『何時か』の話

 ようやく面会を許された日の午後、昴は学校帰りにそのまま病院へと向かった。

 母親の出産はかなり厳しい物とはなったのだが、幸いなことに母子ともに健康そのもので、医者も驚いていた。

 けれど念のために暫くの間面会謝絶の絶対安静を余儀なくされたため、昴がひとまわり以上も年の離れた弟に会うのはこれが初めてだった。

 父親は出産時に硝子越しに見守っていたそうで、一通りの検査が終わってから短時間だが面会することが許されていた。

 午前中には親戚や友人達が見舞いに訪れてくれたため、母親の一人部屋には様々なベビー用品と見舞いの品が所狭しと置かれている。

 一応は学生にとっての正装である学生服で、念のために消臭剤を全身にふり、しっかりと手を洗ってからアルコール消毒を行った上での面会だった。

 母親が微笑みながら抱いている、名前が決まっていない弟の寝顔を見ながら、昴は少し控えめの声で彼女に尋ねた。

「——母さん。どうして出産日の前に、曾祖母の話なんてしたの?」

 唐突な息子の質問に、母親は穏やかな声で答えた。

「……覚えておいてほしかったから、かな。昴はお祖母ちゃんに会ったことはない。今、お祖母ちゃんのことを覚えているのは、私と母さんだけ。だから、少しでいいからお祖母ちゃんの大切な思い出を昴に覚えていてほしかったの」

 詳しいことは伏せたまま、母親は温かな眼差しで昴に微笑みかける。

「別にしっかりとでなくてもいいの。ただ、そういうこともあったっていう、私とお祖母ちゃんの思い出話を聞いたっていう思い出を、ほんの少しでもいいから昴に覚えていてほしかった。……ただの私のわがまま」

「……そう。うん。それでいいと思うよ。……ああ、これ、しょぼいかもしれないけど、出産祝い。花粉は落ちないように取ってもらったから」

 昴そう言いながら、真っ白な百合カサブランカを母親に差し出した。

 昴にできる精一杯の祝福を込めて。


 昴は病室からの帰り道に窓の外を見ると、反対側の建物の屋上で看護師たちがシーツを取り込んでいるのが目に入った。

 昴は無言のまま少しだけ足を速めに動かして、この棟にある屋上へと続く階段へと足を向ける。

 そうして辿り着いた屋上への階段は所狭しと置かれた物たちで塞がれていた。

 掃除はされてはいるものの、明らかに長期間放置されていたのがすぐに分かる状態だった。

 最後に屋上に立ち入った日、あの後どうやって家に帰ったのか覚えていない。我に返った時には既に自室のベットの上で寝転んでいた。

「……まあ、いいか」

 昴はそう小さく呟くとその場を後にする。

 ……少女との思い出が現だろうと夢だろうと、昴にはどちらでもよかった。

 ——ただ、昴自身が覚えているのであれば、半信半疑であろうとも、きっと少女は気にはしないだろうから。

 

 ——その日、昴は病院を訪れていた。

 昴の弟は例にもれずに小児喘息を患い、この病院の一室に入院することになった。たまにだが、空いた時間には見舞いに訪れるようにしていた。

 年の離れた弟は、もうじき七歳の誕生日を迎える。幸いなことに病状は改善しており、弟の誕生日には一時帰宅を許されている。

 そのことが嬉しいのか、弟は少しはしゃいでいるらしく、母親は嬉しいやら心配やらで苦笑していた。

 この病院はこの町の中ではかなりの古株で、建物自体の経年劣化が進んでいるため、もうじき閉鎖されることになっている。

 元々町から離れた丘の上ということで交通の便が悪く、前から移転の話が持ち上がっていた。

 最終的には麓にある、同じくらい古い病院と合併されて、今は別の場所に新病院の建物が建築されている最中だ。

 産まれたのも、小児ぜんそくで入院したのも、弟の出産を手助けしてくれたのも、この病院だったため、昴にもそれなりに思うところがあった。

 思い出を懐かしみながら昴は病院の正面玄関を出た所で、声をかけられて足を止めてそちらに振り返った。

 そこにいたのは親戚の女性と見覚えのある少女だった。

 昴は一瞬目を見張り、驚きのあまり固まってはいたが、すぐに我に返って挨拶をした。

「……お久しぶりです。正月の時に挨拶をした時以来ですね。……もしかして、弟のお見舞いですか?」

「ええ。やっぱり血縁なのかしら。うちの子も、昴君も、同じくらいの年に小児ぜんそくで入院していたから。具合は悪くないって聞いているけれど」

 困った顔で笑う女性に、昴も似たような顔で笑いながら頷く。

「わざわざ足を運んで下さってありがとうございます。——その意見は同感ですね。俺も弟もですから。でも、そんなに深刻なものではないのが幸いですね。弟ももうじき一時帰宅できるそうなので、はしゃいでいます。ご迷惑を掛けたら申し訳ありません」

 昴はできるだけ自然な態度を装いながら、女性の傍で所在なさそうに外の景色に目をやる少女に笑いかける。

「こんにちは。確か、七星さんだったね。タイミングが悪くて、顔を合わせるのもかなり久しぶりだと思うけど」

 急に話しかけられたことに少女は少し驚いたようだったが、すぐに昴の方を見て軽くお辞儀をする。

「……はい。お久しぶりです。昴さんも入院されていたのですか?」

「うん。君が入院している頃、ちょうど弟が生まれたんだよ」

 少女は昴が入院していたということが気になっているようだったが、親の女性が大きく頷く。

「そうそう。ちなみに昴君が入院している頃にあなたが生まれたの。私も大事をとって入院していたから。……そういえばそれも同じね」

 代々お世話になっていた病院がなくなるのは寂しいという話をしてから、それなりに時間が経っていることに気がついて、両者はその場で分かれた。

 昴が歩き出そうとすると、空から雨が降ってきたことに気がつき立ち止まる。空は明るく薄い雲が見える程度で、所謂お天気雨かと呟いた後、ちらりと後ろを見た。

 見覚えのある少女が自らの母親と並んで病院の奥へと向かう後姿に、昴はとある少女の姿を思い出しながら、鞄に入っていた古ぼけた携帯端末を取り出す。

 今は記録されたデータを残すためだけの端末を起動させる。画面に映る写真には基本的には人は映ってはいない。

 何時かの夕陽の中に揺らめく陽炎。

 何時かの淡い水色と鮮やかな茜色。

 何時かの雨の幻影の海に沈む街並み。

 何時かの色彩と太陽と月と星の共演。

 何時かの複数の灰色が作る退廃。

 何時かの空を流れていく重い雲。

 何時かの幸せな夢の中に咲く花。 

 ぼんやりとする光景の中の鮮明な『彼女』を思い出す。

 思い出の『彼女』と、思い出の自分が、教えてくれる。

 きっと、他人事であったのならばすぐに気がついた。難しくもないことだったというのに、今の今まで昴は気がつかなかった。

 初対面で怪しいと思った得体の知れない相手に、何度も会いに行く。

 一時の思い出を何度も夢に見る。

「——それは、きっと、『恋』だったのだろう」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それは、きっと、恋だったのだろう @hinorisa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画