それは、きっと、恋だったのだろう

@hinorisa

『月』の話

 ――彼が彼女に出会ったのは、異様に綺麗な夕陽に満たされた屋上だった。

 昴は入院中の母を見舞った帰りに、不意に病院の屋上に足を向けた。いくら思い返してみても、その理由は彼にも分からない。ただ、何となくという表現しか当てはまらない。

 昴が子供の頃からお世話になっている病院ではあったが、基本的には一般病棟にしか出入りはしない。診察や精密検査などをする際に一時的に立ち入る程度。

 稀に知人や肉親の見舞いなどで訪れた際に、廊下の窓越しに見る景色の中で、看護師たちが屋上で真っ白なシーツを物干しざおに干す様子を見かけることはあった。

 けれど今まで足を向けたことは無い。この時に初めて屋上に足を踏み入れた。

 キィっという金属の擦れる音させて開いた扉の隙間から、鮮やかな茜色が溢れてきた。そのまま開きると、扉の向こうには眩しくて彼は眼を細めた。

 ふわりと頬をなでる風を感じながら、昴は目を細めたまま光に向かって数歩前に歩く。少し目が慣れるまで待ち、茜色の光に覆われた周囲を見回す。

 何の変哲もないコンクリートの地面と、金属製の高いフェンスが端に沿う様にぐるりとたてられている。

 落下防止の安全のための措置だろうが、無機質な金網は、この建物の中にいる人間たちを出さないための檻の様に昴には感じられた。

 けれど、檻の中から見る外の景色はとても綺麗なものだった。

 人工物の向こうにそびえる山並みを天と地の境目として、光が沈んでいき、代わりに暗闇が徐々に広がっていく。

 徐に昴は上着のポケットからスマートフォンを取り出して、適当にシャッターを切った。

 シャッターを切ったことを示す機械音を何度も鳴らしながら、適当に気の赴くまま、景色を写し取って切り取っていく。

 最後の一枚として沈む寸前の夕日に向けてシャッターを切ったところで、この場に自分以外の誰かがいることに気が付いた。

 赤とオレンジが混ざり合い、ゆらゆらと輪郭が曖昧な夕日が沈みゆく中、昴に背を向けた少女がフェンスの傍に佇んでいた。

 急に昴の視界に入ってきた少女に驚くよりも、表現しがたい悲しみのような喜びの様な温かさのような、ひどく曖昧で淡い感情が彼の中を支配する。

「こんにちは」

 抑揚のない声が昴に向けられる。それで我に返った昴は、少女が二メートルほどの距離まで近づいていたことに気が付いた。

 逆光の夕日は確かに眩しかったが、他人がすぐ傍まで近づいていたことに気が付かなかったことに、昴は内心動揺していたが、努めて平静を装って、目の前の少女と向き合った。

「それとも、こんばんはが正しいのかな?」

 昼と夜の境目に佇む少女は、整った顔立ちをしていたが、どこか幼さを残していて、子供と大人の境に佇む彼女の姿は酷く脆く見える。

「……えっと、こん、にちは」

 昴は一瞬どちらのあいさつが正しいのかと逡巡したが、グットイブニングよりも、ハローを選ぶことにした。

 彼の返事に対して、少女はふわりと淡い微笑みを浮かべる。

「——私は神様なんだけど、――あなたの願いを叶えてあげる」

 表情とはちぐはぐな、感情の起伏が少ない声で淡々と話す言葉に、昴は一旦思考が停止した。少女の言葉を処理して意味を理解すると、すぐに再起動する。

「……さようなら」

 一般人ならば、わざわざ自分で地雷を踏みにはいかない。

 昴は声を絞り出して、とりあえず別れの挨拶をして、回れ右をして、一つしかない扉に向かって小走りで向かう。

 背を向けてこの場から全力で離れようとする昴を視線で追い、少女はその場に佇んだまま、閉じていく扉に向かって声を投げかける。

「——さようなら。また今度」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る