第1話 渡部玲奈と本田仁の場合 3

「俺が運ぶから」

「あ」


 本田は玲奈の返事を待たずに、段ボールを奪って運ぶ。玲奈は足をよろよろさせながらへっぴり腰で運んだというのに、本田は涼しい顔だ。まるで空の段ボールを運んでいるかの顔つきで、思わずじっと見てしまう。

 残り一つの段ボールも本田が運ぼうとし、ようやくハッとした。


「あ、大丈夫です、運びます」

「いいから」


 慌てて段ボールを掴もうとした玲奈を制して、本田はあっという間に運んでしまった。

 本田は辺りを見回しながら、「結城と近藤さんは?」と聞いた。


「結城さんは先に戻りました。近藤さんは姿が見えません」


 そう答えた瞬間、本田の眉間に皺が寄る。


「手が空いたらできるだけ倉庫に来るから、重かったら台に段ボールを乗せたままでもいいよ」

「ありがとうございます」


 さっきの行動といい、やはり本田の行動は男前だ。

 なのに、なぜだろう。全くキュンとしない。玲奈がまだ恋をしたくないってことも大きいかもしれないけれど、どんなにカッコいい言動をしていても、本田は恋愛対象外らしい。

 そんな発見が面白くて、玲奈は笑ってしまった。


「なんだ?」

「いえ、すみません。なんでもありません」

「そうか。せめて近藤さんがいてくれたら良かったんだがな」

「返品って明日まで作業台に積んでおいてたらダメなんですか?」


 玲奈は前から疑問に思っていたことを、本田と話せる機会にと思って尋ねた。


「ダメってことはないが、返品できないほど忙しいってこともないから、できるだけその日に出す返品はその日のうちに片付けている」

「そうですか、わかりました」


 そう言われると、玲奈も引き下がるしかない。学生時代の飲食店のバイトでは忙しすぎて大変な日もあったけれど、書店での仕事は確かにそういうことが少ないのだ。

 担当の売り場によっては棚作りなどで残業になることもあるようだけど、接客という点ではそこまで忙しくなることもなく、グループで担当する雑誌では残業になるほど忙しくなることがない。むしろ、やることを探したり、時間が余ってしまうくらいだ。


 もちろん、書店の仕事が楽だというわけではない。体力仕事なのでとても疲れる。もりわき書店関西空港店は黒字の店舗なんだけど、書店で黒字の店舗は少ないらしく、黒字だから従業員数では余裕をもてているのかもしれない。


「近藤さんってバイト掛け持ちしてるんですか?」

「ああ、そうだが。急にどうした」


 本田は不思議そうな顔で首を傾げた。


「だって私でしたら、仕事なくても時間まで暇つぶして残ってますよ。お金は欲しいですもん。二、三時間働いて帰りたいなんて、掛け持ちバイトでよっぽど忙しいのかなって思ったんです」

「そう言われると……ちょっと変だな」

「変?」


「毎日のようにすぐ帰ってたら、いくら忙しくて休みが欲しいと言っても、お金にならなさすぎだ」

「確かに」


 考えこむ本田の顔を見ていると、玲奈は何やら胸騒ぎがした。

 だから、それは単なる思いつきだったのだ。


「もしかして、早く帰ってっるのに定時上がりってことにして、お給料を多くもらってるとか」


 もしそうだとしたら、半分ほどの時間しか働かず、残りの半分は給料をだまし取っていることになる。そんな、まさか。今まで誰も気づかないなんて、そんなことあるのだろうか。


「そんなわけないですよね」


 玲奈は笑って、自分の考えを打ち消そうとした。しかし、本田は笑わなかった。真剣な目で玲奈を見た後、倉庫を見回した。つられて、玲奈も辺りを見る。

 倉庫の中は区切られた壁がたくさんあるので、見通しが悪い。なおかつ、作業台は書店に割り振られた倉庫スペースから少し離れていて、誰か書店の人間が他にも倉庫にいるのか、玲奈たちのいる位置からはわからなかった。


 つまりは、倉庫スペースにいる人間からも返品作業台の辺りは見えないので、近藤さんがいなくなっても気づきにくいということだ。

 そのことに、玲奈ははっとした。

 さらに、従業員のほとんどは売り場にいて、店長は事務所にいることが多いので、倉庫までは目が行き届きにくい。

 鋭い目つきで倉庫内を見ていた本田も、同じ考えに至ったのだろう。硬い声で言った。


「もしかしたら、本当にあり得るかもしれない」



 まずは、出勤簿を確認しようということになった。きちんと早上がりになっていれば問題ないからだ。


 二人は事務所に向かうと、本田が出勤簿を手に取った。指で名前を追って、近藤のところで止める。そのままずらして今日の時間を見ていく。玲奈も横から覗くようにして見た。

 出勤時間の次には、まだ十一時だというのに十三時半と書かれていた。時間になったら必ず退勤するからと先に時間を書いておく可能性もあるかもしれないが、残業になる可能性だってあるので、普通は先に書かない。


「すっごく怪しいですね」

「ああ」


 本田の顔を見上げると、眉を寄せ、目が険しくなっている。

 そのまま、他の日も確認していくと、すべての出勤日の退勤時間は十三時半となっていた。休憩時間は玲奈たちと同じ時間を書いているので、雑誌の返品作業をする時間に休憩を取っていたわけでもなさそうだ。


 では、一体いつもどこにいたというのか。玲奈は働きだして日数が浅いとはいえ、休憩の後に近藤の姿を見かけたことがない。出勤簿の通りに働いているとは思えなかった。

 本田は出勤簿を戻すと、玲奈に向き直った。


「あとでもう一度倉庫に行って、近藤さんがいるか確認しておく」

「いなかったら、帰ったってことですよね」

「たぶんな」


「その場合、どうするんですか」

「俺から店長に伝える。その後どうするか決めるのは店長だ」

「わかりました、よろしくお願いします」


 この話はここまでとなり、玲奈は雑誌やムック本の補充を始めた。先にフロアに戻った結城も店内をうろついているけど、たいして補充が行われた形跡がなかった。



 休みを一日挟んで、翌々日。いつものように朝から書店に出勤すると、近藤はクビになったと本田から伝えられた。


「ということは……」

「ああ、店長が近藤さんに確認したら、十三時半まで働いたことにして早くに帰っていたことを認めたそうだ」

「オレもそんなことになってるって知らなくて、近藤さん、誰にも挨拶せずに帰ったらしくて、いつの間にかいなくなってたわ」


 結城も話に入ってくる。近藤のクビの件は、昨日出勤していた人には知れ渡っていそうだ。


「私のせい……ですかね」


 玲奈は、自分が大事にしたせいで、他人の人生を歪めてしまった気分になった。しかし、本田が「そんなことない」とすぐに否定する。


「まあ、働かずに給料もらってたってのはちょっとな……。それに、クビになる代わりに多めにもらった給料の返還はなしにしてもらったらしいから、クビ程度で済んで良かったんじゃないか。気にすんな」


 結城はニカッと笑った。その顔を見て、玲奈は肩の力を抜いた。

 そうだ。悪いことをしたのは近藤なのだ。私が気にすることではない。

 玲奈もどうにしかして笑顔を作った。


 そうして普段通りに休憩の後に倉庫での返品作業が待っていた。朝のやりとりでは、結城のことを少し見直した玲奈だったが、すぐに撤回することになる。

 今までなら近藤が片付けていた朝一の返品分と、倉庫の片付けで出た返品分で、作業台の上は埋め尽くされていた。その前には言わずもがな、玲奈一人。


「結城のヤロー」


 思わず、口悪く不満が漏れる。

 今日は愛実は休みで、本田は先に事務所へ戻り、結城も返品を玲奈に任せて売り場へ戻った。

 雑誌の山を眺めていても仕方ない。玲奈はブラウスの袖を腕まくりすると、次々と段ボールに詰めていった。段ボールの数は六箱になった。それを見て、ため息が漏れる。


 本田は作業台に段ボールを置いたままにすれば後で運んでくれると、この前言っていたけど、その好意に甘えることに気が引けてしまう。結城のように、自分も大変な仕事を本田に押しつけるようで、申し訳ない気持ちになるのだ。


「仕方ない、運ぶか」


 段ボールを一つ持ち上げ、運んで行く。二つ目を運んでいるところで、本田がまた手伝いに来てくれた。


「置いておいてくれていいのに」

「ありがとうございます。でも、二人で運んだ方が早いですし、私もがんばります」

「そうか」


 その後は、玲奈が一箱、本田が三箱運んでくれた。本田は優しい。結城とは大違いだ。



 十三時半に仕事が終わり、本田に頼んで従業員エリアに入れてもらって私服に着替えたあと、本田とは別れた。


 関西空港駅にはJRと南海電車の二本が乗り入れており、本田の利用している電車の発車時刻が迫っていたようで、本田は先に急ぎ足で駅へ向かったのだ。ここは一本逃すと、次の電車まで二十分以上空くこともあるので、乗り遅れないように真っ直ぐ帰る人も多いようだ。


 玲奈は働き出したばかりで、どのお店も目新しく感じるので、ぶらぶらと買い物をして帰る方が好きだ。でも、今日は体の節々が痛く疲れたので、どこにも寄らずに駅に向かった。

 改札が見え、パスケースを鞄から取り出す。そのまま改札に向かおうとしたところで、右肩を後ろに引かれた。


「渡部」

「はい?」


 誰だろうと振り返り、玲奈はひゅっと息を飲み込んだ。そこには、昨日で辞めたはずの近藤が玲奈を睨みつけるようにして立っていた。

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