【第2回】霊を招く(後編)


          *


 十年前、真夏の心霊特番に登場した十代の除霊師が初ノ宮行幸だった。幽霊が出ると評判の廃屋に赴き、いた炎の前で一心不乱に念仏を唱える美少年の姿は瞬く間にお茶の間をせつけんし、以降毎年夏の風物詩としてテレビに登場し知名度を高めていった。

 そこから俳優業に乗り出し主役を張るようになると、自ら作った主題歌を売り出したり、主演映画では監督をこなしたり、執筆した台本も小説化してミリオンセラーを記録するなどして、次々に成功を収めていった。いつしかテレビの顔にまでなった初ノ宮行幸はしかし、本人と事務所のどちらの意向か、反比例するように心霊系の仕事が減っていった。今でも除霊師の仕事も請け負っているという話だが、こちらはもはや都市伝説級のさんくさうわさばなしに昇華していた。

 でも、だからって人気に火がついたきっかけが消えるわけではない。

 初ノ宮行幸が霊能力者であることに変わりはないのだ。

 そしてこの日、周防つばさの新曲のお披露目となるアイドル紹介番組の収録現場は、しくも初ノ宮行幸がデビューした心霊特番を制作したテレビ局内にあった。嫌でも意識してしまい、美雨は朝から憂鬱だった。

 満員電車では人波にぎゅうぎゅうに揉まれ、降車駅に着いたら今度は財布を落としたことに気づいてまたへこんだ。免許証やキャッシュカードは別のカード入れに入れておいたので難を逃れたが、落とした財布は子供の頃から愛用していた小銭入れで、思い入れが強かった分、突然の別れに打ちのめされた。散々である。運気は完全に美雨を見放していた。

 収録現場に着いてからも重苦しい溜め息を連発し、ただでさえ気の短いつばさをいらつかせた。

「あーんもう! さっきからウジウジウジウジと! やめてよね、収録前にテンション下げるの!」

「ご、ごめんなさい」

 鏡越しに睨みつけられる。つばさは顔のメイクに取り掛かっているので動けずにいた。

「ったくぅ。そんなんじゃこっちの調子まで狂っちゃう。もう出て行って! そのウジウジやめるまで帰ってくんな!」

「うぐぐぐぐ……」

 何も言い返せなかった。言われるままにメイク室から出て行く。

 収録スタジオに続く通路はテレビ局の社員や番組スタッフがせわしなく行き交っていた。そこから離れ、休憩室の横を通り過ぎる。よくテレビで見掛けるタレントやお笑い芸人が当たり前のように座っていて、談笑していた。出番待ちなのか収録が終わったのか。あるいは、打ち合わせ中ということも考えられる。一般人からしたら夢のような世界が目の前に広がっているのに、美雨の気持ちは少しも上向かなかった。

 若松は番組の関係者に挨拶に出向いている。そっちに付いていけばよかったと思った。人と会って緊張していれば少なくともウジウジしなくて済んだはずだから。役割分担上、つばさのそばから離れられなかったからどちらにせよメイク室に居るしかなかったのだけれど、追い出されてしまった今なら役割も何もないのだし。

 ──何やってるんだろう、私。

 初ノ宮行幸じゃなくても今の美雨を見れば誰だって「おまえはこの仕事に向いていない」と言うだろう。現場に入っているというのにいつまで気持ちを切り替えられずにいるんだか。自分が情けなくなる。……やば。また涙が込み上げてきた。なんてこらしようのない人間なんだろうか、私って。

「いけない、いけない。気にしていても仕方ないよね。頑張れ、私。うん!」

 トイレの鏡に言い聞かせて廊下に戻ると、背後からあしもとを何かが駆け抜けていった。

「?」

 子供だった。小学校低学年くらいの男の子で、美雨を振り返っておいでおいでと大きく手を振った。美雨は背後を振り返り、私? と、確認するように自分の顔を指で差す。

 男の子は大きく頷くと再び駆け出した。──どうしよう。追った方がいいのかな。迷子だとは思えないけれど、むやみやたらに駆け回るのを黙って見過ごすわけにいかなかった。きっと他のスタッフさんの迷惑になるし、捕まえて保護者に引き渡すべきだろう。

「待ってください!」

 小走りで男の子を追いかける。男の子は通路を曲がるたびに美雨がついてきていることを確認し、また駆け出す。完全におちょくられているとわかっていたけれど、こうなると自分が責任を持って止めなければ、という使命感が湧いてくる。テレビ局の収録スタジオは入り組んでいて、通路にもケーブルの束や小道具が入った段ボール箱が至るところに置かれていて、とても走りにくかったが、徐々に距離が縮まっていった。あとちょっと。

 それにしても。

 今どきの子役タレントはどの子も礼儀正しくて大人びているという印象があったから、この男の子のような年相応のやんちゃな子がいてくれて少し安心していた。この業界、子供っぽいのが美雨だけだったらどうしようって悩んでもいたから。本当の子供を捕まえて安心した気になるのもどうかと思うけど。

 普段は施錠してある非常口を開けて、吹き抜けの避難用階段を昇っていく。カンカンカンと足音を鳴らして男の子を追うが、男の子は美雨を挑発するように手摺りから顔を覗かせて白い歯を見せた。

「こんなところに勝手に入ったら怒られますよ!」

 男の子がケタケタケタと笑う。美雨を見下ろす目つきが段々と細く薄くなっていく。

 様子がおかしい。

「……え?」

 男の子の首がゆっくりとかしいでいく。首の角度が直角になってもそれは止まらず、やがて顎と額が上下逆さまになった。頭が百八十度回転してもなお男の子の笑い声は止まらない。

 白かった顔がなお白く、まるで背後を透かすほどに血色を失っていく。やがて本当に全身が透けて見えたところでぞくりとおぞった。

「あ、あなた、まさか……」

 男の子は口を利かない代わりに手摺りから身を乗り出し、ぬめり、と滑るようにしてこちらに落下してきた。迫る逆さまの顔には子供らしさの欠片もないいやらしい笑みをたたえていた。

 ──ぶつかる!?

 事ここに至ればそれが人間でないことには頭の片隅では気づいていたが、形が子供であるために「万が一」を捨てきれなかったのはかつて美雨がそういった存在を視たことがなかったせいである。ありえない角度に曲がった首も、背後が透けて見える体も、別の誰かの尺度でならありえるモノかもしれないという可能性が脳裏を過ぎり、それが一瞬の躊躇ためらいをもたらした。受け止めようと手を伸ばしたこともほとんど無意識に近い。

 ヒトならざるモノに少しでも触れたらどうなるかなんて想像さえしていない。

 首根っこを摑まれる。覚えのある感触に思わず「ひゃっ!?」と声を上げた。

 ぐい、と背後に引っ張られ、背中から階段を落ちそうになった体はその瞬間、ふわり、と大きな腕に抱えられた。

 踊り場で乱暴に降ろされて尻餅をつく。

「あいたっ、────あ、」

 見上げれば、そこには初ノ宮行幸の横顔があった。その彫像のような美しさに思わず息をむ。たちまち耳から音が遠ざかり、無音の間、今の状況さえ忘れた。

 なんて、きれい。

「う、うい、の……さ」

「黙ってなよ。気をしっかり持って。僕だけを見ているんだ!」

 行幸は白い顔の男の子とたいしてたたずむ。男の子の顔はいまやのっぺらぼうのように凹凸がない。両目もうろみたいに黒々として光彩を失くしていた。どうもうな笑みを湛え、行幸の後ろにいる美雨を相変わらず見つめている。

「おい、おまえの相手はこの僕だ。無視してんじゃないよ、くそ

 男の子の視線を遮るように一歩横に移動する。美雨からも男の子の姿が長い足にはばまれて見えなくなった。

 何やら大変な事態が起きているらしいということは理解できたが、さてこのまま座り込んでいていいものか若干迷う。

 避難階段の床はステンレス製で、ついた手やお尻からその冷たさを実感したとき、不意になまぬるい風が吹き込んできたのを感じた。

 ──風。……下から?

 視線を下げると、美雨の股の間に中年男性の頭部が転がっていた。

「きゃあ────っ!?」

 美雨の悲鳴に呼応したかのように次々とたくさんの顔が床から生えてきた。背後の壁や頭上の階段からも半透明の人間がすり抜けて現れた。吹き抜けの避難階段はまるで水のないアクアリウム。そこを浮遊するのは魚じみた人の影。電灯の照明が明滅を繰り返して最後には消え、非常灯の明かりがかろうじて海底世界を演出する。何も見えない。なのに、ヒトならざるモノ共の不吉な姿ははっきりと視えていた。

 ──こ、これって、やや、やっぱり幽霊!?

 認識した瞬間、浮遊する幽霊に一斉に視られたと感じた。

 意識が流れ込んでくる。壁際の男は借金苦の果てに自殺した。床をう女は愛していた男に裏切られて殺された。頭上から落ちてきた老婆は孤独死。眼前を浮遊していく青年はげに遭って死亡。屈強そうな大男は病に冒され見る見るうちに干からびていく。集団登校中に交通事故に巻き込まれた児童たち。失くした手首を探す女子高生。バットで殴られ陥没した頭を押さえつける老人。死んだ後も溺れ苦しんでいる水着の少年。くびりと飛び降りははたしてどちらが多いのか。無理心中の罪の所在。過剰防衛への逆恨み。うじが湧く腐乱死体。笑う参列者へのぞうごん。生者に対する怨念。憎悪。嫉妬。嫉妬。嫉妬。


 スタジオ内で駆け回る男の子。

 頭上に落下した照明機材が細い体を粉々に。

 見るも無惨な圧死体。


「……っ!?」

 涙が止まらない。

 死のイメージを幾度も視せられて胸が苦しい。

 息ができない。

 吐き出す分を補えない。喉に蓋ができたみたい。

 とお退く意識の中で幽霊たちの顔を見た。皆、苦痛にあえいでいるのに喜悦に染まった笑みを浮かべていた。美雨を仲間に引き込めると確信した目、目、目。集団の悪意にさらされて極寒のただなかに居るようだ。手足の感覚もなくなって目蓋も次第に落ちていく。

 死、

 ──ダンッ、と床を踏み抜く音が響いた。

「惑わされるな! そんなもんは幻覚だ! 僕を見ろと言っているだろ! 何度も言わせないでくれ!」

「……」

「返事ッ!」

「わ、は、はいっ! ──あ」

 呼吸ができる。すり寄ってきた幽霊たちも行幸の一喝で美雨から瞬時に離れた。切れていた照明も復活し、海底は元の避難階段に戻っていた。

 すぐさま行幸だけを見た。行幸はくぐもった声で念仏らしきものを唱えていた。見据える先はあの男の子の幽霊だ。

 再び床を踏み抜く──二つ、三つ。くつおとを響かせてじやばらいの結界を成す呪法。へんばいわれる歩行呪術の「千鳥足」を省略した形だ。中国の道教のを祖とし、日本に伝来して後はおんみようどう、修験道、神道、神楽、能楽、果ては歌舞伎の六方相撲のみなどにも影響を及ぼした歩法である──もちろんそんなことは露知らない美雨ではあるが、その光景には呆然と目をみはった。

 ……美しい。まるで舞を舞うかのような行幸の所作に状況も忘れて見入ってしまう。激しく踏み鳴らされた足拍子が魔をはじく境界を避難通路いっぱいに広げた。

「消え失せろ! おまえらに現世での居場所なんかない!」

 幽霊が一目散に逃げていく──否、壁の外に弾き飛ばされていく。

 唯一、男の子の幽霊だけが野太い悲鳴を上げながらその場から動けずにいた。行幸が拳を伸ばした先で苦しそうにもがいている。じかに触れているわけでもないのに、男の子を摑んで捕えているようにも見えた。

「大昔、ここのスタジオでは子役の男の子が落下してきた照明器具に押し潰されて死亡した事故があったそうだ。君なんだろ? いくらそこのオチビちゃんが美味そうだからって表に出てきたのは失敗だったね。別にに居たいわけじゃないんだろう? だったら今すぐ消してやる──よっ!」

 摑んでいた何かを引き抜いた。すると、男の子の幽霊は呆然とした様子で徐々に存在感を薄くしていく。

 美雨の脳内に声が響いた。

 ──もっと遊んでいたかった。もっともっと遊んでほしかった。

「……」

 男の子の幽霊は跡形もなく消えていった。先ほどまでの密度が噓のように避難通路からすべての幽霊がいなくなった。

 行幸はゆっくり振り返ると、美雨の手を取って立たせた。

 美雨の全身をじっくりと眺めた。

「あ、あの?」

 居心地悪そうにじろぎすると、行幸はこれ見よがしに溜め息を吐いた。

「御守りを失くしたんだな?」

 驚いた。どうしてそんなことまでわかるんだろう。

 小さい頃に祖母から貰った御守りである。祖母の形見と言ってもいい。神社で貰えるおみくじのように小さく折り畳まれた紙で、のりけしてあるために中は開けず、表紙の梵字以外は何が書かれているのかわからなかった。

 ずっと小銭入れの中に大切に仕舞っていたのに、今朝満員電車で財布ごと落としてしまったのだ。駅係員に連絡しようとも思ったが、財布には御守り以外に持ち主を特定できる物が入っていなかったので、美雨は届け出ることもせずに諦めていた。

「どこで手に入れたのか知らないけれど、幽霊をける体質を持つ君をこれまでずっと守ってきたものだ。かなり強力な護符だったんだろう。それを失くしただって? だろ、君」

「な、な、ばかって、」

「莫迦に莫迦と言って何が悪い。御守りを失くしたせいで幽霊に襲われたんだよ。そのことをしっかりとその足りないオツムに書き込んでおくことだ。いいね?」

 なんという口の悪さ。啞然とする美雨を尻目に、行幸は苛立たしげに頭を搔いた。

「まったく、面倒なことになったもんだ。とりあえずここから出ようか。こんな場所に居るのは性に合わない」

 行幸に急かされて、非常口の近くに居た美雨から先に扉を開けて入る。

「あ、あれ?」

 局の通路に入った途端、視界が回った。足許からすーっと力が抜けていく。

「あれれ?」

 踏ん張りが利かず後ろに倒れ込むと、行幸に片手で支えられた。

「す、すみません。で、でも、何でか力が入らなくて」

「御守りのおかげでこれまで遠ざけられていたものをいきなり浴びせられたんだ。驚きもするし体力も消耗する。腰に力が入らなくなるのも無理はないよ」

「どうしよう。これから収録なのに」

 つばさも今頃美雨がいなくてイライラを募らせていることだろう。──ああ、後でまた怒られるんだろうなあ。年下に怒られるのって結構つらいんだけどなあ。

「収録だって? 命が懸かっているのに悠長なことだ」

「へ?」

 命って?

「君は早退するんだよ。僕から君の事務所に連絡しておいてやるから仕事のことはこれ以上考えるな。また奴らに襲われても知らないぞ」

 行幸の声音は真剣そのもので否やを口にするのは躊躇われた。

「歩けるかい?」

 どうにかして足腰に力を込めるが、体重を預けた行幸の手から背中を離すことができない。行幸は、仕方ない、と言いつつ美雨を無造作に抱え上げた。

「ひゃあ!?」

 お姫様だっこ──ではなく、小脇に荷物を抱えるようにして。

「小さくて軽いから助かるよ。……こら、暴れるんじゃない!」

「だ、だってこれ!? こんなっ、まるで子供扱いみたいにっ!? 嫌です!」

「黙っててくれたら荷物扱いしてやるよ。物はしやべりもしないし暴れもしないからね。優しく丁寧に運んでやるさ」

「……もし喋ったり暴れたりしたら?」

「引き摺る」


 その日、テレビ局内の一部がざわついた。トップアイドルの初ノ宮行幸が女の子を脇に抱えて地下駐車場に下りていくのを数十人の社員が目撃したのである。女の子はぐったりとして微動だにせず、まさか児童誘拐か、もしや自前のダッチワイフか、としばらく下卑た噂が飛び交った。

「ぐふう……」

 女の子がさめざめと泣いていたことには誰一人として気づかなかった。


          *


 都内のオフィス街の一角にあるビルディングの七階──最上階フロアにその事務所はあった。

『初ノ宮霊能相談士事務所』

 芸能事務所も兼用しているが、看板にあるとおり仕事内容は心霊系に比重を置いている。しかし、オフィスには奇抜なインテリアや怪しげな霊感グッズが所狭しと置かれているといったことはなく、じゆうの間取りも一般の会社と変わらなかった。おかしな点と言えば、机の数ややかましく鳴る固定電話の着信音の多さにも係わらず、行幸以外に社員が人っ子ひとり見当たらないということくらいだ。全員現場に出払っているのだろうか。普通、何人かはデスクを置いておくものだと思うけれど。

 応接用のブースは来客を想定していないのか、無駄にごうしやではあるが、テーブルの上には社員が持ち寄ったと思しき菓子や酒類が山のように積んであった。行幸の話では泊まり込んだときの気付け用らしい。

「ウチはどちらかというと依頼人の許へ出向く方が多いんだ。幽霊退治は現場でしかできないからね。依頼人を呼びつけて一緒に行っていたんじゃ時間の無駄だ。だから、ウチに来るのは大抵社員だよ」

 はあ、と気のない返事をする。そんな説明をされてもどう反応していいかわからない。

 しかし、やはり行幸は霊能力者なのだと再確認できた。話しぶりからして、今日美雨を救ったように数々の幽霊退治を過去にも行ってきたようだし、オフィスの雰囲気が通常の芸能事務所と違うのもそのためだろう。

 もっと訊きたいことがあるのだけど、行幸は「後で話す」の一点張り。一度席を外して誰かと電話で話した後は、向かいのソファに座ってひたすらスマホゲームで遊んでいた。

「あの……、事務所に帰っちゃ駄目ですか?」

 スマホから視線を上げずに言う。

「死にたいんだ?」

 恐い……。ヤクザさんの事務所か何かですか、ここは。

 仕方ないので大人しく座っていると、バン、と勢いよく入口の扉が開いた。

「ギョウコウ!」

 入ってきたのは行幸の専属マネージャーである。所属モデルとまがうばかりの美貌を怒らせて行幸の前に立つ。行幸はスマホを放り投げると、やあ、と片手を挙げた。──って、あれってもしかして私の携帯!? え? 何で? いつの間に!? ずっと大きな掌に隠れていて見えていなかったが間違いなく美雨の携帯電話だった。勝手にゲームで遊ばれた。それどころか無造作に放り投げられた。なんてひどい!

「何勝手に打ち合わせドタキャンしてんのよアンタは!? しかも勝手に帰るし! どんだけ探したと思ってんのよバカ!」

「緊急事態だったんだ。仕事なんかより人の生き死にに係わることの方がおおごとだろう?」

「何言って、……誰? その子」

 そのときようやく携帯電話を拾って泣きべそをかく美雨の存在に気づいたマネージャーは、形のいい眉をひそめた。

 深刻な声音でぽつりと呟く。

「この子、『渡し屋』だわ。しかも、かなり強い」

「そのとおりだ。事態がに深刻だったか理解できたかい? ユラにもわかるくらい濃厚な陰気だ、放っておく方が恐い」

「そうね。私もそう思う。外、出歩いたら五分と経たずに大事故を引き起こしそう」

 美雨を見て物騒なことを言い合う美男美女。居た堪れないどころか針のむしろだ。物問いたげに見上げると、行幸がようやく「後で話す」内容を語り始めた。

「君をここに連行したのは他でもない。君はウチらの業界ではトラブルメーカーなんだ。だから、早急に保護する必要があった」

 いや、むしろ捕獲だな、となぜか言い直す。

「君は幽霊を惹き付ける体質の持ち主なんだ」

「幽霊を……惹き付ける?」

「そう。ただ黙っているだけでもそこらを漂っている幽霊を従えてしまう。取り憑いた幽霊はそのときの気まぐれで君から離れることもあるし、場合によっては無関係の人間に襲い掛かることもある。『渡し屋』本来の制御力があればそんなことは起きないんだけど、君は随分特殊でね。言うなれば、『歩く災害発生装置』ってところだね。一匹一匹は何の力も持たない低級の浮遊霊を歩くだけであつめ、別の場所に運んで一斉に解き放ち、あらゆる災害を引き起こしてしまうはた迷惑な存在だ」

 磁石を使った砂鉄集めがイメージとして浮かんだ。小粒でも集まれば重みを増す。

 ──迷惑な存在。私が?

 よくわからないけれど、ショックだった。

「君が、というより『渡し屋』がね。『渡し屋』ってのはその名のとおり渡す者のことだ。何を? もちろん、幽霊を、だよ。そいつ本人に霊感の有無は関係しない。ただ、はらってくれる霊媒師の許へ幽霊を連れていくだけの役割を与えられた天然モノだ。世の中にはそういう人間が多くいてね、不幸体質の人間は大抵が『渡し屋』だったりする。幽霊は『渡し屋』に引き寄せられる習性があって、霊媒師に祓ってもらいたい、早く成仏したい、という願いから自ら取り憑くというんだ。……この理屈、僕は認めていないけどね。奴らにそんな殊勝さがあってたまるものか」

 忌々しげに吐き捨てる。行幸から幽霊に対する並々ならぬ敵意が感じられた。

 あの、と小さく挙手する。

「えっと、『渡し屋』ですっけ? 私、そんなの自覚したことないんですけれど」

 生まれてこの方そういった心霊系の厄介事に巻き込まれたことは皆無だ。幽霊だって今日まで視たことがなかったし、いきなりそんなことを言われても、はいそうですか、と納得できるわけがない。

「まさかとは思うけど、今日視たモノが幽霊だってわかっていない?」

「いえ、さすがにそれは」

 避難階段で視たおびただしいほどの何かがこの世のものでないことだけは理解している。

「あの子供の霊は視える人間に取り憑いて死に誘う類の悪霊だ。周りに浮いていた幽霊どもは君が集めたものだけどね。前に会ったときのことを覚えているかい? レコーディングスタジオで」

 頷く。初ノ宮行幸に素質を否定されたあの日のことだ、忘れられるわけがない。隣で聞いていたマネージャーも「あ、あのときの」と美雨のことを今さらのように思い出していた。

「あのとき、スタジオの機器が一時的に故障しただろ。あれは君が引き摺ってきた幽霊どもの霊気が機器に影響を及ぼしたからなんだ。幽霊と機械ってなぜか相性がいい。心霊写真がいい例だろう。あと、収録した音に霊の声が入り込んだりとか」

「あ、それ、聞いたことあります。レコーディングの最中に変な声が紛れ込むっていう都市伝説」

 幽霊が居ると録音や録画の機器に不具合が生じるというのはよく聞く話だ。害意のない思念体ばかりだったからあの程度で済んだんだ、と行幸は付け加えた。

 マネージャーが口を挟んだ。

「あれってこの子の体質が原因だったのね」

「あれくらいならよくあることさ。この子じゃなくても『渡し屋』が近くに居れば起き得る問題だよ」

「でも、あのときはこの子こんな気配してなかったじゃない。数日の間に『渡し屋』としての能力が高まったってこと?」

「んなわけあるか。元からこうだ。これまでは強力な御守りに守られていたんだよ。なのに今朝、電車の中でその御守りを失くしたんだそうだ。失くしたと気づいたからが抜けたんだろう」

 そして、御守りがないせいで幽霊に襲われたのだとテレビ局でも聞いた。つまり、『渡し屋』であるために心霊体験をしたのは今日で二度目ということになる。

 しかし、美雨には納得いかないことがあった。

「でも私、以前から四六時中御守りを持ち歩いていたわけじゃありません。財布には入れてましたけど、財布を持たずに外出したことだってあるし。そのときは何も起きませんでしたよ?」

「別に肌身離さず持っている必要はないさ。御守りっていうのは氣を充実させるための一種のまじないに過ぎないからね。物を身に付けているか否かは重要じゃない。守られているという意識が重要なんだ」

 美雨は首を傾げた。いまいちピンとこない。

「しかし、君は今日はっきりと御守りを失くしたと認めた。守りを欠いたと自覚した。それで、氣が抜けたんだ。弱気・陰気は霊に付け入られやすいし、ただでさえ『渡し屋』なんだから悪霊にさえまとわれだしたっておかしくない」

 それで今日に限ってあの男の子の霊──人に害す悪霊に襲われてしまったというわけである。なるほど。病は気からということか。

「じゃあ、気を強く持てば大丈夫なんですね?」

 説明をしっかりしやくした上で出した答えを、行幸は「莫迦」の一言で一蹴した。

「ふざけるな。そんなに簡単なら世の坊さんが苦行する意味がなくなる。心が弱いから物に頼らざるを得なかったと何で考えないんだ? これだから素人は」

「ぐう……」

 そんなふうに言わなくたって。本当に素人なんだし。

「君の『渡し屋』としての能力はずば抜けて高い。御守りも相応に霊験あらたかだったに違いないんだ。そこらの寺社で売ってる御守り程度じゃ盾にもならないよ。だからこの事務所に連れてきた。いざというとき君を守れるのは僕だけだからね。わかったかい? 君はいま救命用具もなしに沖を漂流しているようなものなんだ。自覚してほしい」

 放っておけば死ぬよ──そうはっきりと告げられて、ごくりと喉が鳴った。やば。泣きそうだ。

 さてここからが本題、と行幸の口調が軽いものに変わる。

「君、一人暮らし?」

「え? あ、はい」

「なら、しばらくはこの事務所で暮らすことだね。今の仕事も辞めるんだ」

「はあ。──……って、ええっ!? ど、どどど、どうしてそうなるんですか!?」

 一人暮らし? からなぜそんな結論に至るんだ。混乱していると、「実家暮らしじゃないなら誰にも気兼ねすることないなって思っただけだよ」と質問の意図には答えてくれた。住居を移すのと仕事を辞める理由はまた別にあった。

 美雨の『渡し屋』体質は、たとえ外出していなくても、部屋でじっとしているだけでも霊を呼び寄せてしまうものらしい。一人暮らしでその状況は危険極まりなく、せめて駅で落とした御守りが見つかるまでの間は『初ノ宮霊能相談士事務所』で寝泊まりすべきと言うのである。幸いここは、事務所どころかビル全体にも行幸が自ら張った結界で守られているので幽霊が侵入してくることはないという。

「しばらくはこのビルから出るのも控えた方がいい。ってことで、退職しなさい」

「そんなあ……」

 でも、テレビ局内で起きた心霊現象は、あの恐怖は、現実のものとしてはっきりと覚えていた。『渡し屋』だとか難しいことはいまいち信じられないけれど、幽霊に一斉に視られたときの感覚は寒気とともに今も残っている、今後オンボロアパートでひとりきりで夜を越せる自信は正直言ってない。

 ──でも、だからって、こんなことで夢を諦めなくちゃならないなんて……!

 仕事は辞めたくない。今はつばさにとっても大事な時期なんだから。

 何か手はないか──窺うようにして行幸を見つめると、如才なく背中を押してきた。

「猪熊社長には話を通してあるから心配は要らないよ」

 ハッとなる。さっき行幸は美雨の携帯電話からどこかに掛けていなかったか。急いで通話履歴を確認すると、一番上に『猪熊社長』と出た。

『ユッキーとはもう話をつけたよ。小路君には今日付けでそっちの会社に移籍してもらうことになったから。いやあ、非常に残念だが、ユッキーは僕以上に小路君を買ってくれていてね、君もそっちにいた方がいいと思うんだよねえ。それにさ、今後ユッキーが新曲出すたびにミュージックビデオにはウチのアイドルを起用してくれるっていうじゃない? こんないい話断れないよ。ねえ?』

 掛け直したところで遅かった。たとえ添え物でもトップアイドルのミュージックビデオに毎回出演できるのは確かにい話に違いない。美雨とのトレードなのだ、棚からもちもいいところ。タダ同然で手に入れた権利を手放す馬鹿はいない。

『というわけで、そっちで頑張ってね』

 猪熊はすっかり懐柔されていた。

「そ、そこまでやりますか……」

 手段を選ばない行幸の本気に啞然とし、どうあっても逃れられないのだと理解した。

 通話を切って肩を落とす。

 ──社長、喜んでたなあ。

 これでライフルに帰ったりしたら猪熊から一生恨まれそうである。

 会社公認である以上、もう美雨に決定権はない。……自分のことなのに、おかしいね。くちもとは笑っていたが、なぜだろう、目頭が熱いや。

「命が懸かってるんだ。仕事とどっちが大事かなんて考えるまでもないだろう?」

 厚意として受け取るしかなさそうだった。

「というわけで、今日から君はウチの従業員だ。働かざる者食うべからず。生活費くらいは自分で稼いでもらうからそのつもりで。いいね?」

「ふぁい……」

 かくして、小路美雨は『芸能プロダクション・ライフル』から『初ノ宮霊能相談士事務所』へとヘッドハンティング(不幸体質のおかげで)されたのだった。

 あ、そうそう、と行幸が思い出したように口にした。

「君の名前、何だっけ? ──おいおい、何を泣いているんだ? 僕のそばに居られることがそんなに嬉しいのかい? 正直者なんだな、君は!」

 ここでやっていけるのだろうか。

 早くも不安になる美雨だった。


(了)



【次回更新は、2019年7月2日(火)予定!】

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