『火』の話
——その日も昴は母親の見舞いに訪れていた。
昴の母親は元から体が弱く、たまに体調を崩して寝込むことがあった。
ある程度年を経てから第二子を妊娠したこともあり、大事をとって予定日よりも前に入院をしている。昴を妊娠した時も、やはり大事をとって入院していたので、それ自体はおかしくはない。
けれど、そのことよりも十何歳も離れた兄弟がもうじき生まれるということに、ずっと戸惑っていた。
それこそ下手をすれば親子のような年の差といってもおかしくはない。
もちろん両親は第二子の誕生を喜んでいるし、彼も良いことだと分かっているし祝福はしている。けれど、親せきや知人におめでとうと言われるたび、どういう顔をすればいいのかは分からないままだった。
入院をして安静にしているおかげか、母親の体調は良いようで、むしろやることが少なくて暇だとぼやいていた。
母親の病室を後にして、無機質な廊下を歩きながら、母親の暇つぶしのために何か本でも見繕った方がいいだろうかと思案していると、不意に昴の脳裏を不思議な少女の姿がよぎる。
普通ならば訳の分からないことを言う不審者には近寄らない方がいい。昴もそうしてきたし、これからもそうしていくつもりだ。
だが、何故だか、昨日から不意に機能のことを思い出してしまう。喉まで出かかっているのに、どうしても出てこない答えのように、歯がゆくてもやもやとする。あの少女のことを怖いとは思えず、何となく帰りがけに再び屋上に向かっていた。
人気のない屋上へと続く階段をのぼり、扉を開くと、この前と同じように隙間から夕陽が風と共に溢れ出てくる。
開かれた扉の向こう側には、淡い水色と鮮やかな茜色の空の下、前と変わらない場所で少女が佇んでいた。
何となく昴は携帯端末で、一枚だけ淡い光景を撮影した。
少女はフェンス越しに夕日を眺めているのか、昴に背を向けたまま動かない。そのまま時間が過ぎていき、昴がいい加減に声をかけるか立ち去るか迷い始めた頃、唐突に彼女は振り返った。
「こんにちは」
「……こんにちは」
驚きのあまり喉の奥で音が鳴ったが、昴は必死に平静を装って、少女のあいさつに対し、素直に返事をした。
正直に言えば、昴自身、自称神様を名乗る少女が怪しいのは百も承知だった。関わり合いになるべきではないだろうし、自分のしている行為は間違いなく愚行という事は分かっていた。
けれど何となく、この少女の話を聞いてみようと思ったのだった。
理由らしい理由はない。本当に、ただ何となく昴はこのおかしな少女と話してみたいと思った。
「今日は帰らないの?」
前のことをからかうように口にする少女。自称神様と名乗ることが、おかしい怪しいことだと理解した上での行動だったようだ。
「……もし、あんたが神様だとして、どうして俺の願いを叶えるんだ?ろくに拝んだこともないのに」
もし少女に会うことがあったら尋ねようと決めていた唐突な問いかけに対し、少女は考える素振りも見せずに淡々と答えを返してきた。夕日の逆光のために彼女の表情は影になっていて見えづらいが、考える素振りも見せずに淡々と返答する。
「——それは、私に会ったのが、あなたが最初だから」
少女は昴から目を逸らすこともなく、まっすぐな瞳で答えた。
これだけ堂々と答えることができるのであれば、よほどの役者だと感心しながら、昴は少女を観察する。
自称神様の少女はいたって普通に見える——言動を除けばの話だが。
「まあ、私が怪しいことを言っているのは分かっているから」
少女は昴の心を見透かしたかのように、クスリと笑った。
幼さを残す少女の見た目にはそぐわない妖艶さが、薄明のようにゆらりと垣間見える。昴は自身がそれを感じ取ってしまったことに戸惑いを覚えてしまい、それを打ち払うかのように、強くはっきりとした声で問う。
「……じゃあ君が、もし、神様だとして。具体的にはどうやって願いを叶えるのか聞いてもいい?」
「?それは神様の力としか表現のしようがない。――でも、何でもとはいかない。私は下位の神様だから」
少女は髪と服の裾を翻しながら、くるりと踵を返してゆっくり昴から離れていく。
「一、世界的に影響を及ぼすような、願いは否。二、誰から奪ったり傷つける、願いは否。三、ゼロからイチを生み出すのも、否。買っていない宝くじを当てるようなもの。四、失われたものを戻すのも、否。似たようなものを手に入れるのは可能だけど。五、すでに結果が出ているようなことを覆すのも、否。……と、こんなところかな」
「制限が多いな……」
言ってしまえば、確率の変動能力らしい。本来ならば一の確率を百まで引き上げる。根底には奇跡を起こすための努力が必要という、ある意味現実的で、最後の悪あがきの神頼みといったところ。
一通りの質問を答えた所で少女は足を止めて背中を向けたまま、抑揚のない録音された機械音声のように言葉を紡いだ。
「あなたの叶えたい願いは何?」
まるで決められた台本を読み上げるかのようで、昴は表現しがたい感情——おそらくは恐れの類を感じていた。
「……別にないよ。神様に願ってまで叶えたい願いなんて」
不の感情を相手に感じさせないように慎重に声を発生させたせいで、抑揚のなくなってしまった昴の言葉を背中で受け止めながら、彼女は燃える赤い揺らめきを纏いながら沈んでいく太陽を眺めている。
彼女の姿が暗闇に埋もれていく。
沈んでいく最後の光の眩しさに、思わず昴が目をしばたたかせて一瞬少女から意識が逸れた途端、彼女の姿は消えていた。
それはまるで現へと覚める夢のようだった。
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