『水』の話
——その日は朝から雨が降っていた。
朝、雨音で目が覚めた昴は、しばらくその音に耳を傾けていた。
昴は雨の日が結構好きだった。雨の日は外の人間の話声が入ってこない。車が水を跳ね飛ばす音は少し邪魔ではあるが、雨は色々な物を覆い隠してくれる。
それがただの時間稼ぎで、逃避だとしても……。
その日もいつも通りに学校へ行き、淡々と授業を消化していく。
昴は人づきあいというものが得意ではない。できれば教室の隅で一人でぼーっと思案にふけりたい。
話しかけられればちゃんと話す。けれど、自分から話しかけるのは苦手だ。自分に自信がないから、相手が自分のことを良く思っていてくれるとは確信が持てない。
もしかしたら、自分が話しかけたことで相手が不快に思っているのではないか、そんな風に思うと、とても自分から人の輪に入ってくのは無理だった。
まだ、女子でないだけましだろうとは思っている。女子はとにかく群れたがる。それ群れからはみ出て一人でいれば、教師や同級生から心配される。
自分が根暗なのは解っている。けれど、それは仕方がないとも思っている。無理をして群れに入れてもらい、ストレスを溜めて、相手を不快にするよりは、誰とも関わらずにいたほうが、ずっといい。
……そんな風に思ってしまう自分が、彼は好きではない。
学校が終わり、誰も居ない自宅に帰宅して、制服から私服へと着替えてから、病院の母の元へ足を向ける。
何となく母親への差し入れを買おうかと、大型商業施設に立ち寄ることにした。雨のせいか、平時より若干客は少ないが、それでもそれなりの賑わいを見せている。
ふらりと歩いていた昴は専門店が並ぶ一角にある花屋の前で足を止めた。
店先に並んだ様々な花。昴自身はあまり花に詳しくはないが、母親が偶に家で花瓶に生けているのを思い出していた。
何か母親の気分転換のために買っていこうかと逡巡したのだが、見舞いには不向きなものもあることを思い出して、今回は断念する。花言葉や言を担ぐのは難しい。食べ易い物をとケーキ屋で売っていたプリンを購入することにした。
タイミング悪く父親は仕事が立て込んでいるらしい。数日おきにしか顔を見せることができないので、出来る範囲で話し相手になるように頼まれていた。
土産片手に病室を訪れた昴のことを母親は微笑んで迎える。口にはしていないが、母親も不安を抱えているのか、ふとした瞬間に昴がそれを垣間見ることがあった。
身重の母に心配させないように、昴が当たり障りのない話をしていると、母親は不意に思い出したことを話題に挙げた。
「そういえば、今、この病院に親戚の方も入院しているのよ」
母は親戚の名前を言ったが、あいにく昴は名前を顔が一致しなかった。当人を見れば思い出すだろうが、名前だけを言われても思いつかない。
「前に……そう……、確かあなたが六歳か七歳ぐらいの時。彼女のお見舞いに行ったことがあるの。今の私みたいに、妊娠していてね。私もだけど、彼女もあまり体が強くないから……。念のためにね。その時の子も六歳ぐらいになっているはず」
母方の女性はあまり体が強くないらしい。今は医療が発展してそうでもないが、昔は出産するのは本当に命がけだったそうだ。
時間があったら見舞いに行くように勧められたが、生憎、彼はそんなにコミュ力は高くない。顔もあやふやな相手の見舞いに一人で行くなど、何の苦行だと思ってしまう。
結局、昴が足を向けたのは、その親戚の所ではなく屋上だった。
知り合いよりは短い付き合いの見知らぬ他人の方が話しやすいと思ってしまうあたり、昴も変わり者ではあるのだろう。
朝から絶え間なく降り続く雨のせいか、廊下で見舞客とすれ違う人数は少ない。さすがにこの雨ではいないだろうと思いながらも、何となくルーティーンになってしまっていた。
屋上の扉を開くと、雨の香りと湿気が一気に彼を襲う。扉の上にある雨避けの屋根のおかげで大粒の雨を喰らうことはない。
扉の外は土砂降りの雨が滝のように空から落ちてくる。雨によってぼやけた町の景色は、まるで海に沈んでしまったかのように停滞していた。
その光景が印象的で、携帯端末のカメラで撮影をして記録する。
豪雨によって水に満たされた屋上に出る物好きはいないようで、昴はその物好きになってしまったことに思わず自嘲する。
「こんにちは」
その挨拶が物好きがこの場に二人いることを主張してきた。
昴が声の方を見ると、少女が扉より数歩ほど離れた距離で、雨除けの下の壁にもたれかかりながら微笑んでいる。
「——……こんにちは」
挨拶をされたので返礼しないは失礼かと思い、昴は戸惑いながらも同じ言葉を返した。
少女はその挨拶を嬉しそうに微笑んで受け取る。
なぜかその姿があまりにも儚く思えて、昴は胸の奥に言い知れぬ不安が膨らむのを感じた。
「貴方は雨は好き?」
そんな少女の唐突な質問に、停滞していた昴の思考が復帰してくれたので返答をした。
「……家の中から眺めるのは好きかな。外に出る時に降っているのは……、濡れるし歩き辛くなるし荷物が増えるから好きじゃないけど」
「……そういうモノなの?私は雨の町を歩くのも悪くないと思うけど」
少女は本当に不思議そうに首を傾げながら、視線を水に沈んだ街の景色へと向ける。
「雨の日はむしろ外出を避けると思う。まあ、用事があるのなら仕方がないから、無理に引きこもるほどではないとは思うが」
実際問題、昴は学校と母親の見舞いという用事があるからこそ、わざわざ傘をさして靴を濡らしながら外出をしている。なので、もしそこまで重要でもない何時でもいいような事柄ならば、彼はここではなくて家にいただろう。
「そう。でも、眺めているのは好きということは、雨自体が嫌いなわけではないんだよね?私は雨が好きだから、少しでも同じ感想を持ってくれると嬉しいかな」
「眺める——見るだけなら好きってことは世の中に山ほどあると思う。海も山も川も。……俺は少なくともそうだ」
虚勢を張っているだとか、何かトラウマがあるとかではなく、昴はそういったレジャーの類を楽しいとは思えなかった。
「海水浴は日焼けして痛くなるし、海水でべたついて肌が荒れるし、下手すれば溺れて死んでしまう。川もそう。山は苦しい思いをして登山する意味が分からないし、それこそ遭難したり野生生物に襲われるかもしれない。帰ったらたぶん筋肉痛だろうし」
「山は良いよ。植物がいっぱいあって恵みをもたらしてくれるし、観察するのも面白い。確かに慣れていない素人にはちょっときついけど、慣れれば楽しさが分かると思う。」
「……まあ、それはなんとなくわかるんだ。そこらに生えている野草の類も嫌いじゃない。人間に品種改良された花も綺麗だとは思う。けど、そうじゃない草花の方が何となく良いと思う」
オチも目的もない、とめどない話。せっかく屋上に来たのだから、何もせずに帰るのはなんとなく避けたいがため、昴は会話を続けた。
「ああ。後は昔の人のネーミングセンスとか面白いとは思う。そのまま安直だったり、逆に抽象的過ぎて名前を聞いても分からなかったり。けど、たまによく思いついたなとか思う名前だったり。だから図鑑とかを見て、外出した先で見かけてそれを思い出したりするのは好きかな」
少女は曇天から降り注ぐ雨を眺めながら、コンクリートに雨が叩き付けられる音の中、意味のない雑談に楽し気に耳を傾けている。
まるでお気に入りの音楽を聴いているかのような穏やかの表情の少女を見ながら、昴はゆっくりとけれど確実に流れていく時間を強く感じていた。
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