終章 藤本真和の執着
妻、ヨシ子を含んだすべてを失った真和は、事故からしばらくの間は何度も報道陣の前に立ち、同じ話を繰り返した。
彼の口から語られる悲劇は災害の恐ろしさと理不尽さを全国に伝え、多くの同情と、憐憫の感情を人々に湧き上がらせ続けた。
ひとしきり世間が悲劇に酔いしれ、それが順当に飽きられて風化した頃、真和は再びあの場所に立っていた。
あの日崩れた家屋はとうの昔に片付けられ、ただの更地に変えられてしまった、次の借用人を探している自分の住んでいた家のあった場所。
当時の悲しみを思い出すためならば、犠牲になった妻の遺体が発見された場所にでも立つだろうが、彼はそうしなかった。
彼が立っていたのは雷に打たれて倒壊した、柿の木があった場所のすぐ傍である。
そこは他の場所と何も変わらず均された土があるだけだったが、彼が当日のことを思い出すには十分だった。
「………」
静かに胸に手を当て祈るように俯く彼を、通りを行く人々は特に気にしない。
今はまだ誰しもがここで起こった悲劇を覚えているし、似たようなことをする人はそれこそ数多存在していたからである。
だから真和は人目を憚らず、この場であの日に思いを馳せた。
それは、ヨシ子が自分に二度目の救いの声を叫んだ直後のことだった。
窮地を訴える妻の声を聞き真和が思ったのは、死についてだった。
死んでしまえばそれで終わり。その人の意思は消し飛び、後には何も残らない。
今、2階で危機に瀕しているヨシ子も、後いくらかの時間が経過すれば死ぬ。
その事実に気がついた時、真和の脳裏にはヨシ子とは別の物が想起されていた。
始まりは、同日の朝に遡る。
家の安全を確認していた際、彼はとある物を発見していた。
それは柿の木の根元から少し離れた場所に開いた、小さな穴だった。
真和はそれがいつかのアリ達の巣だと、一目見て確信した。
突然の再会に彼の心は湧き立ったが、しかしその時は時間がないのもあって、そのままにして会社へと向かった。
そして雨が強まり会社が本日の業務を切り上げたのを受けて、彼は全力で帰途に就いた。
嵐に襲われたアリの巣がどうなってしまうのか、どうしても確認したいと彼は思ったからだった。
家に帰り着き次第庭に行き、雨を受けて穴から水を出している巣を確認し、彼は満足したところで帰宅する。
びしょ濡れの自分を見てヨシ子が嬉しそうにしていたが、不思議と何の感情も浮かんでこなかった。
そんな心持ちでいざヨシ子の二度目の叫びを聞いた時、死を連想した真和の心に浮かんだのは、アリの巣のことだった。
柿の木に雷が落ち、家に衝突したのなら、その根元にあったアリの巣はどうなってしまったのだろうか。
燃え爛れた木の下敷きになってしまえば、いかに土の中に空洞を作って雨をやり過ごしている彼らであっても、燻され、死に絶えるのではないだろうか。
その時にはもう、浮かんだ疑問を甚だ稚拙だとも、答えなど考えずとも分かるようなことだとも思ってはいなかった。
ただただ、確かめなければ気が済まない一大事だと、それだけの思いに支配されていた。
だから真和は、ヨシ子の叫びを聞いて駆け出した。
助けを待つ妻のいる2階ではなく、今まさに何が起こっているのか分からない、アリの巣の元へと。
再び打ちつける雨の中、庭へとやって来た真和が見たのは、物の見事に雷によって焼け爛れた柿の木と、それが倒壊した先で脆くも破壊され雨ざらしとなった2階の和室だった。
だが彼はそんな悲惨な光景など1秒たりとも目に留める事無く、柿の木の根元に駆け寄りアリの巣を確かめる。
そこには特に先ほどと状況の変わらない、水浸しの小さな穴があるだけだった。
遠くで雨音に混じって何か聞こえていたが、アリの巣を確認した安心感の前には些細なことだった。
ボウと、その時音がして、真和はそこでようやく顔を上げる。
何かに引火したのだろう。家の2階に改めて火の手が上がり、それはもう、すべてを焼き尽くす炎となっていた。
真和は燃え盛る炎を見上げながら、どこか他人事のように思う。
ああ、今から行ってもヨシ子は助からないだろう、と。
「………」
回想を終えた真和は、閉じていた瞳をゆっくりと開く。
深い感嘆のため息を吐いてから、持ち込んだ一輪の花を足元に添えた。
もう、ここには何もない。
真和は振り返らず、この場所から立ち去った。
彼は彼を待つ新しい家族と、この後一緒に食事をしに行くことになっていた。
そうしてこの場にただ一つだけ残された花の元に、気づけば一匹の虫が歩み寄っていた。
花の香に誘われてやって来たのだろうその虫は、どこにでもいる真っ黒な、ただのアリだった。
完
藤本真和の執着 夏目八尋 @natsumeya
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