第二話 わたしはキミの絵の先が
八月も盆を過ぎて後半に入り、その日も空は青々と良く晴れていた。
暑さは僅かに和らいだ程度だったけれど、エアコンが効いた図書室は依然として隔絶した感がある。
あれから僕が陣取る席に立ち寄るようになった彼女、今日も当たり前のように対面に座る。髪を上げて露わになった首筋をタオルで拭きながら僕に告げた。
「先生、ついさっき起きたところだってさ」
彼女は彫刻科の四年生で、新進の女性彫刻家を講師に迎えた現代彫刻研究室の学生である。
「先生」というのはその「特別講師」のことだ。
因みに新進と言っても三十代、僕達からすればそれほど若くはない。教授と名がつく方々に比べればずっと若いのだけど。
早くも必要な単位を取り終えた彼女は、半分師事に近い形で先生自身の作品を手伝いながら、これまた早い自らの卒業制作を進めている。就活はしなかったそうだ。
彼女が夏休み中も大学に来ているのは正にその為で、先生は時々(と言うか割と頻繁に)彼女を先に帰して徹夜する。朝が遅い先生を待つ間、利用していたのが図書室だった。
先生がその彫刻において、主に取り組んでいるテーマも〈ヌード〉である。但しそれは、俗に言うシュルレアリスムと呼ばれるもの。
人体をパーツ毎に分解し、数理曲線的解釈を加えて再構築するというもので、僕が目指しているものとはまるで異なる。そもそも平面と立体からして違うのだけど。
その所為か、彼女は女性そのものの〈ヌード〉の他に、パーツにも強く関心が向いており、時折、僕が仰天するワードも平気で口にする。
「ところでさぁ、絵画とか彫刻とか、男の人のペニスはいいのに、どうしてヴァギナはみんなツルッと省略するんだろう?」
固まる僕を一瞥して揶揄うように続ける彼女。今度はやや声量を上げる。
「日本はダメだけど海外のポルノは丸出し。でも、芸術の世界はおちんちんは良くておま
「わああああああああああああああっっ」
慌てて僕は彼女の言葉を遮って辺りを見回す。幸い近くには誰もいなかった。受付の係員には会話の内容まで届かなかったようで特に変わった様子はない。
「へ、ヘアで隠れて見えないからじゃないですかね……」
「そうかなぁ? でも向こうの金髪の人とか結構透けているし、解剖学とか多かれ少なかれ通る道だから、どうなってるか知らないってことはないんじゃないかなぁ」
「ええっと………」
僕は視線を高塚省吾氏の画集とスケッチブックの往復に集中する。
無邪気に会話を続ける彼女がどんな顔をしているか分からないが、ご機嫌なのは間違いない。
「造形として美醜の区別なら、どちらもグロテスクであまり気持ちの良い形とは言えないのに、女性器だけより規制が厳しいのはどうにも腑に落ちない」
「男の僕が言うのも何だけど、やっぱり扇情的かどうか、じゃないですかね。男性の丸出しは間抜けなだけだけど、女性のそれは意味性が変わると言うか……」
僕は彼女の方に一瞬だけ視線を向けると、頬杖を突いた彼女は望み通りの反応が返ってきたとばかりに口角を吊り上げていた。
「そこのところ、よく分からないなぁ。じゃあ乳首もダメじゃないと辻褄が合わない」
「ちく……いや、そっちは男性にも一応あるものだし、赤ん坊の頃から慣れたものだから……」
「成る程ぉー。そう言えば、キミんちもお姉さん居たんだよね」
「えっ、まあ、居ますけど」
家族構成は前に話していたこともあって、僕には姉が一人、彼女にも弟さんがいる。
彼女は四年生だったけれど、一浪しているので僕より四つ歳上。
露骨に僕を歳下扱いするのはその所為だ。
「やっぱり、パンツ一枚で家の中ウロウロした?」
「いえ、そこまでは流石に……」
「えーっ、みんなおかしいって言うけど、そっちが普通なのか……がっくり」
そう言って大袈裟に肩を落とすジェスチャー。
彼女は良く言えば天真爛漫、悪く言えばガサツだ。その高身長が影響したかどうか分からないが、あらゆる方向で明け透けである。
かのOBの女性が言った「クソ度胸」、成る程と。
「こんな話、弟も嫌がるのよね。なんでそんなに女を美化したいのかと」
弟さん、君は正しい。
「うーん、やっぱり男の人はその辺が一線を超えるトリガーなのかな? おま……えっと女性器」
「えぇ………」
ああ、先生、早く大学に来てくれないかな……。
「ありのままであるべき、とは確かにそうなんだけど、単純に見てくれだけの話なら、省略した方が〈ヌード〉としてはスムーズ。女性器は余計なノイズ。こう思うのは刷り込みかな?」
「……面や曲線、〈カーヴ〉の美しさなら、えっと……乳首も邪魔だとは思いますけどね」
彼女は頬杖から身を起こし、良からぬ笑みをその顔に浮かべる。
「ほほぉ、キミらしい意見だ。アロエの棘は邪魔かね」
「え……?」
僕は混乱した。僕が多肉植物を好んで描いていたことは話していなかったからだ。
「あ、ごめーん。キミが席を外している時、スケッチブック見ちゃった」
えっ? えっ、えっ、えっ?
「多肉植物、自主制作のモチーフにするんでしょう? あとびっくりしちゃった。一番最初の模写、あれ、わたしのデッサン、だよね?」
読んで字の如く、青天の霹靂とは正にこのことである。
・・・
「だぁってキミ、全然わたしの名前、聞かないじゃない。名乗らないしさ。どこかに書いてないかなって、それでスケッチブック」
唖然とした僕に視線を向けながら彼女は悪びれもなく言う。とは言え、不覚にも僕も名乗っていなかったのだから文句は言えない。それに―――
「おぉ、上達の具合が分かる。途中からアロエとかエケベリアとか並べて描いてあってさ、面白いなぁって頁を捲っていったら、あれ? どうにも見覚えがあるものが」
彼女は胸の前で腕を組み、首を傾げて屈託なく笑った。
僕は固まったままだったけれど。
「自分で描いたんだから忘れる訳ないよね、あのデッサン。今までなんにもなかった訳じゃないけど、まさか模写するツワモノが現れるとは思わなかった」
「え……、あー、その、ごめんなさい、と言うか」
ようやく口を開くことができた僕は、取りも直さず謝罪の言葉を口にする。
彼女の方と言えば、全く気にする様子もなく、すかさず次の言葉を続けた。
「え、ああキミが謝ることはないよ。わたしのデッサンは曲がりなりにもオープンなものだけど、キミのはそうじゃないし、名前も知られてたんだから、まあ事故よね」
彼女の顔を見ると、その特徴的な奥二重を蒲鉾状に歪ませている。
あたかも続きの話がしたくて仕方がない様子である。そう、スケッチブックの中身の。
「それよりさ、その着想は面白いと思うなぁ。〈ヌード〉に花や蔓とか植物と組み合わせることは珍しくないけど、ぷくぷくっとした〈カーヴ〉の多肉植物だもん。わたしもその発想はなかった」
さり気なく彼女は僕が使う言葉、〈カーヴ〉を引用する。
〈ヌード〉は〈カーヴ〉の集合、全く同じ意味として捉えているかは確信が持てないけれど、恐らく意味は通じていると思う。
「あ、いや、その……多肉植物の方が先なんですけどね、〈ヌード〉の方は後」
「えっ、そうなんだ。男の子だから大体そっちが先だと」
彼女は意外だったのか、特徴的な奥二重がはっきり二重になる程、目を丸くする。
男の子は〈ヌード〉が先――― 普通はそうだと思う。僕だって女性に興味が無いと言えば嘘になるけれど、絵は僕の中の聖域のようなもので繋げて考えたことがなかったのである。
現に今の僕が捉えている〈ヌード〉も造形的分類としての女性であって、いわゆるジェンダーロール上の女性ではない。
「多肉植物は昔から好きでよく描いてました。玩具みたいな立体感とか〈カーヴ〉がなんとも不思議で。〈ヌード〉の方は、なんと言うか、その……」
「ああ、それで「あさきゆめみし」?」
「えっとそれは……」
「それは?」
彼女は上体を前に乗り出して、丸くなった目をそのままに僕の顔を覗き込んだ。
その動機を素直に告白して良いものか。もちろん躊躇ったが、ここまで興味を持ってくれているのだから、バラしても引かれはしまいと僕は腹を括った。
「あの、実を言うと切っ掛けは「大石さん」のデッサン」
この時、初めて彼女の名前を口に出したと思う。
「え、……って、わたし?」
今度は彼女が固まる番である。
「初めてあのデッサンを見た時の第一印象と、僕の頭の中の多肉植物が重なって。でもそのままだと盗作になるし、それで高塚省吾氏の模写から始めて、そらで描けるように」
彼女はそれまでの態度とは打って変わり、大きなため息を吐いた。
「はぁ、成る程ぉ。うーむ、言葉もない。わたしの所為……って、いや、悪いことじゃないか。今までも描かせてくれって頼まれたことはあったし」
「えっ? モデルを頼まれたこと、あったんですか?」
僕は思わず食い下がってしまった。だけど、その反応は彼女は想定内だったようだ。
「今まで二人くらいかなあ、年イチで。どう見ても動機不純だったから断った。そもそもあのデッサン、半分担がれて描いたようなものだったし」
「半分……担がれた?」
「うん、先生に。受験前からの知り合いでさ、美大は変人ばかりだから、インパクトがないと埋もれるよってね」
茫然とする僕を尻目に、彼女は得意げに語る。
「先生は大学の課題を知っていたから一発で合格したら描かせてあげる。ダメだったら描かせなさいって。二人とも高塚省吾の絵が好きだった所為もあるかな」
描かせなさい? 誰が誰を? 僕が混乱する様子を見て、彼女はすかさず答えを用意した。
「あぁ、先生がわたしを描くついでに、わたしもわたしを描いた……って、わたしの課題だから逆か。わたしがわたしを描く横で、先生もわたしを描いた。だからわたしのデッサンは二枚ある」
「一発合格したら先生がモデル、受からなかったら大石さんがモデルってこと?」
「そうそう、合ってる合ってる」
美大は変人ばかり――― 確かに間違っていない。でも今の話、変人ではないけれど何か……
「あの時のわたしは大学デビューする気満々だったし、三割増しで描いたし、自分の〈ヌード〉を描く人は珍しいくらいだろうなぁと思っていたら、まさかの反響。あ、騙されたって」
当時のことを思い出したのか、からからと笑う彼女。その顔を見ながら僕は話を遡って、彼女がモデルを断った件に思考を巡らせていた。
ひょっとして、そんな経緯なら僕にも一縷の望みがあるかもしれない……と、考えていることがつい口に吐いてしまう。
「そう……ですね。モデル、普通は断りますよね」
その言葉を聞いた彼女は真顔に戻って、小さく深呼吸をする。
「う、うーん、やっぱりキミもそう思うか。わたしもキミだったら、そう思う」
「それは……やっぱり。そう思わない方が不自然、ですけど」
僕の「そう」と彼女の「そう」が指すものが同じかどうか分からない。
彼女は眉間に皺を寄せて何かを迷い始めた。
そして小さくため息を吐く。
「これ言っちゃうと、わたしが誘導したみたいなんだけど……」
彼女はこれまでの態度が嘘のように、真剣な面持ちで次の言葉を口にした。
「キミ、わたしに協力して欲しい? わたしはキミの絵のその先が見たい」
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