『金』の話
——それは以前に見たことのある光景。……夢だった。
どこかの里山にある集落の光景。自然の恵み豊かな山と、そこを流れる穏やかな川。どこか遠くから鳥の鳴き声と羽ばたきが聞こえてくる。透き通ったか水の流れの中に影が揺れている。その影はそこに居続けるために川の流れに逆らうように、ゆらゆらと体を揺らしている。
けれど、生き物の気配は感じるのだが、その姿を捉えることはできない。
鳥の鳴き声がする方を見上げても、木々の隙間から白に近い水色の空が覗いているだけだ。川には魚影は複数見えるというのに、肝心の魚は水の中にいない。
集落の建物は古く、倒壊している物も少なくはない。植物たちが無人となった家を徐々に飲み込んでいく。
まるでここに人間が暮らしていたという証拠を覆い隠すかのように枝葉を伸ばし、花を咲かせて、種子を作り、芽吹かせて、廃墟を山の一部として取り込んでいく。
何もない、ただ雑草が生い茂るだけの野原。人の手によって生まれた百合がそこに花を咲かせることはない。
否応なく、ここにはもう誰も居ないのだと気づかずにはいられない光景が、何故か無性に寂しく、悲しく、——空しかった。
そこで意識が浮上していくのを感じ、昴は夢の終わりをむかえる。幸いなことに二日連続での寝坊は逃れたのだが、いかんせん今朝の夢が気になってしょうがない。
昴の覚えている限りにはなるが、今まで明確に前に見た夢の続きだと分かる夢というものを見たのが初めてだった。
……何か意味があるのだろうか?
夢というものは寝ている間に脳が記憶の整理をしているという話を聞いたことがあったので、昴は朧げな幼児期の記憶を呼び起こしてみるが、どうしてか分からないが、子供の頃の出来事は他人ごとの様にしか思えない。
正直な所、実感がないでそれが実際に体験した記憶なのか、何か別の記録媒体で得た情報なのか判別が殆どつかない。
堂々巡りになると分かっていても、気がつけば思考はそちらへと持っていかれる。けれど習慣というのはなかなかなもので、別の考え事をしていても日常生活を送るには問題ない。
雨が降り始めたのは昴が丁度病院に着いたのとほぼ同時だった。
小さな雨粒がまばらに落ちてくる。雨粒の大きさと数が瞬く間に増えて激しい音を立てながら地面にぶつかって散らばる。
その光景を病院の玄関先の屋根の下で見届けてから、昴は自動ドアを潜って中に入った。
「雨、よく降るね。……昴、帰りは大丈夫?」
窓に打ち付ける雨を見ながら、母親は心配そうに首を傾げる。それに対して昴は「大丈夫」と返答する。
「……それより、母さんの方こそ大丈夫?そろそろ予定日だったはずだけど。体調とかは?」
ぶっきらぼうだが身を案じる息子の言葉に母親は嬉しそうに微笑む。
「平気。貴方の時もなんだかんだ言って平気だったんだから。後はお父さんの予定ね。一応は会社の方には伝えているらしいから、いざとなったら早退させてもらうって言っていたから。——ふふっ。ここも貴方の時と同じね」
懐かしそうに笑う母親の姿に、昴は胸の中のもやもやが少し薄れたのを感じた。
「……ああ、でも、これも血筋というものなのかしら?」
呟くように母親の口から零れ落ちた言葉に、昴は反射的に尋ねてしまった。
「——前もそんなこと言っていたっけ。血筋って……?」
「ああ。大した理由があるわけではないの。昴が来る前に軽く散歩をしたの。そうしたら前に話したでしょう?親戚の人に会ったの。娘さんもうすぐ退院できるそうなの。それで何となくだけど、その娘さんが生まれる少し前のことを思い出したの。——今の私と彼女たちとの状況が逆だなって」
本当に何となくの思い付きなのだろう。母親は世間話の体で楽しげに話す。
「前に話したでしょう?その親戚の人も私と同じであまり体が丈夫ではないから、大事をとって入院していていたって。それでね、その娘さんの雰囲気が当時の昴にそっくりなの。……不思議ね。性別も違うのに。なんて言うか物静かというか、大人びているというか、達観しているというか、ませているというのか……。あの子も年の割に落ち着いているの。点滴の針を刺すのも殆ど泣かないらしいし、話を聞けば聞くほど幼いころの昴にそっくり」
母親の話に促されるかのように、昴の記憶の底から病室で小さな腕に点滴の針を通す看護師と、その隣で自分の体を優しく抱き留める母親の姿が浮かんできた。
どうしてかは分からないが、昴は血筋という言葉が耳に残った。
昴はその日も屋上の階段をのぼり、古ぼけた扉を開いた。
無機質な壁にぽっかりと空いた空間から見える光景が一枚の絵画のように見えて、徐に端末で数枚写真をとって記録する。雨と水面に沈む灰色のンクリートの地面と錆びた金網。昴にはその廃墟のような退廃的な美しさに引かれた。
その日も少女は一人で屋上にいた。少女がこの場所が好きなのか、もしくは少女の言う通りで昴のことを待っているのかは、彼には分からないが、それでも少女は確かにそこにいた。
「――で、願い事は決まった?」
昴が屋上に足を踏み入れた途端に、少女は彼を真正面から見据えて問いかけてきた。最初から少女がこちらを見ているのは初めてだなと、昴は何となく思う。
「——ごめん。やっぱりそういうのは無い」
その問いかけに、やはり昴は答えられない。言葉が思い浮かばない。押し黙る昴に少女は苦笑しながら首を傾げる。
「君の年代なら、もっと簡単に思いつきそうなものだけど……。成績を上げたいだとか、良い学校に入りたいだとか、恋を成就させたいだとか」
まるで養護教諭が生徒を諭すように、大人が子供を見るような雰囲気が、少女の見た目とちぐはぐで、昴はその違和感にもやもやしてしまう。
「……成績もいい学校も、その時はそれでいいかもしれないけど、その後が大変すぎる。成績を維持するのは運だけでは無理だろ。学校だって、不相応な所に入ったって周りについていけずに困るだけだ」
目標を叶えたからと言って、そこで全てが上手くいって終わる訳ではない。学校に入れば卒業しなければいけないし、会社であれば働いて自身の能力を示し続けなければいけない。絵描きならば賞を受賞したとしても評価され続けるために絵を描き続けなければいけない。
「意外としっかりしてるね。勢いで願っちゃう人も多いのに」
少女は感心しがらも、その年に似合わない無欲に少し呆れてしまう。
「人間が求める物なんて、大体は富と異性と権力、……あとは命かな。君は恋をしたいとか思わないの?君の年ならど真ん中でしょ?」
彼女の台詞に昴はため息をつく。
「……別に、他人のしたいことに意見する気はないけど、俺は今のところ興味はない。恋をすると、人は思考応力が著しく低下するそうだし。あとは、恋をすると脳内麻薬と言われる快楽を刺激するホルモンが分泌されるそうだよ。だから、ずっと恋をしていないとダメな人もいるみたいだけど。正直、恋愛をしていないとだめだ。恋愛をしていないと、恋人がいないと可哀そうとかいう考え方は好きにはなれない」
恋を否定はしないが、それに興味を持てないのはいけない事だろうかと彼はつまらなさそうに言う。
……きっと、恋をするのは素晴らしいことなのだろう。それは昴にも分かる。きっとそちらの方が青春というものを謳歌できるのだろう。人生経験として大人として社会に出てからも、きっと何かの役には立つのだろう。
けれど、昴には誰かを好きになるということができなかった。
きっと告白されて、初めはそういう意味で好きではなくても、何となく付き合いだしていつの間にか相手を好きになるということもあるのだろう。
昴は知識としては情報としては理解はできるが、心や感情として理解することはできなかった。
自らの考えの方が少数意見だということは分かっていたし、燃えるような恋というものに興味がないわけではない。
……他の人たちはどうやって恋というものを感じて、出来るようになるのだろうと昴は不思議に思う。
何となくつらつらと一人で話し続けてしまったことに気がつき、昴は恥ずかしそうに視線を逸らす。子供の意見の主張など、黒歴史にしかならないのは目に見えている。
「——駄目じゃないと思う。何が大切かなんて人それぞれだから」
昴がちらりと少女を一瞥すると、少女はいつもと同じように穏やかに微笑んでいる。少女は彼の目をまっすぐに見て微笑んで、彼の意見を肯定する。
「自分で言っておいて何だけど、君が望まないならそれでいいと思う」
それは間違いなく少女の本心で、彼女自身の言葉であるはずなのに、それを語る幼さい微笑みは物寂しく見えた。
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