あの夏限りのヌードモデル Curved surface

永久凍土

第一話 多肉植物、彼女の〈カーヴ〉

 奥の手で長い髪を掻き上げ、うなじに残る後れ毛。

 観る者に真っ直ぐな眼差しを向ける奥二重。

 小型の多肉植物のようにふっくらした曲線を帯びた唇。

 細い首から滑り降りた先には前後に薄い肩。

 そして、頭上へと高く掲げられた腕。

 見るからに華奢な二の腕に引っ張られて変形する乳房。


 入学して最初の課題、彼女は自らの裸体、〈ヌード〉を描いていた。


 大学は僕達がそれまでに知る学校とは根本的に違う。

 特に音大や美大、芸術系の大学は不思議な世界――― とは聞いていたけれど、まさかここまでする人が居るとは思ってもみなかった。


 恐らく姿見を右横に置いて描いたと思われる。

 中目のワトソン紙に鉛筆によるデッサン。ストローク感に乏しい微細なハッチングは柔らかな階調を生み、ほぼ陰影の濃淡のみで瑞々しい十代の裸身を描き出している。




 それはゼロ年代半ば。僕が入学した大学は「芸大と言えば東京芸大、美大と言えば武蔵美や多摩美」がほぼ常識の関東圏では口に出し辛い地方の美術系大学だった。

 その代わり、少々変わり種の若い講師が数多く招かれていて、先の課題もただのデッサンではなかったのである。


 デッサンらしからぬデッサン――― 一年生の間は洋画・日本画・彫刻の美術三科共通で出題される最初の実技課題。要するに技術(スキル)よりモチーフの選択が肝。


『ありふれた果物や石膏像などではなく、デッサンモチーフとして意外なもの』


 僕は頭を捻った末、入学祝いで姉から貰ったエケベリア・ラウィを描いた。

 直径三センチほどの小さな鉢植えで、真っ白な粉で覆われた厚ぼったい葉が特徴の多肉植物。

 僕の同期達も様々で、くしゃくしゃの一万円札、白目を剥いて眠る猫、アニメのフィギュア。

 まだ入学して間もない僕達は誰もが躍起になった。


 課題を提出、講義室にて次の課題の説明。そして講評。

 だけど、その時の結果は先輩達の優秀作を見せて貰って吹っ飛んだ。

 撮影して数冊のファイルに収まった優秀作は、どれも僕達の作品よりも意外性に富んでいたけれど、その中で「彼女のそれ」は頭抜けていた。


「ああ、これねえ。凄いでしょ、この子」


 捲ったページを戻しながら講師助手を務めるOBの女性がしたり顔で呟いた。ファイルを取り囲んだ僕達が息を呑んだのに気が付いたからだ。


「自分の裸を描いちゃう子って時々話には聞くんだけど、まさか本当に居るとは思わなかった。クソ度胸、おまけに結構上手いし。あたしにゃ無理」


 僕の大学は共学化して五年目。元が女子大だった名残りで依然として女子が大勢を占める。とは言え、無視できるほど男子が居ない訳ではない。

 ただ、大学生活が始まって間もないこともあって、男子勢は今のところ「まだ」真面目だ。


「あの、この方……まだ在学されてるんですか?」


 OBのすぐ隣でファイルを覗き込んでいた女子が、恐らく僕達が一番知りたい事柄を口にする。


「もう四年生だったかなぁ……ああ、冷やかしで会いに行っちゃダメよ。いい作品だから毎年許可を取ってるのに、臍を曲げられたら敵わない」


 OBは想定内の反応に満足して次のファイルに移り、最後の数ページを残して刻限を告げるチャイムが鳴った。そこで講評は終了、最初の実技カリキュラムは終了した。

 後日、どうしても彼女の印象が頭から抜け切れなかった僕は、ある決断をする。

 後学のためと称してそのファイルを借り出し、全作品を携帯で撮影した。もちろん他はカモフラージュなのは言うまでもない。

 我ながら大胆なことをやったものだと思う。自分でも驚いている。



 写真の下には八桁の学籍番号と三年前の日付。

 そして〈Kana Oishi〉と欧文で丁寧にラベリングされている。


 僕は彼女――― 大石可奈と出会う前に、彼女の〈カーヴ〉を知ることになったのである。




◆◇◆




 うだるような暑さと蝉の声が耳に刺さる煩わしい八月――― あれから幾つかの共通課題をこなして、大学は長い夏休みに入っていた。


「ああっ、貸し出されてないのに、いつも見当たらないからおかしいと思った!」


 まだ午前中、閑散とした大学の図書室。大きな声に驚いて顔を上げると彼女は立っていた。

 緩いウェーブが入った長い髪に黒縁眼鏡。白いカットソーにタイトなデニム、薄汚れた黒いエプロン。そして、男子の同期達と変わらない頭の位置。つまり、女子にしてはかなり大きい。


「えっと、それって……これ、ですか?」

「そうそれ。「あさきゆめみし」」


 僕は広げていた高塚省吾氏の画集を右手の鉛筆で差すと、彼女は口角を吊り上げて頷いた。

 左手に持っていたスケッチブックを慌てて閉じる。


「ふうーん、模写?」

「ええっ! ああ、うん、そうですけど……」


 高塚省吾「あさきゆめみし」。二〇〇〇年四月芸術新聞社発行の画集である。

 表紙全面には二人の若い女――― 少女の絵が使われており、立ち姿の間に縦書きで画集タイトルがレイアウトされている。淡い落ち着いた色調の中の少女は、共に〈ヌード〉だ。


「へえ、好きなの? 高塚省吾」

「あ、いや、その……」


 画集と言っても中身の大半は〈ヌード〉で占められている。年頃の若い男子が図書室で裸婦ばかり見入っている。いくら美大とは言え、格好がつく状況ではない。が。


「わたしも好きなの、高塚省吾!」


 彼女は黒縁眼鏡の奥、その特徴的な奥二重を蒲鉾のように歪ませた。

 あまりに印象が違ったので分からなかったが、奥二重で初めて彼女が何者かに気が付いた。


 今、目の前に立っているのは三年後の「大石可奈」だ。


 僅かに聞こえていた蝉の声が一段と遠くなった。



・・・



 僕は小さい頃からとにかく絵を描くのが好きで、中学・高校とそれなりに地方のコンペにも入賞もしていたし、父の理解もあって美大への進学は自然な成り行きだった。

 比較的余裕がある自営だったこともあって幸運にも学費の心配がなかったのだけど、流石に高価な画材くらいは何とかしろと命じられ、夏休みは一日の半分をバイトに費やしていたのである。


 そしてもう半分――― もちろん課題もあったが、ある目的の為に大学へと足を運んでいた。

 その目的とは、何物にも縛られない「自らの絵」、自主制作の為だ。


 僕が昔から好んで描いていたのはアロエやエケベリアなど、肉厚の葉が特徴の多肉植物。

 だけど、「彼女のそれ」を見た時にインスピレーションがあった。

 多肉植物特有の丸く柔らかな Curved surface〈カーヴ〉、その見た目と反する強い弾力の触感。

 同じく柔らかな〈カーヴ〉を持ち、強い意思を想起する「彼女のそれ」と重なったのである。


 一度は「彼女のそれ」を模写した。だけど、他人の作品をそのままを自らの絵に持ち込む訳にはいかない。思えば僕は、〈ヌード〉はおろか人物すら碌に描いたことがなかった。

 一介の美大生がモデルを探すという発想は現実的とは思えず、そもそも雇うだけの余裕もない。途方に暮れ始めたところで辿り着いたのが高塚省吾氏だった。


 僕のインスピレーションが要求するものが高塚省吾氏の諸作と合致した訳ではではない。

 目指しているものが全然違うから当然の話ではあるけれど、〈ヌード〉の、取り分けフォルムの捉え方が極めて近いと思えた。

 僕は己れに不足するものを補うべく、先ずは一作品ずつ模写を始めたのである。





「いいよねぇ、みんな可愛くて、無垢なハダカ。プリミティブな尊さ、と言うか」


 嬉々として想いの丈を語る彼女。確かに彼女の言葉はどれも当てはまっている。

 色調に乏しい静止した空間にうら若き裸身を晒す少女達。何処かを真摯に見詰めながら佇んでいる姿は、俗世の猥雑なそれとはかけ離れた神々しい存在のように思える。


 それにしても彼女、大きいのは背の高さだけではなく、声もデカい。


「天使って言ったら陳腐に聞こえちゃうけど、他にぴったりな表現が思いつかない。精霊とも違うし、人間の男とか女とかとは違う。第三の性、みたいな」

「ああ、そうですね、僕も……」


〈ヌード〉がもたらすもう一つの記号、「セクシャリティ」とは無縁な存在である。それは僕自身も同様に感じていたことだった。

 とは言え、美大生としては日が浅く、ましやて男の僕が彼女と同じ熱量で〈ヌード〉を語るのは如何なものかと考えていると、彼女は助け舟を出した。


「ああ、真昼間から大声でハダカの話しをしてたら困るよね。わたし、声大きいから」

「え、いやまあ、でも僕は別に、あはは……」


 そう言って頭を掻く彼女に曖昧な返事をしていると、彼女の携帯が鳴った。


「あ、先生が来たみたいだから。邪魔してごめんねぇ」


 彼女はそう告げると足早に図書室を去って行った。



 突然、僕の目の前に現れた大石可奈。

 彼女当人と「彼女のそれ」――― そのギャップに大いに困惑した僕だったけれど、落ち着いて振り返ってみると、ある気づきが降って湧いた。


 あのデッサンは高塚省吾氏のそれに感化されたものではないか―――


 僕のインスピレーションの源、奇しくも同じ高塚省吾氏によって結び付いたのである。

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