【第4回】鎖を断つ(後編)


          *


 乗り込んだ車は思いの外可愛らしいフォルムをしており、由良の所有車両と聞いて納得した。運転はそのまま由良が行い、行幸が助手席に、美雨はひとり後部座席に落ち着いた。車内にBGMは流れておらず、車の性能が良いのか走行音も気にならず、静かだった。時折、ウィンカーの点灯音がカチッカチッとリズムをとって静けさをより強調した。どこへ向かっているのか、そして美雨が幽霊に襲われなかった理由について訊きたかったのだが、どう切り出していいかわからない。空気が重いわけじゃなく、静けさを破ることが躊躇われたのだ。

 もしや寝ているのではないかと思うくらい微動だにしなかった行幸の後頭部が、首都高に乗ったところでわずかに揺れた。

「ミウミウ、起きてる?」

「ミウミウはやめてくださいってば」

 気に入っているのだろうか。そのあだで定着するのは勘弁してほしい。とつに出た抗議に、行幸はシート越しに振り向いて満足げに微笑んだ。

「その様子だと特に問題は起こっていないみたいだね。いい傾向だ」

「何のことですか?」

「幽霊を視ていないんだろう? 車の外を眺めていてもさ」

 言われて、意識して窓外を見た。流れる景色の中に異質なモノは映っていない。それまでも変なモノが視えていたら気づいていたはずだ。

「車に乗っていても襲ってくるものなんですか?」

「ケースバイケースだけど、基本的に追いかけっこに意味はないよ。取り憑くってのは磁石みたいに引っ付くものだし、あいつらは乗り物にも取り憑くからね。見境ないんだ」

「でも、行幸さんがそばに居るから近づいてこない……」

「正確には『僕が居ることで君が安心できている』から近寄ってこないだけだ。僕のおかげでもあるが、実際には何もしていない。君が勝手に幽霊を退けている」

「安心できているから……ですか?」

 それはつまり、御守りを失くしたときとは真逆で、氣が充実していることを意味する。行幸が近くに居ることで強気でいられていることが幽霊を遠ざけているらしい。

「幽霊ってのは考えなしに感覚だけで動いているモノだと思っていいよ。それ故に、敏感なんだ。君が少しでも臆病になれば、その弱気に付け入ってくる。だが、氣を強く持ち続ければ幽霊は自らどっかへ行く。今は僕がそばに居て君が不安を覚えていないから、奴らも君には近づけない」

「行幸さんからどれくらい離れたら危険なんですか?」

「距離はあまり関係ないかな。僕がすぐに駆けつけられるとわかっていればたとえ何百メートル離れていても君は不安になったりしないだろう。だが逆に、五メートルくらいしか離れていなくても、たとえば人込みの中だとか上と下とで階が分かれていたりして、君が僕を完全に見失ってしまえば幽霊たちはたちまち襲い掛かってくる」

 なるほど。行幸はまさしく失くした御守り代わりなのである。持ち歩いていなくても〝有る〟とわかっていれば美雨の気持ちが弱気に偏ることはない。だが反対に、もう会えない、二度と返ってこないと諦めてしまうと心に隙間ができてしまう。

「そう。要は気の持ちようだが、精神のコントロールは長年修行した坊さんとかにしかできない。素人で泣き虫の君が幽霊を撥ねつけるほどの強さを身に付けるのは、一朝一夕では不可能だ。なので、しばらく僕から離れるんじゃないよ」

「……ずっと僕のそばに居ろって、そういう意味だったんですね」

 別に勘違いしていたわけじゃないけれど、なぜだか気が抜けた。

「常に僕だけを視界に入れておけばいいんだ、こんなに幸せなこともないだろう?」

「はあ、そうですね」

「何バカなこと言ってんのよ。肝心なことまだ言ってないでしょ?」

 ずっと行幸に説明を任せてきた由良が痺れを切らしたように口を挟んだ。

「ギョウコウのそばに居ないといけないなら、なおさらギョウコウ付きのマネージャーをしなきゃならないじゃない」

 あっ、そっか。美雨が任される仕事は幽霊の調査であり、芸能活動で忙しい行幸の代理である。しかし、行幸と常に一緒に居たのでは代わりを任される意味がない。それならば美雨が由良と替わって芸能マネージャーを務めた方がよっぽど収まりがいい。

「あ、違うからね。誤解しないで。そばに居て幽霊を撥ね退けることができるのは何もギョウコウだけじゃないってことよ」

 首を傾げる。由良はこほんとせきばらいを一つ。

「美雨ちゃんが氣を強く保てるならそばに居るのは誰でもいいのよ。ぶっちゃけ私でもいいし、従業員は他にもいるわ」

 それがビルを出るときに行幸が言った「外に出られる他の方法」なのだろう。行幸に限らず、幽霊を追っ払える霊能力者がそばに居さえすればそれでいいらしい。

「……」

 行幸は反論するでもなくあっさりと正面を向いて頭の位置を戻した。もしや、からかわれていたのだろうか。

「それに、ギョウコウのコントロールを心得ていて、なおかつ芸能界の渡り方を熟知しているのはウチの会社では私しかいないの。正直、ほぼ新人の美雨ちゃんに芸能マネは何かと荷が重いわ。そこで御祓いの仕事ってわけ。特別なスキルを必要としないし、ウチには優秀なエキスパートが他にいるからその人の指示に従ってくれればいい。それだけでずいぶん助かるのよ、私が。だから、……お願いできない?」

 遠慮がちな声を聞いて、思わず疲れた溜め息が出た。異論のあろうはずもない。由良には長年つちかってきたノウハウと人脈があるのに対し、業界自体身を置いて日が浅い美雨では圧倒的に経験が不足している。初ノ宮行幸のマネージャーが務まるかどうかなんて、考えるまでもないのだ。早とちりして浮かれていた自分が恥ずかしい。

 働かざる者食うべからず、と行幸は言った。世話になる以上、仕事を選べる立場にないし、由良の言動を見るにつけ、ずいぶん配慮してくれていることもわかる。これ以上駄々をねるわけにもいかなかった。

 もっと前向きに考えてみよう。ずっとこの生活が続くわけではなさそうだし、いずれ周防つばさのマネージャーに戻れることを信じるならば、美雨のすべきは与えられた仕事をこなしつつ、由良から芸能界における処世術を学ぶことである。つまりこれはチャンスでもあるのだ。

 それに、初ノ宮行幸の私生活に触れられるのも絶対に無駄なことじゃないと思う。

「わかりました。できる限りお手伝いします」

 ──がんばろう。うん!

 気を引き締める。とにかく今は目の前の事柄に集中だ。

「ありがとう。それじゃあ、これから行う除霊について話そうと思うんだけど、いいかしら?」

 美雨への確認だったので、覚悟を決めて頷いた。

「数日前に心霊体験をした女性からの依頼よ。幽霊を視たせいで危うく死にそうになって、それで当初ウチに御祓いを依頼しにきたのだけれども。でも、彼女には特に悪いモノは憑いていなかったの。詳しく話を聞いてみると、どうやら祓うべきは土地らしいということがわかって、早速私たちは調査を開始した」

 依頼を受けるかどうかは行幸の一存で決まるという。今回の場合、発覚した問題が依頼人とは直接の因果関係がなかったので、依頼人不在の仕事となる。つまり、無報酬だ。慈善事業じゃあるまいし、と由良は不満げだったが、いつも行幸が押し切るので嫌々付き合わされているらしい。

「私と、主にゾウさんが調べたことよ」

 ゾウさん? 可愛らしい愛称に思わず反応してしまったが、由良は気にせず進めた。

「山奥の道路でよく事故が起きる急カーブがあるの。過去に五回交通事故が起きていて、そのうち三回は死者が出ている。あとの二回は、ガードレールに車体をぶつけたけれど、運転手も同乗者も軽傷で済んだみたい」

 由良は体験者やその親族にまで直接話を聞いていた。事故の記録は新聞や警察発表から調べられるのだろうけど、まさか当事者を突き止めて聞き込みまでするなんて。探偵みたいなものだと言っていたのもどうやらハッタリではなさそうだ。

「急カーブ手前の車道に、いきなり女性が現れたらしいわ。髪が長くてスカートを穿いていたので女性だと認識したみたい。カーブが続く山道だからさほどスピードは出していなかったんだけど、女性を見つけた途端にブレーキが利かなくなってぐんぐん速度が上がっていったんだって」

 片側は土砂崩れ・落石防止用に斜面をコンクリートで固めた擁壁が迫り、反対側は谷間がはるか底までぐちを開けている。速度を落とせない状況でドライバーがかじを切る方向は道形しかない。車は女性の許へとどんどん引き寄せられていく。速度は八十キロを越え、エンジンはますます唸りを上げて、為すすべもなくハンドルを切る。そしてついに、

「──轢いてしまった。けれど、ぶつかった感触はなくて、代わりに車内に入り込まれた感覚があったらしいわ。そして、後部座席から女性が身を乗り出してきて耳元でささやくの。とまって、って。そしたら、ブレーキが急に利きだして急停車。間一髪、ガードレールに接触しただけで転落の危機を免れたそうよ」

 美雨の喉がごくりと鳴った。仕事の話だと前置きされていても、話す内容は正真正銘の怪談なのである。……困るなあ。夜、トイレに行けなくなったらどうしよう。

 由良の報告は続く。今のはまだほんの触りでしかない。

「助かったもう一組が語った内容もほぼ同様ね。そして、ブレーキの利きが戻らずにガードレールを破って谷底へ落ちてしまった三組のドライバーも、きっと同じモノを視たと推測できる。調べてみてわかったんだけど、死亡したのは全員男性で、助かったドライバーは二組とも女性だったのよ」

 ふうん、と行幸がつまらなそうに鼻を鳴らした。

「運転席に女性が居ればまれるわけだ。じゃあ、その幽霊が現れる条件は?」

「完全にランダムね。天候にも時間にも一貫性はなかった。女性らしき人影は見たけれど、ブレーキが利かなくなったことはないって話す地元の人もいたわ。逆のことを言っている人もいた」

「幽霊に目星は?」

「もちろん見当は付いてるわよ。同じ山で過去に遭難した女性がいたわ。今から二十四年前、当時大学生だったその人は、悪い男に引っ掛かって、ドライブデートの途中に口論になって破局。そのまま山道に置き去りにされた。一週間経っても帰ってこなかったので心配になった家族が捜索願を出し、警察はこれを受理。元カレが自白したことで一斉捜索が決行されたのだけど、行方不明になってから一月が経った頃、山中で遺体となって発見された。女性の死因は外傷性ショック。ヒッチハイクでもしようとしたのかしらね、通り掛かった車に轢き逃げに遭ってそのまま亡くなったそうよ。幽霊が出る場所とは違うけど、運が悪いことに山林の中にまで撥ね飛ばされたせいでずっと発見されなかったんですって。ちなみに、轢き逃げ犯はいまだに捕まっていない」

 行幸は、考えるときの癖なのか、しきりに足を組み替えた。

「……」

「あ、あと、ゾウさんの話だと、助かった女性はどっちにも霊感があったそうよ」

「それだ。そういうことか。これで筋が通る。そして、やっぱり僕は運がいい」

 行幸は後ろを振り返って美雨を見ると、面白がるようにくちのげた。

「よく聞いておくんだ。これが僕の除霊の仕方だよ」

「え? もう始まっているんですか!?」

「うん。僕の除霊はね、起きた事象の背景を調べ、因縁を解明し、繫がりを断つことで果たされるんだ。幽霊をこの世にとどめているくさびを取り除く。順序良く。たとえ面倒臭くても」

 こうやって──、と虚空を摑んで引っ張る仕草をしてみせた。

 つまり、行幸は今、由良の報告を受けて幽霊の背景と因縁を浮き彫りにしているのである。幽霊をこの世に繫ぎとめているモノの正体を突き止めるために。

 行幸が確認するように由良に訊ねた。

「二十四年の間に五回しか事故は起きていないんだな?」

「記録に残るものはね。でも、幽霊の目撃情報は他にもあるわよ。あと、壁やガードレールに接触こそしていないけれど実際にブレーキが利かなくなった事例だってあるし」

「それにしたって少ないな。おそらく、その幽霊は置き去りにした元カレと轢き逃げ犯を恨んではいるが、そこに対してさほど執着していないんだ。そいつの未練は『停まってほしい』だ。そして、轢き逃げ犯はおそらく男だよ」

「どうしてわかるの?」

「男ばかりが死んでいるんだろう? たぶんそれは男だけを狙っているからだよ。じゃあ、女性ドライバーはどうして霊障に遭ってしまったのか。答えは簡単。ふたりとも『渡し屋』だったんだ」

 その単語を聞いた瞬間、美雨の肩が震えた。──幽霊を惹きつける体質。幽霊が現世から祓われたいがために霊能力者の許へと運ばせる便利装置。

「ギョウコウに祓わせるために依頼人の女性を襲ったってこと?」

 由良は意外そうな顔をした。

「幽霊にそんな意識はないから、むしろ依頼人の方が無意識にそう仕向けたんだろう。『渡し屋』は理屈じゃないからね。おかしな因縁を無遠慮に結び付けにやってくる。地元の寺社に御祓いしに行けばいいものを、わざわざ僕のところに来たのはそういうことさ」

『渡し屋』は珍しい存在ではないが、探せば見つかるというほど多くもないそうだ。街中でさえそうなのだ、まして地元民ですら避けて通る山道を行く車の運転席に偶然『渡し屋』が乗っている確率とは一体どれほどのものだろう。女性に限定すればなお低くなり、割合が二十四年間にふたりだけというのも妥当な数値だ、と行幸は話した。

「生前の記憶に引っ張られているのは確実だから、事故を引き起こす動機にうらつらみがないとは思わない。けれど、この幽霊、たとえ元カレと轢き逃げ犯にふくしゆうできたとしても成仏しないだろうね。もはやそういう現象に成っている。未練を晴らすまでは出続けるだろう。──ミウミウ」

「え、あ、はいっ」

「いま聞いたことを踏まえて、この幽霊を成仏させるにはどうしたらいいと思う?」

「え? えっと、……未練を晴らしてあげる、ですか?」

 自信なさげに答えると、「未練とは?」と質問をかぶせてきた。

 行幸の言葉を思い出し、

「……その女性の幽霊が現れたら手前で『停まって』あげる、じゃないでしょうか?」

 そう言って窺うと、行幸はぽんと膝を叩いた。

「うん。それでいこう」

 元々その方針でいこうと決めていたのだろうが、誘導されたとはいえ解決策を提案したていを装った美雨は大きなプレッシャーを感じた。

 車が高速道路を下りた。いよいよ除霊が始まる。

「不安かい?」

「あ、いえ……」

 一瞬口ごもってしまったが、今さら取り繕っても仕方ない。

「はい。正直言って恐いです。でも」

「ま、ユラが運転している限り事故ることはないから大丈夫だよ。それに、さっきも言ったように、今から行く道はまったく交通がないわけじゃないんだ。それなのに過去に五回しか事故が起きてないってのはかなり少ない方だよ。行けば必ず襲われるってわけでもないし、気楽にね」

 行幸が言い、由良もバックミラー越しに目を見て頷いてくれた。言われてみれば確かにそのとおりだ。

 ふたりの頼もしい姿を見て美雨は、ほう、とあんの息を吐いた。


          *


 車は峠道を上っていき、由良の話に出てきた採掘場の看板を通りすぎた。おそらくこの先に怪談の舞台である急カーブがある。

「一旦停めて。車から降りよう」

 行幸がそう言ったとき、眉を顰めたのは由良だった。

「どうしたの? 現場はこの先だけど、まだ歩いていくには遠いわよ?」

 それに、除霊するには車で行かなければならないのだ。その方針で決めたはずではなかったか──そう視線で訴えるが、行幸は由良を無視して停車するやすぐに車から降りた。

「確かめたいことがあるんだ。ユラも降りて。ああ、ミウミウはそのまま乗っていて」

「ミウミウじゃないですったら」

 そして、由良が渋々車から降りると、行幸はすかさず運転席にその身を納めた。完全にだまちを食らった由良は窓を叩き、行幸がエンジンを吹かすと慌てて助手席に乗って怒鳴りつけた。

「どういうつもりよ!?」

 行幸はシートの位置を直してバックミラーまで調節する。本気で運転するつもりでいた。

「ドライバーが男だと狙われるって、そう言ったのアンタじゃない!?」

「だから、狙わせるのさ。出てきたところを捕まえてやる」

 えっ、と声を上げたのは美雨である。では、先ほどの方針決めは何だったのか。行幸は美雨の不安を敏感に感じ取ると、バックミラーを傾けて視線を寄越した。

「ユラが運転していれば大丈夫、とは言った。だって君、自分が出しに使われると聞いたら逃げ出すかもしれないだろう?」

「出し? 出しって、私が!?」

「女の『渡し屋』が居るんだよ。使わない手はない。僕ってやっぱり運がいい」

 急発進。まだシートベルトを締めていない由良が悲鳴を上げ、初めからシートベルトを締める気さえなかった行幸は片足をシートの上に乗せて半身に構えるように座った。

 わずかに下り始めた道の向こう──急カーブで道が途切れたように見える車道に、女性がひとり佇んでいた。希薄な存在感。間違いない、幽霊だ。

「居た。アレだ!」

 何が楽しいのか、行幸の声が弾む。発進時よりもアクセルを強く踏んでいる気配はない。しかし案の定、車はぐんぐん速度を上げていく。幽霊に引き寄せられていた。

「駄目です! このままだと轢いちゃいます!」

「停まるつもりなんてないよ! 轢いてやる!」

 ギョッとすることを口に出し、行幸は獰猛な笑みを浮かべた。

 そして、瞬く間に距離を詰めると車体はあつなく女性を突き抜けていった。

「──っ」

 声すら上げられなかった。

 女の幽霊が、美雨の体におおかぶさるようにして目の前に居たからだ。美雨の顔を覗き込む。吐く息が掛かりそうなほど大きく張り裂けた口許が、とまって、と囁くようにえんを上げる。

 あまりの恐怖に体は完全に固まった。

「掛かった! ユラ、ハンドル任せたよ!」

「はあああ!? 待って待ってギョウコウやめてやめてバカァアアアア────っ!」

 行幸はシートに乗せていた片足を踏ん張って美雨の居る後部座席に身を乗り出した。

 助手席から慌ててハンドルを摑んだ由良は、迫るカーブを目の当たりにして、瞬時にハンドル操作を諦めた。シート下に潜り込むようにして両手でブレーキペダルを押し倒す。ブレーキが利かない。だが、助かるにはこれしかない。

 行幸が虚空に手を伸ばす。何かを摑んで引き寄せると、途端に幽霊の頭がぐいと後ろに引っ張られた。もんの声を上げる幽霊が助けを求めて美雨を凝視する。

「じっとしているんだ!」

 それは美雨と幽霊、どちらへの命令だったのか。

「停まってもおまえを連れていくのは御免だよ。逝くなら独りで逝ってくれ」

 行幸が握った拳を乱暴に振り回す。すると、たちまち幽霊の体が搔き消えていく。

 ──とまって。

 美雨の脳内に幽霊の思念が流れ込んできた。

 ──私を家まで連れていって。

 怨嗟ではない、今にも泣き出しそうな懇願だった。

 ──帰りたい。

 タイヤの滑る音がけたたましく鳴り響く。

 急ブレーキによる重圧で美雨の体はシートベルトに締め付けられ、由良はシートの脚にしがみ付き、行幸はシートの上で引っ繰り返った。

 車は、ガードレールに接触した勢いで路上を三回転横滑りした後に、停止した。


          *


「買ったばかりなのにぃいいい! ギョウコウのバカアアアアアア!」

 由良の声がやまびことなって響き渡った。叫んで少しは気が晴れたのか、車体がへこんで走行不能になった車に寄りかかり、つまらなそうにJAFに電話を掛ける。

 行幸はそんな由良を横目に見つつ、路上で腰を抜かす美雨に言った。

「僕の目にはね、幽霊をこの世に繫ぎ止めている『鎖』が視えるんだ」

 自らの首をさする。まるで鉄の首輪がされてあり、そこから鎖が垂れているかのように中空を撫でていく。

「『鎖』の先にあるものが人なのか物なのか、はたまた土地か現象か。それは幽霊によって様々だ。そして、その『鎖』を断つことで幽霊を成仏させることができる。それが僕の除霊方法だよ」

『鎖』で直結した何かが未練なのだと理解した。

 行幸が摑み、そして振り回していたのは目に見えない『鎖』だったのだ。車に乗ってきた幽霊はそうして『鎖』が断たれたために消えていった。

 でも、それは……。

「あの人、帰りたいって言ってました……」

 行幸は力技で『鎖』を引き千切ったのだ。「帰りたい」という未練を晴らすことなく無理やり成仏させられた。

 なりたくて幽霊になったわけじゃないだろう。ならせめて、最後の望みくらい叶えてあげられなかったのか。

 美雨がしゃくり上げるたびに、行幸は鼻を鳴らした。

「同情なんて必要ないよ。奴ら悪霊はヒトの形をした天災だ。本人はとっくの昔に死んでいるんだし、その思念体が本人のものかどうかなんて誰にも証明しようがない」

 単なる自然現象なのだと吐き捨てる。だったらなぜ、生前の彼女の身元を調べる必要があったのか。なぜ、その情報を頼りに抱えている未練が何かを推理したのか。

 行幸はその矛盾すら吞み込んで幽霊と現世の繫がりを否定した。

「奴らを『人』だとかすんじゃない。人間からはいせつされたふん尿にようのようなものなんだ。古来ケガレと呼ばれてきたのも道理だよ」

 美雨は首を振る。糞尿が言葉を発するものか。ただ家に帰りたいと泣く彼女がけがれているなんて思いたくない。その願いは純粋で、決して悪なんかじゃないはずだ。

「有害なら悪さ。それに、他人の身勝手な願いは純粋なものほどが悪い」

 行幸が腰を落とした。うずくまる美雨に合わせたわけではない。そこは先ほど衝突したガードレールの一角で、行幸の視線の先には真新しい花束が供えてあった。ここで命を落とした人の遺族が供したものだろう。

「関係ない人が死んでいる。このことからして災害なんだよ。わかるかい? 小路美雨さん、君のことを言っているんだ」

 その声は厳格だった。口調は変わらないのに、僧侶の説教のように腹に響いた。

「無自覚だからといって罪が軽くなるわけじゃない。知ったのなら余計に罪の深さを自覚しろ。君はあの幽霊と同じようにただ在るだけで死を招く。自身も、他人もね」

『渡し屋』であることの重みを今一度よく考えろと説く。

 今後、生きていくためにも。

 行幸は立ち上がると、そこに供えてあった花束を崖下に蹴り落とした。

「幽霊はいなくなったし、これはもう必要ないからね」

「ひどい」

 こんな人だったのか、と眩暈めまいにも似たショックを受ける。テレビでよく見掛けるアイドルの顔は一時も変わらず裏表もないのに、状況次第でこれほど冷酷に映るなんて。

 ロードサービスの隊員が駆けつけると、運転していた行幸が説明をしに離れた。代わりにやってきた由良がそっと隣に佇んだ。

 静かに涙する美雨にハンカチを差し出した。

「ギョウコウはそこまで薄情な男じゃないわ」

 会話の一部始終を聞いていたのだろう、由良は言い訳めいたことは口にせず、ただそれだけを告げた。

 ……本当にそうなのだろうか。幽霊を祓うことの非情さ無情さを目の当たりにして泣くことしかできない自分が甘ったれだということは十分過ぎるほどわかったけれど。きっと、これを仕事とするならば行幸のようなスタンスを貫くことが賢明なのだろう。霊媒師が除霊のたびにいちいち心を揺らしていたら何も進まなくなるし、それが元で潰れてしまってはプロ失格だ。冷酷非道になりきることが一番なのだ。

 供花だって足蹴にする、それが霊能力者の正しい姿勢なのかもしれなかった。

 しかし、美雨にそれができるとは思えない。

「いいのよ、貴女はそのままで。私も慣れっこになっちゃったからもう無理だけどさ、貴女が泣いてくれるならその分私たちも救われる」

 行幸のそばに居ればアイドルの何たるかを学べると思っていた。しかし、それが簡単なものでないと気づいた今、『霊能相談士事務所』でやっていけるかどうかすらわからなくなっている。由良の言葉も半分以上耳に入ってこなかった。

 これからどうなるんだろう──美雨の瞳にはあんたんとした色しか浮かび上がっていなかった。


      *   *   *


 由良がデスクで業務記録をまとめていると、身を清めるためのもくよくを終えた行幸がやって来た。初めての除霊で疲れきったのか、事務所に戻るなり早々に寝袋に入り込んだ美雨を眺めている。応接ブースに小さく響く規則正しい寝息に合わせて、由良は囁くように文句を吐いた。

「ギョウコウってば、結局あの子をどうしたいわけ?」

「どうもしないさ。甘い考えを捨てきれないなら消えてほしい」

 何言ってんだか、と由良は呆れた。

「言えばよかったじゃない。あの花束を供えたのは私で、そう指示をしたのはアンタだったって」

 今日除霊に行くことは前から予定していた。事前に目印を置いておくことはよくあることだった。そして、行幸は口にしないが、本来の意味である鎮魂のために花を供えていることも由良は知っている。

「幽霊嫌いなくせにそういうところは律儀よね」

「供養をすればどんな霊だって少しは鎮まるものさ。除霊がしやすくなるんだ、それ以上の意味はないよ」

 どこまで本気なんだかわからない。

 目的のためなら手段を選ばないし、今日のような命懸けの無茶だって思いつきだけでやってのける豪胆さを持っているくせに、偶に繊細な一面を見せる。

「僕は供花って好きじゃないんだ。それって、そこに幽霊がいるって認めることじゃないか。生者の都合でいつまでもその場所に留まれだなんて、身勝手だと思わないか?」

 ほらこれだ。その理屈は明らかに幽霊を縛る生者を非難するものだった。ともすれば、幽霊に同情しているようにも取れる。

「それを説明してあげればよかったのに。あそこで縛られている限りいつまでもお家に帰れなかったんだって。だから解放してあげたんでしょ? あの場所で成仏しちゃったらそれこそお家に帰れなくなるものね」

 あの幽霊のためだったのだろうと由良は指摘する。

 行幸は鼻で笑った。

「莫迦な。そんなつもりあるわけないだろう。あの幽霊は土地から離れたらあっという間に霧散するよ。『鎖』を切断するだけで消えてくれるんだ、それが一番簡単だったからそうしただけ。他意はないよ。本当さ」

 幽霊という思念体は存在自体が希薄だ。霊感を持つ限られた人間にしか視えないし、自縛霊がその場から動けないのは、そこでしか存在を維持できないからだ。人に取り憑く幽霊は人に寄生する形で存在を保つ。自縛霊なら土地にといった具合にだ。

 行幸の目には、女の幽霊の首から垂れた『鎖』が土地と繫がっていたらしい。そのかせを外してやれば、存在が霧散していくわずかな時間だけでも、彼女は自由に空を浮遊することができる。理由はどうあれ、幽霊に最後の機会を与えたことになる。

「お家に帰れているといいわね。あの幽霊」

 それはもう誰にも確かめようがない。だが、同じく成仏するのなら最期の瞬間は思念の核となる未練に殉じさせることが慈悲であると思った。

 照れなのか、行幸は拗ねるようにしてそっぽを向いた。

「幽霊なんてすべてこの世からいなくなってしまえばいい」

 いたむような目つきでそう言った。


(了)



【次回更新は、2019年7月9日(火)予定!】

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