『木』の話
——その日の朝、昴は久しぶりに遅刻をした。
理由は言い訳のしようがない寝坊。基本的に寝つきも寝起きもいいので、昴はめったに寝坊をすることはなく、習慣づいた時間帯に自然と目を覚ましていた。
けれどその日の朝はいつもとは違い、異様に心地よい夢と現の狭間を彷徨っていた結果、寝過ごしてしまった。
その何となく懐かしい景色を夢の中で見ていた。昨日山の話をしたせいか、どこかの山の中にある集落。自然が豊かで生き生きとした植物達。透き通る湧水を源泉とした穏やかな流れの川。
そして、どこかの野原に一面に咲き誇る百合の花。種類は違うのだが、店の軒先で見た大輪の白百合が思い出される。
ひどく綺麗で、けれど物悲しい景色。
……ああ。きっと人間が誰も居ないから、何となく寂しいのか
おそらくは以前どこかで見たことがある景色。幼いことに見たのか、テレビで見たのか、写真で見たのかは分からない。
気づいた時には夢の中から覚めていたのだが、そんなことを漠然と考えていて、ふと視界の隅に入った時計が示す時間を見て唖然としてしまった。
数十秒に及ぶ逃避の後、一気に覚醒をした昴は慌てて身支度を整え、適当に栄養補助食品を食べて牛乳で流し込み、自宅を後にしたのだった。
遅刻をしたことは反省しつつも、してしまったことは仕方がないと大して気にも留めずに、昴が母親の病室の扉を開けると、甘酸っぱいいい香りが彼の鼻に届く。
母親と挨拶を交わしながら、目に映るのは籠に盛り付けられた様々な果物。林檎や蜜柑や梨やオレンジやバナナや小ぶりメロン。どれも張りがあって瑞々しく、つややかで心地よい香りを漂わせている。
昴が明らかに贈答された果物達をのことを尋ねてみると、例の親戚が見舞いの品として持って来てくれたと母親が嬉しそうに答えた。
「ふふっ。お腹の子にたくさん食べさしてあげてね、だって。本当にいい香り。それだけで気分がよくなるわね」
昴がせっかくだし何か食べるかと問うと、母親は嬉しそうに笑って林檎を指名する。正直な所、昴はあまり料理が得意ではなないが、果物の皮ぐらいは何とか向けるので、果物ナイフと小さなまな板を使って林檎の皮を剝き、芯をとって八等分にくし切りで八等分に分ける。向いた皮が分厚く芯でない所も少しそいでしまったことと、少し凹凸が多く不格好だったりするが、母親は礼を言って受け取り、爪楊枝を使って美味しそうに林檎を頬張る。
「ふふっ。すごく美味しい。甘酸っぱくてすっとする」
些細なことに喜んでくれたことに、昴は少し嬉しく思う。母親は半分食べ終わるとせっかくの貰い物なのだからと昴に勧めてきたので、ありがたく頂くことにした。
昴が口にした林檎は、確かにに日ごろ口にするものよりも香りが強く味が濃い。
「もう少し体調が良くなったら、あの子の誕生日祝いを買いに行きたいと思っているの。いつもは商品券を贈りあっているんだけど、今回はそれの序でに何か一緒に送りたいの」
病弱ではあるが人懐っこい性格をしている母親は、話し相手ができたことが嬉しそうだ。昴は相槌を打ちながら彼女の話に耳を傾ける。
「小児ぜんそくで入院しているらしいけど、昴も子供の頃は酷かったし、やっぱりそういう血縁なのかしら」
「——ああ。何となくだけど覚えてる。点滴を刺されてずっと暇だった」
「でも、お医者さんからしたらすごくいい子だったみたい。針を刺すときに泣いたり暴れたりしないから。貴方は子供の頃から大人しかったし、自分でできることは率先してしてくれたから。……もしかして、子供ながらに私の体のことを気遣ってくれていたのかも」
懐かしそうに語っていた母親だったが、気落ちした様子で申し訳なさそうに昴を見る。彼女なりに母親として色々と思うことがあるのだろうが、生憎、昴は男だ。彼女と同じ経験はないしこれからも無理だ。共感することは難しい。
「——どうだろう。幼い頃の事は曖昧だけど、大して不満は無かったと思う。俺は昔からインドア派だったから、元々騒ぐのは得意ではないし」
母親が語る幼いころの思い出は、昴にとっては他人事の様にしか思えない。確かに自分の記憶だと認識はしているが、実感が殆ど無く、それこそ映像を画面越しに眺めたり、本に記された文章を読んでいるようにしか思えない。
「んー……?インドア派というよりは、他人に対してあまり興味がないという感じだったかな。散歩は普通に好きだったし、よく近くの公園に行って一緒に植物を弄って遊んでいたから。花の名前を覚えたり、蜜を吸ったり、葉っぱを笛にしてみたり、つくしやフキノトウを摘んで持って帰って料理したり」
母親は病弱ではあったが好奇心が強いたちなので、野草などに詳しい。散歩の序でに色々教えてもらったので、おそらく昴が野草などが何となく好きなのはそれが影響しているのだろう。
あまり実感がなくても、覚えていなくても、同じ時間を共有した母親が思い出の一部として覚えていてくれるのであれば、きっとその時間は確かにあったのだと思いいたり、昴は何となく安堵した。
その日の夕暮れは白と青と赤のグラデーションが綺麗だった。
沈みゆく太陽の光を受けて茜色に染まる雲と、水色に薄い灰色をたらしたような色の空には曖昧な輪郭の月が浮かんでいる。同じ空の中で宵の明星が淡くも強い光を放って自らの存在を主張している。
自然が作り出す色彩と光の美しさを昴はいつものように数枚撮影する。
「ねえ。貴方は人間が好き?」
唐突な少女の質問に、昴はきょとんとした顔で視線を前に向ける。少女は小さくて華奢な背中を向けたまま、無言で答えを待っている。
「——好きかどうかと尋ねられたら、分からないと答えるかな。そんなことをわざわざ考えたことが無いかな。考えた所で大した意味はないだろうし」
分からないという曖昧な答えに、少女は少し首を捻って昴を一瞥すると、すぐに視線を前に戻した。
何となく少女の瞳が寂しげに見えた昴は、気に障るようなことを言ってしまったのかと不安を覚えてしまう。
「……私は好きだよ。……だから寂しい。私がどれだけ思っても、相手が私を思ってくれるとは限らないから。忘れられてしまうと思うと、何よりも悲しい。人間だってそうでしょう……?忘れられるということは、二度目の死だって聞いたから」
少女は肩ほどの長さの髪を揺らしながら、ふわりと振り返った。振り向いた彼女は泣きだしそうに見えるのに、それでも微笑んでいた。
唐突に昴は罪悪感に襲われ、胸が締め付けられるような苦しみにで戸惑ってしまう。幼いころに何げない行動で母親を困らせてしまった時のような、当人には何が悪いか分からない、そんなもどかしい何とも言えない感情。
「仕方がないことだとは理解している。けど理解しているからといって何も感じないわけじゃない。形が定まっていない朧げな私たちにとって、忘れられることはどれほど恐ろしいことか。……だけど、寂しいと思うのも恐ろしいと思うのも、——私が確かにここに居るという証」
自分に言い聞かせるようにして昴に訴えてくる少女は、初めて会った時よりもずっと淡く儚げに見える。
病院という場所柄かもしれないが、何となく余命宣告を受けた患者が焦っているかの様に昴には感じられた。
少女はいたって健康そうで、病人特有の思わず忌避してしまうような死に近い雰囲気はない。
けれど、何故かは分からないが、昴は彼女が何かを彼に求めているのだと思った。
——そもそも少女はなぜ昴の前に現れたのか。
少女は初めて会ったのが昴だからだと言っていた。
この場合の『会う』とは、この屋上で初めて会った人間が昴だったという意味なのだろうか。
ぐるぐると昴の頭の中を最近の記憶が駆け巡る。
自分が覚えていないだけで、もっと前に出会っている可能性。
正直な所、昴は人の顔を覚えるのが苦手だ。文字として名前を覚えることは得意な部類に入る。けれどいざ当人と顔を合わせても、名前と顔が一致しないためにどうしても人物として覚えることができない。
……少女に直接尋ねてみるか。不意にそんな考えがよぎったが、おそらく尋ねたところで彼女は答えない気がしていた。
少女は昴が自分の力で彼女のことを思い出してくれることを望んでいる。だからこそ少女は彼のことをこの場所で待っているのだと。朧げにだけれど、確かな輪郭をそもったそれに確かな手ごたえを感じていた。
まとまった考えを少女に伝えようと昴が顔を上げると、少女の姿はすでに無くなっている。辺りには夜の帳が降りていて、山の向こうの僅かな薄明すらもなくなってしまう寸前だった。
昴は少女が立ち去ってしまったことすら気づかずに、考え込んでいた自分に呆れてしまうのと同時に、本当に自分が少女が立ち去ることに気づかなかっただけなのだろうかと、得体のしれない何かに言い知れぬ不安を覚えた。
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