冬の太陽 夏の情熱

本田真喜

第1話   序

 道は相変わらず混んでいた。

 排気ガスと熱気で空気が淀み、右側に見える、この国の繁栄を映しだすようにそびえる超高層のタワーさえ歪んで見える。

「まったく、なんでこんなに混んじゃってんだい?」彼は睡魔から逃れようと独り言を呟いた。

 東京の動脈と呼ばれるこの道路は、午前午後を問わず、毎日飽きることなく大渋滞を繰り返している。ここを高速道路と呼べるのは、街が寝静まった深夜と、大都会が束の間の溜息をついた時ぐらいのものなのだろう。

「それにしても……なんで俺がこんなところを走ってなくちゃなんねぇんだよ。空もこんなに青くて最高の行楽日和だってのによぉ。まったく、勘弁してくれよ。これもみんなあいつのせいだぜ?」

 七月の空はとても青く濃く、本格的な夏の到来を告げるようにコバルトのような煌きを見せていた。

 彼はとある運送会社の倉庫番、いわゆるフォークマンをしている。フォークリフトに乗り、倉庫内にある荷物を整理、管理するのが彼の本業なのだが、今日この日、彼はある同僚のドライバーに早朝から拝み倒され、泣く泣く配送業務をする羽目になったのだった。

「だいたい俺は今日休みのはずだったんだぜ? それを夜明け前から起こしやがって……。あのやろう、昼飯の一回くらいじゃ許さねぇからな? それにしたってすげぇなこりゃ、全然動かねぇよ。この分じゃ延着しちまうぜ?」

 渋滞の列は視界の遥か先から、右側を流れる大きな川に沿って続く道路の上を、まるで働き蟻が規則正しく列を作っているかの如く続いている。その大半は彼の運転する車同様トラックだ。その数え切れない台数のトラックの積荷が、この国の経済、国民の生活を支えていると言っても過言ではない。それは物流関係に従事している彼にとっては鼻の高いことではあったが、今の彼にはとてもそんな悠長なことを考えている余裕などなかった。

「ちくしょう、早く進めってんだよ! 先頭のやつは何やってんだ?」こんなむちゃくちゃな台詞まで飛び出す始末である。

 それからしばらくの後、ハープ型に作られた独特の形状の橋を渡り、正面に大きな観覧車が見えて来た頃、少しずつだがやっと車の列が流れ始めた。この先にジャンクションがあり、車の流れが左右に二分するためだ。

 彼はその分流を左に進むため、ウィンカーを出し車線を左に変えた。

「よーっし、いいよいいよぉ、やっと順調に流れ始めたねぇ。やっぱ高速って名前なんだからこうでなくっちゃいけねぇなぁ」

 車の流れの滞りが解消するのと同時に、彼の憤りも少しずつだが解消されていった。が、その時である。

 あと五十メートルほどで分流地点を迎えようというあたりで、彼の視界を突然、巨大な銀色の壁が遮った。

「うわっ、あぶねぇ!」彼はハンドルを左に切るのと同時に急ブレーキをかけた。突然、ウィンカーも出さずに一台のトラックが強引に彼のトラックの前に割り込んで来たのである。

 相手は荷台が箱型のバカでかい十トン車。もし彼がブレーキをかけていなければ確実にぶつかっていただろう。

「このやろう、なんて運転しやがんだ!」せっかく治まりかけていたイライラが憤怒という形となって彼を支配し始める。そしてそれは相手に対しての威嚇という行動を彼に起こさせた。

 分流を終え、三車線の道路に合流すると、彼は目の前を走る十トン車に対してパッシングを浴びせ、右へ左へとハンドルを切り始めた。いわゆる“アオリ ”という行為だ。 

 これにより目の前を走る十トン車が、ハザードを点灯させるなどして謝罪の意思を示してくれていたとしたら、彼の怒りも鎮まり、事態も終息を迎えていただろう。だが、その十トン車の見せた行動はそのまったく逆だった。 

 ハザードランプを点灯させるどころか、わざとブレーキをかけてスピードを落とし、さらに目の前でその大きな車体を右へ左へと揺らし始めたのだ。明らかな挑発行為である。

「このやろう、なめやがって!」彼の怒りは頂点に向かって一気に高まって行った。

 車線を一つ右に移し、相手を追い抜くべく加速を始める。荷物を積んでいるとはいえこちらは四トン車、しかもインタークーラー装備のターボまで付いている。明らかにこちらの方が速いのだ。だが、こちらが車線を移せば相手もブロックするように車線を変える。絶対に前には出させまいと、その大きな車体を右へ左へと振り、こちらに大きな圧力をかける。その隙を突こうと、こちらも執拗に車線を変え、急加速を繰り返す。時速はおよそ六十キロから七十キロ、けっして速いスピードではないが、このスピードで二台の大きな鉄の塊が、高速道路上を縦横無尽に暴れている姿には、危険という言葉以外を当てはめることは出来ないだろう。

「てめぇこのやろう! ぜってぇ許さねぇからなっ!」彼の怒りは血液が沸騰するかの如く昇りつめて行った。

 クラクションを鳴らし、執拗にハンドルを右へ左へと操作し、相手を追い抜くために深くアクセルを踏み込む。そのたびに目の前に銀色の巨大な壁が現れ、行く手を遮る。怒りと焦燥感が入り混じり、彼の視界は完全に目の前を走るその十トン車一点に集約されて行った。そして彼の意識もまた、相手に対する憎悪と闘争心で埋め尽くされ、払うべき他の走行車への注意がまったくなされなくなって行った。


「ちょっと夏妃、さっきのとこで下りるんじゃないの? 次の出口だと行き過ぎみたいだよ?」後部座席で道路地図を見ながら香織が声を上げた。

「えっ、ホント? でも前に来た時はこの次で下りた気がするんだけどなぁ……」

「ちょっとぉ、もう大丈夫なの? せっかく早起きして来たのに、道に迷って遅れちゃったら何の意味もないじゃない。ただでさえあんなに渋滞してたんだからさぁ。いいかげん、ナビとか付けた方がいいんじゃないの?」助手席では未奈が不満の声を漏らしている。

「そうそう、夏妃はいっつも道間違えるんだからさ、ナビはあった方がいいかもね。そうすればあたしももう地図なんて見なくて済むし」

「ちょっとあんた達、そんな高価なものアタシの給料で買えると思ってんの? この車維持して行くのだって精一杯なのに。だいたいあんた達、いっつもアタシの車ばっかり乗ってるけど、そんなナビだなんだって言う前に、たまにはガソリン代くらい払いなさいよね。ただでさえ今、ガソリン高いんだから」

「まぁまぁ、そんなに熱くなりなさんなって。そんなおっかない顔してると、ミッキー寄って来てくんないよ? ねっ、香織?」

「そっ、ミッキーもミニーも人を選んで寄って来るらしいからね。もっと穏やかな顔しなさいって」

「ふーんだ、別にいいもんね。アタシはミッキーよりドナルド派なんだから。だいたいミッキーってさぁ、ネズミのくせにアヒルとか犬と同じ大きさなんだよ? おかしくない? どんだけバカでかいネズミなのよ」

「ちょっとちょっとぉ、せっかく今から会いに行こうとしてるんだから、そんな夢のないこと言わないでよぉ。それに私のミッキーにケチつけないでくれる? だいたい夏妃はねぇ、いっつもいっつも……あれっ? あっ、あの看板……」

「ん? どれ……? あっ、ほらやっぱりいいんじゃない! ちゃんと書いてあるでしょ? ディズニーランドは次の出口って!」

「まぁ、たまにはねぇ、こんなこともないと帳尻合わなくなっちゃうもんねぇ。あっ、ほらっ、見えて来たよ! あれアンバサダーホテルでしょ? いやぁん、ミッキー待っててねぇ!」

「あぁあ……。未奈の魂、もうランドの中まで飛んでっちゃったよ。どうしょもないね、この娘も。それはそうとさぁ、今日、ラストの花火まで見てくでしょ? あたし、超絶景ポイント調べて来たよ! だから買い物とかはパレードが始まる前に済ましちゃってさ、そんで……えっ……? あれっ……ちょっとちょっとぉ、あれ見てよ、あのトラック。なんか超ヤバくない? あれ、何やってんの?」

「うわっ、ホントだ。右行ったり左行ったり……いったい何をやりたいんだろね?」

「ありゃりゃりゃ、なんかアオりまくってますねぇ。相当御立腹なんじゃないですかぁ? なんかその前のトラックも変な動きしてるよ? あぁ怖い怖い、近づくのやめときましょか」

「おっ、なんか夏妃らしくない台詞だね。いつもの夏妃だったら、バッカじゃないの?なんて言いながら、あんなのバビューンってぶち抜いちゃうのに」

「そうだよ、いつもの怖いものなしの夏妃じゃないみたい。ねぇねぇ、あんなのサクッとパスして、早くミッキーに会いに行こうよぉ。あーっ、ほらっ、シンデレラ城も見えて来たぁ!」

「だめだめ、ここは一般の道路じゃないんだから。スピードだって全然違うんだよ? もし事故っちゃったらどうすんのよ。こんな軽自動車なんて、あんなバカでかいトラック相手じゃひとたまりもないんだから。」

「ふぅん、今日はなんだかやけに大人じゃん。もしかしてどっか具合でも悪いの?」

「今日はじゃなくて今日もでしょ? 二十三にもなって、感情まかせの運転ばっかりしてちゃ笑われちゃうじゃない。それに……なんか嫌な予感もするし……」

「なに言っちゃってんの? いつもは他人の運転に吠えまくってるくせにぃ。あーんもう、こんなトロトロ走ってないで早くミッキーに会いに行こうよぉ。っていうか、だいたい今、何キロで走ってんの? げっ、六十キロ? 高速道路で六十キロってありえなくない? こんなに流れもいいのにぃ。ほらぁ、他の車はみんなビュンビュン走ってるよ!」

「そうだよ、だいたい嫌な予感とか言って、夏妃の勘なんて当たったことないんだから。ほらっ、一番右の車線からバビュンって行っちゃえば大丈夫だって。この車、ターボ付いてるんでしょ? いつもあたし達に自慢してるじゃない」

「あーもう、うるっさいなぁ、わかったわよ。行けばいいんでしょ?行けば。そのかわり、事故ったらあんた達のせいだからね? そん時は責任取りなさいよね、わかった?」

「わっかりやした、親方ぁ!」

「了解でぇっす。よーっし、ミッキー待っててねぇ!」


「ちっくしょう、いい加減にしろよ?このやろう!」相変わらず彼の怒りは、憤怒というレベルに達したままだった。

 車内はガンガンに冷房が効いているにも拘わらず、彼の額には珠のような汗が浮かんでいる。目は血走り、呼吸も荒くなり、喉もカラカラに渇いているのだが、そんなことにさえも彼は気付かずにいた。

 速度は相変わらず六十キロから七十キロ、高速道路上ではどちらかといえば遅いと思えるこのスピードもまた、せっかちな彼にとっては許せないことの一つだった。

「おいおいおい、いつまでもチンタラ走ってんじゃねぇよ! いい加減ぶつけちまうぞ?」彼は目の前を塞ぐ銀色の巨大な壁に対して、半ば本気でそう思っていた。

 右手には、ちょうど夢の国に隣接するように建つ、おしゃれでメルヘンチックなホテルが見えるのだが、もちろん彼の視界にはそんなものは入らない。非情にも彼の視線は、目の前を走る銀色の壁一点に注がれたままだったのだ。闘争心、執着心、そして焦燥感といった負の感情ばかりが彼の心を支配し、その獲物から視線を外させなかったのである。

 もし少しでも、その心が和らぐようなメルヘンチックな建物が彼の視界に入っていたとしたら、その怒りの塊と化した彼の心にも、あるいは多少なりとも癒しの光が差し込んでいたのかもしれない。そしてこの後に起こってしまう出来事にも、少なからず影響を与えたことだろう。


 前方の十トン車との距離がほんの少し開いた瞬間、一番左の車線を走っていた彼は、右前方に車のまったく走っていない二つの車線を視界に捉えた。と同時に、脳裏にある一つの作戦が浮かび上がる。

「よっしゃぁ! これで形勢逆転だぁ、このバカタレが!」

 クラッチを踏み、左手でギアを一つ落とす。そしてアクセルを踏み込み、エンジンの回転数を上げながらクラッチをゆっくりと離し、やや半クラ気味に加速させる。この一連の動作を瞬時に行いながら、彼は不適な笑みを見せた。

 一瞬だけ視線を送った右のミラーには、彼の行動の障害になるものは何も映っていない。急加速させた車体を、目の前を走る銀色の壁ギリギリにまで寄せた後、彼は俊敏にハンドルを右に切り、車線を一つ右にずらした。いわゆるスリップストリームからの加速のような形だ。すると予想通り、前方の壁も彼をブロックするために車体を右に振り、車線を一つまたいだ。

 ここまでは今まで通り。ブロックされたことにより、左右どちらかに車体を振るかブレーキを踏むか。事故を起こさないための行動の選択肢はこの三つしかない。

 ついさっきまでは、運悪くある程度の交通量があったため、左、もしくは右に車体を振ることが出来ず、ブレーキを踏むことを余儀なくされていたのだが、今回は今までとは違い、さらにもう一つ右の走行車線が空いている。そちらに車体を振るという選択肢が残されているのだ。

 彼は迷うことなく、アクセルを踏み込んだままハンドルを右に切り、さらにもう一つの車線を跨いだ。すると彼の思惑通り、今まで威圧的に前方を牛耳っていた銀色の巨大な壁は、彼の意表を突いた動作とそのスピードに反応することが出来ず、彼の視界の左側にその姿を晒すこととなった。とうとう彼のトラックが、その巨大な銀色の壁の右側に並びかけたのだ。

「へっ、ざまぁ見やがれ! 今度はおまえが俺のケツを拝む番だぜぇ?」彼は勝ち誇ったように、誰も居ない車内でドヤ顔を見せた。

 が、その時である。      

 ギギギギギーッ、ガガガガガガガガガガガガガーッ! ドンッ!

 彼は自分のトラックの右前、自分がいる運転席のすぐ右側に強烈な衝撃を感じた直後、その凄まじい破壊的な音を耳にした。同時にハンドルにも強烈な振動を感じ、大きく跳ねるように左に振られる。そして次の瞬間、形容する言葉が見つからない程の巨大な音と共に、目の前に黒い塊が現れ、彼のトラックのフロントガラスを破壊した。

 さらに下から突き上げる衝撃とともに、左側からも爆音が轟く。車内にあるタバコ、携帯電話、伝票類といったものが宙を飛び交い、シートベルトをしていなかった彼自身も、巨大な目に見えない力によって車外へと放り出された。場所が特定出来ないくらい身体中のあちこちに激痛が走り、視界までもが突然閉ざされる。そして……。

 彼の意識がこの世に存在したのはここまでである。

 その後、彼のトラックは右に大きくバランスを崩し、破壊的な音と大量の火花に包まれながら横倒しとなった。左を走っていた十トン車も、右側最後部に衝撃を受けたことにより進行方向が大きく右に逸れ、推進力が車体の左半分に片寄り、大きくバランスを崩しながら道路を真横に塞ぐ形となって横転した。

 辺りにこの世の終わりのような爆音が響き渡る。巨大な銀色の壁は、無残にもただの巨大な鉄の塊と化し、その惨事の大きさをまざまざと見せつけた。

 そしてその二台のトラックの間では、車種さえも識別が困難な程にその惨事のダメージを受けた一台の黒い軽自動車が、仰向けの姿で炎を上げていた。

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