第四話 ドローイング

 男性のものとは明らかに違う細っそりとしてしなやかな腕。

 引き締まったウエストと果実のように丸い腰のラインが明確に「く」の字を描いている。

 それに続くのはプレーンで柔らかな面を持つ長い腿、伸びやかな脛。


 最初のセットは彼女の全身、パーツバランスを把握するのに終始する。

 鉛筆を定規代わりに彼女の頭、胴、脚のバランスを測る。縦を測れば次は横、肩幅、腰幅。腹部、腕の位置を紙面にマーキング。

 そして最初のアウトライン――― 仮の輪郭をざっくりと取る。部屋の調光、光の周り込みを意識しながら長いストロークの粗い影を乗せる。

 ここで最初の十五分が終わる。


 彼女は両の指を組んで上に掲げ、軽く伸びをする。

 腕を挙げた所為で露出する脇の下、柔らかい段の影を落とす肋骨。

 脱いだワンピースに一瞬だけ目をくれるが、続けて僕を急かす言葉を口にする。


「思ったより楽だから、すぐ始めていい」

「えっ、でも先は長いし、無理して疲れちゃったら……」

「私は先生のモデルで慣れてるから平気。辛くなったら言う。それとも」

「それとも?」


 彼女は待ってましたとばかりに、邪まな笑みを浮かべる。


「休憩、したい?」

「えぇ………」


 僕は小さな丸イスに座っているので、彼女はその長身を腰から屈めて僕の目を覗き込んだ。

 背に流していた髪が屈んだ拍子に前に溢れて、朝露のように垂れる胸を隠す。

 彼女がヌードモデルから大石可奈に戻った。


「ふふっ、知らなかったらどうしようかと思った」


 確かに僕は二十歳前の未成年だが、大人が言う「休憩」の意味くらい分かる。だけど、テレビドラマで知ったと言ったら違う意味で火に油だ。ここは知らないフリを決め込むしかない。

 今の僕には刺激が強過ぎるジョーク、勘弁してください。





 続く二セット目。彼女に落ちる影の階調を注意深く観察し、身体の輪郭を修正する。

 デッサンではないから一枚絵として完成させる意味はないけれど、それでも彼女の持つ立体、〈カーヴ〉を把握するためには必要なことだ。

 単なる模写と実際のモデルを前にしたスケッチでは勝手が違う。サイズや細かなディテールもさることながら、模写元の画集は二次元に対して大石さんは三次元の存在である。

 三次元の立体を二次元の平面に再構築しなければならないのが絵だ。視覚の他に触感も駆使する彫刻と比べるとある種のもどかしさがないとは言えない。


 光に対する陰影を追うことでしか、立体を知ることができないからだ。


 現状は上半身の括れと長い髪の輪郭が無ければ女性だと分からない。もう少しこの状態から立体を詰めたいと思いつつも、時間は限られているので次に段階へと移る。

 僕は絵の顔に軽く鼻筋を入れ、続いて顎から首、鎖骨と徐々にフォーカスを絞り始める。


 彼女の中で何より目を引くのは、他よりも豊かな濃淡の影を落とす胸の双丘。

 鎖骨から外側に向かってなだらかな斜面を下り、頂きを越えると強い弧を描いて折り返す。階調の変化が膨らみそのものの容量を物語っている。

 模写を繰り返したおかげで「女性」を描くこと自体には慣れた。けれど、高塚省吾氏がキャンバスに描きだした瑞々しい少女達とは違い、彼女は成熟した大人のそれである。

 僕より四つ上だから二十三歳。年齢を考えればごく当たり前のことかもしれない。


「今、どこを描いてる?」

「え……」


 今度はポーズを取ったままの彼女が声を掛ける。その目線は僕を見下ろす位置だ。

 声が弾んでいるのは、またしても僕を揶揄う前ぶれだろう。


「え、えっと、鎖骨辺り……」

「へえ、嘘」

「ええっ、いやその嘘って……」

「ふふん、女はどこを見られてるかくらい分かるよ」


 思いのほか僕は動揺が顔に出てしまうらしい。そのものズバリを見透かされてしまう。

 いくらパーツごとの意味性を排除しようと心掛けても、完全には無理だ。


「弟と反応が違うから新鮮。やっぱり男の子、男の子」

「あ、あの僕も一応……いや、えっと真面目にやってるんですが」

「ああ、ごめんごめん」


 彼女はその特徴的な奥二重を弓なりに細める。

 そう言えば、と僕は口を開く。


「ラジオでも持ち込めば良かったですね、ここ、僕たち以外は居ないから」


 この部屋は彼女と会話をしなければ、遠くに聞こえる蝉の声と僕が走らせる鉛筆の音くらいしかない。大学の周辺は殆どが住宅だから、休日のこの時間は二十分間隔の電車の音だけだ。

 僕はまだ緊張していたのかもしれない。彼女が退屈することまでは考えてなかった。


「なにか音、あった方がいい?」


 彼女は僕の方に顔を向けてポーズを崩した。

 両の腕を胸の下で組む。乳房のアールが腕に押されて形を変える。

 細く長い指、グロッシーで短く切り揃えられた爪が見える。手先を汚すのが当たり前の美大生にしてはよく手入れされている。

 性格に合ってないと言えば失礼だけど、綺麗だ。


「僕は、なくても変わらない、ですが」

「あ、私もそうだ。描いてる時は何も耳に入らない」


 彼女は無意識に引いた左脚に前に戻し、そのまま半歩左へ。両腿の隙間から向こう側の壁が見える。その上には緩いスロープを描いて降りる下腹部の奥。

 僕は座って彼女は立っている。


「大石さんは退屈……じゃない、ですか?」


 そう言いながら、思わず僕は目を泳がせる。

 彼女にとって、僕はそれが許される特別な人間ではない――― 普通の感覚だと思う。罪悪感に近いかもしれない。同じ女性の〈ヌード〉でもパーツによって段階がある。これも刷り込みだろうか。

 だけど、彼女はその視線も見逃さなかった。


「ごめん、茶化した私も悪かった。でも、あまり意識されると恥ずかしくなっちゃう。私は慣れてる。気を使って欲しくない」


 彼女は眉間に皺を寄せ、僅かに口調を硬くする。


「一応、私も、頑張ってるんだから。こんなだけど」


 僕は彼女の顔に視線を留める。

 彼女は硬く口を結んでいたけれど、少しだけ照れているのが分かる。

 それは一糸纏わぬ姿だからではなく、自らの本音に触れてしまったからだろう。

 情けないながら、彼女の本気に気圧されるのは二回目だ。


「え……と、僕も、その努力します」

「あはは、そう気張らなくていいってば。私は私の思うようにやっているだけ」


 僕の返す言葉に彼女は晴れやかに破顔する。


「いっそ、飽きるまで全部見せよっか? M字開脚とか」

「もうっ、言った先から……」

「ごーめーんっ」


 僕が呆れると彼女は両手の平を合わせ、首を傾げながら屈託なく笑った。

 そして、思い出したように話を戻した。


「そう、私はキミが私の〈カーヴ〉を描き写す音。それが聞こえれば、他は要らない」


 彼女が元のポーズに戻したところで、二度目のアラームが鳴る。

 今度はすんなりとワンピースを手に取って袖を通した。


 そして、彼女は誰に向けてでもない独り言を小さく呟いた。



「そっか。私、頑張ってるのか……」




◆◇◆




 初日は結局立ちポーズに全てを費やして進捗は遅れ気味になったけれど、二日目は彼女が妥協して、「顔を写さなければOK」とパーツのスケッチは撮影に置き換えることになった。

 当時のデジカメは解像度も粗く、イエローの再現もずっと弱かったけれど、携帯の写メに比べれば遥かにマシである。何しろ iPhone が発売される前の話だ。


 翌日、僕の前に現れた彼女はTシャツにハーフのデニムと普段通りの出で立ちだった。

 初日ほど高いテンションを維持していなかったけれど、その代わり室内着に白ワイシャツを用意していて、それはそれで面を食らった。

 土曜の午前中である。サービス精神旺盛にも程がある。


「男の子はこういうの、好きよね」


 呆れる僕を尻目に彼女は低く屈んで冷蔵庫の中の飲み物を物色する。

 彼女の〈ヌード〉は見慣れたはずだが、ワイシャツの裾から覗く長い脚が艶かしい。

 一体なんの罰ゲームだろうか。


「美大が何故、変人ばかりと言われるか分かりました。突出した人が平均を引き上げてる」

「スク水も引っ張り出したんだけどねえ、脱ぎ着が面倒だから却下。うーん、残念!」

「話を聞いてないですね。と言うかスク水って。大石さん、お幾つでしたっけ?」


 この頃には僕も彼女の調子に随分と慣れて、ある程度は言い返すようになった。

 彼女は飲み物を取り出し、その高身長の主因である長い脚で冷蔵庫の扉を閉めた。


「十七歳……だった気がする」

「おや、随分と大きく出ましたね」

「そりゃあ大きいからね!」


 彼女は不満の胸を誇示するかのようにワイシャツを肘辺りまで降ろした。

 言葉を失なった僕に満足した彼女。次の言葉を口にした。


「さ、始めようか」






「あれ……着替えないんですか?」


 残り二ポーズのスケッチと付随するパーツの撮影の全て終え、僕は片付けを始める。

 それでも時間は想定を押して陽はすっかり落ちてしまった。エアコンが効いた室内から夏の空気を伝えるのは、暗くなっても鳴き続けているツクツクボウシだけである。

 床のマーキングを剥がして隅に避けていた平机を元の位置に戻す。撮影画像の確認に使ったパソコンをシャットダウンした。


 ふと彼女を見るとカーテンの隙間から外の暗さを確認している。

 白ワイシャツのままだ。


「ねえ、キミすっごく真面目だよね、結局わたしに最後まで指一本触れなかった。魅力ないのかなぁ。大きいから?」


 僕の方に振り向いた彼女だったけれど、視線を合わさず低めのテンションで言葉を溢す。


「いやいや……そんなことないですよ。時々太ももに鉛筆をぶっ刺してましたから」


 突然何を言い出すのかと思いはしたものの、僕は大袈裟なジョークで返す。

 その言葉に彼女の顔は明るさを取り戻した。


「ホント? おちんちん反応した?」

「また、そんなことを言う……大石さんてデリカシーの欠片もないですよね」

「ほほう、言うようになったなぁ少年。余は満足であるぞ」

「えぇっと、最低でも絵が完成するまで、水を指すような真似はできないですからね」


 冷静を装っているが僕の偽らざる本音だ。彼女を立てたいが為に言っているのではない。

 この時点で彼女の存在は、僕のインスピレーションに匹敵するほど大きくなっていたのである。

 彼女に対して少しだけ背伸びがしたかったのかもしれない。


 だけど、彼女は僕の想定の外へと誘い始める。


「でも、もしキミがわたしを押し倒したら、わたしは抗わなかった」


 彼女は虚空を見つめながら、うわ言のようにその言葉を口にした。

 もちろん僕は耳を疑う。


「立体の〈カーヴ〉を理解する方法は何も「見る」だけじゃない。「触る」という手もある。柔らかさや反発する力、重さや温度は見るだけじゃ分からない」

「え、あ、あの、どうしたん……ですか?」


 彼女はふわっと笑って平机の縁に腰掛けた。そして再び僕に視線を向ける。


「実は来年、先生はフランスのある美術アカデミアに招かれていて、今年度の契約満了を待って向こうに活動の拠点を移すのね。講師として芸術家として。で、わたしもそれに着いていくの」


 驚く僕の顔を確認するかのように、彼女はその奥二重を細める。


「えっ……じゃ、日本を離れるってことですか?」

「そう、だからわたし、卒業制作を急いでいるの。色々と準備があるから。でも建前上は助手としてなんだけど……」

「建前上?」

「実際は師匠だし、正式な助手だから建前じゃないけど……永久就職? みたいな」


 あ……とばかりに僕は彼女のこれまでの発言の違和感が腑に落ちた。


「つまり、先生とはそういう……ええっと、れ、レ、って言っちゃって良いのかな?」

「世間的にはそう。でもわたしは男の人だって全然OKだし、偶々好きになった人におちんちんが付いてなかっただけ」

「また、そういう……」


 真面目な話を長く続けられない彼女だけど、この時ばかりは有り難かった。


「あはは、ごめんごめん。でもそれは脇の話。あっちに行ったら完全に現代彫刻の人になる。そうしたら大好きな高塚省吾のようなアプローチは難しくなるの、わたし的には。先生のシュルレアリスムと高塚省吾の世界、彫刻と絵を秤に掛けて先生を取った」

「……言ってることは、分かります」

「卒業制作、ホントは絵を描きたかったんだけど……」


 彼女は平机を離れて僕の目の前に歩み寄っり、そして僕の顔を奥二重で覗き込む。

 恐らく裸眼ではっきり見える距離なのだろう、僅かに見下ろすが、悪意などある訳がない。


「きっぱり諦めたつもりだった。でも、そこに現れたのがキミ」

「ああ、それで僕の……」

「日本に居る間、最後に何かを残せるんじゃないかって。その気にさせたのはキミなの」


 彼女は踵を返し、控え室の電源に向かうと灯りの全てを落とした。

 目が慣れない真っ暗な闇の中で、しゅるっと衣擦れの音がする。



「そしてこれは、わたしの〈カーヴ〉を理解する最後の仕上げ」


 彼女の〈カーヴ〉は、僕を柔らかく抱きしめる。




◆◇◆




 夏が終わり、僕のインスピレーションが完成したのは彼女が卒業する次の春まで掛かった。

 彼女は絵の出来に満足してくれたようだったけれど、公募の方は入選までは至らず。

 ただ、全ての〈カーヴ〉をありのままに描いた所為かは分からないけれど、何人かの画家や審査に関わった方が声を掛けてくれた。


「あの絵はキミの名刺代り。キミがキミの絵を描き続ける限り、わたしは残る」


 彼女のはメールにはそう記していた。

 そして長い改行の後、追伸。







「キミに恋をしたのは、絵の中のわたし」

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