美雨ちゃんの言うこともわかるんだけどねえ。でも、心配だわ」
「仮に、柏原卯月が本当に幽霊を憑依しているとして、それをこれからも繰り返し行っていったとしたら、本人にどんな悪影響があるんですか?」
「え? ……さあ?」
由良は
「狐憑きの人を祓ってあげたことならあるけれど、イタコには出会ったことがないからわからないわね。それに
幽霊に積極的に係わって幸福になれる人は少ない。恐い目に遭い、痛い目を見ることの方がほとんどだ
そう考えると、美雨も段々と柏原卯月が心配になってきた。
「柏原卯月に直接お会いできないですかね?」
「先方の事務所に何て話す気よ? 心配だから霊視させてほしいって? 門前払いされるに決まってるわ」
この内容を放送していることからして、信じているかどうかは別にしても、事務所は柏原卯月の話を支持していることになる。下手に係わろうものなら売名行為と受け取られかねず、反発を招く恐れがあった。
「現場に先回りするとか……」
「うーん。マネージャーとしては他事務所と波風立てたくないかなあ。こっちはお抱えタレントがギョウコウ一人の弱小事務所だし」
「あ、でも、行幸さんなら持ち前の強引さで撮影現場とかにも我が物顔で入っていけそうじゃないですか? 向こうの事務所もお得意の口八丁で丸め込めば何とか」
そんなことを口にしていると、
「僕のことを何だと思っているんだ?」
「ひゃあ!?」
いつの間にか背後に行幸が居た。――びび、びっくりしたあ!
一緒に仕事をするようになって数ヶ月が経過したが、一年前まではいち視聴者としてテレビ越しに見ていた顔である、慣れたつもりでいてもその美貌がいきなり目の前に現れるとやっぱりドキッとしてしまう。性格はともかく、容貌は格好いいのだから。
「お、驚かさないでくださいよ! 一体いつから居たんですか!?」
午前中はオフで、朝から外出していたはずなのに。
行幸は不機嫌そうに舌打ちした。
「この僕の隠しても隠し切れない存在感に気づけないなんて、鈍いにも程がある!」
まるで驚いた美雨の方が悪いと言わんばかりだ。
「明らかに息を殺していたじゃないですか!?」
「明らかにって何だい? 気づいていなかったくせに何が明らかに、だ」
「うぐ……。こ、言葉の綾です! どうせ私を脅かそうとしてこっそり後ろに忍び寄っていたんじゃないんですか!? きっとそう!」
「やれやれ。どうしてそんな子供じみた真似をっ、この僕がっ、ミウ助なんかを相手にっ、しなくちゃならないんだ? 僕の有能さを引き合いに出して己の鈍感さを
「うぐぐぐぐ」
くっそう、腹の立つ! それにミウ助って何!? 拾ってきた犬じゃあるまいし!
美雨がぷんすか怒っている横で、由良は行幸が居たことに初めから気づいていたのか
「ギョウコウは知ってた? 柏原卯月が霊を憑依させてるって話」
「……一応ね。けど、その情報はこの放送で初出のはずだ。事務所が止めていたんだそうだ。まあ、観る限り、さっきミウ助が言ったみたいに視聴者も本気には受け取らないと思うよ。この内容ならね」
かなり
「行幸さんは柏原卯月に会ったことないんですか?」
「ないよ。向こうは本格派女優でこっちはエセ俳優らしいからね。接点がないんじゃ仕方ない」
……一体いつから居たんですか、本当に。
「ギョウコウ、何とかならない?」
由良にじっと見つめられて、行幸は溜め息を吐いた。渋々といった様子で、
「仕事の依頼だよ。霊能相談士としてのね」
「え? 仕事取ってきたの? あ、今日出掛けてたのってその話?」
「まあね。制作会社のイマさんに呼び出された」
「――ああ、前に映画でお世話になった……。え? 仕事って、映画じゃなくて
「そう。イマさんとは仲良くしているが、あの人は霊感には否定的だし、実際よくわからない話だったから断るつもりでいたんだが、今のユラの反応でそれも諦めた」
「それって……」
行幸は
「そこに映っている主演女優を霊視してほしいんだってさ」
*
三十年前に一五〇万部を売り上げた大ヒット小説『貌に紅色』は、映画界では特に不遇のタイトルとして知れ渡っていた。社会現象にもなった同作品は当然の如く映画化が決まり、当時一世を
だがしかし、映画が上映されることはなかった。それどころか完成させることさえできなかった。主演女優が撮影も佳境に入った頃に突然死してしまったのである。過労と睡眠障害が祟って心臓
「でも去年、『貌に紅色』は再び脚光を浴びることになる。ミウ助ももちろん知ってるよね?」
「えーっと、……すみません。私、去年は上京する準備で忙しかったから」
高校に通いながら、上京のための軍資金を貯めるためにいくつもアルバイトを掛け持ちし、平行して自動車免許を取りにいき、さらに就職活動と東京の下見にも精を出した一年だった。ほとんどテレビを観なかったので、その年の芸能事情はあまり詳しくなかった。
「映画化の話が持ち上がったんですよ」
人の良さそうな顔をした制作会社のプロデューサー・
「まあ、企画を通したのは僕ですけどね。結構話題になりました」
ブーム再燃の火付けとなったのは世界の名監督が引退を表明したことに因る。
引退会見の場で監督は、唯一の心残りが『貌に紅色』を完成させられなかったことだと告白した。これに呼応した映画制作プロダクションと配給会社が『貌に紅色』を引退作品にと推したのである。週刊誌やワイドショーにも取り
「作家と出版社が特に喜んでくださいましたね。まあ、無理もありませんが」
三十年越しの映像化に原作者は泣いて喜んだという。中止になった経緯を考えれば
制作陣には当時のスタッフを結集させた。若手だった俳優を作中の中年層役にそのままシフトさせ、そして主演には当代屈指の演技派女優・柏原卯月を起用した。今度は不幸が起こらぬようにと細心の注意を払い、特に出演者の健康を第一に考えて撮影の日程が決められた。
「良くも悪くも注目されてますから、スタッフ一丸となって不祥事のないように心掛けていたんです。それなのに――」
撮影は順調に進んだ。しかし、クランクアップが見えだした辺りから不可解な事故が起こるようになる。相次ぐ機材トラブル、セットの崩壊、競演者の急病、局地的な停電――数え上げれば切りがなく、まるで映画の完成を拒む何者かの意思さえ感じるほどであったという。
「スタッフの間で噂になりました。三十年前に急死した女優の
「でも、イマさんは柏原卯月を視てほしいと頼んできた。そろそろその理由を聞かせてくれないかな?」
今日の午前中、行幸は今田に霊能相談士事務所の近くにある喫茶店に呼び出され、詳しい事情を伏せられたまま懇願されたらしい。
今田は困ったように笑い、足を止めた。
そこは撮影スタジオ内の長い廊下の途中、出演者用の楽屋の前だ。
「僕の口から説明するのはちょっと。正直、僕自身、あまり要領を得ていませんから。なので、本人から直接聞いてください」
表札には『柏原卯月様』と書かれたカードが差し込まれていた。
控え室には卯月とそのマネージャーが揃っていた。
先に入った今田に招き入れられ、まず由良が挨拶をした。
「初めまして、柏原卯月さん。こちら、初ノ宮行幸です。私は彼のマネージャーの初ノ宮由良と申します。よろしくお願いいたします」
名刺はマネージャー同士で交換した。卯月はマネージャーが受け取った名刺を横から覗き込むと、由良の顔をまじまじと見つめた。
「初ノ宮行幸さんと苗字が同じ?」
「はい。彼と私は双子なんです。会社の経営は妹の私が担当しております」
「そう。双子でしたの……。仲がよろしくて素敵ですわね」
卯月の返しに、どうも、と愛想笑いを浮かべ、さっと一歩引き下がった。後に控えている行幸にその場を譲った形で、憧れの大女優を前にしてもファン心理をおくびにも出さなかった。……が、緊張で手先がわずかに震えていたのはご
行幸は由良が空けたスペースに入っていくこともせず、入り口近くで立ち尽くしていた。傍らに居る美雨の背中にそっと手を添えた。
「視えるかい? ミウ助」
美雨も室内には一歩しか入れないでいた。
卯月の背後におぞましい何かが視えていた。
「は、はい。でも、アレ、……何ですか?」
黒く濁った泥のようなものが卯月に覆い被さるようにして
「悪霊だよ。もはや人のカタチを留めていない妄念の塊。なかなか
正直、大女優を前にした緊張感だとか、由良の可愛らしい一面だとか、そんなものに気を配っている余裕はなかった。
アレはまずい。美雨にもわかるほどの邪悪な何かだ。
あんなものを背中に貼り付けてなお平然としている卯月が化け物に見えた。
「ギョウコウ? 美雨ちゃん?」
「何でもないよ。――初めまして、柏原卯月さん。撮影中にお邪魔して申し訳ないね」
「いえ。お呼び立てしたのはこちらですから。ええと、」
卯月はなおも何かに怯えている美雨を不思議そうに見て、
「そちらのお嬢さんは?」
「僕の助手。こんな形でも十九歳だ。一応言っておくと、僕たち三人には霊感があって、それぞれ感知できるものが違う。僕とミウ助にはお宅に取り
美雨もこくこく頷くと、卯月は「悪霊……」と哀しげに呟いた。
「撮影を邪魔する幽霊をなんとかしてほしいってことだけど」
「ええ」
「どうして僕に依頼を?」
「霊能力者ということでしたら業界の中では最も有名でしたから。それに、今の現場の関係者の中に初ノ宮さんを知っている人が
「それがイマさんだったというわけだ」
確認するように窺うと、今田は肩を
「今田さんからはどこまでお聞きになりました?」
「お宅がいつも連れ歩いている幽霊が暴走しているんで原因を突き止めてほしい、みたいなことを言われた。イマさんには以前お世話になったからね、イマさんからの頼みでもなければその場で断っていたところだよ。三十年前に亡くなった女優の霊を
「そんなにおかしな依頼でしょうか?」
「まともな部分が一つもない。それを自覚していないお宅も普通じゃない」
「ギョウコウ、失礼よ!?」
由良の注意を片手で制し、行幸は続ける。
「視えている者からすれば、幽霊を
「けれど、私の背後に悪霊が視えているのでしょう?」
「それが問題なんだ。お宅の場合、手懐けているつもりが暴走したので助けてほしいと言う。それはどっちだ? 本当に言葉どおりの意味なのか、嘘から出たまことだったのか」
取り憑かれた過程を探るのも除霊には必要な手順である。故意か偶然か。いつ、どこで、どうやって取り憑かれたのか。そういった経緯を知ることで除霊の手掛かりにしていく。
手順を誤れば、取り憑かれた人間に危険が及ぶ恐れがある。
卯月が嘘を吐けば、それは卯月の首を絞める結果をもたらすのだ。
「手懐けるだなんて人聞きの悪い。私も彼女も好きで寄り添いあっているのです」
「テレビで観たよ。妹の幽霊だってね」
「ええ。双子でしたの。彼女が亡くなってからもずっと一緒に生きてきました。彼女は魂の存在として。私は彼女を迎え入れる器として。ふたりで一つ。二つでひとり。私たちは共に女優『柏原卯月』を演じてきたのです」
「お宅には視えているのかい? 妹の幽霊が」
「いいえ。ですが、感じます。間違いなくこの子は私の分身」
卯月は背後に皐月が居るものとして、自らの肩に手を遣った。卯月の想像の中ではそこに妹の手が添えられているのだろうが、美雨には邪念の泥に片手を突っ込んでいるようにしか見えない。
「いま撮っている『貌に紅色』はとても素晴らしい映画になるでしょう。しかし、何が気に入らないのかこの子は撮影の邪魔をするのです。私にはわかります。この子がしでかしていることくらい」
哀しげに目を細めた。
「私の撮影は、上手く行けば今日中にオールアップします。しかし、だからこそ、何かが起こりそうで恐いのです。今田さんも口にはしませんが、スケジュール通りにクランクアップを迎えられるかどうか気が気でないご様子でした」
「い、いやあ、あはは。そりゃ僕にも立場ってものがあるからね」
今田が今朝、突然訊ねてきたのは、卯月の頼みということもあるが、スケジュールの都合上ぎりぎりだった為でもあるらしい。本人は幽霊を信じていないのに。きっと
「今日の撮影を乗り切れればきっと映画は完成します。お願いです。撮影中だけでいいんです。どうかこの子の暴走を抑えておいてください」
「……抑えるのはいいとして、僕は最終的にはそいつを除霊するつもりだよ。それでもいいのかい?」
卯月の妹をこの世から祓うという意味だ。
卯月は静かに首を横に振った。
「普段は大人しい良い子なんです。決して
皐月の霊を憑依させることで『柏原卯月』は演技派女優として活躍できている。彼女を成仏させるということは『柏原卯月』を殺すことと同義で、本人を含めファンや関係者もそんな結末は望んでいない。
「あの、できれば穏便に……」
卯月のマネージャーが重ねて釘を刺す。
行幸は、はあ、と嘆息した。「知ったことじゃないんだけどさ」どことなく
「この先もそうやって生きていくつもりかい?」
卯月は叩かれたような顔で行幸を見た。
そうか、と美雨は感じ入った。幽霊を憑依させる遣り方は人体に無害であるとは到底言えない。卯月がいくら妹の霊を庇ったところで蝕まれている事実は変えようがなく、他人には興味が薄い行幸であっても言わずにいられなかったようだ。
「……この子が居たから今の私――、いえ、今の『柏原卯月』があるのです。これからもそれは変わりません」
「筋金入りだね。ま、お宅が決めたことだ。好きにすればいいよ」
わずかな静寂の後、行幸は言った。
「引き受けよう、この依頼。お宅の大事な分身を祓うことなく、見事トラブルを解決してみせようじゃないか」
【次回更新は、2019年7月18日(木)予定!】
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