第2話   冬

 わたしが生まれたのは、暦の上では一年のうちで一番寒いとされている一月二十日の大寒の日。確かにその日は、関東では珍しくドッサリと雪が降ったらしくて、いかにも冬らしいその日に生まれたわたしに、両親は“真冬 ”という名前をつけた。

 実はわたしは、この真冬という名前をあまり気に入ってはいない。友人達は、「真冬って名前、色が白くて髪がサラサラな真冬にはピッタリだよね」なんて褒めてくれるけど、色の白さもサラサラの髪も、わたしが望んで得たものでもないし、わたし自身、特別気に入っていることでもない。

 わたしが自分の名前をいまいち好きになれない最大の理由――それは、わたしの一番好きな季節が夏だから。

 生まれつき体の弱かったわたしは、物心付いた時から、「あんまり太陽の光を浴びちゃいけませんよ」なんて、毎日のように母親に言われながら育った。おかげで幼稚園や小学校の夏のプールの時間はいつも見学。それは中学、高校と進学しても変わることはなく、大学を卒業したこの歳になっても、水着になって海やプールで泳いだことなんて一度もない。

 だけどその代わりにわたしはいつも、海やプールで楽しそうにキラキラ笑っているみんなの笑顔を、直射日光の当たらない場所から見続けて来た。

 煌めく太陽の下ではしゃいでいるそのみんなの笑顔は、太陽の下にあまり出られないわたしをウキウキした気分にさせてくれたし、同じように楽しく遊んでいる気分にもさせてくれた。

 夏は笑顔を一番輝かせてくれる季節――わたしはそう思う。だから夏が一番好き。


 夏が好きな理由はもう一つある。それは夏がわたしの大好きな人の季節だから。

 わたしが“タイちゃん ”って呼んでるその人は、わたしの家の向かいに住んでる一つ年上の幼なじみ。小麦色の肌に白い歯が目立つ典型的な夏男で、自然とまわりに人を惹きつけてしまう、そんな不思議な雰囲気を持っている人。

 残念ながら、わたしとタイちゃんは恋人同士って訳じゃないけど、いつかそうなれたらいいなって子供の頃からずっと思って来た。それが今のわたしの一番の夢。だって、わたしのファーストキスの相手はタイちゃんだったし、一緒にお風呂にだって入ったこともあるし、何より一応、婚約までしたんだから。幼稚園の頃の話だけどね。

 そんなタイちゃんは、わたしのことをよく海に連れて行ってくれる。特に夏の間は毎週のように、コバルトのように煌めく空と、キラキラ輝く水平線をわたしに見せてくれる。わたしはそんな風景を見て夏を感じるのが大好きだったけど、その白く弾ける波の合間でサーフィンをするタイちゃんを見るのはもっと好きだった。

 崩れて行く白波に追いかけられながら、縦横無尽に水面を滑る彼の姿は、わたしの心を捕らえて離さなかったし、なによりその海にいるサーファー達の中で、いつも一番輝いているのがタイちゃんだったから。

 タイちゃんは、サーフィンに限らずどんなスポーツでも、ほんのちょっとの努力で人並み以上にこなしてしまう、まるでスーパーマンのような人。それはスポーツだけじゃなく、勉強や趣味、例えば絵を描くことや料理に至るまで、どんなことでもすぐに要領を掴んで自分のものにしてしまう。

 その中でも、特にわたしがすごいって思うのは音に関する感性とその歌唱力。ちょっと前まではバンドのボーカルをやってたんだけど、一度聴いた音は絶対に忘れないし、ハモリなんかおちゃのこさいさいだし、なによりその歌声は、その場にいる人を必ず魅了してしまうほど。

 ダイヤの原石っていうのはこういう人のことをいうんだなって、わたしはいつの頃からか、タイちゃんのことをそう思うようになった。それは間違いなく尊敬っていう感情。わたしがタイちゃんのことを大好きな理由の一つかな?


 どんなに完璧に思える立派な偉い人でも、弱点や欠点の一つや二つはあるもので、その例に漏れず、タイちゃんにも見事に誰の目から見ても明らかな欠点がある。

 それはとても気分屋で、そしてどうしようもないくらい面倒臭がり屋なところ。一人で二つも店を出している。

 どんなに優れた才能や能力、感性があっても、それを必要とする場面で、やる気がなかったり、別のことを考えていたりしたら、本来の実力の半分も力を出せないもの。

 タイちゃんは小さい頃から、興味のない物事、自分で嫌いと判断した事には一切目を向けようとはせず、“負けるもんか ”とか、“やってやるぜ ”とか、そういう挑戦する心を持たない子供だった。そのスタイルは大人になった現在でも基本的には一緒で、例えば学校での試験なんかでも、ギリギリの切羽詰った状態になるまで勉強にはまったく手を付けなかったり、大学を卒業して勤め出した会社を、自分には向いてないなんて言って三ヶ月も経たないうちにやめちゃったりと、その自分の欠点を欠点として認めていないかの如く振舞っている。

 大学入試の時だってそう。

「大学なんてめんどくせえから行かねぇ」

 そんなことを言っていたタイちゃんの尻を叩いて、なんとか試験を受けさせたのも、実はわたしだったりする。わたしが行きたいなと思っていた大学をむりやり受けさせたんだけど、それなりのレベルの大学だったにも拘わらず、たいして勉強をしている風でもなかった割に、あっさりと合格しちゃったのにはちょっと驚いたけど。まぁ、そのおかげで同じ大学に通うことが出来たんだけどね。

 やる時はやると言ってしまえばそれはカッコよく、聞こえもいいけど、この人の場合はそのやるまでが大変。それこそ誰かがしっかりと背中を押してあげないと、正しい方向へ進むかどうか心配で心配で。

 まったく、いい加減自分のポテンシャルの高さにも気付いてるだろうに、ホントに子供みたいな大人。でもそんなところも、わたしがタイちゃんを大好きな理由の一つかな?


 わたしの家の向かい側にあるタイちゃんのお家は、それはそれはとても立派なお屋敷。庭だけで、わたしの家が四、五件建っちゃうくらい広いんだから。

 タイちゃんのお父さんは、関東ではとても有名で大きな運送会社を一代で築いた人。銀色の総髪に丸顔で、笑顔のよく似合うタイちゃんのお父さんは、近所でも評判のとても優しいおじさん。もちろんわたしにもとても優しくて、「真冬ちゃんがウチの三男坊の嫁さんになってくれりゃぁ、オジサンはもうそれだけで思い残すことは何もないんだけどねぇ」なんて冗談を、顔を合わせるたびに言ってくる。まぁ、それがわたしのささやかな夢だったりするんだけどね。

 あっ、そうそう、タイちゃんはその大平家の三人兄弟の末っ子。二人のお兄さんはそれぞれ、K大とT大を出たとても優秀な人で、二人共お父さんの会社で役員として働いている。

 二人共タイちゃんとは十歳以上も歳が離れていて、もちろん結婚もしてるんだけど、当然、上のお兄ちゃんが家督を継ぐべくその大きな家に住んでる訳で、早い話がタイちゃんは、実家に住んでるのに居候の状態。でもなぜか、甥っ子や姪っ子にとても慕われてるらしくて、本人はとても住み心地がいいなんて言ってる始末。こんなんじゃ当分、結婚なんてしないんだろうな……。

 そんなタイちゃんも、今はお父さんの会社でドライバーとして働いている。つまり会社では、二人のお兄さんは上司ってわけ。そのせいかどうかはわからないけど、最近は、「オレにはトラックドライバーなんて向いてねぇ。とりあえず今は、他にやりたいことがないからやってるだけ」なんてことを言い始めてる。

 確かにわたし的にも、タイちゃんはトラックドライバーっていう職業に収まっていられるような人じゃないと思うけど、安泰っていう意味じゃ、このまま続けて行くのもアリかもよ?なんてことを考えたりもする。未来の旦那様候補のことだから、とっても気になる訳ですよ。

 でもホントは、音楽関係の道に進んで欲しいなんて思ってるんだけどね……。


 なんだかタイちゃんの話ばっかりになっちゃったから、今度は少しだけわたしのお話。

 わたしが生まれ育った家庭は、どこにでもあるような、ごく一般的な平凡な家庭。父親はごく普通のサラリーマンで、母親はこれまたごく普通の主婦。そしてどこにでもいるような平凡な大学生の弟と、さらにどこにでもいるようなオスの雑種犬“ブン太 ”。これがわたしの家族。とりわけ金持ちって訳でもない代わりに、別に貧しいと感じることもない、本当に平均的な家庭。

 そんなごく普通の家族の中で、唯一普通じゃないのが、実はわたしだったりする。“全身性エリテマトーデス ”。こんな難しい名前の病気がわたしの中に住みついているから。

 この病気は、いわゆる難病と言われる種類の病気で、人によって症状が違うんだけど、全身のいろんな臓器に炎症が起こる病気。私の場合は、免疫を担当する白血球が他の人より少なかったり、紫外線にあたると湿疹やら水ぶくれやらが出たり、手足の関節が痛んだり……。中でも一番厄介なのがたまに出る超高熱。四十度近くの高熱が一週間くらい続いて、さすがのわたしもひぃひぃ言ってたりして。

 そんなわたしのことを、両親は不憫に思っていたみたいだけど、当の本人はそんな病気のことはまったく気にしていなくて、まるで他人事のように、明るくすくすくと育って行った。だって、その病気の本当の怖さなんて幼いわたしにはまったくわからなかったし、それに自分自身、病気だなんてこれっぽちも思ってなかったんだから。

 そんなだから、毎日数種類の薬を飲むことと、定期的にお医者さんに通うことは、幼い頃から現在に至るまでまったく変わらないこと。もういい加減、生活の一部みたいになっちゃったから、わたしの中ではたいしたことじゃないんだけど、友達やまわりの人達は、薬を飲むわたしを見るたびに同情的な目を向けて来る。

 実は病気のことよりも、そっちの方が何十倍も辛かったりするのに……。


 病気のことがあるから、わたしは少女時代に外で遊んだっていう経験があまりない。

 どちらかと言えば本当は活発なわたしは、まわりの友達の「昨日、みんなで公園で遊んだよ」とか、「河原で男の子達と釣りをしたんだ」みたいな話を聞くと、少なからず心がうずうずしてたけど、実はそのうずうずよりも上のワクワクするような楽しみを、わたしは持っていた。

 それは読書。本を読んでいる時間は、わたしをとても幸せな気持ちにさせてくれたし、現実世界からある一線を越えた、向こう側の世界へと導いてくれたりもした。それは楽しい世界だったり、悲しい世界だったり、時にはその日の夜、眠れなくなってしまうくらいの恐怖の世界だったり。

 文字だけで映像よりも素晴らしい世界観を表せる文学の世界に、そして文字だけを読んでその物語の中に溶け込むことが出来る人間の感性に、わたしは強烈な感銘を受け、どっぷりと読書の世界にハマることになった。

 わたしが読書にハマるきっかけになったのは、意外にも子供の頃に動物園で見た、ある一匹の動物についての疑問からだった。プレーリードッグっていう、たぶんリスの仲間だと思うんだけど、その動物の名前に違和感を覚えたわたしは、母親にしつこく、「ねぇねぇ、なんでリスなのにドッグなの? ドッグって犬じゃないの?」なんてことを聞きまくった。当然ながら母親はそんな質問に答えられるはずもなく、悩んだ末にわたしにある一冊の本を買って来てくれた。

“シートン動物記 ”、これこそがその後のわたしの心を、とても豊かにしてくれることになる運命の一冊。もう楽しくて面白くて、何度も何度も繰り返して読んだっけなぁ。

 動物のことを詳しく解説してるのはもちろんだけど、動物の気持ちになって、動物の目線から野生の世界を語るその世界観は、幼いわたしの心をそっと両手で包み込むように、そしてガッチリと掴むようにさらっていった。

 わたしが本当に楽しそうに本を読むものだから、母親はなにか手応えを感じたらしくて、ジャンルを問わず、次から次へとわたしのために新しい本を買って来てくれた。それに伴って、わたしの部屋の本棚はあっという間にいっぱいになり、同時にわたしも、様々な知識や考え方を身に付けることになる。それは知っていると生活にとても役立つことだったり、それまでのわたしの考え方を根本的に変えてしまうものだったり。そして、人は人としてどう考え、どう行動するべきかといった哲学的なことや、情熱も何もなく、消極的な人生のなんと寂しいことかといったような情熱論に至るまで、人間の持つ様々な感情や考え方、物事の道理や世の中の流れなど、本当にたくさんのことをわたしに教えてくれた。

 ということで、今のわたしの性格や考え方は、この読書という文学の世界によって形成されたと言っても過言ではないのですよ。


 中学の頃までは、読書をしているとしょっちゅう、タイちゃんがわたしの家に遊びにやって来た。それは決まって雨の日。

 雨が降るとタイちゃんの行動力は鈍ってしまうらしく、晴れの日と比べるとまるで別人のようにおとなしくなってしまう。ただでさえ面倒臭がり屋なのに行動力まで低下しちゃうから、雨の日は決まって自分の部屋で一人、テレビゲームをしたりしてるんだけど、本当は寂しがり屋で、大人数でワイワイやるのが好きなタイちゃんは、一人きりで部屋に籠ってる自分が寂しく思えて来て、なんだかうずうずして来て、結局目の前のわたしの家に遊びにやって来る。まぁ、わたしはいつでも家にいたから、タイちゃんにとっては無難な遊び相手だったんだろうね。

 そんな時に、タイちゃんが必ず買って持って来てくれるもの、それはミスタードーナツの“エンゼルフレンチ ”。それもエンゼルフレンチばっかり何個も。

 わたしが幼稚園の頃、「わたしがせかいでいちばんおいしいとおもうのはえんぜるふれんち!」と言ったのをずっと覚えているらしくて、わざわざ雨の中を歩いて買って来てくれる。まぁ、タイちゃんの家の裏口から出てすぐのところにミスタードーナツがあるんだけどね。

 そんなタイちゃんも、わたしの部屋に来るとわたしと同じように、ドーナツを食べながら読書にふける。タイちゃんも、わたしと同じように好き嫌いなくどんな本でも読んでたけど、日本の小説よりも外国の小説の方が好みだったらしくて、中でも“スティーブン・キング ”とか“マーヴィン・ピーク ”といった、SFホラーやファンタジー系の作家の小説がお気に入りだったみたい。だからいつもわたしはそれとなく、母親に外国のSFホラーやファンタジーといった類の本をリクエストして、タイちゃんが読みたそうな本を切らさないようにしていた。

 タイちゃんは本を読むのがとても速くて、小学生の頃から一冊を一日で読むなんてことは朝飯前。そんなだから、タイちゃんもたくさんの知識やいろんな考え方、そして想像力や発想力といった心の財産を、自然と自分に取り込んで行ったんだと思う。

 タイちゃんがわたしと大きく違うところは、その文学の世界から得た考え方や想像力に行動力を加えること。

 例えば、ある小説の『道端に生えている草や花を食べて育った』というフレーズを真に受けて、その植物を図鑑で調べて実際に採って来て料理して食べてみたり、本気でUFOと交信しようと思って、自分の家の屋上で一晩中空を眺めていたり。そうそう、あの時はまだ子犬だったブン太も道連れにされたんだっけ。

 まったく、ホントに自分の気が向いた物事に対してだけは、面倒臭がり屋を閉店しちゃうんだから。この行動力がいろんな方向に向いてくれれば、タイちゃんはきっとすごい人になると思うんだけどね。

 まぁ、それは置いといて、わたしの子供の頃の雨の日は、いつもタイちゃんと一緒にいられたし、大好きなエンゼルフレンチも食べられた。だから今でも雨の日はなんとなく心がうきうきして来て、エンゼルフレンチが食べたくなる。


 まわりのみんなはとっても意外だって言うんだけど、わたしにはもう一つ、読書の他にとってもお気に入りの趣味がある。それはオートバイ。

 どうしてオートバイが好きになったかっていうと、これもやっぱりタイちゃんの影響。

 高一のときに普通自動二輪の免許を取ったタイちゃんは、ホントにたまにだけど、わたしを後ろに乗せて海まで連れて行ってくれた。そしてそんな時には、必ずわたしを風の世界へといざない、通常の生活では絶対に味わえないと思える程の爽快感と興奮を与えてくれた。

『――こんなに素敵な世界があったなんて……』

 はじめて乗せてもらった時に感じたその感覚は、わたしの中に眠っていたなにかに火を点け、一瞬にして情熱という形に進化した。そしてそれは消えることのない感情となって、わたしの心の一部をしっかりと支配するのと同時に、ある一つの決心をさせることにもなった。    

『いつか絶対、わたしも自分でオートバイを運転してみたい!』

 全身の隙間をすり抜けて行く空気、風を切り裂く音、鋭角的になる感覚、加速時に感じる重力。こんなに身体中すべてを使って感じる素敵な感覚は、それまでのわたしの人生ではありえないことだったし、それを経験してしまったわたしは、あっという間にオートバイの虜になっていた。

 ということで、大学に通い始めてしばらくした頃、わたしはオートバイの免許を取るために教習所に通うことにした。が、家族もまわりのみんなもなぜか大反対。理由はわたしの免許取得に異を唱えた人達全員が同じ意見。

「――危ないからそんなのやめとけって」

 父親も母親も友人達も、さらには弟までもがわたしにこんなことを言う。中でも一番反対してたのが、わたしにオートバイの魅力を注入した張本人のタイちゃんだった。

 これにはさすがのわたしもちょっとショック。だってタイちゃんと一緒に海沿いの道をオートバイで走るのが、その頃のわたしのささやかな夢だったんだから。

 タイちゃんは、「乗りたい時にはオレがいつでも後ろに乗せてやるから。取るんだったらクルマの免許にしろ」なんて言ってたけど、一度わたしの心を支配したオートバイの魅力は、そんなタイちゃんの言葉を持ってしても色褪せることはなかった。

 そこでわたしがみんなに内緒で立てた計画、それは車の免許を取るために教習所に通ってると思わせて、実は並行してオートバイの免許も取ってしまうというもの。これは我ながらナイスアイディアで、お金と時間はちょっと余計にかかっちゃったけど、わたしは誰にも気付かれずに、念願の普通自動二輪免許を手に入れることが出来た。あっ、もちろん自動車の免許もね。オートマ限定だけど……。

 実際に教習所でオートバイに乗ってみて思ったことは、オートバイっていう乗り物は、どっちかって言ったらチビの百五十六センチのわたしでも、バランスと要領さえ掴んでしまえば決して難しい乗り物ではないってこと。そしてわたしの想像と期待を裏切らない、とっても素晴らしい乗り物だったってこと。

 オートバイっていうのは、人間が風に一番近付ける乗り物。教習所の敷地内っていう狭い場所なのに、そんなことまで感じることが出来ちゃったほど、オートバイっていうのはわたしにとって魅力的なアイテム。


「真冬、おまえ単車の免許取れたんだろ?」ある日突然、大学へ向かうバスの中で、タイちゃんがニコニコしながら唐突にこう話し掛けて来た。

「えっ!? あっ……うん、車の免許取るついでにね。でも……なんでタイちゃんそれ知ってるの? わたしまだ誰にも言ってないのに」わたしは怒られると思ってドキッとするのと同時に、頭の中にたくさんの“? ”が生まれた。

『なんでタイちゃんはわたしがオートバイの免許取ったの知ってるんだろう? でもその前に、なんでタイちゃんはあんなに反対してたのに、こんなにニコニコしてるんだろう?』

 つじつまの合わない笑顔というのは、時として恐怖すら感じさせる。自分に後ろめたさがある場合にはなおさらだ。

「オレの友達がな、おまえが教習所で単車の教習受けてるの見たんだとさ。だから車の免許が取れたってことは、単車の免許も取れたってことだろ?」相変わらず笑顔を湛えながらタイちゃんが言った。

「そっか、誰かに見られちゃってたんだ。やっぱりこういうのは、内緒にしておくのって難しいんだね」

 世間っていうのは、やっぱりわたしが思っているよりも狭いみたい。せっかくわたしとタイちゃんが住んでる街に二つある教習所のうちの遠い方を選んだのに。

「わたしね……」ちょっとだけ開き直り気味になったわたしは、タイちゃんになにか小言を言われる前に申し開きをすることにした。「どうしてもオートバイの免許が欲しかったの。タイちゃんと一緒に海沿いの道を走りたかったから……」

「――そっか」わたしの心配をよそに、意外にもタイちゃんは優しい笑顔で軽く頷いた。「まぁだいたい、おまえは昔っから自分でやるって言い出したら聞かないところがあったからな。単車の免許を取りたいって聞いた時から、そのうち取っちゃうんだろうなって思ってたよ。そんで? どうすんの? 単車」

「えっ? どうすんのって……なにを?」またわたしの頭に“? ”が注入される。

「だから単車だってば。免許だけ持ってたって、肝心の単車がなけりゃ海へなんか行けないだろ?」

 一瞬わたしは、タイちゃんが言ったその言葉の意味を理解出来なかったけど、だんだんと、そしてじわじわと心の中が嬉しさと感激で満たされて行くのを感じた。

「えっ、じゃぁわたし、オートバイに乗ってもいいの? 一緒に海に行ってくれるの?」わたしは嬉しさを隠しきれず、満面の笑みでそう叫んだ。きっとブン太がしっぽをブルンブルン振ってる時って、こんな気分なんだろうな。

「だってもう免許取っちゃったんだろ? 今さらオレがどうこう言う資格なんてないじゃん。バイクに乗ってもいいですよって、国から許されたんだから。そんなことより単車、何買うつもりなんだよ」

「えっ? ちょっと……急にそんなこと言われても……。わたし、オートバイのことほとんどわからないから、いずれタイちゃんに相談しようと思ってたんだけど……」

 そう、免許を取ることに集中しすぎて、どんな車種に乗りたいかなんて、ほとんど考えてなかった。

「そっか、そんならまだ決まってないんだな。いや実はな、ちょっとオイシイ話があるもんだから、おまえにどうかな?って思ってさ」タイちゃんは相変わらず優しい笑顔でそう言った。「ネットのオークションでさ、おまえに良さそうな単車をオレなりにリサーチしてたんだよ。そしたらちょっと古いけど、なかなかいいのが見つかってさ。出品者もすぐ近所の人だったし。だからオレ、一昨日その現物を見に行って来たんだけど、その出品者っていうのが、実はウチのオヤジの会社で働いてる人で、オレもよく知ってる人だったんだよ。だからおまえさえ良ければ、今日の夕方にでも見に行ってみたらいいんじゃないかな?なんて思ってる訳よ。ちょっとおせっかいかもしんないけど、おまえの知り合いなら格安で譲るなんて言ってくれてるしさ」

 このタイちゃんの話は、瞬時にわたしの魂をキラキラと輝く海沿いの道へと攫って行った。心に鮮明にその美しい景色が映し出される。

 コバルトの空、煌めく海、遠くに見える江ノ島、波を滑るサーファー達、そして目の前を走るタイちゃんの運転するオートバイ。もちろんわたしも自分で自分のオートバイを運転している。身体中で風を感じ、アスファルトから伝わる振動を両腕で受け、風を切り裂く音を聞き、スピード感で心を満たす。

 そう、わたしはその一瞬、完全に風の世界を訪れていた。だからタイちゃんに声を掛けられるまで、きっと焦点の定まらない間抜けな顔をしてたんだろうな。

「おい真冬、聞いてんのか? 着いたぞ? ほら、もう降りるぞ!」 

「えっ? あっ、あぁそう、もう着いたんだ」

「まったく、しっかりしろよ。それとも身体、調子悪いのか?」

「うぅん、大丈夫。ちょっと嬉しくなっちゃってさ、いっぱいいろんなこと考えちゃった。それよりそのオートバイ、見てみたいな」

「そっか、そんじゃぁ先方には連絡しとくから、一緒に見に行こう。夕方電話するからちゃんと電源入れとけよ」

 ということでその日の夕方、わたしはタイちゃんと一緒にそのオートバイを見に行った。そこにあったのは、ピカピカに磨かれたワインレッドの二百五十ccのオートバイ。カワサキのバリウスっていうオートバイなんだけど、その目の覚めるようなワインレッドの鮮やかさと、二百五十ccとは思えない大きな車体は、一瞬にしてわたしの心を捕らえて、胸の奥の方を見えない力でキュンッと言わせた。いわゆる一目惚れってやつね。

 だから今、わたしの家のガレージでおとなしくお留守番してるオートバイは、このワインレッドのバリウス君ってわけ。だって、ホントに素敵なオートバイだと思ったし、びっくりするくらい値引きしてもらえちゃったし、それになんてったってタイちゃんがわたしのために探してくれたオートバイだからね。この子を買わない理由なんてどこにもないでしょ? ただ父親にはすごく叱られちゃったけど。

 あっ、そうそう。このバリウス君のおかげで、わたしは念願の、タイちゃんと一緒に海沿いの道を走るっていう夢を叶えることが出来たの。たった一度だけだったけど、ホントに幸せな時間だったなぁ。


 ある冬の始まりの日、わたしが目を覚ますと、そこはいつもの見慣れた自分の部屋ではなく、真っ白で殺風景な部屋だった。

 光が差し込んで来る窓の位置も、そこに取り付けられているカーテンも、そして天井に埋め込まれた何の飾り気もない蛍光灯も、わたしに大きな違和感を与え、少なからず不安にもさせた。

 やけに消毒臭い空気と、なんの柄もないただの真っ白なリネン類は、どちらかと言えばわたしを嫌な気分にさせている。

「ここって……どこなんだろう……?」

 気が付けば、左腕には小さな痛みと違和感がある。どうやらなにかが刺さっているようだ。

「あっ、目が覚めたのね、よかったぁ」ふと身体の右側で、とても聞き慣れている甲高い声が聞こえた。聞き慣れている割にはなぜか懐かしい気もする。「真冬、気分はどう? どっか具合悪いとこない?」

「えっ、あぁ……うぅん、ちょっと眠い……」

 わたしに二つの質問をして来たその聞き慣れた声は、母親のものだった。

「そう、じゃぁもう少し休みなさい。もう大丈夫だからね。お母さん、ずっとここにいるし」

 なるほど、ここはどうやら病院の病室らしい。それにしてもいったい、わたしはどうしちゃったんだろう? たしか亜矢と映画を観に行って……それから……その後は? その後の記憶がまったくない。

「ねぇおかぁさん……。わたし……どうしちゃったの? どうしてこんなところにいるの?」考えても答えは出そうにないので、わたしは母親に聞いてみることにした。

「そう、やっぱりなんにも覚えてないのね……。あなたはね、亜矢ちゃんと映画を観に行って、そのあと映画館を出たところで倒れたのよ。それで亜矢ちゃんが救急車を呼んでくれたから、あなたは今ここにいるってわけ。でもよかったわ、たいしたことなくて」母親は瞳に優しさの色を湛えながら話してくれた。

「ふぅん、そうなんだ。全然覚えてないや。あぁあ、もったいない、映画のタイトルすら覚えてないよ。そんでわたし、どうして倒れたの? 何が原因なの?」

「えっ? あぁ、それね。それは……疲れから来る貧血だろうって、先生がそうおっしゃってたわ。それより、亜矢ちゃんついさっきまでいたんだけど、すごく心配してたわよ? 後でちゃんとお礼しなくちゃね」

『疲れ? 貧血?』

 疲れることなんかなんにもした覚えがなかったわたしは、その話を聞いて少し不思議に思ったけど、その時はそれほど深く考えることはしなかった。

「じゃぁ、すぐ退院出来るよね? もうすぐクリスマスだし、絶対こんなところで過ごしたくないもんね。それにもうすぐプロミネンスのライブもあるし」 

「そうね、簡単な検査なんかがあるって言ってたけど、すぐに退院出来るんじゃないかしら? あらっ? 雨が降って来たみたい。さっきまであんなに天気が良かったのに……」

 わたしの心の小さな不安を映し出すように、外は冷たい冬の雨が降り始めていた。

「雨か……。なんか、タイちゃんに会いたいな……」

 思えばこの日が、わたしの長い入院生活の始まりの日だった。



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