鎖を断つ――第1巻収録

【第3回】鎖を断つ(前編)


 県境の峠道である。交通量は少ないが、近くに採石場があるため大型トラックが頻繁に行き来している。日が傾くとさらに車の数は減り、外灯もなく山頂には展望台のようなロケーションも無いので夜のドライブには向かず、地元の走り屋ですらやって来ない。

 不人気の理由にはもう一つ、見通しの悪いカーブが多いことが挙げられる。特に採石場から町とは逆方向の、下りに差し掛かった最初のカーブはえげつなく急であった。通い慣れた者でさえ、警戒していてもそのカーブに差し掛かると突然道が消えたように感じてしまう。初めてならばなおのことハンドル操作が難しい。

 必然として、事故が起こりやすい。

 この急カーブでは過去五回も死傷者を出す事故が発生している。ガードレールを突き破った先は断崖絶壁で致死率が非常に高かった。事故防止策として注意喚起の看板やガードレールに取り付けられる視線誘導標デリニエーターが増設されたが、リスク回避にさほどの効果は得られなかった。

 どんなに安全対策を敷いたところで意味がない。運転の巧拙や見通しのしが直接事故に結びついているわけではないからだ。顧みれば、技量も天候も時間帯も、それらすべて事故原因に後付けされた条件でしかなく、ガードレールすれすれまで引き込まれた決定打は別にある。

 実際に、からくも事故をまぬかれたドライバーは語る──あのカーブには魔物がんでいる、と。

 最初、見間違いかと思ったという。しかし、接近するに従い、それが髪の長い女性であることに気づいた。カーブ手前の公道の真ん中で立ち尽くし、まるで行く手を阻むように両手を広げている。スピードを緩めようとブレーキに足を掛けるが、石をませたみたいに固定されて踏み込めない。アクセルをベタ踏みしたかのようにエンジンが唸りを上げた。車はどんどん加速していき、女に向かって突進していく。

 轢いたと思ったその瞬間、女が車体をすり抜けて中に入ってきた。

 感覚でわかった。後部座席。運転席の真後ろに、息遣い。


 とまって


 ブレーキは踏めず。目前に迫るガードレール。

 ドライバーは悲鳴を上げて目をつぶった。その瞬間、それまでまったく踏み込めなかったブレーキが底まで沈み、地面にタイヤ痕を焼き付けて停車した。ガードレールに接触したものの、フロントバンパーをへこませた程度で済んだのは単なる偶然であり、ブレーキを踏み込むタイミングが一瞬でも遅かったら間違いなく崖下に転落していたはずである。当然の如く、後部座席には誰も乗っていなかった。

 幽霊の仕業に違いない──助かったドライバーはそう断言した。


      *   *   *


 熱気に包まれた東京ドームに歓声がとどろいた。

『アンコールありがとう! 次が正真正銘最後の曲です! みんなーっ! 最後まで全力でついて来てーっ! いっくよーっ!』

 光り輝くステージでは、ひとりの少女が照明の灯りに負けないくらい全身を発光させている。それは飛び散る汗か、彼女の中からほとばしるオーラが見せた光なのか定かでないが、舞台の下から見上げる美雨にはまぶしすぎた。東京ドームを超満員にする歌って踊れるアーティストになるという夢を叶えた周防つばさは、往年の歌姫『小倉秋葉』をほう彿ふつとさせる活躍ぶりでスター街道を瞬く間に駆け上がっていった。

 ──おめでとう! よかったですね、つばさちゃん!

 専属マネージャーとしてこれ以上の喜びはなかった。ここまで来るのに大変な苦労があったけれど、振り返れば二人三脚で歩んできたこの長い道のりも今は花道にしか思えない。自分たちが選んできたものに何一つ間違いはなかったのだと胸を張れた。

 連れてきてくれたつばさには感謝しかない。

 支えてくれた若松や猪熊社長にもどうやってこの恩義を返したらいいだろうか。

 幸せすぎて涙があふれた。

「あれ?」

 ふっ、と辺りが暗くなる。アリーナの最前席に居たはずなのに、椅子は撤去され、ステージもすでに解体されていた。だだっ広いだけの空間にぽつんとひとり立ち尽くす。

 向こうにつばさの姿が見えた。嬉しくなって手を振ると、つばさは背中を向けた。

「あ、あれれ?」

 若松が現れてつばさの背中を押して歩き出す。その後ろを猪熊社長が追随していく。どこに居たのか会場に居たファンの人たちもぞろぞろと移動し始めて、いつの間にか仕切りに挟まれた美雨を残して暗闇の向こうへ行ってしまう。

「待って!? 待ってください! 皆さん!」

 手を伸ばしても誰も美雨を振り返らない。つばさも若松も社長も誰も彼も見えなくなって、美雨ひとりだけが取り残された。

「置いて行かないでください! 私も連れていって! 誰かぁーっ!」

 声すら遠くに吸い込まれていく。

 美雨の体も足許から徐々に暗闇に吞み込まれていき、やがて──。


「ぎぃやああああああああっ!」

 夢である。

 芋虫よろしく頭まですっぽり寝袋に納まった小路美雨が、体をくの字に起こして目を覚ました。それを見ていた行幸のマネージャーが感心したように「へえ」と息を漏らした。両手足が完全に収納された状態ですんなり上半身を起こしたということは、腹筋をかなり鍛えているあかしである。チビで泣き虫の美雨の意外性に驚きを隠せない。

「は、れ? 夢?」

「おはよう。よく眠れた? ……あ、ごめん。とても快眠とは言えなかったみたいね」

 鼻水まで垂らしてべそをかく寝顔はそうそう見られるものじゃない。引きつった顔をしたマネージャーを、美雨は不思議そうに見上げた。

「……?」

「ん? まだけてる? もしもーし? もしかして今の状況がわかってない?」

 右に左に首を傾げた。──つばさちゃんが居ない? ていうか、ここどこだっけ?

 応接ブースの床で寝ていたことはわかったが、ライフルの事務所ではなかった。知らないオフィスだ。けれど、見覚えがあるような……。

「はいはい、寝袋から出て出て。眠気覚ましにコーヒーれたから飲んで飲んで。あ、砂糖とミルクはセルフでね」

 ソファに座り、菓子や飲み物で散らかったテーブルの上をあさって砂糖と粉ミルクを発掘しコーヒーに混ぜる。一口飲んで息を吐き、ようやく対面に座る人の顔を認識した。

「……」

「目、覚めた?」

「はい。おかげさまで。何もかも、全部。思い、出し、まし、たああああ……」

 昨日の記憶がよみがえるに従い、涙もハラハラとこぼれていく。幽霊に襲われ、転職させられ、家にも帰れず強制的に寝袋生活が始まったのである。これが泣かずにいられるか。

 鼻を思い切りかんだらちょっとだけスッキリした。

さん、おはようございます」

「うん。おはよう。美雨ちゃん、今日からよろしくね」

 初ノ宮行幸の妹にして専属マネージャーの由良は笑顔で頷いた。


          *


 昨日のことである。美雨が『霊能相談士事務所』の従業員にされてぼうぜんしつしていると、目の前に名刺を差し出された。

「私の名刺。一応、ここでは副社長ね。社長はギョウコウ。まあ、あいつはお飾りだから実質経営の決定権は私が持ってるわ。事情も事情なので貴女あなたを雇うのに反対はしないけど、相応の仕事はしてもらうからそのつもりでいてね」

 名刺には『初ノ宮由良』と書かれていて、思わず首をひねった。美雨のような反応に慣れているのか「双子の兄妹きようだいなのよ」とすぐさま説明してくれた。なるほど。美男美女の取り合わせで、遠慮のない口喧嘩ができるのは血の繫がりがあったからなのか。

 ところで、『行幸』を「ユキユキ」と読むのだから『由良』は当然「ヨシヨシ」と読むのだろうと思いそれを口にしたら、

「うふふ。ユラ、よ。また同じことを口にしたら即刻クビにするから」

 美人の愛想笑いがこれほど恐ろしいものとは知らなかった。

「あの、……お仕事ってどんなことをするんですか?」

「場合によりけりだけど。私のサポートとか、雑務全般かしらね。他に質問は?」

「しばらくここで暮らせって。しばらくっていつまでですか?」

 由良は頰に手を当てて「そうねえ」と思案して、

「……しばらくはしばらくよ。貴女を守ってくれていた御守りが見つかればすぐにでも解放してあげられるんだけど」

 やはりそれか。いまいち釈然としないものがある。

 ちなみに、財布を失くしたことは由良から駅係員に届け出てもらった。見つかり次第この事務所に連絡があるというが、正直なところいつになるかはわからない。

「でもま、ここにはキッチンはあるし、バスもシャワーもトイレも好きに使っていいから不自由しないと思うわ。必要な物があれば言って。買ってくるから」

「あ、あの、できれば一旦おうちに帰りたいんですけど。……ええっと、ほら、着替えとかありますし。他にもいろいろ」

 洋服や下着はもちろんのこと、肌にあった洗顔料やファンデーションなどはやはり自前の物を使いたい。新しく買うのももったいないし。あと、数日部屋を空けるなら冷蔵庫の中身も片づけておきたかった。それと通帳とか印鑑とか貴重品なんかももろもろ気になる。

「駄目よ。どうしてもこれじゃなきゃいけないっていうのがお家にあるなら、私が代わりに取ってきてあげるから。貴女はここから出ては駄目」

 取り付く島もない。おまけに、変に勘繰られてしまい家の鍵も没収された。

 テレビ局に置いてきてしまったかばんは由良がきちんと回収してきてくれたので、免許証やキャッシュカードなどは手許にある。一応、当面はこれでなんとかしのげるだろうけれど。

 でも、やっぱり落ち着かない。

 由良は美雨が使う分の日用品を買いに出掛け、行幸も日課があると言って事務所の奥の部屋に籠もってしまった。図らずもひとりきりになる。

 抜け出すなら今がチャンスだ。

 ここからアパートまで往復で二時間強。大家さんを説得して鍵を開けてもらって、荷物の整理や部屋の掃除を大急ぎでこなしたとしても、少なくとも三時間は掛かってしまうだろう。バレずに帰ってくるのは不可能に近い。

 ──でもまあ、一回怒られるだけなんだし、それでもいっか。

「ていうか、どうして私が怒られなくちゃいけないの? 理不尽!」

 御守りを失くしたせいで幽霊に襲われたと言うが、それはあくまで行幸たちの憶測にすぎない。テレビ局でのことは偶々だったかもしれないし、正直、これまで心霊体験をしたことがないのだからこれからもないような気がする。

 ──御守り一つでおおだよ。どうせ何も起きやしないってば。

 とは思いつつも、事務所のドアを開けるのも恐る恐るといった手つきで、廊下に出てからはスパイよろしく壁を背にしてヤモリのように移動する。通路の先から誰かが今にも現れそうでハラハラする。幽霊よりも人に見つかることを警戒して進んだ。

 割と広いエレベーターに乗り込む。『1』のボタンを押して降下している間、フロア別に表示されたテナント企業の名前を眺めた。七階建てでオフィスビルとしては小規模であるものの、入っているのはどれもテレビCMで見かけるような一流企業ばかりだった。それほどここが商売拠点とするのに丁度いい立地なのか、はたまた初ノ宮行幸の影響力にるものなのか。今の美雨には計り知れないが、どちらにしろ、住む世界が違いすぎる。

 一階に到着すると足早にエレベーターを出る。携帯電話で地図アプリを起動させて駅までの道程をナビゲート設定し、万全の態勢で自動ドアを開けて外に出た。

 一歩踏み出した瞬間に、ぞくり、と全身に悪寒が駆け抜けた。

 向かいのビルの陰。のっぺりとした顔に洞のような瞳が付いた不気味なモノがいた。

 こっちを見ている。

「ひっ……」

 一体だけではなかった。街路樹や電柱の陰、ビルの窓にもそれらしきモノが浮かんで視える。数体、いや、数十体もの不気味な何かがじっと美雨を窺っており、もう一歩進めば取り憑いてやろうという悪意めいた意志を放っている。

 次第に手足がしびれだし、耳がキンキン鳴り始めた。冷や汗が止まらない。呼吸が途切れて息苦しい。まずい。テレビ局のときと同じ状況だ。

 幽霊の思念が今にも入り込んでくる。

「ひゃあ────っ!?」

 突然、背後から首根っこ摑まれてビルの中に引き戻された。

 こんな扱いをするのは一人しかいない。

「この中までは入ってこられないから、君が出てくるのをああして物陰にへばり付いて待ち構えているんだ。あいつらはね、ほぼ無意識にうごめいている。いや、本能と言うべきかな。虫と一緒だ。甘い蜜に惹かれてやってきたようなものだから、いくら追っ払っても性懲りもなく集ってくる。如何に面倒な存在か理解できたかい?」

 案の定、行幸の声だった。まるで美雨が抜け出すのを見越して待機していたかのようなタイミングの良さである。

 美雨は行幸の顔が見られなかった。言いつけを破った上にまたもや助けられたのだ、羞恥と後悔で居た堪れない。

「別に怒ったりしないよ。君がどこで何をしようがそれは君の自由だ。本気で自由を奪うつもりなら無理やりにでも監禁しているよ。だから、次はもう止めない。出て行きたいならどうぞご勝手に」

 見放されたと思った。助けた側の配慮を信用しなかったのだから当然だ。成り行きで助けたに過ぎない美雨にこれ以上構ってやる義理はない。

 おもむろに顎を持たれて、くい、と顔を上向かせられる。行幸の顔が間近に迫る。

「ミウミウも死ねばあいつらみたいになるぜ。そして、それを祓うのは僕なんだ」

 れいな顔がぞっとするような笑みを作った。

「死んで余計な仕事を増やすなよ」

 しかし、その目は少しも笑っていない。

 すでに幽霊になったモノを視るかのように冷たい視線を浴びせてきた。

 寒気がした。

「み、」

 美雨も負けじと喉をふり絞って言い返す。

「ミウミウって呼ばないでください」


          *


 あのとき、行幸を恐いと思った。

 テレビでるのとは大違い。きっとあれが『霊能相談士』としての顔なんだ。

 すっかり冷めてしまったコーヒーをテーブルに置いて、由良を見た。

「ユッキーは、……あ、いえっ!」

「?」

「ゆ、行幸さんはアイドルなのにどうして幽霊を祓ってるんですか? 霊能力者だからっていうんじゃなくて、その、動機というか……。目的とかあるのかなって」

 かねもうけでないことだけは明らかだ。今の人気なら芸能活動をこなしている方が絶対に儲かるし、副業はむしろスケジュール的に足を引っ張るだけだろう。

 そして、世のため人のため、という利他的な動機とも思えなかった。直感だけれども、行幸は幽霊に対して強い執着のようなものを持っている気がするのだ。

 由良はしばらく美雨を値踏みするかのようにじっと見つめ、やがて溜め息とともに視線を外した。

「本人が言ってないことまで言うつもりないけれど、触りくらいなら聞かせてあげる。あいつの目的──ていうか、野望かしらね──は、世界中から一体残らず幽霊を祓うことなのよ。壮大でしょ? 世界中で一日に何万人もの人が死んでるっていうのにね」

「世界……」

 スケールの大きさに啞然とする。まさかそこまで強い感情だったとは。

「霊媒師を志したきっかけならあるにはあるんだけど、今はもう生理的に受け付けないから祓ってるってのが大きいかもね。あいつ、かなりの潔癖症だから。幽霊のことを害虫呼ばわりしてるし、視るのもイヤってくらい嫌ってる。だからこの仕事してるんだって」

「そんな理由ですか……」

 でも、それだけじゃない気がする。ただ嫌いなら避ければいいだけの話なのだ、実際に仕事にまでしてしまうのはよほどの事情があるからだろう。美雨も見るのも嫌なが世界中から消えてくれたらいいなと思うことはあるけれど、駆除する仕事に就いてまで実践しようとは思わない。

「あと、勘違いしているみたいだから言っておくけど、本業と副業の扱いは逆よ。ギョウコウにとって霊媒師の仕事が本業で、芸能活動の方が副業なのよ。アイドルなのに、じゃないのよ。霊媒師のくせにアイドルなんてやってんの。だから、芸能界はいつ辞めてもいい、なんてことも簡単に口にするのよ、アイツは」

「ええっ!?」

 これまたスケールが大きい。今のトップアイドルの地位をいつ捨ててもいいなんて、美雨のような一般人には理解できない思考である。

「ギョウコウは気分屋だし、いい加減だし、ナルシストでどうしようもないほどの自信家だから、信用ならないのもよくわかる。私もいっつも振り回されてるわ」

 由良は苦笑しつつも、確信を持って口にする。

「でも、こと心霊系に関してだけは間違ったことは言わないわ。あいつが事務所から出ない方がいいって言うならそれに従っている限り安全だし、もう外に出てもいいよって許可が下りたならそのときは絶対に大丈夫になってるはずだから。それまでは信じて待っててほしいな」

 昨日美雨が外に出ようとしたことを言っていた。由良のことも裏切ったみたいで心苦しくなる。

 眠気はとうに吹き飛んでいる。朝食にしましょう、と由良が立ち上がりキッチンに向かった。上下ともにラフなトレーナーを着ていた美雨は、そのままの姿で応接ブースから抜け出てよいものか一瞬迷った。

「今は私以外誰もいないわよ。ギョウコウが来るのはお昼過ぎ。他の従業員はしばらく来る予定なし」

 だから構わず出ていらっしゃい、と小さく手招きされる。ならいっか、と寝間着のままオフィスを歩く。ちなみに、着替え一式は昨日のうちに由良が用意したものだ。一応、今日着る分の下着や肌着も買ってきてもらっている。さすがにスーツは着回すつもりだ。

 由良と一緒に朝食作り──と言っても、美雨はほとんど見ているだけだった。キッチンの使い勝手がわからないということもあったが、献立が焼きベーコンとスクランブルエッグを挟んだサンドウィッチだったので手伝うことがあまりなかったのだ。美雨がしたことといえば、レタスを千切って洗ったことくらいである。由良がインスタントのコーンスープを淹れて料理は完成した。

「簡単だけどこれで我慢してね。食材もおいおいそろえておくからさ」

「あ、ありがとうございます」

 応接ブースまで戻らずに、仕事机で頂いた。サンドウィッチはブラックペッパーがピリッと効いていて、甘いコーンスープと合わせるととても美味しかった。

 朝食を済ませ人心地ついたところで、由良が切り出した。

「それじゃあ、今後のお仕事について少し話しておくわね」

「お仕事……」

 いよいよか。

 一体何をやらされるのかと身構えた。

「美雨ちゃんには私の代わりを務めてもらいます。簡単に言うと、ギョウコウのマネージメントをしてもらおうと思ってます」


          *


 昼過ぎに顔を出した行幸は、事務所に入るなり眉を顰めた。

「何だい、アレは? 薄気味悪い」

「ああ、アレ? ギョウコウとお仕事できるとわかって嬉しいみたいよ。尻尾振ってるワンコみたいでしょ」

「犬の方がまだしも上品に見えるよ。尻尾は振っても笑いはしないからね」

 初ノ宮兄妹に「アレ」とか「犬」呼ばわりされても今は気にならなかった。美雨はにやけ顔をどうやって引っ込めたらいいのかわからない。

 夢にまで見た芸能界。そのトップを走るアイドルのマネージャーになるというのだ、どうして興奮せずにいられようか。それに、行幸に付くことは得難い経験である。つばさに対して後ろめたさを感じなくはないけれど、いつかそのキャリアを携えてつばさの元に戻ることができたなら、きっとつばさの支えになれるはず。夢がついえるピンチだったのに、こんな大チャンスに恵まれるなんて。

 ──おっと、いけない、いけない。興奮しすぎるとまた涙が出てきちゃう。

 しかしこれは嬉し泣きだ。さいおううま。災い転じて福となす。『渡し屋』という体質のせいで幽霊に襲われたが、ために行幸に助けられたのだから人生わからないものである。

 ──トップアイドルのマネージャーだなんて、夢みたい……!

 行幸の正面に立って直角に頭を下げた。

「行幸さん! 至らないところもあるかと思いますが、マネージャーとして精一杯やらせて頂きます! これからよろしくお願いします!」

「うん。元気があっていいね。ウジウジされているよりよっぽどいい」

 頭をぐりぐり押さえつけるようにして撫でられた。子供扱いは苦手なのに、今はこの手が何より嬉しい。歓迎されているみたいで。

「私、頑張ります! 何でもやりますよ!」

「ユラ、言質は取ったよ。あとは任せた」

「言質って、アンタね……」

 由良は溜め息をこぼすと、美雨を見つめた。

「さっきも言ったけれど、結構大変よ? 美雨ちゃん耐えられる?」

「はい! 私、アイドルのマネージャーになりたくて田舎から出てきたんです。事務所は変わっちゃったけど、また同じ仕事ができるんですもん。何があっても耐えてみせます! やりますよお、私!」

 おおっ、初ノ宮兄妹は揃って感嘆の声を上げる。「偉い!」「よく言った!」とはやしたてられて、美雨はますますその気になった。

 しかし、続く由良の一言が調子づく美雨に待ったを掛けた。

「あっでも、芸能関係の調整は私がやるからね。美雨ちゃんに任せたいのは本業の方のサポートよ」

「へ? 本業?」

 本業って言ったら、……え? あれ? それって、もしかして……。

 徐々に曇り始める美雨の表情とは対照的に、由良は晴れ晴れとした表情で言った。

「美雨ちゃんが来てくれて本当に助かったわあ! これで私も芸能マネージャーに専念できるもの! 霊媒師の付き人って探偵みたいなものだから一つの仕事が長丁場だし、芸能活動の管理と並行してしていくのってすっごく大変だったのよねー」

 口許がひくついているのを自覚する。霊媒師の付き人? 探偵って何のこと?

「マ、マネージャーというのは……?」

 由良は確かにそう言った。初ノ宮行幸のマネージメントをしてもらうって。

 由良はしたり顔で言った。

「仕事の管理人のことよ。ギョウコウの、『霊能相談士』のスケジュール管理」

「え?」

「管理人は総じてマネージャーと言うのです」

「えええ!?」

 何だそれは。詐欺じゃないか。だって普通、『マネージャー』って聞けば芸能人のマネージャー、もしくは野球部とかの運動部のマネージャーを想像するものでしょう!? 霊媒師のマネージャー? 聞いたこともない!

「話が違います!」

「違わない。そりゃ、やることは違うけど、でもこれもギョウコウの芸能活動のサポートになるのよ。ちょっと幽霊の素性を調べたり、死因を突き止めたり、時には殺人事件に巻き込まれるようなこともあるけれど、芸能界で多忙を極めるギョウコウが少ない時間の中でスムーズに御祓いできるようサポートする簡単なお仕事です」

「全然簡単じゃありません!」

 さらっと物騒な単語を織り交ぜておいて何が簡単なものですか。

「どうしてそんなことしなきゃいけないんですか!?」

「除霊ってのは、幽霊がなぜその場に留まっているのかを知るところから始まるのよ。そして、原因を究明し解決することで霊を成仏させられる。そうねえ、たとえば幽霊が自分を殺した真犯人を見つけてほしいって未練を抱えているとするじゃない? そのときは真犯人を突き止めることでこの世への未練を断ち切ってあげるってわけ。ね? 調査が如何に除霊に必要かわかるでしょ?」

「そんなのマネージャーの仕事じゃないですよーっ。警察の仕事ですよーっ」

 そして美雨が言いたかったのは、どうして自分なのか、ということだ。決定事項であるかのように話を進めないでほしい。

 涙ぐむ美雨の頭を、行幸がぐりぐりぐりぐりと面白がるようにして撫でつけた。

「君にはこれから何かと忙しい僕に代わって、依頼人と話し合ったり、幽霊のバックボーンを調べ上げたりして、除霊のスケジュールを立ててもらうよ。ほら、仕事のオファーを受けて内容を吟味する芸能マネージャーとやることは変わらないだろう?」

 マネージャーというよりも秘書という感じがするのだが。いや、付き人かも。ううん、もはや役職名なんてどうだっていい。

「そんな探偵みたいなことできません! 知識も経験もないのにどうやってやれって言うんですか!?」

「言って何とかなるなら苦労はしないよ。知識も経験も実際にやっていくうちに身に付くものだろう? それが仕事ってもんじゃないか」

 何を当たり前のことを訊くんだ、とあきれたように言う。正論なのがまた腹立たしい。

 美雨に探偵のごとなんてできるわけがない。そんなことをするくらいなら、現場に出ずにオフィス内で事務仕事を押し付けられる方がずっとマシだ。

「そ、そうだ……! そうですよ! 私、ここから出ちゃいけなかったはずですよね!? 外に出たら幽霊に襲われちゃいますもんね! 幽霊の調査なんてできませんよね!?」

 言い訳でもあるけれど実際にそうなのだ。もしこれで外に出られるのであれば、家に帰っちゃいけないことと矛盾する。

 行幸と由良は互いに顔を見合わせて、仕方ないとばかりに肩を竦めた。

「納得してもらった上で教えたかったんだが、まあいっか。そろそろ出る時間だし」

「そうね。習うより慣れろって言うものね。実地で学んでもらった方が説明の手間が省けて助かるわ」

 行幸と由良が美雨の左右の腕をそれぞれ、がしっ、と組んで歩き出す。

「さあ行くよ」

「どこへ!?」

「丁度いま抱えてる仕事が一件あるのよ。今日はその除霊に行くから、美雨ちゃんは見学しててね」

「で、でも、私外には……」

「大丈夫大丈夫」

「すぐにわかる」

 ふっふっふ、と意味深に笑う行幸と由良がかなり恐い。ふたりとも背が高いから両側から腕を組まれると自然と足が床から浮いてしまい、まるで捕獲された宇宙人みたいになってしまうのだ。その惨めさにも泣けてくる。というか、こういうときだけ息がピッタリなのは反則ではなかろうか。

 エレベーターで一階まで降りる。行幸は由良に「車を正面に回して」とだけ告げた。由良は何も言わずそれに従い、エントランスには行幸とふたりきりになる。

 首根っこ摑まれた状態で、入口のガラス扉前に立たされた。

 外──生垣や電信柱の陰に人間でないナニかが蠢いているのが視えた。

「や、やっぱり居る! 居ます! あそこに!」

「昨日はここから一歩外に出ただけで幽霊に襲われかけた。じゃあ今日も元気に行ってみようか!」

「え!? ちょ、ちょっと待ってください!? そんなっ、イヤです!」

 幽霊の死に際したときの怨念が流れ込んでくるあの感覚は、吐き気を催すほどに気持ち悪かった。昨日はすんでのところで行幸に引き戻されたから回避できたが、テレビ局で遭遇したような現象は二度と体験したくない。

 固まる美雨を、行幸は容赦なく後ろから押し出した。

 たたらを踏むようにしてオフィスビルから二歩三歩と外へ飛び出した。幽霊に一斉に見られた感覚を覚えてすかさずその場にしゃがみ込む。頭の中に今にも押し込まれてくる思念の数々に身構える。背後から近づく靴音が真横で止まるのを聞いた。

 何も起こらない。

「……?」

 閉じていた目を開けて周囲を見た。先ほどまで居た幽霊が一体残らず消えていた。

 だから言ったろ? と、行幸が得意げに口にする。

「僕がそばにいる限り、奴らが君に近づいてくることはないってさ」

「……は、初めて聞きますけど」

「これで外に出られるってわかっただろう? 他にも方法があるにはあるけど」

「え? そ、それって何ですか?」

「ほら、車が来たよ。礼なら後でいいから、さっさと乗るんだ」

 嚙み合わない会話は、最後にどきりとする一言で締めくくられた。

「ずっと僕のそばに居ろ。いいね?」



【次回更新は、2019年7月4日(木)予定!】

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