第16話    華  

 ロスからサンフランシスコまでの道程はとても快適だった。

 砂漠の真ん中を南北に走るウェストサイドフリーウェイは、ロスからサンフランシスコまでの約四百マイルをほぼ一直線に結ぶ、西海岸きっての主要道路である。

 退院するランディを迎えに行くため、春人は助手席にケイを乗せ、その道を颯爽と走っていた。

「あいつもツいてるよな。昨日の予報じゃ今日は雨って話だったんだけど、見てみろよケイ、雲なんか一つもありゃしないぜ?」

「ホントだね。あの人、ファンタジーファイブで運を全部使い果たしたと思ってたけど、まだ少しは残ってるみたいね」ケイは風で暴れる長い髪を右手で押さえながら、春人に笑顔を向けて言った。

「でもあいつ、ホントに退院しちゃって大丈夫なのかなぁ。まだギブスだって取れてないだろ? 鉄板だって入ったままだろうし。もうちょっとベッドの上でおとなしくしてた方が、世のため人のためになるんじゃねぇか?」

「ハッハッハ、それは言えてるね。けっこうあの人、ああ見えて敵も多いからね。でもきっとあれだよ、ぼったくり病院って噂を聞いちゃったから、一日も早く退院したくなっちゃったんじゃない?」

「高額当選者なのに?」春人はニヤッと笑って見せた。

 その笑顔で、ケイは腹を抱えて笑い出した。「アッハッハッハ、ちょっとやめてよ! あの人が小心者ってバレちゃうじゃない」

「あいつが小心者? あんなに大雑把な男のどこが小心者なんだよ」

「それとこれとは違うんだよ。あの人はああ見えて、意外と心が繊細なんだよね。お金の面はまぁ置いといて、人との繋がりにはすごく気を遣うの。過去にいろんな人に裏切られて来たからさ」

「ふぅん、そんな風には見えねぇけどな」

「だからたぶんね、医者の意見を振り切ってまで退院するのは、ハルト、あんたを失うのが怖いんだよ。このままバンドが消滅しちゃって、そのままあんたが日本に帰っちゃうんじゃないかって、きっとあの人はそう思ってる」

「はぁ? あいつがそんなタマか? そんなに女々しくねぇだろ」

「ま、親友のあんたがそう思ってるんなら、あの人の虚勢もたいしたもんだね」ケイは意味あり気な笑顔を作ると、遠くの空に視線を移した。

 車はオニールフォアベイという湖を通り過ぎ、サンフランシスコまではあと一時間程の距離まで来ていた。相変わらず空は青く濃く、四月ということを忘れてしまう程の煌きを放っている。

「そういえば、先週ユーチューブで見たよ、タイヨウの新しいバンド」

「あぁ、ランディから聞いたのか。で、どうだった? 鼻から脳ミソ飛び出したか?」

「ランディが言ってたよ。あいつのいう通りだったって。タイヨウは相変わらず本物だけど、ギターの女が化け物だったって。私も同感だね。あの子はすごいよ、あんたにも引けを取ってない。でも、辞めちゃうんでしょ? あの子」

「えっ? よく知ってんな。っていうか、えっ? なんで知ってんの?」

「オフィシャルサイトに載ってたよ。確かイクキュウって書いてあったかな。調べてもその意味はなんとなくしかわかんなかったけど、新しいギターのオーディションをするって書いてあった」

「ふぅん、ネットの世界ってすげぇな。俺は手紙で知ったっていうのに」

「だけど、いくらオーディションしたって、あそこまでのギターは見つからないんじゃない? 上手いだけのやつならいくらでもいるけど、それ以上のなにかがないと、タイヨウの声とパフォーマンスを邪魔しちゃうんじゃないかなぁ。あのバンドは、あのままで完全に出来上がってるって感じるもんね」

「さすがだねぇ……。その意見は俺とまったく同じだよ。だからちょっと心配してんだよ。もともと俺はおまえ等と一緒で、プロミネンス時代から太陽さんやドラムの拓人さんに憧れてたからな。それにベースのやつは俺の親友なんだよ」

「そうなんだ……。あのベースもいい音出すよね。ちょっとおとなしそうな子だけど、クオリティはかなりのもんだよね。もっとはじければいいのに」

「わかった、そんじゃ伝えとくよ。もっとバカになれってな」春人はにやけ顔を作ると、右手の親指を立てた。

「で、あんたはただ心配なだけなの?」ケイはタバコに火を点けると、唇から細い煙を吐いた。「心配なだけで行動は起こさないの?」

「は? なんだって? なんの話をしてるんだ?」

「親友のバンドが心配なんでしょ? 日本に行って手伝ってやればいいじゃないか」

「おいおい、なんでそうなるんだよ。俺にはライフボックスの活動があるだろ? それにロキシー・シアターの出演契約だって取れるかもしれない。下手すりゃ、パット・マグナレラのレーベルにだって潜り込めるかもしんないんだぜ?」

「それはウチのバンドの体制が整ってからでしょ? イクキュウっていうのは、あんまりわからなかったけど、一時期だけ休むってことらしいじゃないか。じゃぁ、その期間だけでも手伝いに行けばいいんじゃない?」

「そんなこと言ったって、これからいろいろ忙しいだろ? ウチだってボーカルとドラムを探さなきゃいけないんだ。ギターまでいなくなったらもうそれはバンドじゃないぜ?」春人はマルボロに火を点けると、訝し気な顔で言葉を吐いた。

「ギターならイーサンがいる。それにドラムだったら私がやるよ。そこまでテクニックはないけど、こう見えてそこそこ叩けるんだよ?」

「あぁ、それは聞いたことあるよ。ダウンタウンの女の子達とバンド組んでたんだろ? だけどなぁ、それにしたって……」

「あんたは……、マフユを覚えてるか?」ケイは春人の方を向くと、真剣な顔で話し始めた。「先週、夢にマフユが出て来たよ。私にとっては日本での大恩人さ。そのマフユが、私の手を取ってある場所に連れて行くんだ。どこだと思う? でっかいスタジアムみたいなライブホールだよ。三万人くらいは入れるんじゃないかな? そこであんたがものすごいテクニックで演奏してた。しかもあの女の子とツインギターでさ、それはもう超クールな演奏だったよ。ステージの真ん中にはタイヨウがいてさ、あの誰にも真似が出来ない歌声を吠え上げてたよ。確かにそれは夢なんだけど、私は信じられないくらい興奮しててさ、うまく言えないけど、これ以上は絶対にありえない、究極のパンクロックだって感じた。確かに、ミステリアスムーンをユーチューブで見た夜だったから、その影響でそんな夢を見たんだろうけど、それにしたってマフユが出て来るのはおかしいだろ? ねぇハルト、ミステリアスムーンとマフユはなにか関係があるの? でも、ミステリアスムーンが活動を始めた時にはマフユはもう亡くなってたはずだし……」

 この話を聞いた春人は、一言も言葉を発することが出来なくなってしまった。だが、自分が夢の中で真冬に忠告を受けたこと、夏妃からの手紙の内容、そして今のケイの話を頭の中で照らし合わせた結果、彼は一つの答えを導き出すのだった。

「知ってると思うが……、真冬さんは……、太陽さんの元カノで、プロミネンスのスタッフだった人だ。ケイ、その話は……、嘘偽りなく本当だよな。だとしたら……、真冬さんはいつも俺達の近くにいるんだと思う……。いや、間違いなく俺達を見守ってくれてるんだ……」

「あんたは本当にそう思うのか?」腕を組んだケイは、春人の態度からなにかを察したように、真剣な眼差しで言葉を繋いだ。「もし本気でそう思うんだったら、あんたは日本に帰った方がいい。そしてミステリアスムーンで最高のパフォーマンスをするんだ。そうね、あんまり深く考えるのは得策じゃないと思う。大丈夫、ランディには私からうまく言っておくから……」

「あぁ……。俺もその方がいいような気がする……。だけど……、俺の事を本当に必要としてるのは……」

「だから深く考える必要はないんだってば! 正直に自分の考えに向かって突き進めばいいんだよ! 私はオカルト的な話はまったく信じないけど、なにかをしなきゃならないって、心に強く感じることだけは別だよ。そのことを運命って言うんじゃないの?」

『運命……』再び頭の中に放り込まれたこの言葉は、春人に強い行動力を与えるのだった。

 カリフォルニアの広大な青い空には、半分の形をした月が浮かんでいた。


「お疲れ様でした! いやぁ、なかなか良いね。アグレッシブだし、テクニックに関しては文句のつけようがない。ルックスも二重丸だね。じゃ、結果は後日連絡しますので、それまでお待ちください」相沢は笑顔を作ると、歯切れ良い口調で言った。

 新しいギタリストのオーディションは、送られて来たデモ音源により選考した五人を招いて、スタジオRで行われた。一人につき五十分、その後十分の休憩を挟み、それまでに四人の演奏を消化していた。

「はぁ、やっと四人か……。もう四時間も経ったよ。つか、一人につき五十分は長いんじゃね? 二、三曲聴いたらポテンシャルくらい見抜けそうなもんだけどな」拓人が大きなあくびをしながら言った。

「あのな、いくらポテンシャルが高くたって、性格に難があったらどうすんだ? だから会話とかを交えて、総合的なことを判断してんじゃねぇか。五十分じゃ短いくらいだぜ? しかしまぁ、さすがにオーディションなんてものに応募して来るだけあって、みんな上手いよな。特に今のやつなんか、テクニックだけだったら千秋と変わんねぇんじゃねぇか?」缶コーヒーに手を伸ばしながら太陽が言った。

「そうかなぁ。まぁ、確かにすごいテクニックだったけど、切れ味が足りない感じだったと思う。あとは華がないような気がするかな?」

「華?」康介の意見に拓人が不思議そうな顔で答えた。「なんだよそれ、俺にはまったくわかんねぇな。ディストーションがガンガン効いたギターの音に、どうやったら華を感じるんだよ。って言うかおまえ、ずいぶん貫禄がついたな。おまえの口から切れ味って言葉が出るとは思わなかったよ」

「だって俺、春人と千秋さんのギターの音、あとはプロミネンスの日比野さんの音くらいしかまともに聴いたことないからさ。どうしたってその音と比べちゃうんだよね。特に千秋さんのギターの音には、硬いものでも切れそうなやいばもあるけど、赤ちゃんの肌みたいに柔らかい丸みもある。そんで、心が落ち着くような華もあるって思うんだ。なんかさ、コンパスの針の先で鮮やかな色の風船を撫でてるのに風船が割れないみたいな感じかな?」

「はぁ? おまえ、いつからそんな詩人になったんだ? しかしまぁ、恥ずかし気もなくよくもまぁ……。っていうか、こりゃぁ遠回しな惚気のろけだな」拓人は両手を開いて上に向ける仕草をした。

「いや、たいしたもんだな康介。君にそんな感性があるとは思わなかったよ。そうか、華か……。それはもしかしたら、このバンドにはとても大事なことなのかもしれないなぁ……」相沢は腕を組みながら、考え込む仕草をした。

「さぁて、そろそろ十分経ったぜ。ぼちぼち次の人に行ってみようか。夏妃、次の人呼んで来てくれ」太陽の声で、夏妃はスタジオを出て行った。が、しばらくしてスタジオに戻って来たのは彼女一人だけだった。

「タイちゃん、ロビーに誰もいないんだけど……」

「は? なんで? つか、今八時だろ? 時間ぴったりじゃん。なんでいないんだ?」

「なんでって言われても……。アタシはちゃんと八時十分前には来てくださいって伝えたよ? ちょっと待って、今電話してみる」夏妃はスマートフォンを操作し始めた。が、スマートフォンを耳に当てた彼女の口は、一向に言葉を発しようとはしない。「ダメだ、出ないよ。どうしちゃったんだろ?」

「なんだよ、応募しといてバックレか? もう、審査される資格もねぇな」拓人が苛立ちを露にした声を出した。

「ちょっと待ってみようよ。もしかしたら、事故かなんかに巻き込まれちゃってるのかもよ?」康介がなだめるような声で言った。

「それだったら電話くらいして来るだろ? だいたい、遅れて来るなら電話の一本くらい入れるのが常識じゃねぇか? そんなことも出来ねぇやつは、さっき太陽が言ってた、性格に難のあるやつにしっかり当てはまるな! さ、とっとと片付けて帰ろうぜ? おじさんはもう眠いんだよ。ギターはさっきの四人の中から選べばいいじゃん。みんな上手かったんだし」拓人が再び大きなあくびをしながら言った。

「待て待て、もうちょっとだけ待ってみよう。何か事情があるのかもしれない。それに、もしかしたら次の人が、みんなが納得出来る理想のギタリストかもしれないじゃないか」相沢は苦笑いをしながら言った。

 それからしばらく、何をするでもなくただ時間だけが流れた。夏妃は幾度となく次の選考者に電話を掛けたが、相変わらず相手からの反応はない。太陽は相沢と今後のスケジュールについて話し始め、康介はベースの手入れをしていた。拓人に至っては、とうとう居眠りを始めてしまう始末である。

 その時、不意に相沢の携帯電話が鳴った。「はいもしもし、俺だが……」電話の相手は阪上だった。「えっ? なんだそりゃ。それで、うんうん、え? 今から? うーん、まぁ時間は多目に取ってあるから構わないが……。それで、その人はどんな……。えっ!? なんだって! おいおい、嘘だろ? なんでまたこんな急に……」相沢は目を見開いた表情と共に、この男には似つかわしくない甲高い声を上げて驚いた。

 大きく顔色を変えた相沢に、そこにいる全員が注目する。

「ん? どうしたんだい、社長? そんなデカい声出して……」相沢の大きな声で目を覚ました拓人が、目を擦りながら言った。

「おいみんな、ビッグニュースだ。今から一人、飛び入りでオーディションすることになったぞ! 言っとくけどな、刃も丸みも華もちゃんと持ってるギタリストだ。たぶん誰も文句なんてないはずだぞ? しっかり心の準備しとけよ!」

 それから数十分の後、背が高く目付きの鋭い、攻撃的な雰囲気を持つ男が、黒いストラトキャスターを担いでスタジオに現れた。


 その日、”C"というライブハウスで行われたミステリアスムーンのライブは、リリース前のツアーの四本目、場所は広島駅から車でおよそ15分、煌びやかな繁華街の一角にある、収容人数百五十人程の小さなライブハウスだった。

 地元広島のバンド三組とブッキングされたこのライブには、地元では有名なバンドが出演しているのだろうか、収容人数を大きく超える観客が押し寄せている。太陽達の地元、Nと同じように、広島のパンクキッズ達もそれぞれ超個性的な風体で、ライブ前から個々の熱さを沸々と醸し出していた。

 まだ五月の末だというのに、昼間が夏日を記録したせいだろうか、ほとんどの客が半袖姿である。中には真夏のような服装をしている客までいる。だが、これから催される熱いライブに参戦するためには、そのくらいの服装がちょうどいいのかもしれない。超満員のホールでは、汗をかかない者など一人もいないのだ。

 この時期特有の長い夕刻が終わり、陽が完全に落ちた頃、ミステリアスムーンのメンバー達は、新しいギタリストを迎えての初ライブを迎えようとしていた。そしてこの広島の地で、まさに日本の音楽界にとって、新しい伝説が築かれる瞬間を迎えようとしているのである。

「って言うか、さっきのバンド、超カッコよかったね! なんとなくウチに近い雰囲気持ってるし。今日はナイスなブッキングじゃない? 同じ雰囲気の客層って、やっぱりやりやすいじゃん?」康介がニコニコしながら言った。

「確かに。この前の大阪はひどかったもんな。俺、オルタナティブロックって言葉、初めて聞いたよ。パンクっちゃぁパンクっぽいとこもあるけど、俺に言わせりゃあれはパンクじゃねぇな。そんなのとブッキングされちゃたまったもんじゃない。今回は一組目も二組目も、バリバリのパンクだし。あっ、そうそう、あの一組目のバンド、久々に聴いたな、あんな感じの。この時代にバリバリのハードコアだぜ? まぁ、俺の好みではあるんだが」拓人が感慨深い顔をしながら言った。

「なんだよこの時代にって、失礼な奴だな。まだまだ現役の老舗ハードコアバンドなんて、おまえが思ってる以上にたくさんあるんだぜ? 鉄アレイとか、システマチックデスとか、ローズローズとか……。時代の先駆者をバカにするような発言はちと考えもんだぜ?」太陽は足を組み直すと、拓人に白い眼を向けながら言った。

「いやいや、そういう意味で言ったんじゃ……。ただ俺は久々に聴いたなって思ってさ。って言うか、ローズローズかぁ。マジで久々に……」

「さて、そろそろ出番だな。今日はトリって訳じゃないけど、いっちょ派手にぶちかましてやるか。おまえ等、準備はいいか?」太陽は膝をパンと叩くと、メンバーを見回しながら立ち上がった。

「あぁ、いつでも準備はOKだよ! 広島のパンクロッカー達に、俺達のすごさを味合わせてやろうよ!」康介も同じように両膝を叩き、勢いよく立ち上がった。


 その日初めてミステリアスムーンを観たという客がほとんどのはずである。にも拘わらず、まだライブが始まって一分も経っていないのに、そこにいる客達全員が、それぞれの形で自身のボルテージを開放していた。

 すべての客達がその音楽を身体中で表現している。ドラムのビートに合わせて頭を振りまくる者、空間を切り裂くギターの音に酔い暴れまくる者、ベースの低音の心地良さに、全身を揺らしてビートを表現する者。そしてイントロを終え、太陽の歌声がその曲に重なった瞬間、その会場にいる客達は一瞬にして一つの個体となった。

 客達はさらに狂ったように頭を振りまくる。腹の底を突き上げるようなドラムと、その低音を追いかけるベース、さらには、刃のように攻撃的でありながら絹のような柔らかさを持つギターの音が、そこにいる全員を異次元へと誘う。そして太陽の吠え上げる歌声が客達の心臓をぶち抜き、表現力は一瞬にして客の心を獲り込み、そしてグレーの瞳が客達の魂ごと引き抜いた。客達はおろか、ライブハウスのスタッフまでもがその熱狂的集団に溶け込み、会場は完全に一体となった。

 曲が変わるたびにその客達の熱狂ぶりはヒートアップする。ステージでは数人の客達がダイブを始め、その数はみるみる増えて行った。その数に比例するように、会場のあちこちでは頭を激しく振る者が増えて行く。長い髪を大きく激しく振り乱す少女、まるで痙攣しているかの如く暴れる少年。壁際には、涙を流しながら両手を振りかざす少女がいる。

 太陽の視界に入り込むそれらの客の反応は、彼のモチベーションを大きく刺激し、情熱に火を点けた。そして気分を高揚させ、更なる探求心を彼に与えた。

『おまえ等、覚悟しとけよ! オレ等はまだまだこんなもんじゃねぇからな?』太陽は心でそんなことを思っていた。 


 康介は自分達の奏でる音に感動していた。もちろんそれは今日が初めての事ではないのだが、パワフルで正確無比なドラムの音と、地を這うような自分のベースの音に乗って来る、超攻撃的でありながら柔らかさを持つそのギターの音に心酔していた。それは鋭角的でありながら空間全体を包み込むような千秋の音とはまた違う種類のものなのだが、このバンドに対して計算し尽くされた、これ以上は無い完璧な音だと彼には思えた。そして何より、千秋の音にも共通している”華”があると感じたのである。それはとても言葉で説明することは出来ないのだが、その一滴で、誰もが美味しいと感じる料理が、もうワンランク上の超一流のものへと変わってしまう魔法のエッセンスのようなものである。

 この会場にいるすべての客達もきっとそれがわかっているのだろう。先程のバンドで見せていた熱く燃えるような空間は、さらにそれを上回る灼熱の世界へと変化している。先程のバンドをステージの袖から覗いていた康介にはそう感じられた。


 拓人も康介と同じように自分達の音に感動していた。

 少年時代から生粋のパンクロッカーだった拓人は、激しさと熱さの融合がパンクロックだと思っていた。ドラムは激しく速いビート、ギターとベースはスピードとステージングを重視し、ボーカルは客達に訴え掛けるように激しくシャウトする。基本的なハードコアを好んでいた彼は、そんな形が当たり前だと思っていた。

 しかし高校時代、拓人はプロミネンスに加入したことによってその考えを改めることになる。それはどんな音楽にも共通することなのだが、個々の楽器が互いの音を刺激し合い、求め合う。そして最終的にすべての楽器がシンクロし、最高の音を保ちながら同じ方向へと向かう。当時のプロミネンスのメンバー達は、パンクロックとは、そこに初めて激しさと熱さを融合させたものだと彼に教えた。

 それからの拓人は、音を大切に考えるようになったのだが、尊敬していたボーカルがバンドを辞め、新しく太陽が加わったことでその考えはさらに加速する。

「ボーカルだって立派な楽器だろ? 声に勝てる楽器なんてないんだぜ?」初めてのスタジオでそう言い放った太陽の言葉が、拓人の心に深く沁み込んだ。そして同時にその言葉は、彼に音に対する探求心を与えた。

 今、自分の目の前で最高のパフォーマンスをしているギタリストは、拓人がそれまでの音楽人生で求めて来た事を明らかにすべて実践していた。技術的なことはもちろん、ドラムやベースを意識しての強弱のメリハリや共存感、何よりそのバランスを考えてのボーカルとの存在感の絶妙な駆け引きが完璧だった。それに加え、圧倒的なテクニックと、すべての客を引き込むそのカリスマ性が、バンドのフロントマンとしての資質を物語っていた。

「そうか、康介の言ってた華って……こういうことか……。それにしてもこいつは……、こんなにすげぇ奴だったのか……」拓人はそう思わざるを得なかった。そして、自分の追い求めていた音が何なのかがわかった気さえするのだった。


 ライブは終盤に差し掛かったが、会場は相変わらず灼熱の空間を保っていた。

 ステージからのダイブは、永遠を思わせるように延々と繰り返され、会場のほとんどの客は汗でびしょ濡れである。ウニやトサカのように髪を立てていた客達も、その原型がわからないくらいに髪が乱れている。全力で曲の中に入り込んでいたせいだろうか、曲の合間になると、ほとんどの客が両腕を上げて興奮を伝えながらも呼吸が荒く、肩で息をしている。だが次の曲が始まると、また再び頭を振り乱し、ビートに酔い、ダイブを繰り返すのだった。もうすぐこの感動の瞬間が終わってしまうと肌で感じているのだろうか、その疲れ切った状態でも、客達はもっと熱いものを、もっと激しいものをくれと言わんばかりに、全身で自身のボルテージを爆発させていた。平静でいられる者など、その場には一人も見当たらない。

 そしてラストの曲を迎えるにあたり、バンドからの告知が始まった。もちろん、次の月の第三水曜日にメジャーデビューする旨である。MC慣れしていない太陽の、あちこち噛みまくりながらの告知だったが、それを聞いた客達は狂喜乱舞し、曲も演奏されていないのにダイブを始める。少女達は黄色い声を上げ、少年達は両腕を上げて喜びと興奮を表現した。様々な声援や熱い声を耳にしたメンバー達は、それぞれ短いリフやメロディでそれに応える。そしてMCが終わり、最後の曲を迎える頃、その奇跡の瞬間は訪れた。


 ステージの袖では、ライブが始まる瞬間から夏妃が温かい目をしながら見つめていた。

 新しいギタリストを迎えての初ライブということで、少なからず不安を持っていた夏妃だったが、空間全体を灼熱と興奮が支配しているのを感じると、心に大きな安堵が生まれるのだった。それどころか彼女自身も、演奏が始まった瞬間から身体中に鳥肌が立ち、ボルテージがみるみる上昇して行くのを感じた程である。

 すべての曲を頭と体が覚えているはずなのだが、ライブというのはやはり不思議なもので、演奏する場所や人、そしてその客層の違いによって、新しく新鮮なものとして聴くことが出来る。夏妃は、ライブというものは生き物なんだと改めて実感するのだった。

 そしてライブは進み、中盤に差し掛かった頃、ある曲の途中で夏妃の頭の中に小さな光が灯った。それはドラムがブレイクを打った後、ビートが変化する曲だったのだが、その変化する際にギタリストが大きくジャンプした瞬間のことである。

「あっ……」夏妃は小さな声を漏らした。

 ステージの上部に、メンバーを照らすためのライトが多数取り付けてあるのだが、その光と大きく高くジャンプしたギタリストが重なり、夏妃の位置からは、ギタリストが光を放っているかのように見えた。それだけではない。ジャンプによってギタリストの顔付近から飛び散った汗が、照明の光を帯びて小さな輪となり、まるでギタリストの顔付近を華が包んでいるように見えたのだ。

『康介の言ってた華って……このことなのかなぁ……』確信は持てなかったが、夏妃はその瞬間の光景を、忘れることの出来ない奇跡の瞬間だと思った。

 そして終盤に差し掛かり、太陽の嚙みまくりのMCを笑いと共に見届けた夏妃は、ラストの曲を前に、ライブの事後処理の準備をするために楽屋へと向かった。だがその時、何気なく振り返った彼女は、ステージ中央の太陽と偶然目が合った。

 MC直後ということもあり、すべてのスポットライトを浴びていた太陽は、キラキラと、そしてとても神々しく輝いて見えた。夏妃はその姿を見つめると、心に熱いものが込み上げて来るのだった。そして自分の愛する人へエールを送る意味を込めて、満面の笑みとピースサインを送った。


 スポットの光に包まれた太陽は、ステージの袖を見つめていた。思考は固まり、時間さえもが止まってしまったかのように感じる。

『今のは……、今のは夏妃……だよな。あぁ、そりゃそうだ、夏妃に決まってるじゃねぇか。あいつはもう、この世にはいねぇんだ。だけど……、あの笑顔は間違いなく……。いや、そんなはずはない、だってあいつは……』ミステリアスムーンの初ライブの際に衝撃を受けたその感覚が、また再び太陽の脳裏に映し出された。

 まん丸の瞳、少し首を傾げた時の角度、そしてとびっきりの笑顔の中に垣間見える、壊れてしまいそうな儚い雰囲気。その一瞬、太陽は間違いなく真冬を見ていた。いや、夏妃の中に真冬の存在を見たという方が正しいのかもしれない。

 そしてラストの曲がギターのイントロと共に始まり、会場が暗転した直後に色とりどりのスポットライトがステージ上を縦横無尽に暴れ出すと、太陽は左手でマイクを握り締め、右手を天高く突き上げたまま顔を真上に向け、歌声とも叫び声ともつかない情熱的な音を吠え上げた。それと同時にベースとドラムがリズムを刻み始め、曲として完全な体を成した時、会場は異次元へと進行方向を変え始めた。

 太陽の声は会場中を光の速さで包み込み、表現力はそこにいる全員の心に快楽と疾走感を与え、グレーの瞳が客達のすべての感情を支配する。それと調和するように、機械のように正確で、まるで戦車のようにパワフルなドラムのビートが、異次元へと進むための後押しをする。心地良い低音に超攻撃的要素を織り交ぜたベースの音と、激しく空間を切り裂きながら響くギターの音が完全にシンクロすると、音として一つの形となったその空間は、まっすぐに異次元へと進み出した。

 その瞬間、会場中で暴れまくっていた客達すべてに鳥肌が立ち、少々おとなし目だった壁側の少女達が涙を流し始めた。ダイブを試みようとしていた客達も動きが止まり、頭を振り乱していた少年達も、思考をなにかに鷲掴みされたようにフリーズしてしまった。そして……

 太陽は完全に覚醒していた。その声は一人のものであるはずなのに、会場中で何層にもなって響き渡っているように感じる。表現力はすべての客達、いや、スタッフ達の中にまでも奥深く入り込み、個々の内側から不満や怒り、嫌悪感や劣等感といった負の感情すべてを払拭するように吐き出させている。そしてそのグレーの瞳は、まるで目にした物をすべて石に変えてしまうかの如く、強烈な存在感と威圧感を合わせ持ち、さらにはすべての物事を見透かしているように怪しく輝く。

 そしてそのボーカルに完全にシンクロしたすべての楽器は寸分狂わぬ完璧な音を奏で上げ、そこにいるすべての人間に、この世にはこれ以上のパンクロックはありえないと思わせる程のステージを作り上げた。

 一瞬のフリーズが解けた客達は、更なるヒートアップという言葉では物足りないくらいの情熱を身体中で表現し始めた。ダイブする者達は明らかに先程よりも高く飛び上がり、頭を振りまくる者はそこにいる全員と言っても過言ではない程の人数に増えている。後方にいた客達も、少しでもステージに近付きたいという想いからか、暴れまくる客達をかき分け、ジリジリと前方に押し寄せて来た。それに伴い、ステージ前は大混乱となっていたのだが、すべての客達の意識がみんな寸分の狂いもなく同じ方向に向いているからなのだろう。もみ合いや競り合いといった喧嘩の類も起こることはなかった。そう、すべての客の心がこのライブに対して、満足感で満たされていた証拠である。

 曲のラストへ向けて、メンバー達のボルテージも最高潮に達していた。それぞれの額には大粒の汗が光り、着ている衣装も汗で色が変わってしまっている。だが誰もそんなことには気を止めず、最高の曲を、最高のステージを、そして最高の音を奏でることだけに集中していた。もっと熱く、もっと情熱的に、そしてもっと燃え上がるように……。


 そしてライブは終焉の時を迎え、アンコールの嵐の中、感謝の意を吠え上げた太陽の声が合図のように、メンバー達は楽屋へと引き上げた。

 だがその途中、拓人はたくさんのアンコールの声の中に、誰かの名前を呼ぶ声がちらほら混じっていることに気が付いた。客の中に、誰かメンバーの知り合いでもいるのだろうか? 首を傾げながら袖を出たところで、彼はメンバー達にそのことを伝えた。「なぁ、誰かここに知り合いでも呼んだのか? なんか、名前を呼んでる感じの声があちこちから聞こえる気がするんだよな」

「あぁ、それはおまえのことを呼んでるんじゃねぇか? ほら、何年か前、広島でライブやったじゃん、プロミネンスで。その時の客がおまえのことを覚えてるんだよ。ほら、ちゃんと聞いてみな? たくとぉって聞こえるじゃねぇか」

 太陽のその話に拓人がステージの方に耳を傾けると、確かに自分を呼んでいる声が聞こえた。「ホントだ! うわっ、なんかちょっと、こういうのって嬉しくなっちゃうな!」彼はドヤ顔を見せた。だがしかし、その顔がすぐに違う表情へと変わる。「って言うかおい、たいよぉって呼んでる声がほとんどじゃねぇか! なんだよちくしょう! けっ! やっぱりそんなもんだよな、世の中ってのはよぉ」

「いいじゃないですか。たった一人でも名前を呼んでくれる人がいるんなら、それはミュージシャン冥利に尽きますよ! 俺なんてこの土地じゃ、まったくの無名な訳だし」康介がニコニコしながら言った。

「たった一人だと! なんだおまえ、そりゃぁバカにしてんのか? おまえは相変わらず年上に対して言葉を選ぶってことをしねぇやつだな。いいか? 俺だってこのミュージシャン人生でだなぁ、黄色い声の七つや八つ、常にもらって……」

「ほら、あんたの名前も聞こえて来るぜ? ちゃんと聞こえるかい?」太陽はギタリストに目を向けると、白い歯を見せながら言った」

「あぁ、ちゃんと聞こえてるさ。まさかこんな地方で名前を呼んでもらえるとはな……。こんなご褒美をもらっちまったら……、アンコールに応えない訳にはいかねぇんじゃねぇか?」

「あぁ、確かにそうだな。んじゃ、もう一曲だけぶちかますか!」太陽はグレーの瞳をギラギラさせながら言葉を繋いだ。「よし、ラストに一発、でかい花火を打ち上げてやろうぜ?」太陽はメンバー達を見回すと、にっこり笑いながら左手の親指を立てて見せた。

 会場からは、アンコールの嵐と共に、太陽と拓人の名前、そして日比野の名前が叫ばれていた。



 







  

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