第三話 あの夏限りのヌードモデル

 彼女が出した三つの条件――― 先ず一つ目は「モデル」ではなく「共作者」として連名にすること。元々彼女からインスピレーションを受けて、彼女を描くのだから異論はない。

 二つ目は下絵しか付き合えないこと。これは彼女自身の活動の都合もあるからである。そして三つ目は何らかの公募展に必ず応募すること。つまり作品の完成が絶対条件だ。


「キミの創作意欲に火を付けちゃったんだから、責任くらい取ろうっ! ……って本当はわたし、卒制でちょっと煮詰まっちゃっててね、気分を変えたいかなって」


 そう言って彼女は舌を出して戯けて見せた。


 これまでの経緯で分かったことと言えば、彼女は先生の依頼に限って 〈ヌード〉のモデルを割と頻繁に請け負っていたことである。

 彼女が高校生の頃、バイトで紹介して貰ったのが付き合いの始まりとのこと。とは言え、先生のシュルレアリスムに彼女の面影は跡形もないのだけど。

 元々、家族の前なら平気で霰もない格好のまま闊歩する性格である。相手が同性であれば、〈ヌード〉にそれほど躊躇は無かったのだろう。


 因みにその先生、その高身長から彼女のことを成人女性と思っていたらしい。「随分と化粧っ気がない女だ」と思っていたから、高校生と知って仰天したとか。

 彼女はその時の様子について大いに憤慨して語っていたけれど。


「わたし、この身長でしょう? で、がっつり奥二重。黙ってると何を考えてるか分からないから、中・高と友達を作るのがいつも遅くてさ。大学デビューは割と切実なテーマだったのよね」


 自らの〈ヌード〉を描く、または〈ヌード〉モデルを引き受ける。

 その背景には彼女の大らかな人柄もあったが、やはりそれ相応の理由があったのである。


 理由の中身はさて置く。



・・・



 彼女を描くと決めた以上、僕も無計画に事を進められなくなった。


 ぼんやりと考えていた絵の構想を速やかにまとめなければいけない。夏休みが終わるまでに、最低でも構図とモデルに必要なポーズを決める必要がある。それが彼女が決めたリミットだからだ。

 打ち合わせを繰り返して、彼女を描く日は九月最初の金・土に決まる。彼女の厚意による貴重な二日間。その時間内で事を納める準備を進める。バイトも減らしたが今は止むを得ない。


 そして、その時が来た。九月初旬の午前中、過ごしやすくなったが依然として暑い。蝉の声はツクツクボウシに交代している。待ち合わせは大学だったが、最寄駅のホームで彼女に会った。


 彼女はブルーの小さなドットが入った白のワンピースに底が厚いサンダル、そして日傘。普段の彼女とはかけ離れた格好に、僕の顔はひどく驚いていたのだろう。彼女はそれを見て満足気に呟いた。


「去年買ってずっと着れなかったワンピース、今年も夏が終わっちゃうから、思い切って着ちゃった。前開きだから脱ぎ着も楽だし」


 そう言って、くるっと一回転する彼女。ふわりとワイングラスのようにワンピースの裾が膨らむ。アップにした髪は見慣れたものだが、彼女のトレードマークの黒縁眼鏡が見当たらない。


「……えっ、あ、あの、と言うか、め、眼鏡は? コンタクト?」

「この格好に似合わないし、ただの乱視だから。それにエスコートしてくれるんでしょう?」


 彼女は僕の左横へと歩み寄り、ノースリーブで露わになった右腕を僕の左腕に絡ませた。冷んやりとした彼女の体温が肌から肌へと伝わる。どうやら今は僕の方が体温が高いらしい。


「ええっ、ちょ、ちょっと待って、ちょっと待って!」


 慌てて腕を振り解けば、後の空気に差し障る。僕は恥ずかしさを耐えるしかない。


「へえ、もしかしてキミ、見られたら困る人でも居るのかなぁ?」

「ちょっ、あの、揶揄わないでくださいって……」

「ほぉ、その割には嫌がってないじゃないかぁ、ううん?」


 と、ここで彼女の方を向くと、彼女の目線は僕のそれより拳一つ上。彼女は自称一七〇センチ、僕は一七〇センチに届かない。サンダルの厚底分が加算された結果である。


「おお、これは気遣いが足らなかったっ!」


 彼女はそう口にして少し屈んだかと思うと、今度は僕の二の腕に胸をギュッと押し付ける。


「え、えぇ……」


 絶句する僕の耳元、彼女は弾む声で囁いた。


「だぁってキミ、センター試験前の学生みたいな顔してるんだもん。隣りの車輌で見てたよ」



・・・

 


 場所は第三棟3F彫刻実習室、その奥の職員控え室で彼女が内緒で先生に借りたらしい。先生は遠方へ取材の為、日曜日まで不在。二人とも実家住いなので、そこしか考えられなかった。

 控え室は六畳よりちょっと広い部屋、パソコン一台に事務机、幾つかの収納と小さな冷蔵庫。長辺が二メートルほどの平机、作品撮影用のグレーバックやレフ版などの機材があった。

 部屋の奥側は全面が窓で薄いカーテンが掛かっており、採光の心配は今のところ要らない。


 驚いたのは、アイボリーの壁に貼ってあった「もう一枚の彼女」だ。

 パイプ椅子に脚を組んで座った彼女がキャンバスに右腕を伸ばしている姿が描かれている。

 もちろん〈ヌード〉である。


「あ、ちょっとそれ、あんまり見ないで。姿勢も悪いし、補正が無いから……」


 コンビニで買った飲み物を冷蔵庫に入れながら、彼女は不満気に訴える。

 確かに「彼女のそれ」より幾分ふくよかに見える。胸もやや大きい。


「へえ、こっちも良いデッサンだと思いますよ。ちょっと「貫禄」があるかな」

「もしかして、さっきのお返しかな?」

「いえいえ、滅相もない……」


 僕は「もう一枚の彼女」の正面に立ち、近付いて観察する。

 荒々しいタッチの木炭デッサン。「彼女のそれ」よりダイナミックで立体感も強く出ている。

 流石は彫刻家だ。


「どうだか。でもこの頃よりも痩せたから、今はわたしのデッサンの方に近い……はず」

「おや、随分と自信が無さ気……」


 僕は衣擦れの音が聞こえたので振り返ると、彼女は既にワンピースを脱ぎ終えていた。

 身に付けているのはアクセサリーと下着だけだ。


「ああっ、えーっ! もう脱いじゃうんですかっ?」

「だぁって、脱いだ方が汗が引くのが早いし、どうせ脱ぐのに」


 しれっと宣う彼女。形勢逆転のつもりなのか口角が上がっている。

 僕は慌てて控え室の外に出てドアを閉める。外は実習室だから誰も居ない。


「もうっ、脱ぐ前に打ち合わせしたかったのにっ! 準備できたら呼んでくださーいっ」

「はぁーい、……ふふっ」


 返事の後の笑い声に不安を感じながら待つこと数分、髪を下ろした彼女がドアから顔を出したので控え室の中へいそいそと戻る。

 彼女は再びワンピースを着ていたが、それ一枚しか着ていなかった。

 前を開けたままなので目の向けどころに困るのは変わらず、やれやれである。



 今日明日の二日間でするべき事は全て決めている。他の画家の流儀を知らないから、それが正しいか分からないけれど、僕は全体のラフイメージを事前に用意していた。

 鬱蒼と生い茂る巨大なエケベリア・ラウィの森の中で、立ち・膝立ち・横座りの三ポーズの彼女が佇む姿。これは彼女からの提案で三ポーズをまとめて一つの絵に配置する。

 静止した絵の中に「時間」が表現できるからだ。


 具体的な絵の話になると無邪気な彼女は鳴りを潜め、一人の美大生に立ち戻った。


 逆光にならないように僕が奥側。三ポーズの位置決めに始まって、ラフと突き合わせてポーズを確認、必要とあればラフの方を直す。お昼の食事を挟んで、午後一時から最初のスケッチを始める。

 彼女の〈カーヴ〉、立体を把握する為のスケッチ/下絵である。三ポーズだから三枚だけ描けば良いものではないし、デッサンほど労力を注がないが時間もそれ程多くはない。



 彼女はワンピースを惜しげなく脱ぎ去った。

 その裸身は三年後の今でも「彼女のそれ」のままである。

 三割増しは謙遜。強いて言えば、胸だけは実物のほうが大きい。


「ど、どう、かな?」

「えっと、あの……月並みですが、綺麗……に整っていると思います」


 あれだけはしゃいでいた彼女だったが、それでも僅かに恥ずかしさを隠せないでいる。

 彼女は決して白い方ではないが、張りのある面の凹凸となだらかな曲線を描くS字ラインは、僕のインスピレーションに十二分に叶うものだ。


「そう言って貰えると嬉しい。先生は何も言ってくれないから、頑張ってるのに」


 彼女ははにかんで僕に視線を向け、そして続ける。


「それでも、おっぱいだけは大して痩せなかったなぁ。高塚省吾の女の子はこんなに大きくない。わたしのはなんと言うか、重い」

「うーん、それは世間的には贅沢なお悩みかと……で、それより」

「ん、それより?」

「えー、言いにくいんですが、そのですね、あの、下の毛は……何処へ?」


「彼女のそれ」、先生の「もう一枚の彼女」にも描かれていたアンダーヘアが無い。

 僅かな沈黙の後、彼女は胸へと流していた長い髪を両手で背中に回し、ありのままの〈ヌード〉を僕の視界にこれ見よがしに提示した。


 薄いカーテンが作る柔らかい光が、彼女の〈カーヴ〉に豊かな階調の影を落としている。


「ごめん、いっそ半端に省略されるくらいならって全部剃った。描けとは言わない。でも、わたしは描ける素材は全て提供するべきだと思ったから」

「? ちょっと、言ってることの意味が……」

「わたしもキミも〈カーヴ〉に拘ってる。わたしはキミが「わたしの〈カーヴ〉」をどう咀嚼し、解釈するのかが見たい……と言えばいいのかな?」


 僕はこの時、彼女の言葉の全てを正しく理解した訳ではない。恐らく彼女も言語化できないモヤモヤした何かを抱えながら言葉にしているに違いない。

 彼女が〈カーヴ〉と口にしたことで僕のスイッチが入った。


「何となくですが、分かりました。始めましょうか」

「ありがと」


 彼女はにっこりと微笑んで最初の立ちポーズを取った。僅かに左膝を曲げて左足を後ろへ、真っ直ぐ下ろした左腕の肘に右腕を添える。そして視線は斜め上方。

 僕はアラームをセットして十五分毎の休憩に備える。そして4Bの鉛筆を握ってイーゼルに立てたスケッチブックに向かう。


 今、目の前に在るのは裸の女性でも大石可奈でもない。彼女の〈カーヴ〉だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る