第7話    N

 その日も昼からの茹だるような暑さが続いていた。

 もう日は暮れ、街のネオンというネオンは煌々とその煌びやかな光を放っている時間なのにもかかわらず、まるでジャングルにでもいるかのような熱気があたりを支配している。通りを行き交う人々は、みんな一様に額に汗を浮かべ、うちわで扇いでいる人もちらほら見られる。ここ数年の夏の暑さは、異常という言葉を当てはめることがもっとも妥当だろう。

 そしてその日、そこを訪れていた群集が、その空間をさらに強烈な熱気で包んでいた。

 ライブハウス“N ”。東京近郊の都市にあるその小さなライブハウスは、メロコア、ビートパンクといった軽いものから、ハードコア、スラッシュ、デスメタルといったディープなものまで、ありとあらゆるパンク系のバンドが集結する、いわばパンクの聖地のような場所であるのと同時に、太陽が初めてステージに立った場所でもある。

 七月二十二日、その日二十六歳の誕生日を迎えた太陽は、その前年、同じ日に天国へと旅立った真冬との約束を果たすため、何年か振りに再びそのステージに立とうとしていた。

「相変わらずカビ臭えな、ここは」楽屋に入るなり、ドラムの拓人が声を上げた。

「あぁ、まったくだ。あの頃となんにも変わっちゃいない。見ろよこのポスター。確かオレが初めてここに来た時にも貼ってあったぜ?」太陽が指差したポスターは、SNFUという、メロコアのはしり的な、カナダの老舗バンドのものだった。

「SNFUか、懐かしいなぁ。今でもまだやってんのかねぇ。もしまだやってるとしたら、もういいオッサンになってるな」

「そりゃそうだろ? オレらがクソガキの頃からやってるバンドなんだから」太陽はポスターを眺めながら言った。

「拓人さん、このバンドってどんなバンドなんですか? 俺、SNFUって名前だけは聞いたことあるんだけど、音は聴いたことないんですよねぇ」ベースの康介が、背もたれが大きく破れているソファに座りながら聞いた。

「なんだおまえ、この伝説のバンド聴いたことないのか? そりゃぁ少々人生を損してるぜ? SNFUっていやぁ、今でこそ誰でも知ってるグリーンデイだって、多大な影響を受けてるバンドなんだぜ? それに俺と太陽がやってたプロミネンスも、このSNFUを目指してたって言っても過言じゃないし。なっ、太陽?」

「えっ? あぁ、うん、まぁそんなとこだな」

 太陽は、自分のわがままが原因で解散になってしまったこともあり、プロミネンスの話題に対しては、出来るだけ明言を避けることにしていた。

 この拓人は、細かいことを気にしない本当にさっぱりした性格で、「そんなこともあった気がするな」と、太陽の負い目までをも笑い飛ばすような台詞を言ってくれる。しかし当時の他のメンバー、ギターのヒビノとベースのコウタローは、今でもかなり太陽のことを恨んでいると、風の噂で聞いたことがある。そんなこともあり、どこからか太陽がバンドメンバーを探しているという噂を聞いて駆けつけてくれた拓人に対して、太陽は、罪悪感と共に、深い感謝の念と強い信頼感を持っていた。

「それはそうと、“千秋 ”のやつどこ行ったんだ? 今日の三曲目の入りのとこ、ちょっと詰めときたいんだけどなぁ。ほら、リハでちょっとモタついた感じだったじゃん?」拓人が、右手でスティックをくるくると回しながら誰にともなく聞いた。

「あぁ、さっき上に行ったから、彼氏に電話でもしてるのかな? ここ、地下だから圏外だろうし。それにしても長い電話だなぁ。あの人の彼氏、なんだかヤキモチ焼きでうるさいみたいですからね」康介が親指で上を指しながら言った。

「へぇ、なんだかんだと、アイツも普通っぽいとこあるんだなぁ。オレはもっとサバサバした女だと思ってたよ」

「いや、あの人は基本的にはサバサバしたタイプなんだけど、今はどうなんだろ? 高校の頃なんかはサバサバしすぎて近寄り難いくらいだったもん」太陽の千秋への感想に康介が答えた。


 このバンドが結成された約半年前、ギタリストを探している太陽のところへ、康介に連れられて来たのが千秋だった。

 太陽としては真冬との約束どおり、春人をギタリストとして迎えるつもりだったのだが、太陽が音楽再開を決意した時、彼はすでに渡米し、音楽活動を再開してしまっていたのである。康介によると、次はいつ日本に帰って来るかわからないということで、太陽としては別のギタリストを探さざるを得なくなってしまっていた。

「タイちゃんあのさぁ、俺の高校の先輩でギターやってる女の人がいるんだけど、一回会ってみない? 俺も音の方は何回かしか聴いたことないんだけど、腕の方は確かだよ?」康介が、一人で部屋でくつろいでいる太陽のところに突然やって来て、出し抜けにこんなことを言ったのは、そんなある日の夜のことである。

 ギタリストに対して、テクニックもさることながら、音の表現力を第一に求めていた太陽は、女と聞いてあまり期待を込めずにその女性ギタリストに会ってみることにしたのだが、意外や意外、実際に会ってその演奏を聴いてみると、それは彼の予想を大きく覆す、とてもアグレッシブでセンセーショナルなものだった。

 細くしなやかな指のせいだろうか、全体的な音は丸く、曲線を描いたように感じる。かと思えば、サビなど要所要所では、とてもアグレッシブで鋭角的な音を生み出している。そして何より太陽が気に入ったのは、彼女のその音に対する考え方だった。

「あたしはよく人から、なんだそれ?って言われちゃうんだけど、この世で一番素敵な音を出す楽器って、人の声だと思うの。そんで、その人の声っていう音の魅力を最大限に引き出せる楽器がギターだと思ってる。あたしもホントは、声っていう楽器でいろんな音を表現したいんだけど、ちょっとこのガラガラ声じゃ難しいでしょ? だからギターをやってるの」

 太陽は、千秋のこの台詞に感動すら覚えた。ここまで音を大切に思っている人間がこんなに身近にいたこと、そして自分と同様の考え方をする人間に会えたことで、思わず顔がほころぶような、そんな気分に包まれもした。実際、彼女のこの台詞を聞いた直後、彼は思わずニヤッと笑ってしまったほどだ。

「ふぅん、そっか。あんたもボーカルは楽器の一つだと思ってる人間なんだ。変わったやつだな。――じゃぁ、次回のリハは来週の金曜の夜八時、K駅のスタジオSでやるから。やる曲はあとでメール送るからアドレス教えといて」太陽のこの台詞で、千秋は晴れてギタリストとして、この新生バンドのメンバーとなった。

 あまりにも簡潔な採用の言葉に、千秋は最初、動揺と猜疑さいぎを隠せずにいたのだが、太陽の淡々としたその喋り口調と、純粋さを湛えたその灰色の瞳に感化され、このバンドでやって行く決心を固めたのだった。きっと太陽の声や態度、そしてまとっている雰囲気に、同じ匂いを感じ取ったのだろう。


「あぁもう、イヤんなっちゃう。あの男バカじゃないの?」勢いよく扉を開けて千秋が入って来た。スマートフォンを片手に眉間にしわを寄せ、イライラを露にしている。相当、ご立腹のようだ。

 そんな千秋の様子を見て拓人は、口元まで出掛かっていた曲を詰めたいという話を引っ込めて、彼女を宥めようと口を開きかけたのだが、それを制するように康介の声が、そのガラリと空気を変えた空間に放たれた。「どうしたの? 彼氏とケンカでもしたの?」

 その言葉に、千秋はまっすぐに康介を見据えると、まるで機嫌の悪い犬が吠えるように言葉を吐いた。「ケンカ? そんな中学生みたいなことあたしがすると思う? あんまり女々しいこと言って来るから振ってやったの!」

 その場の誰もが想像しなかった台詞に、その部屋の冷めた空気の温度がさらに下がった。

「おいおい、振ったって、そんじゃ別れたってことなの?」

「そっ、別れたの、約三分前にね。でももういいの、あんな男。全然意味わかんないんだから。だいたい、あたしが男とバンドやってるからっていちいち心配して来るし、今日だって、そんなに心配なら来ればいいじゃないって言ったら、俺がそんな女々しいことすると思うか?だって。矛盾もいいところよ。あげくの果てに、これ以上心配を重ねられるのは辛いからバンドは辞めてくれだって! 信じられる? 初ライブのその当日に普通そんなこと言わないでしょ? アタマおかしくない?」千秋は一気にそこまで捲くし立てると、ソファに腰掛け、ラッキーストライクに火を点けた。

 その様子を、腕を組み、少し離れた壁により掛かりながら見ていた太陽は、直感的にあることを思った。

 マシンガンのように捲くし立てる千秋、その話を、優しい瞳を湛えながら、言葉の切れ目ごとに頷き、親身になって聞いている康介。

『康介はこの女に惚れてるな?』少なくとも、そう思える材料がその時の康介から出ていると、太陽には感じられた。

 その後、落ち着きを取り戻した千秋は、拓人と康介に促されて、その日の三曲目に演奏されるイントロ部分について簡単な音合わせを始めた。太陽はそれを聞きながらスマートフォンをいじり始める。

 自分達の出番まであと約一時間、この日の出演は三バンドで、太陽のバンドがトリを務める段取りとなっていた。このライブハウスのオーナーが、プロミネンス時代の太陽の大ファンであり、太陽が新しいバンドで出演したい旨を伝えると、じゃあぜひトリでやってくれと、出演バンドのブッキングと日程を組んでくれたのだ。

「いいんですかね、トリなんかやらせてもらっちゃって」少しおこがましく思った太陽は、オーナーにそう言ったのだが、「なに言っちゃってんのよ、ウチじゃおまえのバンドはトリって決まってんだよ」という、嬉しい言葉を返されたのである。

 確かに他の出演バンドを見ると、太陽達よりも若い、まだ少年の面影を残した顔がちらほらと目に付いた。

「まぁ、確かに俺らはオッサンだけど、経験から言えば大御所って訳だからさ。そんじょそこらのオッサンじゃないってところを見せてやろうじゃないの。なっ、太陽!」トリという言葉に気を良くした拓人はこんなことを言っていたが、やはり太陽としては、一年以上も音楽から離れていたブランクと、まだ自身の中で育ちきっていない音楽に対する情熱からか、何よりも先に不安を覚えるのだった。

 そんな状態のままこの日、このバンドの初ライブを迎えたのである。

「あっ、そういえばさぁ……」急になにかを思い出したように、千秋が声を上げた。三人の視線が一斉に彼女に注がれる。

「さっきリハが終わって、あたし電話しに上に上がったじゃない? その時にさぁ、入り口の反対側のところにすごい人だかりが出来てたのよね。女の子なんかがキャーキャー言っちゃってさ。あたしの位置からじゃそれが誰なのかわからなかったけど、もしかしたら今日、すごい有名人とかが来てんのかもね」彼女はラッキーストライクを旨そうに吸いながら言った。

「有名人? こんなちっちゃなライブハウスに?」康介が、首を捻りながら疑問の声を上げる。

「いやいやいや、わかんねぇよ? このライブハウスから出発してメジャーデビューしたバンドだって結構いるんだぜ? その中の誰かかもしんねぇよ?」拓人が目を輝かせながら言った。見た目に似合わず、意外にミーハーな一面も持っている男だ。

 太陽は、そんな三人のやり取りを頭の隅で適当に流しながら、その日のステージへの不安と闘っていた。

 彼の過去の経験から言えば、良い意味での緊張というものこそ時々感じたことはあったが、ステージ前に不安を感じたことなど一度もない。ましてや、その日の太陽は喉の調子も良く、どこか体の具合が悪いということもない、絶好調と言っても過言ではない状態だった。

 いくら一年以上のブランクがあるとはいえ、ここまで不安が胸の中で渦巻いているのはおかしい。太陽は様々なことを自問自答し、その答えを求めたが、結局出て来る答えは一つしかなかった。

『やっぱり――オレはあいつがいねぇとダメなのかな……』

 思えばいつも太陽のそばには真冬がいた。真冬がいるからこそ、どんなことにでも惜しみなく自分の力を発揮することが出来た。そんな太陽を見て、真冬はいつも満面の笑みで喜んでくれた。太陽はそんな真冬の笑顔を見るのが何よりも好きだった。

『――真冬……』

 太陽の脳裏に真冬のとびきりの笑顔が映し出された。そしてそれは彼をとても暖かい気持ちにさせ、ほんの少しだが彼の心の不安をを溶かしてくれたような気がした。

「さてと、もう十分前だぜ? ボチボチ準備でもすっかい?」拓人が立ち上がり、大きく伸びをしながら言った。

「そうか、もうそんな時間か」太陽は、壁に掛けてある趣味の悪い緑色の時計を見上げながらその声に答えた。深く考え込んでいるうちに、かなりの時間が流れたらしい。

「タイちゃん? なんだかずいぶん考え事してたみたいだけど、大丈夫?」いつの間に着替えたのだろうか、先程とは違う真っ赤なTシャツに着替えた康介が、煙草の煙を燻らせながら太陽に声を掛けた。

「あぁ、問題ないよ」太陽は前髪をかき上げると、テーブルの上の缶コーヒーに手を伸ばした。そしてそれを一気に飲み干すと、心の不安をかき消すように力強く呟いた。「今日は特別な日だから――初っ端からガツンと行くからな? みんな頼むぜ?」

 三人は太陽を見つめると、ゆっくりと頷いた。


 春人はとても不思議な気分だった。

 目の前を走る派手な色の外車にも、流れて行く街のシルエットにもたいして違和感はなかったが、助手席に自分の姉が座っている、そう思うだけでなぜか、行ったこともない国の道路を走っている気さえするのだった。

「へぇ、こんなところにマクドナルドが出来たんだ。なかなかいい場所じゃないの。あれっ、ここラーメン屋になっちゃってる。前はミニストップだったのに」夏妃が流れる景色を見ながら、まるで実況中継のように声を上げている。

「仕方ねぇよ。一年も入院してりゃぁ、街の景色の一つや二つ、ガラッと変わっちまってもそれが普通じゃん? 俺にしてみりゃ、知らない街に来てる気分だけどな」春人が口に煙草をくわえ、ハンドルを右に切りながら言った。

「そうね。あんたは生活の中心があっちだもんね。街が変わっちゃうのも当然だわ」ヘッドレストに両腕を回し、いくらか倒したシートにもたれながら夏妃が言った。「それにしても、あんたとこうして二人っきりでドライブするのって初めてじゃない? どう? 素敵なお姉さんを乗せてる気分は」

「はぁ? 素敵なお姉さんって誰のことよ。だいたいドライブって程のもんじゃねぇだろ? お姉が街を見たいって言うからこうやって流してるだけじゃん」春人は短くなったマルボロを灰皿で揉み消しながら言った。

 一年前、梅雨が明けたばかりの七月二十二日に、首都高速湾岸線上で起きた死者三名を出す大事故に巻き込まれた夏妃は、奇跡的にその命をとりとめ、ほぼ一年後の七月二十一日、つまり昨日、入院先の病院から退院したのだった。

 その同じ日、その姉の退院に合わせるように、遥か太平洋の向こう側から春人が帰国している。母親から姉が退院することを聞かされ、内から沸々と嬉しさが込み上げて来た彼は、日本で人と会わなければならない用事があったこともあり、急遽帰国したのだった。

「ねぇねぇ、ホントはあれなんでしょ? 今回の帰国はアタシの退院を祝うためなんでしょ? なかなかかわいいとこあるよね」

「だからぁ、違うって言ってるだろ? ヤボ用があるんだっつうの! 何回も言わせんなよ」 春人は新しいマルボロに火を点けると、本心を悟られないように一瞬だけ姉を睨んだ。

 本当は誰よりも姉の全快を喜んでいる春人だったが、その純粋に嬉しいと思う彼の心は、照れ臭さという目に見えない膜で覆われ、代わりに、あまり関心がないと思わせるような稚拙な態度を前面に押し出すのだった。

 思えば約一年前、初めて自分の姉と酒を飲んだ春人は、それまでほとんど知ることの出来なかった姉の本心、性格、そして優しさに触れたことで、自身の中に眠っていたなにかが大きく開くのを感じ、姉との間にあった見えない溝を、あっさりと埋めることが出来たのである。

『みんなあの先輩達のおかげだな』

 春人は姉の笑顔を見るたびに、その酒の席を大きく盛り上げてくれていた、香織と未奈のことを思い出すのだった。

「そう言えば……」いく分表情を引き締めた春人が、話題を変えるように口を開いた。「どうだった?昼間。行って来たんだろ? 先輩達の一回忌」

「あぁ……」夏妃はそれまでの笑顔をしまい込むと、俯きながら、再び流れる景色に目を向けた。「どうだったって言われても……悲しさと罪悪感しかないわよ、アタシには。家族の人達やまわりのみんなは、アタシが悪いんじゃないって言ってくれるけど、あたしの運転する車が事故を起こしたのはまぎれもない事実なんだから……」

 蓋をしておいたはずの感情の器から、再び悲しみが溢れ出し、夏妃の瞳には光るものが浮かび始めた。そしてそれは涙という体を成し、彼女の頬を流れ落ちた。

「誰が悪いとか悪くないとか、そんなことはアタシにはどうでもいいの。ただ――あの子達が死んじゃってアタシだけが生き残ってるってことが、自分の中でどうしても許せないの。こんなに悲しくて辛いことって他にある? どうしてアタシも一緒に死ななかったんだろう……」夏妃はダッシュボードからティッシュを一枚取ると、とめどなく流れる涙を拭った。

「それは――」夏妃の言葉を受けて春人が口を開いた。「それはあれなんじゃねぇのかなぁ。俺にはよくわかんねぇけど、お姉にはなんか……、死んじゃいけない理由みたいなのがあったんじゃねぇのかな。ちょっと宗教じみた話かも知んねぇけど、あの事故でお姉だけが助かったってのは、なんかこう、奇跡以上のなにかがあるように思える訳よ。それにやっぱり、あの事故はお姉が悪い訳じゃない。言葉は悪いかもしんねぇけど、先輩達が亡くなったのは運命なんだと思うぜ?」そう言って春人は新しいマルボロに火を点けた。

 夏妃は正面を向いたまま遠くを見つめる目をしている。瞳からはとめどなく涙が溢れていた。

「――そんなの……そんなの後からこじつけた結果論じゃない。実際は全然違うんだから! あの時だってアタシが追い越しさえしなければ、絶対あの事故は起こらなかったんだから!」

「それこそ結果論だろ? それにぶつけて来たのはトラックの方なんだぜ? 法的に見たって、誰がどう考えたってお姉の方が悪いってことはありえねぇんだから」

「そんなこと言ったって、アタシの運転であの子達が死んじゃったのは事実なんだから! どうしたってアタシが……」

「もういいんだよ!」夏妃の台詞を春人が強い言葉で遮った。「もういいんだってば。病室で一年間も一人で苦しんで来たんだろ? そんなに苦しんだって、いくら悲しんだって、誰もいい想いなんかしねぇんだから。少なくともこの先は、先輩達の分まで楽しい人生を作って行くのがお姉の役目なんじゃねぇの? そのためにお姉は生かされたんだと思うぜ? もうこうなっちまった以上、自分だけの人生って訳にはいかねぇんだよ。だから後ろよりも……お姉は前を向いて生きてかなきゃダメなんだよ」

 春人はエアコンを止め、運転席側の窓を全開にした。途端に真夏の熱気が車内に流れ込む。

 夏妃は、その熱気を含んだ風を気持ちいいとさえ思った。春人の言葉が胸に響き、それまで彼女の心を支配していた、ドロドロと澱んだネガティブな思考がきれいに洗い流された気がしたのである。

「あんたは……大人なんだね。弟だからって、年下だからって、いつまでも子供だと思ってたけど、すごくしっかりしてるのね。アタシなんかよりも全然大人……」そう言うと夏妃は、助手席側の窓も全開にした。途端に彼女の髪が風で暴れ出す。

 その風を受けて夏妃は、気持ち良さそうな笑顔を作り、春人に向けた。「ねぇ春人、ありがとね。そうだよね、アタシはあの子達の分まで幸せに生きなきゃいけないんだよね」夏妃の脳裏には、香織と未奈、そして真冬の笑顔が映し出されていた。

「そうそう、時間は前にしか進まねぇんだから。これからが大事なんだよな」春人は姉の笑顔に満足すると、大きく頷きながら煙草を揉み消した。


 しばらく街を流した後、二人はコインパーキングに車を停め、駅前を散策することにした。もう太陽は西の空に傾き、街のネオンもちらほら明かりを灯し始めている。

「さすがに駅前はほとんど変わってないわね。しいて言えば知らない店が二つ三つあるくらいか……」夏妃は駅のロータリーから、辺りをぐるっと見回した。

 右手と正面に、連結された二つのデパートが立ち並び、左手にはそれほど高くない建物が並んだ商店街がある。そしてその奥にはそれらを見下ろすように、三十階建て程の高層マンションが、その存在を誇示するかのように聳え立っている。

「相変わらずパッとしねぇ街だな」春人も同じように辺りを見回しながら言った。

「まぁまぁ、愛する我が街じゃないの。これでも一応、県庁所在地なんだから。そんなことより、ちょっとお腹空いたな。なんか軽く食べない?」夏妃は春人を覗き込むようにして聞いた。

「そうだな、じゃぁ、適当にブラブラしながら良さ気な店でも探すか」

 二人はデパートの裏側の商店街まで歩くと、一軒のおしゃれなパスタ専門店に入った。黒と銀を基調としたとてもモダンな店構えで、店員のユニフォームもとてもセンスが良く、洗練されたデザインだ。

 そのおしゃれな造りのせいだろうか、店内はなかなかの客入りで、七、八割の席が埋まっていた。二人は窓際に空いている席を見つけて座ると、夏妃はカルボナーラを、春人はアラビアータを注文した。

「ねぇねぇ、ちょっとさぁ、なんかデートみたいじゃない?」夏妃は顔を近づけると、小声で囁いた。

「バカ、何言ってんだよ、気持ち悪ぃなぁ」そう言ってそっぽを向くと、春人はマルボロに火を点けた。「何が悲しくて実のアネキとデートしなきゃなんねぇんだよ。俺にはそんな趣味はねぇっつうの! それより――」春人はマルボロの煙を真上に吐き出すと話しを続けた。「タバコ、やめたんだな。まぁ、入院してる間ずっと吸えなかったんだろうけどさ」

「えっ? あぁ、うん、一年間ずっと吸ってなかったからね。もう吸い方すら忘れちゃってるよ。それに、考えたらタバコっていいこと一つもないじゃない? 体に悪いわ、人に迷惑掛けるわ、そんなものに金払ってたんだからね。しかも値上げ値上げですごいことになっちゃってるでしょ? だからきっと、もう吸わないわね、アタシは」そう言うと夏妃は、春人のマルボロの箱から一本抜き取り、口に咥えた。

「あっ、おいっ、今もう吸わないって言ったばっかじゃねぇか!」

「そう、だからこの一本でやめるの」そう言って夏妃は火を点け、一口吸い込んだ。「うぇっ、ゲホッゲホッ、うわっ、ダメだこりゃ、喉が痛い」

「おいおいおい、何やってんだよ」春人は夏妃の指からマルボロを取り上げると、灰皿でもみ消した。「無理して吸うことねぇだろ? もったいねぇなぁ。この一本が二十円以上もするんだぜ? このご時世は」

「そうね、ごめんゴメン」夏妃はそう言いながらコップの水を呷った。「そう言えばさ、どうなのよ、あんたのあっちでの活動は」

「あぁ、まぁまぁってとこかな? ただ、相変わらず金にはなんねぇけどな」

「ふぅん、そうなんだ。でもまぁまぁって言えるだけマシだよね、たぶん。そういう世界の人達って、挫折しちゃう人がほとんどなんだろうから」

 その時、注文した料理が二人の目の前に運ばれて来た。その濃厚で芳醇な香りに食欲をそそられ、二人はしばし食べることに専念した。値段もなかなかだが、味の方もなかなかである。

 夏妃は料理をペロッと食べ終えると、先程の話題の続きを話し始めた。

「そんで、音楽の方はお金になんないって言うけど、それじゃぁどうやって生活してるの? アパートの家賃だってあるだろうし、食費だって掛かるでしょ? まさか変なことやってる訳じゃないでしょうねぇ?」

「おいおい、人聞き悪いこと言わないでくれよ。なんで俺が海外に行ってまで悪さしなきゃなんねぇのさ。いくら金にはなんねぇって言っても、なんだかんだとそれなりにギャラはあるんだよ。ライブをやればそれなりに客は集まってくれるようになったしな。それに、夕方から深夜まで、小僧がたむろしそうなバーで働いてるし。って言っても、給料は週に二百ドル、円に換算するととんでもない安さだけどな」春人は、夏妃から取り上げたマルボロのシケモクに火を点けると、旨そうに煙を吸い込んだ。

「ふぅん、なるほどねぇ。それなりに頑張ってやってる訳だ。そんでどうなの? 芽は出そうなの? っていうか、あんたにとってはあっちでの生活じゃなきゃダメなの? こっちで活動すればいいのに。聞いた話じゃ、あんたってそこそこ有名人らしいじゃない」夏妃はテーブルに肘を着くと、手のひらで左の頬を支えながら言った。

「別にダメってことはない。ただ、日本の音楽業界の利益優先主義的な体制が、俺にはどうしても馴染めないんだ。かといって、アメリカのレーベルがそうじゃないって保証はどこにもない。実際、俺にはまだ今のところ、向こうでメジャーなレーベルの人間との付き合いがないからな。俺は遊びで音楽をやってる訳じゃないから、俺の音を受け入れてくれるところで音楽をやろうと思ってる。だからもし、日本のレーベルでも本当に音を考えてくれるところがあるんなら、まぁ考えないでもないってとこかな」春人はマルボロを片手に、椅子にもたれ掛かりながら言った。

「ふぅん、なんかちょっと難しいけど、要するに真剣に前を向いて音楽に取り組んでるってことね。なんかそういうのって、ちょっとだけ羨ましいなぁ」

 夏妃は、自分の弟のこの考え方、生き方を、心底羨ましいと思った。自分の今までの人生で、これほどまでに真剣に考え、情熱を持って取り組んだことがなにかあっただろうか。そう思うと自分の小ささを思わずにはいられなかった。

「んじゃぁ、ぼちぼち帰るか。別にもう行きたいとこもないだろ?」

「あっ、ちょっと待って、アタシ、チョコパフェ頼んでもいい?」

「えっ? あぁ、別にいいけど……。でも確か、お姉って甘いもの嫌いじゃなかったっけ?」

「うーん、そうなんだけどね。なんか不思議なんだぁ。最近、甘いものが好きになっちゃったのよね。どうしちゃったのかしら、アタシ」夏妃は春人に笑顔を見せると、ペロっと舌を出して見せた。 

 デザートを食べ終えて店を出ると、少しだけ遠回りしてコインパーキングに向かうことになった。デパートの裏を通り、煉瓦を敷き詰めた煌びやかな通りを渡るとバス通りに出る。そこを渡って細い路地を入ったところで、春人が不意に足を止めた。

 前を見ると、たくさんの人が、地べたに座ったり壁に寄りかかったりして話をしている。しかもなぜかみんな、髪を立てたり奇抜な化粧をしていたりと、街ではあまり見かけない風体をしていた。

「そこのビルの地下がNっていうライブハウスなんだよ。今日はライブがあるみたいだな」そう言うと春人は、そのライブハウスの入り口まで行き、その日の出演バンドが書かれているボードを見つめた。「えーっとぉ、クリッキーにK・G・S、そんでトリがミステリアスムーンか。聞いたことないバンドばっかだな」春人は夏妃の方を振り返ると、笑顔を作って言った。「俺のバンド人生はここから始まったんだ。初ステージもここだったしな」

 夏妃がその言葉に笑顔で応えていると、突然、脇から素っ頓狂な声が飛んで来た。「あれぇ? おまえ、春人じゃねぇの? すっげぇ久し振りじゃん! どしたの今日は」

 見ると、チケットもぎりをしていたスタッフと思しき男性が目を丸くして立っていた。

「あっ、どうもキクさん、ご無沙汰してます」春人はそのキクさんに向き直ると、ペコリと頭を下げた。「いや、久し振りに日本に帰って来たもんで、そこらへんをブラブラしてたんですよ」

「そうなんだってなぁ。おまえ、アメリカに行ったんだってなぁ。うちの店長が言ってたけど、あっちでもなかなか活躍してるらしいじゃん? そっかぁ、俺はまたてっきり、今日の大物を見に来たのかと思ったよ」

「大物?」春人は再びボードに目を走らせ、出演するバンド名を再確認した。が、やはり彼の記憶に当てはまるバンド名はそこにはない。「キクさん、大物って誰のこと? 誰か有名人が新しくバンドとかユニットを組んだってこと?」春人は思わせぶりなこの男に、期待と焦燥を募らせながら疑問を投げ掛けた。

「そいつぁあれだよ、自分の目で確かめた方がいいんじゃねぇか? 百聞は一見に如かずってやつだな。間違いなくぶったまげるぜぇ? あっ、おまえならチケット要らねぇからよ。あと、そっちのツレの彼女さんもね」キクさんはそう言うと、左手の親指を立て、ウィンクしてみせた。

「あのぉ、アタシ、春人の姉です……」夏妃は顔を赤らめながらペコリと頭を下げると、春人の陰に隠れるように後ずさった。

 その時、奇抜な化粧をした集団の中の一人が黄色い声を上げた。

「あーっ、春人がいる! ヒールレインの春人がいるよ!」

 次の瞬間、春人は若い女性の集団の中心にいた。握手を求める者やサインを求める者までいる。

 そんな光景を夏妃は、信じられないものを見る思いで見つめていた。自分の弟が、まるで芸能人のような扱いを受けていることに、驚き以外、何も感じなかったのである。

「なんだかんだと、あいつも大物だからねぇ」両腕を組みながらキクさんが呟いた。

「へぇ、そうなんですかぁ……。あの子が大物ねぇ……」夏妃はそう呟きながら、自分の視界の端に見える、手作りと思われる様々なバンドのポスター、メンバー募集、ライブの告知などのチラシを見ていた。『へぇ、こういうのって、なんか新鮮だなぁ……』

「ところでお姉さん」夏妃がそれらを見て感心しているところへ、キクさんが突然、不思議な質問をして来た。「なんかどっかで会ったことあるような気がするんだけど、俺と会ったことってあります?」

「えっ? あぁ、たぶんあの、会ったことないと思いますけど……」夏妃は突然の質問にどぎまぎしながら答えた。

「そっか、おっかしいなぁ。絶対会ったことある顔だと思ったんだけどなぁ……」キクさんはそう呟くと、パイプ椅子に座り直し、首を捻りながら煙草に火を点けた。「それはそうと、まぁゆっくり観て行きなよ。とりあえず今日のトリのバンドのボーカルは、観といて絶対損はないからさ!」

 トリのバンドと聞いて夏妃は、出演バンドの名前が表記してあるボードの一番下を見た。『――ミステリアスムーン? 神秘的な月、かぁ。なんか、きれいな名前だな……』


 夏妃は、そこで見るものすべてに驚きと新鮮さを植え付けられ、自身の中で好奇心が大きく上昇して行くのを感じた。

 学校の教室を縦長にしたくらいのスペースに、おそらく百人は超えるであろう奇異な服装、奇抜なメイクをした集団が、ところ狭しとひしめいている。天井には、人の表情がやっと判別出来るくらいまで明るさを落とした埋め込み型の照明と、ステージを照らすためのたくさんのスポットライトが並んでいた。

 奥の壁には、表のものとは違う、そこそこ有名だと思われるバンドのチラシやポスターが並び、その脇にはドリンクのサーバーが設置されている。どうやらドリンク付きのチケットが販売されているようだ。

 だが、その夏妃の目に飛び込んで来る様々なものの中で、一番彼女の心を惹き、関心を奪ったのは、ステージの中央に鎮座する、キラキラと光るドラムセットだった。銀色の光を放つたくさんのスタンド、それに取り付けられた金色のシンバル、そしてそれらに囲まれたバスドラ、フロアタムといった、黒く、重厚感のあるパーツの一つ一つが、夏妃の好奇心を大きく揺さぶった。

「うわぁ、ドラムって生で見るとピカピカしててカッコいいんだねぇ。アタシ、初めて実物見たよ」思わずこうして隣の春人に声を掛けてしまったくらいだ。

 そうこうしているうちに、少年のような顔をしたボーカルを先頭に、四人のラフな服装をした若者がステージに現れた。一部の客達から、指笛や甲高い歓声が上がる。

 そして、その空間に流れていた陽気なBGMがやんだと思った次の瞬間、五臓六腑を突き刺すような重低音が響き、ステージが浮かび上がるようにスポットライトが灯された。続いて耳の奥を掻き混ぜるようなギターの音と、胃袋を刺激するようなベースとドラムの重低音が重なり、メロディという形となって夏妃の脳裏にダイレクトに飛び込んで来る。さらにそこにボーカルの声が乗って来て、完全な曲という体を成した瞬間、夏妃の中で今まで一度も開いたことのない、新しい分野の扉が大きく開かれた。

『――これって……ライブって、すごい……すごいよ!』

 それは感動というものに限りなく近い、夏妃が生まれて初めて味わう感覚だった。

 今までほぼ耳だけで音楽を聴いて来た夏妃にとって、大音量の生の音楽を身体の芯で感じるという行為は、それまで彼女の中で頑なに拒み続けていたロックという音楽に対して、寛容な考えを持たせ、興味すら湧かせた。そしてさらに、もっとすごいものを、もっと衝撃的な音を聴きたいという欲求さえも湧かせたのである。そして彼女の求める、そのもっと衝撃的な音は、幸運にもそれからしばらくの後、ステージに響き渡るのである。


 そのボーカルを見た瞬間、夏妃は思わず「あっ」と、声を漏らした。隣では、春人もやはり同じように驚いたのだろうか、目を丸くし、口をポカンと開けている。

「あれって……プロミネンスのボーカルだった人じゃない? えーっと確か、太陽って名前だっけ?」夏妃は、かつて親友達がよく話していたそのバンドの名前を口にした。

「えっ? あっ、あぁ。なんだ、よく知ってんな、お姉。でもボーカルだけじゃないぜ? ドラムも元プロミネンスの拓人だ。そんであのベースが……」

 春人の言葉に合わせ、ステージ上の人物を目で追っていた夏妃は、そのベースの顔を見て再び驚きの声を漏らした。「あっ、あの人……」

「そう、康介だよ。こりゃどうなってんだ? なんでまた康介と太陽さんが一緒にやってんだろ?」

 ステージ上では、康介と女性ギタリストがお互いに“A ”の音を出し、音合わせを始めていた。そして場内に響くBGMがやみ、会場に一瞬の静寂が生まれた直後、ドラムのカウントと共にその空間は一気に異次元へと加速して行った。

 機械のように正確なバスドラの音に身体の芯を射抜かれ、地を這うようなベースの重低音に圧倒され、そして脳味噌までをも揺らすような、超攻撃的なギターの音に一瞬にして魅了された夏妃は、まるで彼女がそれまでに聴いて来たすべての音楽を否定されたような、そんな強烈な衝撃を受けた。そしてそこに太陽の声が重なり、音として完全なものとなった時、それまでの人生で蓄積されて来た憤りや鬱憤、そういったものが一気に晴れてしまったかのような快感が、彼女のすべてを包み込んだ。

『――違う……。さっきまでのバンドと全然音が違う……。このバンド、すごいなんてもんじゃない!』

 夏妃はほんの一曲、いや、ほんの一フレーズ聴いただけで、このミステリアスムーンに心を奪われてしまった。

 会場を見渡すと、同じように感銘を受けた客達が全身でビートを表現し、頭を激しく振り始めている。完全に曲の中に入り込み、内にあるものを爆発させているようだ。

 夏妃には、さすがにそんな客達の真似は出来なかったが、知らず知らずのうちにそのビートに飲み込まれ、自然と首とつま先でリズムを取っていた。だがそんな夏妃の隣では、春人が恐ろしい程の鋭さを湛えた瞳で、ステージの中央を見つめていた。


 太陽の声は、その空間を切り裂くように響いていた。

 その声を受け、客達も狂ったように頭を振りまくる。そして腹の底を突き上げるようなドラムと、その低音を追いかけるベース、さらには、鋭角的でありながら空間全体を包み込むようなギターの音が、そこにいる全員の意識を同じ方向へと向かわせ、熱気に蒸せたほぼ満員の会場は一体と化す勢いだった。

 客達は完全に曲の中へと入り込み、ビートに酔い、そして暴れまくる。ステージからダイブする者、長い髪を振り乱す少女、身体全体でビートを表現する男。太陽の視界に入り込むそれらの客の反応は、彼のモチベーションを高揚させ、情熱に火を点ける勢いだった。だが、彼自身の中に映る、自分を客観的に見たビジョンには、不安を消せぬままステージに上がったせいだろうか、明らかに大事ななにかが足りない、不完全で未完成な自分が映っていた。

『まだだ! オレはまだこんなもんじゃない。もっと熱く、もっと鋭く、もっと燃えるように……』 

 自分の声、アクション、表現力、そういったものすべてに違和感を感じる。

 客達はそんな彼の心情など知らずに、身体中にその音を取り入れ、疾走感や満足感を表現してくれていたが、自分の中の違和感を埋めるものがなんであるのかをわかっているだけに、太陽は強烈なもどかしさから逃れられず、独り苦しんでいた。

 そんな太陽を背後から見ていた拓人も、少なからず同じような違和感を感じていた。

『あいつ、なんかいつもとちょっと感じが違うな。まさか……緊張でもしてんのか?』拓人の脳裏を、一瞬、そんな考えが過ぎった。が、すぐに、『あいつに限ってそんなことある訳ねぇか』と、その考えを一蹴している。

 実際、太陽の声、アクション、表現力を一番近くで見続けて来た拓人が気になったとはいえ、すぐに打ち消してしまえる程のものだったから、客達はその違和感にはまったく気付いていない。それどころか、太陽のステージを初めて見るという客が大多数を占めていたはずで、そのこともまた、本来の太陽の実力との差を目立たなくさせている理由の一つだった。だが、そんな客達の中でただ一人、その違和感に気付き、不完全で未完成な太陽を見抜いている男がいた。


 春人は苛立っていた。ミステリアスムーンの正体が太陽の作ったバンドだと知った時には、キクさんが言ったとおり本当にぶったまげたが、その演奏が始まり、太陽の声がその空間に響き渡った瞬間、驚きも嬉しさも、そして期待さえもが、氷が解けるように消滅してしまったのだ。

『これが……これが俺の憧れたプロミネンスの太陽か……?』春人の脳裏には、この同じ場所でプロミネンスを、そして太陽を初めて見た時の映像が鮮明に映し出されていた。

 心臓をぶち抜くような声、客を一瞬にして獲り込む表現力、そして魂ごと引き込むそのグレーの瞳。この世にはこれ以上のボーカルはいない、その時の春人には確実にそう思えた。

 その想いは、それから何年か経った今でもほぼ変わっていないのだが、その日の太陽のステージは、春人にとっては彼の本当の実力を知っているだけに、到底満足出来るものではなかった。それどころか、落胆と苛立ちを前面に出させたのである。

 かといって、そのステージが彼にとってまったく魅力的に映らなかった訳ではない。バンド全体の音としては、テクニックも含めてかなりレベルの高いものだったし、一般的にライブハウスを賑わせているその辺のバンドとは較べようもない程の魅力があった。世間でよく耳にするメジャーなバンドと比較しても、まったく遜色ないだろう。

 ビートを作り上げているのが、元プロミネンスの拓人だということもその大きな要因の一つだったが、その空間を縦横無尽に、柔らかく強く切り裂きまくる、マーシャルから響いて来るそのギターの音が、春人の聴覚中枢を大きく刺激したのである。

『――あのギター、女のくせに、いい音出すな……』

 その音は、その曲に対して春人がイメージする音に限りなく近いもので、さらにボーカルの不調をしっかりと把握しているかのように、丸く曲線的に、メロディラインを傷つけないように響いていた。

 ここまで音を追求し、実践するギタリストを、春人は自分を含め、国内ではそう何人も知らない。それを自分とそう年も変わらなさそうな女が、目の前で完璧にやってのけているのである。

 そのことに春人は、驚きと共に、なぜか嬉しさを感じていた。

 日本の音楽シーンが向上して行くことは、一ミュージシャンとして、そして日本人として素晴らしく思えることだし、同じ感性、同じ匂いを持つ人間が意外にも身近にいたことで、心の中になにか温かいものが流れ込んで来るような、そんな気持ちになったのだ。

『それにしてもあの女……どっかで見たことある気がすんな……』そのギタリストを見つめながら、春人はそんなことを考えていた。


 気分はそう悪くない。声もよく出ていると思う。体調に関してはまったく問題ない。しかし相変わらず太陽は、胸に違和感を抱えたままステージを熟していた。

 客達は、そんなことはまったく知らずに曲の中に入り込み、己の感性を爆発させるが如く頭を振りまくっている。それどころか、曲が新しく変わるたびに感情を開放し、曲に入り込んで来る客が増えているようだ。

 太陽は、そんな客達の反応に答えるべく、自分の持てる限りの力と情熱をステージに注ぎ込んでいたが、相変わらず胸の一部を蝕んでいる違和感は埋まることがなかった。そしてそのままライブは終盤に突入し、客達のボルテージは最高潮に達して行った。

 太陽の体からは熱気が汗という形で現れ、まるでプリズムのようにスポットの光を乱反射させている。それはメンバー達全員にも当てはまることで、特にドラムの拓人は、背後からのスポットによって、真夏なのに体から湯気が出ているように見えるくらいだった。

 だが、客達の熱気はさらにそれを上回るもので、最前列の客はおろか、ステージから見える客のほとんどが額を汗で濡らし、肩で息をしている。着ている服はみんな汗でびしょ濡れなのだが、それを気にしている者など一人もいなかった。

 そしてラストの曲のイントロが始まり、太陽はその音に酔う客達を、モニターに足を掛けながらゆっくりと見回した。額から流れた汗が頬を伝い、一滴、また一滴と顎からステージに滴り落ちる。

 だがその時、客席の最後列、ドリンクサーバーの脇のチラシだらけの壁に腕を組んで寄り掛かっている男が、他の客とは明らかに違う鋭い視線を自分に向けていることに気が付いた。薄暗く、はっきりとその男の顔は見えないのだが、背が高く、その独特で攻撃的な雰囲気に、太陽はある一人の男を思い浮かべずにはいられなかった。

『あれは――まさか春人か……? 間違いねぇ、あれは春人だ。でもどうしてあいつがここに……』

 そしてゆっくりと視線をずらし、その右隣にいるショートヘアーの女を視界に捕らえた瞬間、太陽はすべての思考と体の動きが完全に止まってしまった。

 目は大きく開かれ、鼓動が激しく高鳴って行く。大音量で、情熱的に激しく響く音さえもが彼の耳に届かなくなり、その空間はまるで、太陽とその女以外の時間が止まってしまったようだった。

「――真冬……」太陽は、思わずその名前を口に出していた。

 そして胸の一部分を蝕んでいた違和感が、氷が解けるように、なぜかだんだんと消えて行くのを感じていた。


「あれっ、どうしたんだろ?」完全に心を奪われ、そのバンドが創り出す世界観にどっぷりと浸かっていた夏妃は、ステージの中央で突然固まってしまった太陽を見て、思わず声を上げた。

 しかも太陽の視線は、なぜかまっすぐこちらに向けられているようだ。横を見ると、春人も不思議そうな顔をしている。

「なぁ、お姉って、太陽さんの知り合いなのか?」大音響の中、夏妃の耳元に口を寄せ、春人が大声で言った。

 春人は、このどう考えても不自然な太陽の行動と、その視線が明らかに自分の姉に注がれていることに疑問を抱いたのだ。

 夏妃は首を横に振り、春人に対して大声で叫んだ。「アタシは直接知らないし、向こうもたぶん、アタシのことなんて知らないと思うよ」

 そんなやり取りの中、イントロが終わり、ボーカルのないまま曲だけが進行していた。多くの客達は、ボーカルがフリーズしてしまったことで多少の不自然さは覚えたものの、その三つの楽器が創り出す、情熱的で攻撃的、なおかつ疾走感溢れる音に酔いしれ、相変わらず頭を激しく振り、身体中でビートを表現している。その曲は確かに、ボーカルがなくても十分イケてると夏妃にも思えた。そしてこのまま曲が進んで行くと思われたその時、それは突然起こった。

 ドラムがブレイクを打ち、曲の切れ目になったところで突然、ギターの女性がステージの中央まで進んで来たかと思うと、太陽が足を掛けているモニターに足を掛け、次の瞬間、誰の目から見ても鮮やかとしか言いようのないギターソロをアドリブで弾き始めたのだ。

 そこにいる全員を攻撃するようなその音とテクニックに、客達はさらにボルテージが上がり、まるで新しいスイッチが入ったかのように己を爆発させる。次々とステージから客席にダイブする者が現れ、それまで控えめだった壁側の客達も、身体中でビートを表現し始めた。そして、その客達のヒートアップした反応が起爆剤となったのだろうか、その時になってようやく太陽にスイッチが入った。

 左手でマイクを握り締め、右手を天高く突き上げると、顔を真上に向けたまま、歌声とも叫び声ともつかない情熱的な音を吠え上げた。その音はギターの音と完全にシンクロし、光のような速さでその空間を包み込む。そしてギターの音が通常のリフに戻るのと同時に、メロディに乗った太陽の声がその会場にいるすべての人間の脳を強烈に震撼させた。

「あっ……」夏妃は再び歌い始めた太陽の声に、思わず短い言葉を漏らした。全身には、感動と興奮のあまり鳥肌が立っている。

『――すごいなんてもんじゃない……。これが……これがこの人の、太陽さんの本当の実力……』夏妃は、太陽のその声に心臓をぶち抜かれ、表現力に獲り込まれ、そしてその瞳に完全に引き込まれていた。気が付くと、瞳からは涙さえ溢れている。

 まわりを見渡すと、夏妃と同じように瞳に光るものを浮かべている客や、それまで抑えていた感動と興奮を開放し、激しく頭を振り始める客がそこら中に現れた。太陽のその歌声によって、その空間には一糸乱れぬ統一感が生まれ、完全に一体と化したのである。

 そして夏妃の隣では、そんな太陽に厳しい視線を送っていたはずの春人が、満足そうにうっすらと微笑を浮かべていた。

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