【第6回】家が鳴る(後編)


          *


 男性の幽霊が血を垂らしながら美雨をじっと凝視する。

 美雨はその場でうずくまり、行幸が来るのをひたすら待った。しかし、行幸が消えてからすでに十分。ぽたり、ぽたり、と血の滴る音がするだけで生身の人間が立てる足音は一向に聞こえてこなかった。

 幸い、男の霊は人に取り憑く類の悪霊ではないらしく危害を加えてこようとはしない。この武家屋敷に居る幽霊は美雨に対してほとんど同じ反応だ。初見では見た目のインパクトにびっくりさせられるけれど、慣れれば無害だということがわかる。

 だから、今のところ『渡し屋』の力は暴走せずに済んでいた。美雨が不安や恐怖を感じると、その心に付け込んで幽霊が寄ってくることがある。きょうこう状態に陥ることが一番まずいのだ。美雨は膝を抱えて平静を保とうと努めた。おかげで幾分落ち着いた。

 さて、これからどうしよう。

 行幸はこういうときどんな指示を出すだろうか。「君は所詮無力なんだからその場でじっとしていなよ」とでも言うだろうか。簡単に想像できてしまう辺り、普段の言動に美雨への信頼の無さが読み取れる。

 でも、はたしてそうかしら。行幸の悪態はもはや癖で、照れ隠しな部分も多分にあるから、全部を真に受けるのは違う気がする。

 それに、こういうときこそ行幸は「そんなの自分で考えなよ。一体どれだけしゅを潜ってきたと思っているんだ?」とか言うんじゃないだろうか。――うん。きっとそうだ。私だってそれなりに場数は踏んでいるのだ。

 無理はしない。でも、怯むな私。

 せめて、行幸が見つけやすい場所に移動しよう。

 今回に限っては彼はヒントを残してくれている。行幸のスマホだ。動画と同じ順路を辿っていくという方針でここまできたから、おそらく、行幸はその順路の先に向かうはず。

 進もう。それが行幸と落ち合う最も確率の高い選択だ。

 こちらを見てくる男の霊から視線を外して気持ち急ぎ足で行き過ぎる。――大丈夫。静かにしていれば少なくとも襲ってはこない。平常心。平常心。

 動画では台所の奥に浴場があったのに、扉を開ければそこは廊下だった。

 屋敷の間取が完全に変わってしまっている。これも幽霊の仕業なのか。

「もう何でもありなんですね、幽霊って」

 恐怖を通り越して呆れてしまった。迷い込んだ迷路の途中でさらに形をリセットするという理不尽さ。実際にこんなオバケ屋敷があったらきょうかんものであろう。同行者を引き離すなんてのも前代未聞だ。話題になること間違いなし。

 廊下の途中に両開きの襖があった。最初の畳部屋に繋がっているかもしれず、恐る恐る開けてみた。

 開けて――そっと閉じた。

「うわあ……」

 開けたことを後悔した。中の惨状はひつぜつに尽くしがたい。とりあえず、首を吊った幽霊が全員背中を向けていたのが印象的だった。あと、壁や天井一面に血文字で書き殴られた『たすけて』がびっしりと踊っているのもわずかに見えた。そういえば、畳の上を這う何匹もの赤黒い巨大な芋虫は何だったのだろう?

 もうやだ。こんなところ抜けたくない。

 しかし、気づいてしまった。この畳部屋は、まだ美雨たちが通っていない動画の後半に出てくる大広間だった。いずれ通る順路ならば行くしかない。

「うぐぐぐぐぐ……」

 歯を食いしばって泣く。ひとまず今のうちに泣いておこう。泣きじょうも涙が枯れ果てれば驚く元気もなくなるはずだ。嫌な特技を身につけたものだと自分でも思う。

「……ようし!」

 気合一発。勢いに任せてふすまを全開にし、中に突進していく。

『広い! 広い! 運動不足解消にはもってこいの広さですよ!』

 動画の声に合わせて駆け抜ける。やっぱり恐いので顔を上げずに足許だけを見ていると、転がっていた赤黒い芋虫が実は焼死した幽霊の生前最期の姿であることに気づいた。火事や火災で逃げ遅れた人たちの魂。焦げ付いていない箇所はなく、焼失したはずの目玉がぐるりと回り美雨に救いを投げかける。

「~~~~~~~~っ!?」

 口許を押さえて何とか悲鳴を抑えつける。なぜか新品の畳敷きは走りやすいと思っても土足であることへの後ろめたさは一切ない。むしろ、幽霊屋敷に場違いな真新しさがかえって生理的嫌悪感を助長した。生活臭のする廃墟なんて聞いたことがない。

 畳部屋を突っ切るとまたもや廊下に出た。一方向に伸びる廊下は突き当たりに扉が一つあるだけだ。こうなりゃとことん進むしかない。

 扉の向こうは浴場だった。

『死体を隠すのに便利そうですよねえ。私もあやかりたいなあ』

 配信者が適当なことを言っている。

 大きな風呂桶の中には幾つもの死体がぎゅうぎゅう詰めにされていた。無論幽霊だが、リアルな肉感にありもしない腐臭を嗅ぎ取る。なぜそんなところでじっとしているのか。何が彼らを迷わせたのか。美雨の疑問を感じ取った死体の山が一斉に視線を向けてきた。正直、ちびりそうになった。浴室の壁に不自然に現れた扉に飛びつくようにして出ていった。

 出た場所はまたもや廊下で、一直線に別の部屋へと誘導する。

 次の扉――次の襖――行く先々でこの世の物とは思えない地獄を見た。

 刃物を交互に刺して殺しあう夫婦。

 床下から悲鳴と打音が響く外廊下。

 赤子を泣きながら床に落とす老人。

 血まみれの子供たちが次々に転げ落ちてくる階段。

 何度心臓が止まりかけたことか。


 動画に出てきた部屋には粗方回れたはず。

 何度も驚いて何度も号泣して、疲労こんぱい。しばらく動けそうにない。

『広いだけの家でした。収穫はありません。残念です。そろそろ帰ります』

 計ったような台詞がかんに障る。配信者にはここが真っ当な家に見えたらしい。運のいい奴。だからだろう、そんな奴に面白半分に彼らの居場所を踏み荒らされたことが堪らなく悔しかった。もしまだ生きてどこかに居るのなら、いつかように来させてやる。

『あれ? え?』

 ……そうだった。

 配信者は動画の最後にナニか恐ろしいモノを目撃していたことを失念していた。

 美雨がいま居る場所が動画の最後の場面と寸分違わずリンクした。

 長い廊下だった。

 五メートルより先は暗闇に包まれていて何も見えない。

 ぺたり。

 ぺたり。

 足音がする。

『人が……、へ? 何で? あれ? あれ? どした?』

 同じモノを視たのかもしれない。

 ゆっくりと現れたソレが、美雨の目にも普通の人間に見えたのだ。

 小学生くらいの幼い髪の長い女の子だった。レースがあしらわれたピンク色のワンピースに黒のカーディガンを合わせた良いところのお嬢さんといった出で立ち。髪に隠れて表情はうかがえないが、隙間から見えた口許は微かに笑っていた。

 ぺたり、ぺたり。

 幽霊には違いない。けれど、これまでが衝撃的すぎたので驚くに値しなかった。

 ぺたり、ぺたり。ぺたり、

 床板を踏む音から裸足だとわかった。暗がりからまず上半身が浮かび上がり、間もなく足許がりんかくを現す。ぺたり。自然と視線は足許に注がれた。ぺたり。まず出てきたのは爪先ではなく踵から。ぺたり。膝を曲げて爪先で着地。ぺたり。綺麗な素足。ぺたり。爪はふくらはぎに隠れて見えない。ぺたり。ぎこちない後ろ歩き。

 ぺたり。

 動画も美雨も息を呑む。

 女の子の上半身と下半身が百八十度捻れていた。

 慎重な歩みは下肢に不自由さを感じさせ、上半身は盆に乗せられた球体のように不安定に揺れ動く。その『連結していない感』が途方もなく不安を掻き立てる。見ているだけで歩き方を忘れそう。一歩進むたびにスカートの中から血がこぼれ、床に血飛沫しぶきを撒き散らした。それでも少女は笑みを絶やさない。

 可憐な声で。


 おかえりなさい


 気づいたら走っていた。

 直感が働いた。――この子は……悪霊だっ!

『やばいやばいやばい……!』

 確かにやばい。配信者が唯一視えた幽霊がコレって同情に値するレベル。

 ぺたり。ぺた。ぺた。ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた。

 追ってくる。可愛らしい足音がかえって恐い。動画の声は背後を振り返ってさらなる恐慌に陥っているようだが、古今東西おとぎばなしには邪鬼に追われたら振り返ってはならぬという禁忌があるのを知らないのかと思う。美雨も十分に錯乱していた。

 突き当たりを直角に折れ曲がる。見覚えある間取に、この先に玄関があることを思い出す。同時に、動画で見た玄関扉の有り様にまで思い至る。まさしく配信者と同じてつを踏んでいた。

 案の定、辿り着いた玄関先で、板張りされた扉に退路を塞がれた。

「開けてっ! 出してッ! お願い!」

 釘で雑に打ち付けられただけの板張りはしかし、端を掴み全体重を乗せて引っ張ってみてもびくともしなかった。外からではなく、なぜ内側から板張りされているのかという当然の疑問はもはや思いつかない。屋敷に入った際に嗅いだ異臭の正体がすぐ近くに横たわっていることにも気づかない。

 ぺたぺた、はいつしか地震が起きたかのような激しい家鳴りに変わり、今にも背後に迫って聞こえた。

 でも、振り返っちゃ駄目だ。本能的にそうと察した。振り返ったら連れて行かれる。

『な、何なんだよ!? おまえらはッ!?』

 その正体を知ってはいけない。

 知ったら、生きて帰れない。

 振り向かない限り彼らが美雨に届くことはない。

 ぎゅっと目を瞑って耐え忍んでいると、とん、と肩に手が置かれた。飛び上がるほど驚いたが、すぐさま聞きんだ声がした。

「探したよ、美雨。いつも僕のそばに居ろってあれほど言っているのに、てんで聞かないんだから」

 困ったもんだ、と頭を撫でられた。

 腰が抜けそうなほど安心した。――離れ離れになったのは不可抗力だったじゃないですか。それに、あれほどって言うけどそんな台詞一回しか言われたことないですよ。そもそも私が悪いみたいなこと、今この状況で言わなくたっていいじゃないですか。余裕ぶって間一髪のところで現れて、毎回狙ってやっているんだとしたら悪趣味にも程があります!

 何から文句を付けようか。にやつきそうになる口許を噛み殺しつつ憎まれ口を叩こうと行幸を見ると、そこにいつもの不敵な笑みはなかった。

「……」

 全身くたびれていて、頭から埃を被ったみたいに汚れており、疲れきった瞳には虚ろな影が差し、見上げる美雨を無感動に映しだしている。

 焦点が合っていない。こんな行幸は初めてだ。

「あ、あの……」

 溜め息混じりに言う。

「屋敷中探し回ったよ。天井裏からたんの後ろ、床下までね。ちっこいミウ助が入っていきそうな場所は全部」

「ネズミか何かですか、私は!?」

「少しは背を伸ばす努力をしようよ」

 しかし、悪態にも力はない。さすがに心配になってくる。

「でも、自力でここまでやって来て悪霊に取り込まれずにいたのは評価に値するよ。よくやったね。偉い偉い」

 褒められた!? 珍しい! この男ははたして本物の初ノ宮行幸なのだろうか。

「だ、大丈夫ですか?」

 頭の方は、とは付けずに一応訊いてみる。すると、怪訝そうに「何が?」と返されてしまった。

「悠長に話している場合じゃないんで手短に説明するよ。この幽霊屋敷のカラクリが解けた。間取が変わる屋敷なんて普通ありえないから。ポルターガイストにしても行き過ぎてる」

「そう……ですよね。私もそう感じてました」

 今一度屋内を見渡そうとしたらぐっと頭を押さえつけられた。

「見るな。また分断される」

 家鳴りが活発になる。背後で無数の幽霊の気配が濃くなった気がした。

「や、やっぱり私に反応しているんですか!?」

「いや、『渡し屋』だとか関係なく、僕以外の人間なら誰でもよかったのさ。こいつら、というか、コイツは君みたいな一般人を取り込もうとやっになっているだけだ。『家』にしゅうちゃくがある人なら誰だって獲物になり得るよ。まあ、結果的にはいつもどおりミウ助が囮役を果たしただけなんだけど」

『家』に執着? どういう意味だろう。

 それに、コイツって……。

「まずは屋敷から出なくちゃね。ところで、何で後ろの奴らがいつまで経っても手を出してこないかわかるかい? 玄関に辿り着けたなら、あとは訪問者の言動にすべてをゆだねられるからさ。それがここでのルールだ。さあ、僕の後に続けて言うんだ。いいかい?」

「何をですか!?」

 すると、ようやく行幸はいつもの不敵な笑みを浮かべた。

「魔法の言葉さ。出て行くときの作法であり『家』に対する礼儀だよ」

 それはいつくしむかのような温かみのある声だった。


 いってきます


 びくともしなかった板張りが朽ちてがれ落ち、外から日の光が差し込んだ。

 幽霊屋敷が元の姿を現した。


      *   *   *


 玄関を開けると、幼い我が子が私を出迎えに廊下を走ってくるのです。

 盆正月に息子夫婦が孫を連れて帰ってくるのがもう楽しみで楽しみで。

 やっと仕事終わったー。帰ったらゲームでもすっかなー。あ、弁当買わなきゃ。

 今日はあの子の大好きなハンバーグにしました。早く帰ってこないかしら。

 これなら足が不自由な人でも住みやすいかもな。駅も近いし、ここにしようか。

 あっ、ママだ! ママの車だ! お兄ちゃん! ママが帰ってきたよーっ!

 夢にまで見たマイホーム。地震にも火災にも安心安全の設計だ。すごいだろ!

 川の字になって寝るの久しぶりね。あなた、見て? この子、寝ながら笑ってる。

 ああ、よかった。業績を盛り返した。この家を差し押さえられなくて済むぞ。

 ほら、早く帰らなくちゃ。子供たちがお腹空かせて待ってるよ。

 あ、チャイムが鳴った。お父さん、お母さん、遅いよもう! いま開けるね!

 ただいま。

 いってらっしゃい  ようこそ  いま帰ったぞー  いらっしゃい  ごきげんよう  つっかれたー  お邪魔しまーす  おやすみなさーい  またね  たっだいまー  そろそろお暇します  お待ちしておりました  遠慮しないで入って  車に気をつけるのよ  ただいま帰りました  いただきます  よく来たね  ご飯食べてる時間ないからいらない  ただいまです  座ってて  ばいばい  おはよう  ごちそうさま  遅くなっちゃった  おはようございます  たでーまー  さよーならー  帰り何時になる?  お元気で  お邪魔しました

 おかえりなさい。


 お疲れさまでした。


      *   *   *


なり――怪異の一種だ。と言っても、今回のは妖怪たんや伝承で語られているものとは本質が異なっていたけどね。僕はいわゆる妖怪ってものを信じちゃいないけど、現象そのものに付いた名前はいくらでも流用するよ。説明が楽だからね」

 帰りの車の中、行幸がつまらなそうに話し始めた。

「家鳴ってのはポルターガイストと同じで、家具が好き勝手動き出す現象を指すんだ。現代では大抵家の建材が軋む音のことを言い、伝承なんかでは鬼が家を揺すって悪戯いたずらしているといった表現をする。で、今回のことだけど、心霊現象を起こしていたのは幽霊で間違いないんだが、霊体化していたのはあの『家』そのものだった」

 付喪神という廃棄された器物が妖怪化する伝承がある。長い年月を経た道具には魂が宿るとされる日本古来の言い伝えだ。

「僕は付喪つくもがみの正体は霊にひょうされた霊媒であると考える。古びた物には曰くが付きやすく、曰くが付けば霊性を帯び、幽霊の干渉を受けやすくなる。髪の毛が伸びる人形って聞いたことない? あれ自体は眉唾ものだけど、人形に憑依して体を得るタイプの幽霊はよくいるよ。奴らは現世に未練があるからね。干渉できる手足を欲しがっても不思議じゃないだろ。それで、今回憑依されたのがあの『家』だったわけだ。家という器が付喪神化していたんだ」

 それがあのありえない間取変形を起こしたと行幸は見ている。規模は違うが、人形の髪が伸びるのと理屈は同じだ。

「家に未練を持つ幽霊は多い。大抵の場合、出先で事故に遭って霊体化してしまった人の願いは『帰りたい』だから。あの『家』に帰ることで未練を晴らしていたんだろう」

 あるいは、孤独死、家族不和、家庭内暴力、家庭内殺人、家庭内事故などといった家にまつわる不幸に対する悔恨が、あの『家』に幽霊を迷わせた。無数の幽霊に憑かれた『家』は霊力を増し、さらなる幽霊を招いて規模を拡大していった。

 付喪神化したからあの『家』に幽霊が集まるようになったのか、幽霊が集まる霊場だったから付喪神化したのか、どちらが先かはわからない。

 ただ一つ確かなことは、あの『家』は幽霊たちにとって慰霊の場所だった。

「家族ごっこをしていたのさ。だから、しきたりに則って玄関で挨拶をすれば無事に出て行けるってわけ」

 いってきます、と言って解放された後、あの『家』はただのあばら家に戻っていた。立派な武家屋敷はどこかに消え、支柱が折れて半壊した廃墟だけが残された。玄関脇には動画配信者の遺体があり、おそらく中には過去に閉じ込められた人のなきがらがさらにあると予想される。

「奴らは家族を欲していた。家に帰りたいという思いを抱えている人間を仲間にしようと触手を伸ばしていたんだ。だから、ミウ助が狙われた。僕? 僕には帰りたい家なんてないからね。眼中になかったんだろう。ミウ助と別れた後、外に締め出されてしまったよ」

 話を聞いているうちに思い出していた。祖母が居た家を、父母が今も暮らす実家を、東京での初めての一人暮らしで借りた部屋のことを、そして――。

「あそこ、は、」

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃ。呼吸をするのもやっとの状態で、なんとか口にする。

「どうなっちゃう、ひっ、ぅく、ですか、うぐっぐうううう」

「……建物はただの廃墟に戻ったし、近いうちに行政代執行で解体・撤去されることになる。土地に札を貼って浄化もしたからあの場に居た幽霊はすぐに消えて居なくなるよ。『鎖』の引っ付け先――依代である『家』が無くなれば幽体化し続けるのは難しいからね、どちらにしても遠からずさんする」

 後のことは地元の警察と役場の仕事である。

 美雨は幽霊たちの思念に触れたせいで涙が止まらなかった。彼らが欲しかったのは平凡な家庭の風景だけだった。その想いを受け止めていたあの『家』が愛しくて、切なくて、胸が締め付けられるのだ。朽ち果てたその姿を見たときは、思わず「お疲れさま」と口にしていた。


 霊能相談士事務所が入ったビルに到着する。行幸が車を停めるのを待って一緒にエレベーターを上っていく。

「早くシャワーを浴びたいよ。服も埃だらけで台無しだ。こりゃ廃棄処分かな」

 クリーニングに出せばいいものを。まだ十分着られるのに、もったいない。

 でも、行幸は心霊系に関しては超が付くほどの潔癖症だから、らしいと言えばらしかった。

 思わずくすりと笑い、ふと気づく。

「あ、もしかして、私のことものすごく心配してくれてたんですかあ?」

 だから狭くて汚れていて幽霊がわんさか居るところにも構わず入っていけたのかしら。

「……」

 エレベーターが最上階に到着し、出て行く間際、無言でぱしんと頭を叩かれた。かなりの衝撃だったのでびっくりした。固まる美雨を置いてさっさと事務所の中に入っていく行幸。茶化されて怒ったってことは――もしや、図星? 

「何も……叩くこと……」

 若干の不満と、それ以上に温かい気持ちで満たされた。

 無人だった事務所に明かりが灯る。行幸は自分専用のプライベートルームを中に持っているが、夜は基本的に住まいのマンションに帰っている。ここは美雨だけの住まいだ。仮宿でも生活の基盤であればそれは『我が家』に違いなく――。

「ただいま」

 そう言える幸せを噛み締める。


(了)




【次回更新は、2019年7月16日(火)予定!】

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