第1話 渡部玲奈と本田仁の場合 4
「近藤、さん……?」
彼の雰囲気が変だ。怖い。
「おまえなんだってな」
近藤はいつもより低い声でそう言いながら、掴んだままの玲奈の右肩に力をこめる。痛い。玲奈は顔をしかめた。
「おまえが、俺のこと気づいたんだってな」
「それは……」
玲奈は近藤の手から逃げるように後ろに下がった。近藤の手が離れる。でも、決して安心はできなかった。
どうしよう。お店までダッシュする?
でも、逃げ切れる保証はないし、下手したらお店の客まで巻き込んでしまう。得策とは言えない気がした。
近くに駅員さんがいないか、と目を巡らすも、券売機そばにいる駅員は客の応対をしていて、こちらに気づいていない。改札に背を向けた玲奈の位置からは確認できないけど、改札には駅員がいるはずだ。そこまで行けたら……。
玲奈は近藤から距離を取ろうと下がり続けたが、近藤は玲奈より大きな歩幅ですぐに間を詰めてくる。
「おまえのせいだ」
「ち、違う……」
玲奈は首を横に振って、弱々しい声で反論したが、近藤に睨まれすくみ上がる。足が震えて、それ以上は動けなくなった。でも、負けたくない。
「じ、自業自得でしょ。クビになってもおかしくないこと、やってたんだから……」
「なんだと……!」
近藤は顔をまっ赤にして、右手を振り上げた。
殴られる……!
玲奈は両手で顔をかばうようにして、咄嗟に目をつむった。しかし、いつまでたっても痛みは襲ってこなかった。薄く目を開ける。
そこには、背広姿の背中があった。視線をあげると、それは先に帰ったはずの本田の背中だった。
本田は、近藤の振り上げた腕をつかみ取り、近藤と対峙している。
嘘、守ってくれた……?
本田は近藤の腕をねじっているようで、近藤は「い、痛い」とわめいている。
「近藤さん、渡部に何をしているんですか」
本田の声はいつもより低かった。怒っているようだ。
「近藤さんのことを店長に告げ口したのは渡部じゃない。俺です。俺の判断です。恨むなら俺を恨めばいいでしょう」
近藤は本田を睨みつけながら、何も言わなかった。本田は続けて話す。
「それとも、自分より弱い人間にしか手出しできませんか」
本田が近藤の腕を掴む力を強めたのか、近藤はうめき声を上げた。反論はしなかった。図星だったのかもしれない。玲奈は、近藤よりも体格も力も弱いということで、怒りのはけ口として狙われたのだ。
「どうします、近藤さん。おとなしく帰るなら見逃しますが、渡部にしつこくつきまとうなら、警察を呼びますよ」
近藤はちらっとターミナルビルの方を見た。関西空港にも警察署はあり、交番もターミナルビルにあった。騒ぎになれば、警察官がやってくるだろう。
近藤は分が悪いと思ったのか、「悪かった、俺が悪かったから離してくれ!」と叫ぶように言った。
本田が手を離すと、近藤はすぐに走って逃げ、改札の向こうへ消えた。本田は視線でその背中を追いかけながら「それで謝ってるつもりか」とつぶやいた。
近藤の姿が見えなくなり、ようやく終わったのだと実感した。ほっとして、力が抜ける。玲奈はその場に座り込んだ。
心臓が早鐘のように脈打っている。幾人かが玲奈を見ながら通り過ぎて行ったが、張り詰めた糸が切れた途端、手も足も力が入らなくて立ち上がることができなかった。
本田は振り返ると、腰を落として玲奈の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か」
「大丈夫、ではないですけど……ありがとうございます」
本田が来てくれて、本当に良かった。一人ではどうなっていたかわからない。
「いや、頑張ったな」
本田は玲奈の頭を優しくポンポンして励ましてくれた。心に温もりがじわりと広がる。
「本当にありがとうございます。でも、そういえばどうして、ここに?」
気持ちが少しずつ落ち着いてきて、ふと、玲奈は疑問に思った。本田は先に帰ったのに、どうしてまだ駅にいたのだろう。
「ああ。駅で近藤さんを見かけてな。様子がおかしかったから、気づかれないように少し離れたところで様子を窺っていたんだ」
「そうだったんですか」
「だから、すぐに止められなくて悪かった」
「えっ」
玲奈は驚いて、すぐに首を横に振った。
「十分すぐでしたよ。大事に至らなくて、本当に良かったです」
もしも本田が近藤に気づかずに帰っていたら、どうなっていただろう。
駅員も警察もいるとはいえ、殴られたり、もっと大きな被害に合っていたかもしれない。
「そろそろ立てるか?」
「は、わっ」
本田は玲奈の脇に手を入れ、持ち上げるようにして立たせてくれた。玲奈は本田にもたれかかるようにしながら、足の裏を床につける。膝はまだ少し震えているけど、なんとか立つことはできそうだ。
本田の腕を掴んだまま、半歩後ろに下がって距離を取り、「ありがとうございます」と本田の顔を見て頭を下げた。
「いや、送ってくよ」
「え、でも、路線が違いますし」
「近藤さんがどこかで潜んでるかもしれないだろ。今日は一人にならない方がいい」
「すみません」
「渡部さんのせいじゃないだろ。気にすんな」
本田と肩を並べて歩く。
その日はもう近藤が現れることもなく、玲奈は無事に家まで帰りついた。
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