【第9回】役に入る(後編)


          *


 再び楽屋に戻ってきた卯月を出迎えたのは、行幸、美雨、由良、そしてプロデューサーの今田と卯月のマネージャーである。今田とマネージャーが労いの言葉をかけると、卯月はほうけたような気の抜けた顔を向けてきた。

「……終わったんですね」

「はい。柏原さんの出番は無事、オールアップです。大変な撮影でしたがお疲れさまでした」

 改めて頭を下げる今田。本当に疲れが出たのか、卯月の返す笑みは弱々しい。

 背後のくうを仰いだ。

「貴女もお疲れさまでした、皐月」

「……」

 霊能相談士側の面々は誰一人として言葉を発しない。笑みもこぼさない。これから始まる『憑き物落とし』に緊張が高まっていた。

「初ノ宮さん、皆さん、ありがとうございました。おかげ様で撮影を終えることができました。何でも、モニタが一つ火を噴いたとか。やはり妹が起こしたことなのでしょうね。ですが、初ノ宮さんが付いていてくださったおかげでセットの中では何事もなく、私も演技に集中できました。改めてお礼を申し上げます」

 行幸たちの重苦しい雰囲気に、ようやく卯月も眉を顰めた。

「初ノ宮さん?」

しつけで悪いんだけど、お宅のマネージャーとイマさんの二人は席を外してもらえないかな? ここからは女優・柏原卯月のプライベートに係わることだから」

 今田とマネージャーが咄嗟に顔を見合わせた。

「どういう意味ですか?」

「霊視をした結果、少しばかり彼女にとって不都合な事情が視えた。お宅らに聞かせるわけにいかないんでね、ご退場願いたいんだよ」

 行幸には二人を、特にマネージャーを説得する気はないようだ。相手を下目に見るような率直な物言いに、案の定、マネージャーが噛み付いた。

「プライベートって。……あのねえ、柏原卯月のことは我々が一番よく知っています。そりゃ、世間に知られたら大騒ぎになるような話は幾つかあるけど、うちらに知られてまずいことなんて何もありませんよ」

「まずいとか、まずくないとか、そういう問題じゃない。ここからは僕たちの領分だ。お宅らが居たら気が散るし、彼女のためにもならないと言っているんだ」

 そら早く出て行け、とその目で訴える。『憑き物落とし』の前に不必要にハラハラさせないでほしい。どうしてこの人はこんな言い方しかできないんだろうか、と美雨はいつも不思議で仕方がない。

「何をする気か知りませんけどね、柏原卯月の問題は我が事務所全体の問題なんです。それを余所のプロダクションに一任させるなど……」

 マネージャーとしてなら当然の意見だ。

 しかし、それを引っ込めたのは卯月だった。

「いいえ、出て行ってちょうだい。私もや酔狂で彼をお呼びしたのではありません。彼が席を外せというのです。貴方も事務所の問題というのなら最善を選んでちょうだい」

「あ、いや、しかし」

「いいじゃないの。撮影も終わったことですし。私個人に話があるというのですから、私ひとりで聞くわ。それでは駄目?」

 卯月に言われては引き下がるほかない。マネージャーは不承不承とばかりに今田と一緒に退室した。

「まったく。少しは空気を読めっていうんだ。お宅のマネージャー」

「空気を読むのはアンタよ、馬鹿ギョウコウ! 何イライラしてんのよっ」

 退室したとはいえ、廊下で聞き耳を立てているに違いないので小声で怒鳴る。行幸はどこ吹く風だが、卯月は不安そうにしていた。

 撮影は終わった。依頼は達成された。だのになぜ、このような重苦しい空気が漂っているのか理解に苦しんでいるようだ。何か不都合があったのかと気が気でない。

 不都合。……柏原卯月の不都合。実はまだ、美雨も由良もその内容は聞かされていなかった。きっと、さっきの電話で知り得た情報と照らし合わせて掴んだ事実なのだろう。行幸が見るからに不機嫌になったのはあのときからだ。

 柏原卯月のプライベートに関すること。

「私の妹、皐月のことで何かありましたか?」

 当然、そこだ。

 行幸の顔色を窺いつつ、事前に打ち合わせしたとおり美雨から説明した。

「そのことなんですけど、……柏原さんに取り憑いていた悪霊は妹さんではありませんでした」

「?」

「悪霊の正体は、三十年前に亡くなった『貌に紅色』の元主演女優の幽霊でした。そして、取り憑いていたのは柏原さんにではなく正確には監督さんにでした。撮影中に事故が起きたのは、自分の代わりに主演になった柏原さんへの嫉妬からで、柏原さんの背後に悪霊が居たのもそれが理由です」

「……」

「ですから、柏原さんの妹さんの霊が悪さをしたということはありません」

 妹の幽霊の暴走を抑えてほしいというのが依頼だった。しかし、そもそもの原因は死んだ女優の幽霊で、彼女の妹ではなかった。無事撮影を終えられたので結果的には依頼を達成したことになるが、その際判明した真実を依頼人に伝えないわけにはいかない。

 なおも首を傾げる卯月に、美雨からそれを告げるのは躊躇ためらわれた。

 ――元々貴女のそばに妹の幽霊は居なかった、なんて。

「えっと、……以上です」

 しかし、ここまで言えばさすがに卯月も察したようだった。

 気後れする美雨を見て、微笑んだ。

「そうでしたか。悪霊の正体は大先輩の女優でしたか。その方は、……その幽霊はどうなったのですか? まだ監督に取り憑いているのですか?」

「いえ、撮影が終わったと同時に成仏しました」

「なるほど。映画が未完成だったことが未練だった、ということですね」

 それほど間違った解釈ではなかったので、頷いておく。

 卯月はその女優をしのぶように目を閉じて「ならよかった」と口にした。次いで、くすくすと愉快そうに笑った。

「初めからおかしいと思っていたのです。だって、私の妹が悪霊だなんてそんなことありえませんもの」

 ――え?

 卯月は背後を振り返り、何も無い空間に向かって手を振った。今もそこに妹の皐月の姿が見えているかのように。

「貴女はやっぱり私のそばに居たのね。ええ、そうだわ。先ほどの撮影のときも感じたもの。『私』の体を使って『貴女』が演技をした。だから、あんなにも良い芝居ができたのよ。私たちはこれからも上手くやっていけそうね」

 トラブルに見舞われたのは『貌に紅色』に係わったからだ。それ以外はいつもどおり。これからも『二人』の芝居は続いていく。

 卯月の中で皐月の幽霊は絶対だった。どんなに居ないと言っても、彼女はそれを決して認めようとしないだろう。

「もういいよ」

 行幸が美雨を後ろに下がらせた。美雨に説明させることで何らかの確信を得たようだ。

「はっきり言おう。お宅に『柏原皐月』の幽霊は取り憑いていない。そもそも、

 真実を突きつけた。しかし、卯月はやはりしゃくぜんとしない顔をした。

 ――って、あれ? いま、何か、おかしな言い回しをしたような……。

「どうしてそんなことを仰るの? 皐月は居ますわ。初ノ宮さんは徳の高い霊能力者さんなのでしょう? 視えませんの? この子が」

「徳が高いかどうか知らないけどね、僕には視えないよ。柏原皐月の霊なんてどこにもね。お宅のそれは振りだろう? 幽霊なんて視えていないし感じてもいない。虚言を重ねているだけだ」

「……酷い仰りようね。それではまるでみたいではありませんか。嘘吐き呼ばわりまでされるのは心外です」

 確かに、卯月が気づいていないというだけで勘違いや思い込みの可能性だってある。だが、行幸は虚言だと断言した。卯月がわざと嘘を吐いていると決めつけた。

「あんまりです……!」

「裏なら取ってある。僕の事務所の者が直接聞きに行ってくれたよ」

 霊能相談士事務所の社員は他にえんどうさいぞう――通称ゾウさんしかいない。行幸が何らかの調査を命じ、その報告を先ほどの電話で受けたのだ。

「場所が都内で助かったよ。撮影が終わる前に調査が済んだ。お宅のご両親、事情を話したらあっさりと教えてくれたんだとさ。娘のことを心から心配していたようだよ」

「……実家に行きましたの?」

 卯月は絶句した。その反応は過剰な調査に呆れてのものではなく、動揺から来ていることは表情からも明らかだった。

「結論から言おうか。お宅に『柏原皐月』の霊が取り憑くはずがないんだ。あってはならないんだ。なぜなら、十七年前に事故で亡くなったのは妹の皐月ではなく、姉の卯月だからだ。死んでもいない人間が幽霊になんてなれるわけがない」

 死んだのは卯月。

 死んだのは卯月?

 では、目の前に居るこの人は……。

「そうでしょう? 柏原皐月さん」

 それこそが卯月の――いや、柏原皐月の不都合な真実。

 行幸の問い掛けに応じるように、そこに何者でもなくなった能面の女が現れた。


          *


 目の前で卯月が死んだ。

 歩行者信号が青になった横断歩道を一瞬早く飛び出しただけなのに、私と姉の生死が分かたれた。信号を無視して猛スピードで駆けてきた自動車にねられた。即死だった。警察と救急隊が現場を収拾していくのを、ただ立ち尽くしたまま見ていた。私の心が死んだのもきっとこのときだ。

 だって、まさか死ぬだなんて思わなかった。

 実は、私は気づいていた。向こうからスピードを落とさずに暴走してくる自動車を横目に見て知っていた。そのとき卯月と私は、乗らなければならない電車の時間に間に合うようにここまでずっと走ってきたから、信号に止められて苛立ち焦っていた。でも、私だけが落ち着きを取り戻した。暴走する自動車を見つけて、――ああ、信号が変わっても飛び出さない方がいいかなあって、そう考えた。卯月は気づいていないみたいだった。教えるべきだった。なのに、私はそうしなかった。

 あわや事故に遭いそうになった卯月を「気をつけなよ」って言って注意してやりたかったんだ。偶には私がお姉さんぶりたかった。

 それだけだ。

 死ぬだなんて思っていなかった。本当に。

 卯月の死体を見つめて立ち尽くす。誰に声を掛けられても、私は何も反応できなかった。

 ――皐月が死ぬべきだったんじゃないの?

 そのとき、声がした。間違いなく卯月の声だった。でも、振り返っても誰も居ない。

 ――私を見殺しにしたわね。その体、寄越しなさいよ。

 頭の中に卯月がいる。

 罪悪感に押し潰されそう。体を渡したら許してくれるのだろうか。

 ――皐月は肉体を差し出すの。私は魂を差し出すわ。

 ふたりで一つ、二つでひとり。

 ――これから私たちは常に一緒よ。だから、そこで見ていなさいね、皐月。



「――よく見破りましたわね。そう。この体は柏原皐月のもの。私の妹の体ですわ」

 卯月は笑う。それまでと何も変わらない妖艶な笑い方。しかし、指摘された一瞬だけ、別の顔を覗かせた。あれが本来の彼女の素顔なのか。

「ど、どういうことですか? 死んだのは卯月さんで、ここに居るのは皐月さん。でも、貴女は卯月さん――って、え? え? わからない!?」

「美雨ちゃん、落ち着いて! つまり、柏原卯月の霊が皐月さんの体を乗っ取っている――そういうことよね?」

 行幸に訊いたつもりだが、答えたのは卯月だった。

「ええ、そうです。『卯月』の肉体が死んだあのとき、私は近くに居た『皐月』の体に潜り込んだ。そうして今日まで生きてきましたの。意識の主導権は私、卯月が手に入れました。なので、肉体は『皐月』のものですが、戸籍上では『卯月』なのです」

 肉体と魂が入れ替わり、生者と死者の立場まで逆転した。

「でも、そんなことってあり得るの!?」

 由良はそう叫ぶが、理屈の上では可能だと美雨は思った。死者の思念を通して自分の心が他人に侵食される感覚を知っているから、より強力な思念であれば他人に取って代わられることだってあり得るのかもしれない。

「じゃあ、本物の皐月さんは今どこに?」

 周囲を見渡す。入れ替わったということは、霊体となって体から追い出されたか。

「皐月は常に背中にひっ付いています。私にはわかる。ここに気配があるもの。そして、この子の声はずっと心に響いている。まるで『貌に紅色』の脚本のよう! 皐月が『私を返せ』とココで叫ぶの!」

 胸に手をあて、こうこつと叫ぶ。

 十七年もの間、幽霊に体を乗っ取られてきた。乗っ取った相手は実の姉で、肉体があるはずの妹がいつの間にか死亡者として扱われた。

 何て出来過ぎな話。『貌に紅色』の撮影中に、弾かれた魂が脚本に刺激されて暴走したとしても頷ける。卯月は、だから数々のトラブルを妹の仕業だと疑ったのだ。

「皐月に体を返す気はないわ。貴女は一生そこに居てね」

 悪びれもせずに言ってのけた。

「共に生きていきましょう。二人三脚で」

 我が子を守るかのように、慈愛を込めて、自らの肩を抱きしめる。

 ふたりの合作――女優『柏原卯月』として。

 いつまでも。

 これからも。

 その光景はまるで『貌に紅色』のラストシーンを観ているかのようであり。

 惹き込まれる。

「いい加減にしないか」

 ぴしゃり、と不穏な空気を断ち切った。行幸の声に美雨も由良も我に返った。

「ギョウコウ?」

「ユラ、それにミウ助も、飲まれすぎだ。相手が大女優だからってバカ正直に芝居に付き合ってやることはないよ。彼女の言っていることは丸っきりのデタラメだ。さっきも言っただろう? 虚言を重ねているだけだって。柏原皐月が『卯月』の真似をしているだけだ。自我は最初からずっと柏原皐月のままだ」

「なっ!? ち、違いますわっ! 私は!」

「卯月の霊だとでも言うつもりかい? まあ、確かに言い訳には申し分ない。どうせ、姉の死に何らかの責任を感じていて、それを和らげるために卯月を演じてきたんだろう? 人がスピリチュアリティーに傾倒する要因にはありがちなことだ。お宅は自分を誤魔化しているにすぎない」

「行幸さん、それじゃあ――」

「彼女は幽霊に憑依なんかされちゃいない。体が乗っ取られているということもない。『柏原卯月』をただ演じているだけだ」

 行幸が卯月の正面に立つ。

 その目を覗き込み、彼女の心に問い掛ける。いや、きつもんする。

「お宅に憑いているのは幽霊なんかじゃない。それはまんで塗り固めた単なる自己保身だ。そうなんだろ? え? 柏原皐月ッ!」

 怒鳴られ、びくり、と肩を震わせる『卯月』。

 仮面が剥がされていく。女優の妖艶さも、心を閉ざした能面の如き顔つきも、すべてが剥げ落ちて最後には十代の少女のような頼りない表情が残った。

「わ、わたし、は……」

「それがお宅の素顔だ。十七年前に置き去りにした本当の顔だ。いやまったく、大したものだよ。それだけは素直に感心するよ。お宅は筋金入りの女優だね」

 撮影前にも楽屋で言った台詞である。

 皮肉には違いない。だが、行幸は本心から卯月をたたえた。

「姉妹で双子とはいえ、他人を演じて生きるだなんて正気の沙汰じゃない! それも思春期から始まって十七年も! 自分を偽ることがどれだけ大変なことか、想像すらつかないよ。卯月の霊に憑依されているという設定を作ることで何とか理性を保っていられたのだろうが、普通であればとっくに気が狂っている」

 美雨も由良も言葉がない。きょうがくを通り越してせんりつしていた。自分に当てめて考えてみればそれが途方も無いことだとすぐにわかる。そもそも肉親の死にまず理性が耐えられない。泣き喚いたり、怒ったり悔やんだりして故人を偲ばずにはいられない。それは自分というアイデンティティがあるからだ。自分があるから他人を慮れるのだ。慮らずにはいられなくなるのだ。自分を捨て、自分の死を受け入れて、他人として生きるそこにアイデンティティは生まれない。他人になった上で別の他人に思いを致すなど無理に決まっている。普通ならたんする。なのに、卯月は――いや、『皐月』は、他人のアイデンティティすらコピーして生きてきた。そんなのはもう人間とは呼べない。機械か何かだ。

 普通であればとっくに狂っている、と行幸は言うが、他人になろうと決めた時点ですでに狂っていたのだと思う。

 だが、行幸が問題にしているのは異常な生き方にではなく、その方法だった。

「幽霊への依存。それがお宅の憑き物の正体だ」

 憑き物――正常な思考を奪い心を縛り付ける呪いの種。それは幽霊に限らず、精神に異常を来す要因全般を指す。多くは、自身が置かれている環境から掛かるストレスを打ち消すか誤魔化すために逃げ込んだ、依存対象のことである。

 何かに依存すること自体は悪くない。

 だが、行き過ぎれば社会規範から逸脱した人非人を生み出すものだ。そして、落ちるところまで落ちた人間にはその自覚がないのも特徴だった。

「憑き物の正体を暴き、突きつけ、目を覚まさせるのが憑き物落としだ。依存具合から言えばお宅は重度も重度だ。普段はこんなことしないが、お宅のは落とすに値する」

 そうして、再び問い質す。

「なぜこんな真似を?」

「……う、卯月の霊が、入って、きて」

 卯月の、と言うからには答えているのは『皐月』の自我だ。

 もはや行幸の言を認めてしまっていた。

「それはもういいよ。答えないなら僕が言おうか。お宅のご両親からいろいろと伺っている。お宅は姉の卯月に憧れていた。そうだね?」

「私、私は……」

「事故以外のことでならご両親は娘たちのことを深く理解していた。皐月は姉の卯月を追いかける頑張りやで、卯月はそんな妹の手を引っ張る優しい姉だった」

「……」

 卯月と皐月。傍目には瓜二つでも見分けるのは簡単だった。優れている方が卯月、劣っている方が皐月。両親ならなおさら間違えない。

 卯月は演技の天才だった。主役はいつも卯月のものだったし、有名な音楽学校に合格できたのも卯月だけだった。皐月にも人並みに才能はあったが、卯月の足許にも及ばなかった。

「事故の後、君は『卯月』を名乗った。そして、姉だけが合格していた音楽学校へ入学した。当初は実力の足りなさを疑われたはずだが、最愛の『妹』を亡くしたショックを引き摺っているとされて見逃してもらっていたんだろうさ。厳しいと評判だが、その点はきちんと教育機関だったんだな。あそこも」

 卯月に追いつくのにとにかく必死だった。卒業後は歌劇団に入団し、ようやく世間から認められるようになる。じゅんぷうまんぱんではなかったけれど、皐月は卯月が歩くはずだった人生を、卯月に成り代わって歩んでいった。

「並大抵の努力じゃなかったはずだ。想像することさえおこがましいくらいだ。僕はそれだけは評価する。自分の名前を捨ててまで拾いたいものだったのかは疑問だが、お宅は確かに『柏原卯月』という存在を生かすことに成功した」

 認められて嬉しい。けれど、頑張った評価はすべて卯月のものになった。

 他人となって他人のために生きる。

 意味なんてないのに。

「もう一度訊こうか。なぜこんな真似を?」

 ――どうして私は、卯月になったの?

「だ、だって、卯月は私なんかより優れていて、……わ、私が死ぬべきだったんだって、そう思って……」

 事故の瞬間、皐月が手を引いていれば姉は死なずに済んだのに。

 見殺しにしたのだ、私が!

「言っておくが、僕はお宅の生き様なんて正直どうでもいいんだ。前にも言ったけど、僕の知ったことじゃないし、お宅の決めたことなら好きにすればいい」

 ――この先もそうやって生きていくつもりかい?

 行幸はそう言っていた。あのときすでに行幸には『柏原卯月』に幽霊が憑いていないことがわかっていたのだ。そして、彼女のいびつな生き方にも気づいていた。

「だが、やり方がまずい」

「やり……方?」

「ただ卯月を名乗るだけならよかった。しかし、『憑依させている』とする意識は非常に危うい。自覚していないと思うが、お宅が幽霊に依存すれば関係ないモノまで引き寄せてしまう。今までは運がよかったに過ぎない。でも、このまま続けていれば、いつか手に負えないような悪霊まで呼び込むことになる」

 行幸がねんしているのはそれだけだ。

 やめさせるには卯月の心を裸にする必要があったのだ。

「でも……、でも……っ」

 もうやめ方がわからない。何せ、十七年に亘る大芝居。人生の半分以上を卯月として生きてきた皐月に本来の生き方なんて無いに等しい。

 もうこれすら『柏原皐月』の生き方だ。

 そっと頬に手が添えられる。行幸の声が打って変わって優しくなる。

「卯月であることをやめる必要はない。お宅の今の地位は柏原皐月が築き上げたものだ。卯月の影を追わずとも、お宅なら十分やっていける。お宅はもうあの頃の卯月を越えているよ」

 思いがけない言葉に卯月の瞳が潤んだ。

 きっと、ずっと言ってほしかった言葉に違いない。

『柏原卯月』にではなく、皐月を皐月と認めた誰かに、皐月を褒めてほしかった。

「お宅が――皐月が『柏原卯月』でよかった。でなければ、僕たちはこうして出会えなかっただろうからね」

 卯月はその場に膝をついて泣き崩れた。

 ゆっくりと憑き物が落ちていく。


          *


 楽屋を出た後、泣く卯月を見てげっこうするマネージャーとひともんちゃくあったが、復活した卯月に止められてなんとかその場は収まり、問題は一通り解決された。

「戸籍はもう変えられません。だから、私は卯月のままでいます。それに、ココに居る卯月も否定できません」

 胸を押さえる。皐月が生み出した『卯月』という名の亡霊だ。

「依存するのはいい。ただ、背後に幽霊が居るだなんて幻想はもう使わないことだね。もし気配を感じたとしたらそいつは、卯月の振りをした悪霊だから」

「気をつけます。卯月の幽霊は十七年前にとっくに成仏しているはずですもの」

 それでいい、と頷いて、行幸はスタジオを後にした。


「最初にミウ助に説明させたのは、彼女の背後に居るモノが悪霊かどうか確かめるためだった」

 美雨と由良は顔を見合わせて、首を傾げた。

 事務所へ帰る途中、行幸が唐突に話し始めた。

「ミウ助には視えていなかったし、特に悪さをする素振りもなかったんでね、悪霊化していないとわかった。だから、このまま放置しても大丈夫だと判断したんだ」

「あ、あのっ。何の話ですか?」

「『柏原卯月』の幽霊のことだ。彼女の背後にずっと浮いていた」

「はあ!?」

 ふたりして絶句する。だって、行幸は一貫して卯月には幽霊は取り憑いていないと言っていたから。

「嘘も方便ってね。とにかく彼女には『卯月』の幽霊なんていないと思わせなければならなかった。彼女が『卯月』の霊に依存する限り、『卯月』は成仏できないままだ」

「あれ? それって」

 どこかで聞いたことがあると思ったら、監督と女優霊の関係に似ていると気づいた。

「皐月は『卯月』を十七年間も背後に従わせていたのさ。無自覚にもね」

 女優霊と同じく、死者への未練が魂を現世に繋ぎ止めていた。皐月が卯月への執着・依存を止めない限り、卯月はいつまで経っても成仏できないままだった。

「でも、多くの人は死んだ人を惜しむと思いますけど」

 それで成仏できないとなると、世の中幽霊だらけになってしまう。

「死者をいたむのはいいんだ。しかし、死者の振りをするのだけは駄目だ。死者と自身を強固に縛り付けてしまうからね。程度の問題を言っている。柏原皐月の場合、その結果自分自身を殺し死者を蘇らせてしまった。あれはもう降霊とも呼べない、醜い別の何かだ」

 今回のは極端なケースだったのだ。確かに、故人を偲んで故人に成り代わろうだなんて話は普通聞かない。

「彼女が『柏原卯月』の名を芸名として割り切ってくれれば、後ろに憑いている幽霊もやがて消えるはずさ。僕が祓うまでもなく、ね」

「本当に祓うことなく解決させていたんですね」

 有限実行。まあ、事件の本質を最初から見抜いていたからこその発言なのだろうけど。

「皐月が卯月を蘇らせたのはなぜか。私が死ぬべきだったとか言っていたが、さてどうだろうね。もっと醜い動機があったはずだよ」

「醜い……?」

「たぶんね。そこまで暴くと心まで殺しかねないから言わないでおくよ。でも、もし次に会ったとき、まだ背後に卯月の霊を引き連れているようだったら、そのときは問答無用で『鎖』を千切ってやるさ」

 しっこうゆうだ、と行幸は言った。無理やり『鎖』を引き千切れば憑かれている者の精神に少なからず影響が出るため、自ら未練を断つ猶予を与えたのだ。その処置は行幸の恩情と言ってもいい。

「『鎖』で繋がれた幽霊の方は一体どんな気持ちでいたのかしら」

 由良が寂しそうに呟くと、「莫迦なことを言うんじゃない。幽霊は生前の思念の残りかすだ。死んだ後に上書きされる思いなんてあるものか」と行幸は憤慨した。

 美雨はふと気になって背後を見る。――何も視えない。

 大好きだった故人が背後霊となって常に見守ってくれていたら嬉しい。でも、自分のせいで成仏できずにいるのだとしたらそれはそれで悲しいと思う。

 いま、美雨の背後には祖母の霊が居るのだろうか。

 居たとしたら、私は……。


      *   *   *


 ――皐月が死ぬべきだったんじゃないの?

 あのとき聞いた卯月の声は、私の心が生み出した悪魔のささやきだった。

 卯月に取って成り代われる好機。

 天才という称号も、音楽学校への合格も、全部私のものにできるチャンス。

 卯月の声なんて本当は聞こえていなかった。

 仮に、卯月の幽霊に取り憑かれていたのだとしても、私は聞く耳を持たなかっただろう。

 せっかく死んでくれたのだから。

 せっかく殺してあげたのだから。

 私はワタシを演じるわ。

 思うとおりに。

 それが卯月へのしょくざいであり、皐月が背負うべきごうである。

 私は『柏原卯月』だ。

 これからも、ずっと。

「そうでしょう。――――ね? 卯月?」

 鏡の中で、ワタシが笑った。


(了)




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霊能探偵・初ノ宮行幸の事件簿/3巻発売記念集中連載 山口幸三郎/メディアワークス文庫 @mwbunko

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