第1話 渡部玲奈と本田仁の場合 5
翌朝、明るくなりかけた空の下、近藤がどこかにいないかビクビクしながら駅に向かった。
電車はいつものように海を渡り、関西空港にたどり着く。
階段を上りはじめてすぐ、「渡部さん-!」と大きな声で呼ばれて、玲奈は驚いた。足を止めてふり向こうとしたけど、後ろにはたくさんの人が階段を上っていて、止まれない。
階段を上りきると、端に寄って振り返った。視線をさまよわせると、人混みをかき分けるようにして上ってくる愛実を見つけた。
愛実は上りきると、玲奈の元まで小走りでやってきた。その顔には満面の笑顔が浮かんでいる。
「おはようございます、渡部さん。相変わらず足が早いですね」
「おはようございます。普通に歩いてるつもりなんだけど、追いかけさせちゃってごめんなさい」
「いえいえ、いいんです」
「それで、どうかしたんですか?」
玲奈は愛実が朝から大声を出してまで自分を引き留めた理由がわからず、首を傾げた。
「あ、そうでした! 渡部さん、昨日は大変だったらしいですね」
「ああ、はい。でも、どうして……?」
昨日の近藤のことだろうか。昨日は帰りがけのことで書店には戻らなかったので、書店の人には言っていない。知ってるのは本田だけのはずだ。
「本田さんから電話もらって。近藤さんが渡部さんを付け狙うかもしれないから、しばらくはできるだけ一緒に行動してやってくれないかって」
「そうなんですか? なんか、すみません」
手間をかけてしまい申し訳なくなった。愛実は顔を横に振って、笑う。
「困ったときはお互いさまですよ」
「ありがとう。それでわたしのことを探してくれたのね」
「ですです。電車降りてすぐに見つけたんですけど、人が多くて追いつくの無理そうで、思わず名前叫んじゃいました」
愛実の説明に納得して、歩き出す。愛実が「あ、そうだ」と言いながら、上着のポケットからスマホを取り出した。
「わたし、渡部さんの携帯番号知らないですよね。教えてもらっていいですか」
「もちろん」
玲奈も知りたいと思っていたのだ。たまたま聞きそびれていた。スマホを取り出すと、連絡先を交換した。
仕事はトラブルもなくいつも通り進み、休憩明け。返品作業を押しつけられるのもいつも通りである。と言っても、今日は愛実もレジ当番がなかったので、玲奈と愛実の二人だ。
二人で返品の雑誌を段ボールに詰めていると、本田が倉庫にやってきた。本田が手伝いにくるのもいつも通りとなりつつある。
「今日も結城はいないのか」
本田は辺りを見回しながら作業台へ近づくと、呆れたような顔をした。「残りは俺がやっておくから」と言いながら、スーツの上を脱ぐと、ワイシャツの袖を腕まくりした。
玲奈は愛実と顔を見合わせると、うなずきあった。
「いえ、私たちも手伝います」
「三人でやった方が早いですからね」
「そうか、ありがとう」
「いえ、仕事ですから……」
と返事をしながら、玲奈はどぎまぎしていた。本田が笑ったのだ。
客商売なのだから、本田もレジに立てば笑う。普段だって、人間なんだから笑うこともある。当然だ。だけど、玲奈は接客以外で本田が笑っているところを見るのは初めてだった。
胸がおかしいくらいにドキドキと脈うつ。
どうしたのだろう。
顔まで熱くなっている気がして、手のひらで顔をおさえた。
わたし、変だ。これではまるで恋してるみたいだ。
玲奈は段ボールに雑誌を詰めながら、本田の顔をそっと盗み見た。たぶん私より年上で、顔だって好みではない。恋愛対象外であったはずなのに。
玲奈の葛藤に気づいていない愛実は、手を止めて、玲奈と本田を見た。
「渡部さん、本田さん。今日は仕事のあとって暇ですか?」
「特に用事はないけど」
「明日、雨だから桜散っちゃうらしいんですよ。その前に、みんなで花見なんてどうかなって思って」
「花見か、いいな」
本田がうなずく。玲奈もうなずこうとしたところで「あっ!」と大きな声を出した。
「どうしたんだ、急に」
眉を寄せて玲奈を見る本田に、すみませんと頭を下げた。
「すっかり忘れてました。今日って土曜日ですよね」
「都合悪いです?」
「いえいえ、そうじゃなくて……あの、すっごく個人的なことなんですけど」
とそこで言葉を切って、二人の顔を見る。二人とも続きを待って黙っていた。
「わたし、今日、結婚式する予定だったんです」
「ええええええっ」
愛実が大きな声で叫んだ。本田が顔をしかめて、すぐに注意する。
「篠原、うるさい」
「でも、本田さんも驚きましたよね?」
「まあ、そうだが……」
二人のやりとりを視界の端におさめながら、玲奈は辺りを見回した。幸いなことに近くに他の人はおらず、大声で迷惑をかけずに済んだようだ。
「それで、予定だったってことは、まさか……」
愛実は眉を八の字にしながら、おそるおそる問いかけた。
「破談になりました」
愛実も本田も言葉が見つからないのか、しーんと静かになる。玲奈は努めて明るい声を出した。
「さっきも言った通り、忘れてたんですよ。彼の浮気がわかって、かなり傷ついて今も引きずってるつもりだったのに、今日は今まで1ミリも思い出しませんでした」
「でも、今、思い出したんですよね?」
愛実の言葉に玲奈はうなずく。
「彼への気持ちが残ってるとかじゃなくて、桜の咲く式場でガーデンウエディングをする予定だったので、桜の話題で思い出したんです。もう私には過去のことになっていて、彼への気持ちごと忘れちゃったんだなって自分でもびっくりしました」
当時のことが脳裏に浮かび、玲奈は薄く笑った。
結婚が決まって、彼と式場巡りをしていたときに訪れた式場で満開に咲く桜を見て、ここで式を挙げたいと彼にねだったのだ。と言っても、早くから予約を入れるので、式の日に咲いているとは限らないよ、と彼は苦笑していた。
彼との毎日が永遠に続くのだと当時は信じて疑わず、幸せだと思っていた。その幸せがガラスに覆われたイミテーションだとも思わずに。
「ということは、とても花見なんて気分じゃないですよね?」
桜を見ると元彼のことを思い出すわけだし……と愛実は玲奈をうかがいながら尋ねた。
玲奈は笑いながら首を横に振った。
「桜、大好きなんです。でも、大嫌いになりそうで……。楽しく花見をして、記憶を良いものに上書きさせてください!」
「じゃあ、朝番のやつらみんなに声をかけておくよ」
「よろしくお願いします」
「それじゃあ、仕事終わりだと昼間だけど、どこかでおつまみとお酒買って、ぱーっと騒ぎましょう!」
「はい!」
午後の予定を楽しみにしながら、止めていた手を動かしだした。
>>>NEXT STORY
(更新は数か月先になる予定です)
書店男子。 ーもりわき書店関西空港店ー 高梨 千加 @ageha_cho
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