『日』の話
「——私の役目はここまでだ。これからは君の人生だ」
何もない暗闇の中で、誰かがそう彼に言うのが聞こえた。聞きなれたはずなのに聞いたことのない声。
何故、この時期に少女は現れたのか?
何故、あの病院の屋上だったのか?
何故、昴の前に現れたのか?
何故、神様なのだというのか?
記憶が思い出が混濁していく。本当にあったことと、誰からか聞いた話が混ざり合って、頭の記憶容量を圧迫するせいで、今朝から頭が重く、昴はベットに体を預けて、窓の外の激しい雨音を聞きながら、逡巡と浅い眠りを繰り返していた。
昔の学者が小難しいことを言った。この世界は十秒前に生まれたのかもしれないと。
けれど、人間は世界を認識して、個人の人格が出来上がって、ようやく本当の意味で生まれたといえるのではないだろうか?
そんな意味もない。答えもない。確かめる方法もない。そんなとりとめのないことを延々と考えていた昴は、不意に我に返って半日以上寝転がっていたベットから身を起こした。
朝食を抜いたせいか、心なしか体も重く、昴はため息を吐く。
昨日の夕方から降り注ぐ雨のせいで、みんな外出を控えているためか、休日だというのに外から車の音がほとんどしない。
本来ならば昴も一日中家にこもっている筈だったのだが、今日の予定は昨日から決まっていた。
私服に着替えて、寝癖を直して、身だしなみを整える。財布と携帯端末と鍵を上着のポケットにしまうと玄関に向かう。
母親の体調がすぐれないのことで、父親は彼女の病室に泊まっているため、家の中は昴しかおらず静まり返っている。戸締りも昨晩からしたままなので、確認する必要はない。
外で車が雨水をはねながら走る音がしたが、通り過ぎると再び雨音だけになる。
靴を履いた昴が下駄箱の傍に立てかけてある傘を手に取り、玄関のノブを回して扉を開くと、雨の匂いと音が一気に大きくなった。
外に出た昴は扉して鍵をかけると、土砂降りの雨の中へと傘を開いて外へと足を踏み出した。
多少の寄り道をして、バスを使って病院に着いた昴は病院の玄関先で一度立ち止まる。広い屋根のおかげで一息つく広さは充分にある。
傘を閉じて軽く揺すって雫を落としてから、備え付けのビニールのカバーに入れる。一昔前は傘立てが置かれていたのだが、盗難が相次いだせいで撤去されてしまった。衛生面などひと悶着はあったが、結局使い捨てのビニールのカバーをつけることで落ち着いたらしい。
手に抱えた紙の包みの中身を確認してから、ゆっくりと自動ドアを潜った。
やはり休日といえど、土砂降りの雨のせいで面会客は少ない。駐車場も殆ど空車で雨水が降り注いで水が溜まっている。
いつもは母親の病室によって見舞いをしてから屋上に向かうのだが、この日はまっすぐに屋上へと向かう。
金属製の古い扉を開くと、コンクリートに激しく叩きつけられる雨音と湿度の高い空気が入り込んでくる。
昴は心地よい雨の匂いを感じながら、屋上へと足を踏み入れた。
……おそらくはこれが最後になるだろうと思いながら。
土砂降りの日の屋上には、人の気配はない。こんな日に屋上に行くのは変わり者ぐらいだろう。
変わり者だと自覚しながらも昴は扉を閉めて、雨除けの下でしばらくの間雨で霞んだ空を眺めていた。
「——こんにちは」
透き通るような少女の声がして、昴は声がした方を見る。激しい音を立てて降り注ぐ雨の中、何事もないかのように少女は佇んでいる。
雨の中に立つ少女の元へと昴が駆け寄ろうとするのを当の本人が止めた。
「……それとも、こんにちはが正しいのかな?」
体に振動が伝わりそうなほどの大粒の雨の中でも、少女の声は雑音など諸共せずに昴の元に届く。
けれど、降り注ぐ雨がベールのように少女の表情を隠してしまっている。数メートル先に佇んでいるのは確実だというのに、不思議と少女の顔だけが濃霧の中の様に曖昧で不確かだった。
少女が昴に自分の姿を見られることを躊躇しているのが分かった。
「——私は神様なんだけれど……、あなたの願い事は何?」
少女が言葉を言い終わるのを待ち、その問いかけに対して昴は口を開いた。
「母子ともに無事な出産」
一気に吐き出すようにはっきりとした口調で、昴はまっすぐに少女を見て言い切った。土砂降りの中、昴の声は確かに少女の元へと届いた。
顔が見えない少女は驚ているのか数秒間固まり、昴の願い事を言葉として理解したのか、安堵したのが雰囲気で昴にも分かった。
「——願い、確かに聞き届けた。貴方の母に、安産を約束しよう」
厳かで抑揚のない平坦な声。あらかじめ録音しておいた音声を流したかのような感情のない声。
けれど次の瞬間には、少女が年相応の可愛らしい声に戻っていた。
「任せて。貴方は信じていないかもしれないけれど、この願いは確実に私が叶えてみせるから」
他人ごとのはずなのに、自分のことのように少女が喜んでいるのが声だけで分かる。
……ああ、最初から、少女はそういって欲しかったのだろう。
昴は少女が最初に言っていた叶えられる願いの条件を思い出していた。
「……これは、俺のたわごとだと思って欲しいんだけど。君が俺の所に来た理由の一つは、俺に自分が叶えられる願いを言わせたかった、から?」
普段と変わらない声量と口調で話す昴の質問に、少女の視線が真っすぐに向けられていた視線が僅かな時間の間外されて、再び戻ってくる。
「……もし、君が本当に神様であるのであれば、願い事を叶えて信仰を集めるのは重要なことのはずだ」
——もし、少女が語った通りの内容だとすれば、信仰が彼女の存在を肯定して、より強く確かなものへと変えてくれる。
……ならば、願いを叶えることを失敗することは死活問題の筈。ならばどうするのか。その時に思い出されるのが母親の祖母の故郷での話。
「もし、願う対照が複数人居て、その中の一人の願いを叶える必要があるのであれば、叶えられる願いを選ぶはずだ。……もちろん簡単すぎる願いばかり叶えてばかりだと信頼を無くすから、——願う側にはどうしようもない、手出しできない願いであること。尚且つ、君には手出しできる願い。君の言う確率操作でどうにかなる願い」
母親の話の中にあった、村人たちの願いの中から神様が叶える。というお祭りの内容はそのまま聞くのであれば、神様側が相手を選んでいるようにも取れる。
あくまで自分ができる範囲で、無理のない人数の願いを叶える。
「例え叶わなくとも、元々そういうものだと思っている人達相手であれば問題はない。彼らの周りの人間の願いがある程度叶っていればいい。ああいう小さなコミニュニティーであれば、願いが叶ったかどうかなんてすぐに全員に伝わる。誰かの彼らからは直接手出しできない願いが一つでも叶っていれば、それでいいんだ」
結局の所、信仰なんてそういうものなのだ。願いが叶えば神様のおかげ。叶わなければ信仰が足りない。災いが起これば信仰が足りない。当てられるような悪い行いをした。災いから逃れられれば、神様のご加護、信仰のおかげ。
信者たちはそれで勝手に納得する。
——悪魔の証明。
それが神によるものか、悪魔によるものか、人間の手によるものか、完全な偶然なのか。
誰にも証明できない。なぜならば、信じる人たちの中には、確かに神様はいるのだから。
「……もし、あなたの願いが叶わなかったら?」
今度は感情を押し殺すように、わずかに動揺でわずかに声の発音がずれていた。
「……さあ。なってみないと分からない。どっちにしろ、恨むにしても、俺が君に八つ当たりか、逆恨みでもして終わりだろう」
昴は大したことではないと肩を竦める仕草をした。
「時間が経てば、その怒りや恨みも忘れるだろうし」
けれど、少女はそうではなかった。
「……駄目……だよ」
先ほどよりはましになった雨音が少女の呟くような声の邪魔をする。
「い……だよ」
先ほどよりも少女の声量が上がる。先ほどまでの厳かな雰囲気も、年下を愛でるような柔らかさもない。
「……私は…貴方に……、——忘れて欲しくない。覚えていて欲しい」
ずっと何かを堪えるように、必死に感情を押し殺して、昴の願いを尋ねていた少女の年相応の声。
ずいぶんと小さくなった雨の音は、もう彼らの声を邪魔することはできない。
「——ずっと、考えていた。仮に、君が本当に神様だったとして、なんで俺なんだろうって」
もし、少女が母の故郷の神様だったと仮定する。
願いを叶える条件は分からない。ここは故郷の集落ではない。社もない。祭りもない。信仰もない。
祭りがいつの時期だったかは分からないし、信仰していない者の願いも叶えてくれるのかも分からない。もしかしたら血の繋がりも関係しているのかもしれない。
「もし、君の言うことも、母の話も信じたとして……。だったら、なんで母さんの所に直接行かなかったのか?俺なんかよりも、そういったことに抵抗はないし、むしろ神の存在を半ば肯定している。——だったら、信じている方に行くだろう?」
信じていないものを信じさせるために、という可能性もなくはないが、元々信じられている状態の人達が祭りを行って、願いを叶えて貰っていた。
ならば、その集落の遠縁にあたるとはいえ、ほとんど信仰心もなく、今でさえ完全に信じ切れていない昴に固執する理由がない。
「——だから、俺に、願いを言って欲しかったんだと推測をした。それで考えた。七つまでは神様のうち。その話を聞いて、子供の頃を思い出してみた」
曖昧で朧気で実感のない六歳頃の記憶。昴はそれを時間をかけて辿ってはみたが、思い出していて、思い出すほど違和感を覚えた。
——端的に言えば、七歳までの記憶が鮮明すぎているのだ。
「目の前で記憶を保存した映像を流されているみたいで。でも、それこそ他人が演じた映像を見ているみたいに、実感がない。いくら思い出しても、ただ映像媒体としての記憶としか思えなかった。……七歳からの記憶は曖昧になっていることもたくさんあるのに、流石に不自然だった。今まで、昔のことを思い出そうとしなかったから分からなかった」
昔のことを思い出そうとしながら眠りに落ちたせいか、何故だかはっきりとした七歳になる直前の記憶を夢に見た。その次は曖昧で夢らしいと言えば夢らしい夢。けれど、それは本当にただの夢だったのか?
——答えも、確信も、元より質問すら意味がない。
「……だから、考えるのはそこで止めた。感、というか何となくそうしたいと思ったことをすることにした」
気がつけば雨は弱まっていて、今では少女の背後のフェンス越しの風景が昴の目にも見えるようになっていた。
けれど、顔を俯けて頑なに上げようとしない少女の表情は、今だに見ることはできていない。少女の体は滝の様に降り注ぐ雨の中にいたのにも関わらず、全く濡れた様子が無い。
しとしとと降る小雨の雫は少女の体を濡らすことも無く、避けるようにして地面めと落ちていく。
ゆっくりと雲が動き、遠くの灰色の空が割れて、光が漏れだしていく。
昴は傘を壁に立てかけてから、徐に腕に持っていた紙の包みを開く。かさりと音を立てて、透明のビニールの包まれた一本の白い百合の花——カサブランカが静々と姿を現した。
「……俺は、あまり植物に詳しくはない。けど、昔何かの本で見たことがある。この花は祝い事の時に送られるって」
カサブランカの花言葉は数多くある。珍しくもない、祝い事ではポピュラーなものだ。
「——けど、俺が思いついたのはこの花だったから」
何時だか分からない雨の日に、雨に打たれながらも咲き誇る百合の花が、今の少女の姿に重なる。
灰色の薄い雲のベール越しに、鮮やかな赤色の空が燃えるように揺らいでいる。黄昏が訪れたのを確認した昴は、雨除けの影の中から一歩前へと踏み出す。
ゆっくりと灰色の空が割れて、光があふれだす。あふれ出た光は地上へと降りていき、天と地上を一時の間だけ繋ぐ。
『天使の梯子』の中で、昴と少女は邂逅する。
「誕生日おめでとう」
昴は微笑みながら百合の花を差し出した。
目の前に差し出された百合の花と『彼女』を祝福する言葉に、少女は心の底から歓喜する。
少女であって少女でない、寂しがり屋の神様に、『彼女』に向けた生まれてから二回目の祝福が与えられる。
少女は恐る恐る差し出された百合の花を受け取ると、それが夢ではなく、確かに自分の腕の中にあることを確かめる。
『彼女』の最後の手向けを愛おしそうに優しく抱きしめる。
『彼女』は心の底から思う。
「ああ……。生まれてきて良かった」
震える声で『彼女』は呟く。
——自分は確かにここ居て、誰かと出会って、話して、思い出の中にいるのだと。
『彼女』は俯けていた顔を上げて、真っ直ぐに昴を見る。
……彼は『彼』ではない。けれど、やはり彼は『彼』なのだと。
本当は少女は生まれてくる確率は殆ど無かった。けれど、産まれてきた。少女の母親ががそれを願って、『彼』がそれを叶えたから。
今でも少女は覚えている。『彼女』が生まれて初めて聞いた言葉。
「おめでとう」
何故、昴を選んだか。理由はずっと恩返しのようなものだと漠然と思っていた。けれど、今、この瞬間に、『彼女』は理解する。
「ありがとう」
——ああ、これは、きっと、『恋』だったのだろう。
遠く暗い天から光の柱がいくつも地上にある町に差し込み、境目に立つ山々から、昼と夜の狭間の黄昏が訪れていた。
雨が止んだ空の下、コンクリートでできた地面には雨水が溜まり、広く浅い海のようだ。鏡の様な水面に佇む少女は大切そうに百合の花を優しく抱いている。
太陽が沈み、薄暗い宙に淡い月と宵の明星が浮かんでいる。
ここには鳥も魚も獣もいないけれど、只人の昴は一枚だけ、少女の祝いを記録する。
だから『彼女』は心の底から安心してゆっくりと瞼を閉じる。
「——お休み」
それはとても幸福な夢だった。
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