『土』の話
昨日から降っていた雨は今朝方上がった。
けれど空は分厚い雲に覆われていて、いつ雨が降ってもおかしくない。遠くの空が霞んで見えるのはそこに雨が降り注いでいるからだろう。
その日は休日で、昴は何も考えずにベットの上で寝転がったまま宙を眺めていた。
着替えて朝食をとった後部屋に戻り、何をすることもなくただ時間を浪費していく。
気がつくと昴は夢と現の狭間にいた。何となく今見ている光景が夢だと認識しているのだが、生憎夢の中の彼は思う様には動けない。
昴は何となく流れていく夢の光景に既視感を覚える。
夢の中で昴は最近すっかり見慣れてしまった病院の中にいた。けれど夢の中の病院は心なしか置かれている備品が新しい。案内板の内容や、椅子や観葉植物の配置なども若干異なっている。
特に視界にあるもの全てがいつもよりも大きく高く見えた。
気がつけば昴の隣には母親が立っていて、目の前にはベットで上半身を起こした状態の女性が座ってこちらを見ている。
やはり目の前にいる女性には見覚えがあるのだが、誰であるかは思い出せない。隣に立つ母親は心なしか若いように見えた。
……ああ、なるほど。これは過去の記憶。
周りの物が大きく見えるのは、単純に昴の体が幼く小さいから。出てくる人にも景色にも見覚えはあるのに、この光景——思い出には何の感傷も感じない。
何となくこんなことがあったなと頭では分かっているのに、他人事の様にしか思えずにぼーっとその景色を眺めていた。
不意に母親が昴の傍を離れて部屋を出ていった。
目の前の女性と昴は何かを話しているが、それらは音としては記憶されていないからか聞こえてはこない。
少しして昴が何かを女性に尋ねると女性は若干驚いたが、徐に自らの大きく膨らんだお腹を愛おしそうに撫でた。
女性に促されて昴は彼女の膨らんだお腹にそっと触れる。不思議と触れた手のひらが温かく、お腹の奥に弱弱しい命が胎動しているのを感じた。
——唐突に夢から覚めた昴は、自分が自室で寝転んでいることを思い出した。
あまりにも温かく柔らかい命の感触が現実的で、一瞬自分が起きているのか寝ているのか分からなくなった。
自分の心臓が強く鼓動するのを感じ、耳の奥でとくんとくんと脈打つ音が聞こえてくる。
……夢の中で感じた命は、母子共にひどく弱かった。
ふとそんなことを思いながら起き上がり、枕元に置かれた充電中の携帯端末に表示されている時間を確認する。
本格的に雨が降るのは夕方からだと、昨日天気予報を確認した際に言っていたのを思い出した昴は、携帯端末が充電されているのを確認してから手に取り、一緒に置いていた財布と一緒に上着のポケットにしまうと、そのまま部屋を後にした。
昼前には病院に着くことができたので、そのまま母親の病室に向かう。
病院独特の消毒液の匂いと、妙に音が響く廊下の足音を感じながら、霞がかったようにぼーっとする思考のまま歩いていると、母親の病室から見覚えのある女性が退室するところだった。
女性は部屋の中へ軽く頭を下げて礼をすると静かに扉を閉めて、昴に背を向けて廊下の奥へと遠ざかっていく。
昴はその場にくぎ付けになっていたが、その姿が見えなくなると我に返って、いつもよりも強く打つ自らの鼓動から意識を逸らして、扉をノックする。
母親の返事を聞いてから昴は扉を開いて入室すると、目の前でベットで横になっている母親を見て、唐突な拒否感を覚えた。けれどそれを理性で抑え込み、おくびにも出さずに平静を装って彼女に話しかけた。
「——お客さん?」
昴は動かしづらい声帯を強引に動かして、いつもと同じように備え付けの椅子に座る。
「……ええ。前に話した従弟。相変わらずの人見知り?」
母親はベットに横たわったまま、血の気の引いた青白い顔に苦笑を浮かべる。
「……体調が悪いなら、今日はもう休んだ方がいい」
こんな時でも気の利いた一言が言えない自分に辟易しながらも、昴は部屋に充満する嫌な雰囲気を振り払うように少し強めの口調で言う。
母親も自分の体調の悪さも、それに昴が気がついていることも分かっているのか、努めて明るい口調で返答する。
「……ごめんなさい。今朝から少し気分が優れなくて。たまにあることだから。——できれば私が眠るまで話し相手をしてくれる?」
おそらくは従弟に気を使って少々無理をしたのだろう。そのすぐ後では取り繕うだけの気力が残っていない。けれどそれは家族への甘えと信頼だと昴は理解していたため、母親の些細な頼みごとを躊躇うことなく引き受ける。
話題は最近の天候だったり、ニュースの話だったりとたわいのない世間話。母親は昴が学校の話をするのが苦手なことを知っているため、テストや成績の話以外でそれを尋ねることはしない。
一通りの話題を終えた頃、昴は不意に今朝見た夢のことを思い出した。
「——そういえば、今朝変わった夢を見た。病院で妊婦さんと話す夢」
「……それって、もしかして子供のころの夢?」
「——多分。何となくだけど周りが大きかったし、母さんも出てきたから、多分。さっき見た従弟の人だと思う」
母親は昴の顔を見つめて目を瞬かせた。
「……不思議なこともあるものね。ああ、でも最近病院に来ることが多かったことと、私が妊娠していることもあるのかも」
そう言いながら母親は布団に覆われている自分の大きなお腹を優しく撫でる。その様子を見ていると、何となく昴は一抹の寂しさを覚えた。
「——母さんは神様っていると思う?」
唐突な昴の質問に驚いた様子だったが、母親お腹を撫でるのを止めて天井を見つめて逡巡すると、淡い微笑みを昴に向けた。
「……私はいると思う。見たことは無いけれど、多分いると思う。——昴は、どう思う?」
「……どうだろう。居るとも居ないとも断言はできないかな。だって、俺はそれを見たことも聞いたこともない」
話題をふった割には曖昧な答えだったが、母親は変わらずに穏やかな瞳で昴を見つめている。
「……お母さんのお祖母ちゃん。つまりあなたにとっての曾お祖母ちゃんに、昔に聞いた話。お祖母ちゃんはね、ある場所の山の中の集落の出身なの。私も子供の頃に行ったことがあるけれど、とても綺麗な所だった。自然が豊かで、いつも明るい緑色に包まれて、守られているような場所」
不意に昴の脳裏に生命が見えない森と川の映像がよぎる。
——鮮やかな命の色に満たされているのに、そこには人間の姿は無く、静謐な世界。けれど、酷く悲しく、寂しい。
「そこには土着信仰——その集落を守る土地神様を祭っていたの。——子供が七つになるまでは神様に近いっていう話は聞いたことはある?」
思い当たることは無かったので昴は素直に首を横に振る。
「まあ、これは七歳ごろまでしっかり体ができていなくて、弱くて死にやすいというところからきているらしいのだけど。……お祭りがある年に七歳になる子供を神様の使いだとして、一年間村に在るお宮さんで神事の手伝いをするの。そして祭りの当日に神様に扮して村人の願い事を聞くの。そのお願い事の中の一つは必ず叶う。……そのお祭りで、お祖母ちゃんは神様に会ったことがあるそうなの」
母親はいたずらをした時の子供のようにくすくす笑う。
その姿が少女の姿と重なり、昴は戸惑ってしまったが、母親は気にした様子は無く、遠い昔を懐かしんでいた。
「その年は七歳になる子供がその子しかいなかったらしくて、お祖母ちゃんは暇な時にその子の神事の手伝いをしていたそうなの。——その手伝いの時に、その子に尋ねられたらしいの。『何か願い事はあるか?』って」
母親の語る話の内容が、昴の頭の中で少女と自分の姿で呼び起こされる。
「……お祖母ちゃんは実はその子のことが好きで「将来お嫁さんにして欲しい」って言ったらしいの。けどその子は「その願い事だけはどうしても叶えられない」と答えて、別の願い事を尋ねたらしいの。理由を尋ねたら、「もし、大人になってもまだ自分のことが好きであれば、もう一度言って欲しい」って。だからお祖母ちゃんは子供だから仕方がないと思って、代わりに「今いる皆がちゃんと大人になれますように」ってお願いしたらしいの」
何となく昴はあったこともない曽祖母に思いを馳せた。姿を見たことも、声を聴いたこともない。
確かに最初は自分のための願い事だった、けれどその後に願ったのは大多数のこと。もちろん大人になって再度告白するためであったのだろうが、それでも彼女は皆の健康と安全を願った。
「……それで、大人になってから再度告白をしたの。——大人と言っても今よりはずっと若い。今の人からしたら十分に子供。結果はその告白は受け入れられて、結婚して、子供を産んで、家族になった」
話としては恋が実ったハッピーエンドと言っても差支えがないのだろう。対して珍しくもないだろう——けれど当事者たちには特別な話。
「……私はね、初恋なんて実らないって嘘だねって、お祖母ちゃんに言ったの。そうしたら微笑んで「半分は叶ったけど、半分は叶わなかった」て寂しそうに言ってた」
遠い思い出を語る母親の横顔を見ながら、昴はきっとその時の曽祖母も同じような表情だったのだろうと思った。
「——自分はお祖父ちゃんが好きで告白をした。けど、多分、最初に好きになった人と次に好きになった人は、外は同じだけど中身は違う人だった。……そう言っていたの。だから私は子供の頃と大人になった頃でそんなに性格が違ったのかと思って、そのまま尋ねたの。性格は子供の頃と大して変わってはいない。少し引っ込み思案で、けれどとても優しくて、しっかり者で、けれどどこか頼りなくて。傍にいないといけないと思わすような人だったそうよ」
母親は首を傾けて、昴の方を見て話す。不意に昴は昔に母親に絵本を読んでもらったことを思い出した。
これは会話をしているのではなく、母親が子供にお話を聞かせて何かを伝えようとしているのだと、昴は漠然と思う。
「……最近ね、夢を見るの。その見た夢の中に、おばちゃんの話を聞いた時のこともあって、……その話に出てきたお祖父ちゃんと昴がとても似ているなって思ったの」
そんな母親の顔を見ながら、昴は自分の母親はこんなにも弱弱しかっただろうかと、昔の姿を思い出そうとするが、曖昧な姿と今の姿が混ざるような姿しか思い出せない。
本当に人間の記憶なんて当てにならないと、昴は他人事の様に心の中でため息を吐いた。
「……七つになるまでは神様のうち、というのは本当で、おじいちゃんは七歳になったから神様じゃなくなった。だからきっと、お祖母ちゃんが好きになったお祖父ちゃんは同じだけれど、違う人だったんじゃないかって。——ねえ。昴」
青白い血の気の引いた顔で、母親は力強く微笑む。
いつもと変わらない母親の姿が昴の記憶に強く焼き付いていく。いつかこの日のことを思い出す日が来た時、母親の姿が思い出せなくなったとしても、きっと今の感情を忘れすことは無いのだろうと昴は思う。
「——私はね。貴方の母親で良かった。そのことだけはずっと忘れないで。貴方がどんな大人になっても、それだけは忘れないで」
母親は分かっているのだろう。ずっと病弱な体と付き合ってきたのだから。分かった上で産もうとしているのだと、昴は閉じられていく瞼を見つめていた。
「……私は貴方とこの子の母親になれて幸せだから」
独り言のように呟かれた言葉を最後に、母親は規則正しい寝息を立て始めた。
弱弱しい息遣いであることと生気のない青白い顔色のせいもあって、本当に生きているのか分からなくなるほど。それでも息子に弱音を吐くことをしない母親を昴はじっと見つめ、起きている時には決して言えない言葉を呟く。
「……ああ。俺もそう思うよ。ありがとう、母さん」
どんよりとした厚い雲に覆われた空を昴は屋上で一人で見上げていた。最初に数枚、どんよりとした薄暗い曇り空と街並みを金網越しに撮影した後は、意味もなくゆっくりと重たそうに動く雲を眺めていた。
それに大した意味は無く、ただ何となく外の風を浴びて、自らの内に溜まった負の感情を吹き飛ばして欲しいと思ったからだった。
けれど実際の所はそんなことが起きることはない。肌を撫でる風はじっとりと湿り気を帯びていて、逆にもやもやとしたものが入り込んでくるかのように、昴の気分は空と同じで暗くて重い。
「どうかしたの?あまり体調がよくないようだけど」
フェンス越しに町の風景を眺めていた昴の背後から、すでに聞きなれた少女の声が投げかけれた。
古びて経年劣化した鉄製の扉が音を立てることも無く、少女は当たり前のようにそこにいた。
昴は振り返ることもなく、自らが生まれて育った街を眺めながら質問に答える。
「……気分自体は良くないけれど、体調は問題ない」
病院は住宅街から少し離れた所にある丘の上に建てられていた。
——昔、この病院は世間から隔離する必要性のある患者ばかりを受け入れていた。時代の流れで医療が進歩したおかげで入院患者が減り、やがて普通の病院としての役割を果たすようになった。
いつだったかそんな話を親から聞いたことを思い出しながら、昴は見える筈がない人の営みが続く町を静かに見据える。
「——ねえ。願い事は決まった?」
少女は何時かのように彼の背中に問いかける。
「——もし、君が本当に神様だというのであれば、俺の願い事を叶えてくれるのか?」
いまだ半信半疑——よりは六割がた信じてはいないのだが、昴は藁を掴む思いで少女に尋ねた。
昴の様子がおかしいことは少女も気がついているのだろう。これまでのように世間話をすることもなく、感情の薄い抑揚のない声で答える。
「……種がまかれている物ならば。その目を芽吹かせることはできる。私に叶えられる願いは自然の摂理に含まれたものだけ。山で命が芽吹き育ち、そして次の命を生み、やがて枯れて朽ちて、その亡骸を土壌にして再び命が生まれて育つ。植物も獣も鳥も魚も、——そして人間も」
その声は厳かで、優しく、強く、弱く、儚く響いて宙に消えていく。
「私のことを信じられなくてもいい……。……貴方の願いをただ口にすればいい」
「——もし、本当に神様というものが居るのであれば、人間の営みを意に介さないか、人間の営み中で信仰心を求めるものかと、何となくだけど思っていた」
「私は後者の神様。人々の営みの中で生まれて、人々と共に生き、……人々の記憶と共に朽ちていく」
少女の声を聴いてると、昴の中で先ほどの母親の声が思い出される。そこで昴はどうしてそう思うのか思い至る。
——両者とも、終わりが近いと悟っているのだと。
それを理解したときは恐怖があったはずだ。理不尽な運命に嘆いたはずだ。そうして時間とともに受け入れて、そういった感情を自分の中で消化した。
だからあまりにも穏やかな声が、昴に不安を与えて心を遠ざけていたのだと。
「世の中にある大概の物はそうやって終わるんだよ。それが早いか遅いかの違いだけで。人間も、獣も、魚も、虫も、植物も。そうやって生まれて朽ちていく」
少女の声と厳かな語り掛けるような口調がちぐはぐで、外見と中身が擦れあって摩擦音を立てている。
「ねえ。君は……もう……、本当に……、願いは無いの?……私は、君が良いの」
まるで助けを求めるかのように、昴は背中に得体の知れに何かの手が伸ばされるのを感じた。それは間違いなく少女の声で気配。けれど、きっと、彼には理解できない何か。
人間は理解できないものを怖がる。
昴はとっさに伸ばされた手から逃れるために、振り返りながら後退する。強引に体を捻ったせいでバランスを崩し、昴の背中がフェンスにぶつかる。
けれど、振り返った昴の目の前には誰も居ない。
一瞬で体を這いあがった寒気と恐怖に、昴の行動が早くなり、どっと冷や汗が噴き出す。
何もない見通しのいい屋上には少女の姿も形もない。それを確認した昴の体から力が抜けて、フェンスにもたれ掛かりながら擦り落ちる。
冷たいコンクリートの感触を掌で感じながら、昴は曇天を見上げていた。
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