第17話    熱

「おい太陽、聞いたか!? 俺等のPV、ユーチューブで百万再生超えたってよ! しかもこの七夕っていうおめでたい日に!」ある日のレコーディングスタジオで、拓人が入って来るなり、鼻の穴を大きく広げながら大声で言った。

「あぁ、さっき阪上さんから聞いたよ。で? それがどうしたんだ? つか、七夕ってめでたいのか?」太陽はスマートフォンを操作しながら素っ気なく答えた。

「はぁ? おまえ、これがどんなことだかわかってんのか? 一流ミュージシャンにも負けない数字だぞ? しかもデビューしたてのペーペーの俺達が!」

「だからそれがどうしたって言ってんだよ。だいたい、広島のライブ映像だって五十万オーバーだろ? 下地は出来てんだから、そのくらいの数字は別にビビることじゃねぇじゃん。そうだなぁ……、そんなに鼻の穴をおっぴろげて驚くのは、一千万回を超えてからだな」

「一千万! おいおいおい、ずいぶんでかく出たじゃねぇか。そんな数字は超一流ミュージシャンだって簡単なことじゃねぇぞ?」

「いいんだよ、そんくらいの数字を目標にしといた方が。やりがいも生まれるだろ? っていうか、そんなことよりもっと大事な話、おまえ聞いてないのか?」

「へ? 大事な話? いや、何も聞いてないけど……」

「今朝、無事に産まれたってよ、千秋。二千九百グラムの女の子だって。だから今日のレコーディングは中止。さすがに康介も社長も来れないからな。っていうか、早くディレクター雇えってんだよ。社長自らディレクターやってるレーベルなんてどこにもないぜ?」

「そうか! 無事に産まれたか! いやいや、こりゃめでたいな。そうかそうか、そんじゃ、あいつもこれから忙しくなるんだろうなぁ。っておい、中止なら、なんでその連絡が俺に来てないんだ? 無駄足食っちまったじゃねぇか!」

 その時、夏妃がスタジオに入って来た。「あっ、拓人さん! ここにいたの? 朝から何回電話しても繋がらなくて……」

「はぁ? なんだよそれ、俺は電話なんかもらってねぇぞ? どうなってんだよ!」拓人はイライラを露にしながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。が、その直後、バツの悪そうな顔に変化させる。「夏妃ちゃんゴメンね。電源入ってなかった……」

「でしょ? 何回掛けても例のガイダンスしか流れないんだもん。そんなことだろうと思ったわよ! いつでもちゃんと連絡取れるようにしといて下さいね!」

「はい……」両腕を組んで仁王立ちしている夏妃に、拓人は素直に頭を下げた。

「あっ、そう言えばタイちゃん聞いた? ミステリアスムーンのPV、ユーチューブで百万再生超えたってよ? すごいじゃん! まだ一か月も経ってないんだよ?」夏妃はキラキラした表情で言った。

「なんだ、おまえもその話か……」太陽はうんざりした様子で話を繋いだ。「あのな、その話はオレも別に嬉しくない訳じゃないけど、あんまり興味ないんだよな。映像を見てファンが増えるのは嬉しいことだけど、その映像だけで満足しちゃうやつだって少なからずいる訳じゃん? オレ達はバンドマンだから、やっぱライブに一番力を入れたいんだよ。映像よりも、現場で満足してほしいんだよな」

「ほほぉ、そりゃまぁ確かにごもっともな考え方だな。だけどな、俺達は音楽で飯を食って行く訳じゃん? もうそれは始まってることなんだよ。少しは金になる方向を考えたっていいんじゃねぇか? ユーチューブだって結構な売り上げになるらしいぞ? それに映像を見てファンが増えてくれた方が、CDだってバンバン売れるし。そしたらほら、ライブの客だって増えるに決まってるじゃねぇか。一石二鳥だよ。それに、でかいホールで演れるようになったら、そこでもまた売り上げがドカンと出て来る訳だし」

「おまえは金の話ばっかりだな……」太陽はため息をつきながら話を繋いだ。「わかったよ、その再生回数を気にしとけばいいんだろ? ったく、めんどくせぇな。でもまぁ確かに、少しは金を稼がねぇと、いつまでもあんなボロ事務所じゃカッコつかねぇからな。それに、いいディレクターも雇ってもらわねぇといけねぇし」

「あぁ、そう言えばそのディレクターなんだけど……」夏妃が思い出したように口を挟んだ。「なんか、社長がCミュージックからすごいディレクターが移籍して来るって言ってたよ? 社長が昔いた会社の後輩なんだって。でもね、これでCミュージックとは完全に犬猿の仲になるなんて言って笑ってたけど、大丈夫なのかなぁ……。あっちは大手だし、そういうのって御法度なんじゃ……」

「えっ? マジ? それってあんまりよろしくないんじゃねぇの? 俺はあんまり業界のことはわかんねぇけど、出る杭は打たれるみたいに、潰されちゃったりするんじゃねぇのか?」拓人が不安な顔を見せた。

「大丈夫だろ? あの社長、あぁ見えて結構肝が据わってるからな。オレ等が知らねぇだけで、あの人はこの世界じゃ名の通った人だったらしいし。それに……、Cミュージックならなんてことねぇよ。あそこの会長とウチの親父、昔っからの飲み仲間だからな。しょっちゅうお互いの家を行ったり来たりしてるよ。オレもなんとなく顔見知りだしな」太陽は笑顔で言った。

「えっ?」

「なっ!」

 夏妃と拓人は、そろって絶句してしまった。

「なんだよ! そんなの俺は聞いてねぇぞ? そんなコネ持ってんなら最初からCミュージックに潜り込めたじゃねぇか!」

「だから前にも言っただろ? オレはコネとかそんなのは嫌いなんだよ。千秋だって同じ考えだぜ? いいじゃねぇか、ちゃんとデビュー出来た訳だし」太陽はにっこり微笑みながら立ち上がり、夏妃に顔を向けた。「さてと、そろそろ行くか。早く行かねぇとあの店、意外に混んじまうからな」

「そだね、そろそろお昼だし。もしかしたらもう満席かもよ? あっ、ご飯の後は千秋さんのとこ行くんでしょ? なんかお祝い買って行かないと……」

「え? おまえ等飯食いに行くのか? じゃぁ俺も……」

「いや、今日はダメだ。ほら、今日はこいつの仕事がぽっかり空いちまったから、ちょっとあれだよ、ほら、なんつぅのかな……」

「そっ! 今日はこれから、アタシとタイちゃんはデートなの。じゃ、そういうことでまた来週ね」夏妃は太陽の左腕に自分の右腕を絡ませると、拓人に向かってにっこり微笑み、出口へと向かった。

「あっ、おいっ、ちょっと待てよ! そりゃどういうことだ!? って言うか、まさかおまえ等……」

「さぁな……」太陽は背中越しに拓人に向かって右手を上げると、夏妃と二人、ドアの向こうへと消えて行った。


 その声を聴いた瞬間、ランディはある一人のボーカルを思い出さずにはいられなかった。心臓をぶち抜くような声、魂を取り込むような表現力、そこにいるすべての人間の意識を完全に吸い取ってしまいそうな鋭い視線。

「いやいや、リョウさん、言うことなしだよ! あんたすげぇな!」

「そうかい? いや、俺もバンドで歌うなんて超久々なんだけど、最近、すげぇバンドが日本に現れてさ。俺ももういい歳なんだけどさぁ、英語じゃなんて言っていいのかわかんないけど、昔取った杵柄きねづかって言うのかな、負けてらんねぇなって思っちゃったんだよね」

「あぁ知ってる。それはミステリアスムーンのことだろ? そりゃぁそうさ! なんたって、俺が昔惚れ込んだ男がボーカルをしてるバンドだからな!」

「ほぉ、あんたはあのボーカルと知り合いなのかい? じゃぁあの声を生で聴いたことがある訳だ。そりゃぁ羨ましい。俺は日本人だけど、もう十年近く帰ってないからなぁ」

「それなら、このギターのハルトがそのボーカルの親友だよ。なんでも、ホントはあそこのギターはこいつがやるはずだったって話だ。だろ? ハルト」

「あぁ、確かに。でも、結果的に今の体制がベストなんじゃねぇか? 聞いた話じゃ、あと何か月かしたらあの女が復帰してツインギターでやるらしいし」

「おぉ、あのレスポールの女か。そりゃすげぇな! って言うか、あのバンドには天才がそろいすぎだぜ。今のギターだって半端じゃねぇからな」ランディは、まるで自分のバンドのことを語っているかのような口振りで言った。

「それはそうとリョウさん。これはたぶん、って言うか、まず間違いないって俺は思ってるんだけど……」春人はそこで言葉を切ると、その歌声を聞いた瞬間から自身の中に生まれた、限りなく確信に近い疑問を話し出した。「リョウさん、あんたは、いや、あなたはプロミネンスの凌さんですよね?」

「おっ、嬉しいねぇ。こんな異国の地で、俺の事を知ってる人間がいるなんてさ。しかしまぁ、なんでわかっちゃったんだい? 髪だって髭だってこんなにボーボーで、昔みたいな好青年的な爽やかさはまるでないのに」凌は笑顔で言った。

「俺が音楽を始めて、最初に心を惹かれたのがプロミネンスです。確かに、俺が初めて観た時にはすでに太陽さんのボーカルだったけど、その時にプロミネンスの情報は隅々まで調べましたよ。心臓を鷲掴みにされましたからね。そこでそれ以前の音や映像を観てたら、凌さん、今度はあなたが俺の心臓を鷲掴みにしたんですよ。俺が思うに、太陽さんと変わらないレベル、いや、それ以上のものかもしれない。だから今日、初めてあなたの声を聞いた瞬間に確信しましたよ。ちゃんと鷲掴みにされましたからね」

「えっ? それは……あのプロミネンス……だよなぁ。えっ? リョウさんそうなのか? あんたはあのバンドでボーカルをやってたのか?」ランディは目を丸くしながら言った。

「バレちゃぁしょうがない。って言うか、別に隠してないけどな。しかし嬉しいこと言ってくれるねぇ。何年振りだろなぁ、その鷲掴みにされたって言葉。バンドマンにとって最高の誉め言葉だよな。だから結局の話、それが原因なんだよ、今回俺がオーディションを受けに来たのも。あいつが俺の心を鷲掴みにしちまったせいなんだよな」凌は瞳に熱いものを灯らせながら言った。そして缶コーヒーを一口飲むと、遠い目をしながら話を繋いだ。「いやな、俺が大学生の頃、一年生にすげぇかわいこちゃんがいたんだよ、色白でまん丸の目をしててさ。俺はなんとかゲットしたくてさ、あの手この手で近付いたんだけど、複数で飯を食いに行くのが精いっぱいだったな。なんか惚れてる男がいたらしくてさ。そんな時に俺のアメリカ留学が決まってな、バンドのボーカルの後釜を探してくれって、そのかわいこちゃんに頼んだんだ。そしたらその子、お勧めの人材がいるって言うんだよ。だから拓人に、あぁ、ドラムのやつな。あいつにカラオケとか連れてってポテンシャルを査定して来いって言ったんだ。そしたら極上で完璧だって言うから、俺は安心してアメリカへ旅立ったって訳だ。なんつったっけ?あいつ。あぁ、太陽だっけか? おっと、悪い癖が出ちまった。ちっとベラベラと喋りすぎたな」

「いやいや、そんなことないよ。俺達もタイヨウには興味があるからな。そう言えば、今のミステリアスムーンのギターとドラムもあんたと組んでたんだろ? そこにあんたのボーカルが乗ってたんなら……、そうか、そりゃぁハルトが心を鷲掴みにされる訳だ。改めて言うよ、リョウさん。ライフボックスへようこそ! あんたは合格だ! これからよろしく頼むよ!」ランディは右手を差し出した。

「あぁ、こちらこそ頼むよ。よっし、そんじゃぁ海の向こう側のやつらを鷲掴みにしてやろうぜ!」凌も右手を差し出し、ガッチリと固い握手を交わした。


 時は流れ、それから四つの季節が過ぎ去り、再び太陽の季節が訪れた。

 梅雨が明けたばかりの空は底知れぬ青さを映し出し、ギラギラと照り付ける太陽は、その偉大なる光を紫外線という形に変えて容赦なく攻撃して来る。

「なんなんだよこの暑さ、ここはスキー場じゃないのかい? いくら夏だからって、こんな山奥でこの暑さって……。まだ午前中だぜ?」拓人が額から珠のような汗を流しながら言った。

「夏なんだから暑いのは当たり前だろ? せっかく夏なんだから、暑くなきゃもったいないじゃねぇか」太陽は青空を見上げながら、爽やかな顔で言った。

「いや、ダメだ、暑い。なぁ太陽、やっぱホテルに戻ろうぜ? いいじゃん、部屋にケータリング持って来てもらえば。どうせタダなんだし。この暑さでこれ以上歩くのは、もはや修行の域だぜ?」拓人の表情は、駄々をこねている子供そのものである。「でもあれだな、楽屋がホテルの一室ってすげぇよな。しかもなかなか立派な部屋だし。しかし……なんでまた急に焼肉なんだ?」

「へっへっへっ、実はな、ここにすげぇ美味い焼肉屋があるんだよ。藤きちって言って、この辺のホテルの従業員も……、あっ、ほら見えて来た!」

「って言うかタイちゃん、夏妃さんと千秋はどこ行ったか知らない? さっき打ち合わせが終わったとたん、”真夏”を連れてどっか行っちゃったんだよ。まったくこんな炎天下の中、いったい何を考えてんだか……」康介が困り顔で言った。

「あぁ、朝からオブリントパスって騒いでたから、ステージの方に行ったんじゃねぇか? あのバンド、カッコいいもんな。あとなんか、夏妃はライフボックスのサイドギターと知り合いらしいんだよ。同じステージだろ? 両方とも」

「あぁ、春人のバンドのもう一人のギタリストでしょ? なんだ、それなら春人と一緒に夕飯食べる約束してるんだから、その時でいいじゃん! まったく、俺達は遊びで来てるんじゃないっつぅの! 仕事だよ、仕事! つか、まさかバックヤードじゃなくて会場に行ったんじゃないだろうな? あんな人混みの中、赤ん坊連れて歩き回ったら……」

「かもな。オブリントパスってホワイトステージのトップバッターだろ? もう始まってるじゃん。確かその後は二時くらいにライフボックスが演るはずだ。俺も会場で観たいって思うくらいだから、まぁたぶんあの二人もそうだろうな。特に千秋はパンクバンドオタクだし」

「俺達四時からだろ? 三時前には部屋に迎えが来るって言ってたぜ? まぁ、直接ステージに行くとしたって、あいつ等そんなの観に行ってたら間に合わねぇんじゃねぇか? って言うか、俺達ロッキー・ア・ゴーゴーだろ? ホワイトステージって結構離れてるんじゃなかったっけ? ほら、これ見てみろよ」拓人は会場の案内図を広げた。

 それによると、二つのステージはメインステージであるグリーンステージを挟んで、それぞれ会場の両サイドに位置している。直線距離にして約六百メートル程だが、その人混みの中、ベビーカーを押しての移動となると軽く三十分はかかってしまうだろう。

「まぁ、スタートまでに間に合えばいいんじゃね? 最悪、ギターは日比野さん一本でも行けるし」太陽は意地悪そうな笑いを見せながら言った。「だけど夏妃は別だ。あいつはマネージャーって立場をまだわかってねぇみたいだな。まぁ確かに、正式にはマネージャーじゃなくて担当者って肩書だけど、スタッフやらローディーにえらい迷惑かけちまうんじゃね? あーあ、オレは知らねぇぞ? 後で社長にこっぴどく叱られるぜ?」

 

 フジロックフェスティバル。毎年七月の終わりの週末三日間に行われる、世界200組以上のミュージシャンが揃う日本最大規模の野外音楽イベントである。前夜祭を含め、およそ延べ十三万の人間がステージに向かって熱い魂を放出する。

 その世界的に有名な音楽フェスに、太陽率いるミステリアスムーンと、春人がギターを務めるライフボックスは、その前年の活躍の大きさが主催者の目に留まり、堂々と初出演を果たすのだった。


「はぁっ! よかったぁ、間に合った!」顔を真っ赤にした夏妃は、額に大粒の汗を浮かべながら言った。「すごい人混みでさ、どこ行っても人、人、人だらけ。ベビーカー押しながらすごい走ったよ」

「はぁ? どこが間に合ってんだよ! もう三時十五分じゃねぇか! 三時には入れって言われてただろ? 聞いてなかったのか?」太陽は真剣な顔で、夏妃を叱るように言った。

「ごめんゴメン。でもこれでも春人君のバンド、途中で切り上げて来たんだよ? ちょっとは多目に見てくれても……」

「いい訳してんじゃねぇよ! おまえ、自分の立場わかってんのか!? おまえがいなかったら何していいかわかんねぇスタッフだっていっぱいいるんだよ! それに千秋、おまえもだ。今日がオレ達にとってどんな日かわかってんだろ? スタッフやローディー達がオレ達を盛り上げるために頑張ってくれてんのがわかんねぇのか?」太陽は珍しく、目を見開いて大きな怒声を上げた。

「まぁまぁ、そんな怒んなって。いいじゃねぇか、別にライブには影響ないんだから。今からそんなにカッカしてっと、おまえ自身がライブに影響しちまうぞ? サビの途中で声が裏返っちまっても知らねぇぞ?」拓人がにやけ顔で言った。

「確かにそうだね、アタシが甘かったよ。ちょっとこの会場のお祭り気分に浸りすぎたね。ホントにごめんなさい」夏妃は素直に頭を下げた。それと同時に、隣にいた千秋も連られるように頭を下げた。

「頼むぜ? 今日はこれだけの人数を前に演るんだ。真剣さを欠いたら客達に申し訳が立たねぇからな」太陽は白い歯を覗かせると、ベビーカーに歩み寄り、赤ん坊を抱き上げた。「ほらほら真夏ちゃん、暑かったでちゅかぁ?」

「はぁ? タイちゃん……、さっきの態度とかなり矛盾点があるんだけど……」

「……。おまえ、そんなキャラだったっけ?」拓人が白い目で太陽を見つめた。

「いいんだよ。オレは何よりもこいつを待ってたんだから。この子を抱くとさ、なんかすげぇ心が落ち着くんだよ。わだかまりみたいなのがすぅっと消えてく感じでさ……。きっとこの子には、なんか特別な能力があるんだろうな。だからほら、オレはライブ前にいつもこいつを抱いてるだろ?」

「まぁ……確かに、言われてみればいつもそうかも。でもそれはたぶん、やっぱりあれなのかなぁ……、アネキと血が……。あっ、いや、なんでもない」康介は慌てて言葉を取り消した。

 そんなやり取りを聞いているかのように、真夏は太陽の腕の中でとびっきりの笑顔を見せていた。

「こいつはこんなちっちゃいのに、ステージの袖からいつもオレ達にパワーを送ってくれてるんだぜ? まん丸の目でニコニコ笑いながらさ。きっとオレ達の音楽が好きなんだろうな。おまえ等も感じるだろ? こいつのパワーを」太陽は笑顔を真夏に向けながら言った。「さてと、もうちょいで出番だな。今日は世界中の超一流のすげぇバンドが集まってる、これ以上ないくらいの大舞台だ。オレ達はルーキーだけど、そんなのは関係ねぇ。オレ達の音が世界中で一番カッコいいってことを、ここの観客達に教えてやろうぜ! 初っ端からガツンとかましてくからな? みんな頼むぜ?」

 メンバー達は真剣な顔でその声に頷いた。


 それからさらに季節は流れ、万人に分け隔てなく新しい年が訪れ、さらにそれから二十日程が過ぎ去った。

 一月も中旬を過ぎ、一年で一番寒い日とされる大寒を迎えたが、今シーズンは雪も降らず、何日も晴天の日が続いている。寒さに弱い太陽にとっては、それはとてもありがたいことだった。

「こうやって車に乗ってるとさ、陽の光がポカポカして気持ちいいよな。この冬はこのままずっと晴れの日が続いてくれればいいのに」太陽は優しい光を注いでくれる太陽を、車の窓越しに覗き上げた。

「でも今日は天気、下り坂でしょ? 天気予報は夕方からぐずつくって言ってたし。何気に気温は低いから、もしかして雪になっちゃったりして」夏妃は笑みを浮かべながら運転席の太陽を見つめた。

「えっ? そりゃぁちっと困るなぁ。積もっちゃったりしたら、今日の客達がかわいそうだろ? 今日の会場、いったい何人入ると思ってんだ?」

「大丈夫でしょ? 雪マークなんてついてなかったし。あっ、そこの信号右だよ」


 フジロック後のミステリアスムーンの活躍は凄まじいもので、CDやMVを出せば必ず驚異的な数字を叩き出し、ライブを催せばチケットは即日完売という有様だった。太陽の意向でテレビ出演などはすべて断っているが、そのオファーの数も数え切れない程になっている。

 そんな状況の中、オータムレコードは新しい社屋へと引っ越し、それを機にマネジメント部門を設立するのだった。それはもちろん、ミステリアスムーンの驚異的な活躍により、バンドと会社それぞれに破壊的な忙しさが押し寄せた結果である。

 その新体制となったオータムレコードの最初の大きな仕事が、その日を含め二日間で開催されるライブコンサートだった。

 さいたまスーパーアリーナ。さいたま新都心駅に隣接する国内最大級の多目的ホールであり、収容人数は最大で約三万七千人を誇る。国内のトップアーティストはもちろん、世界的に名を馳せている海外アーティストが数多く出演していることでも知られている。


「さてと、今日も気合入れてガツンと行くべ! ウチのバンドにとって初のツーデイズだからな。チケットも即日完売だったらしいし、会社もウハウハだろうからな」拓人が意味あり気な笑顔で言った。

「また金の話? どうせ自分のギャラのことを考えてるんでしょ? そんなことより大丈夫なの? 今日からギター一本なんだからね? 曲の入りのところとか、ソロの出口の部分とか、あたしが厚みを増す分、今までみたくスネアとシンバルでジャンジャカやるのは無しだからね? 今までとはちょっと違うんだよ? ちゃんと覚えて来たの?」千秋が心配そうに聞いた。

「なんだよ、その疑問符の塊。一つの台詞でいったい何個使ってんだ? あのなぁ、俺が何年ドラム叩いて来たと思ってんだ? 大丈夫だよ、ちゃんとイメージして来たし。リハで何回かやれば完璧だな。それにしても、おまえってそんなに心配性だったっけ? ははぁ、やっぱ母親になると、いろんなことに気を配る癖がついて心配性になるんだな、きっと」

「でも突然だったよね、日比野さん。まさか去年いっぱいで辞めちゃうなんて思わなかったなぁ」康介が真夏をあやしながら言った。

「まぁしょうがねぇだろ? あの人は家庭が一番なんだ。子供も生まれたし、忙しすぎるのは性に合わねぇって言ってたからな。いいじゃねぇか、別に会えなくなった訳じゃねぇんだから。それどころか、まさかスタジオミュージシャンとしてウチのレーベルに就職するとは思わなかったけどな。さてと、んじゃリハでも始めっかい?」


 十六時半開場の客席は、まるでそこに水を流し込んだようにみるみると埋まって行き、あっと言う間に満席となった。

 客席や天井、床の移動が可能で、その利用形態によって収容人数を変化させることが出来るこのスーパーアリーナは、アーティストのライブの他、バスケットボールなどのスポーツ試合、ボクシングなどの格闘技、見本市や展示会、そしてオリンピックの会場など幅広い分野で使用される。

 この日はエンドステージという陣形で、客席数は三万人分用意されていた。

 そのみるみる埋まって行く客席の様子を、康介は楽屋のモニターから眺めていた。「タイちゃんちょっとさぁ、これって……すごい人数じゃない? フジロックは……、俺達が演ったロッキー・ア・ゴーゴーは確か五千人くらいだったよね? その六倍かぁ……。なんか、すげぇ緊張して来たよ」

「ウチのお父さんは何を情けないこと言ってんの? 五千人も三万人も大差ないじゃない。どっちも大人数っていうくくりだよ。ほら、この子を抱いたら気持ちが落ち着くんじゃないの? 太陽君みたいにさ」千秋はそう言うと、康介に真夏を預けた。とたんに康介の青かった顔に赤みが差す。

「ほら見ろ。だから言っただろ? この子には特別な能力があるんだって。そんなことより康介、ここはオレ達の地元だぜ? 言ってみりゃ凱旋ライブみたいなもんなんだよ。緊張するより燃える方が当たり前の感情だと思うぜ? ほら、拓人を見てみろよ。あいつにしちゃ珍しく、ちゃんとイメトレしてるじゃねぇか」太陽は顎で拓人の方を差した。

 椅子に座り、ヘッドフォンを付けた拓人は、先程千秋に言われた部分をエアードラムでイメージしていた。そのキレのいい手足の動きは、彼の今日への意気込みが現れているように見える。

 三人の会話が自分のことだと感じた拓人は、ヘッドフォンを外し、笑顔で口を開いた。「なんか俺の事話してたか? 俺が聞こえないと思って、なんか悪口言ってたんじゃねぇだろうな?」

「違うよ。珍しく真剣だなと思ってさ。やっぱおまえも今日は燃えてんだろ? 地元でライブなんて、N以来だからな」太陽が白い歯を見せながら言った。

「まぁそうだな。いや実はさ、今日はウチのオヤジとおふくろ、そんで姉ちゃんまで来てんだよな。カッコ悪いとこ見せらんねぇだろ? 自慢の息子って思ってもらいたいじゃん?」拓人は照れながら、右手の親指を上げた。


 十八時の定刻通りに始まったライブは、序盤から白熱の盛り上がりを見せた。

 小さなライブハウスとは違い、ダイブはもちろん、トイレなどを除いて席から離れることも禁止なのだが、すべての客が立ち上がり、両腕をステージに向けて振りかざしている。ちらほらとまばらだが、中には頭を激しく振り乱している者もいる。それはきっと、生粋のパンクロッカー達なのだろう。

 その日に演奏された曲は、その次の月に発売されるアルバムを中心に構成されていたが、それまでにリリースされていた曲はもちろん、拓人の要望で、日本の初期ハードコアパンクを万人受けするようにアレンジしたもの、そしてパンクバンドオタクの千秋の要望で、パンクロックの神様、イギーポップをアレンジしたものなどが演奏された。

 それを知ってか知らずか、大多数の客達は他の曲と同じように熱い魂をステージに向けて放出していたが、その古き良きパンクロックを理解している一部の客達は、懐かしさと感動が身体中を駆け巡り、狂喜乱舞するのだった。

 そしてライブは順調に進み、中盤を少し過ぎた頃、ボルテージが最高潮付近にまで達していた太陽のMCが始まった。

 もともとMCが苦手で、どちらかと言えば嫌いな太陽だったが、真夏を抱いた後にステージに上がるようになってからは、そのトークの内容もキレも、以前のものとは比べようのない程に進化していた。ステージから見えるあらゆる方向を意識し、その魂ごと引き込みそうなグレーの瞳で客達に語り掛ける。返って来た客の反応に、今度は彼らしいオーバーなステージアクションで再び語り掛ける。そこに気の利いた千秋の短いリフが重なり、客達はさらに熱いボルテージをメンバーに送り始める。さらにベースとドラムも、短いがキレのあるフレーズで応え、ステージと客席の距離を縮める。そういったことが繰り返され、客達とメンバーの温度差が薄れ、だんだんと会場は一つに纏まりつつあった。

 一見、何気ないステージと客席とのやり取りだが、言葉一つ、リアクション一つのミスでその会場の熱気は温度を下げてしまう。ボーカルにとってMCとは、メンバーの音を背負って歌うことと何一つ変わらないのである。

 五分程度のMCのはずだったが、気分が高揚して来た太陽は、そこに熱さを求め始めていた。もちろんそれは、バンド始まって以来の大きな舞台が彼を刺激したということもあったが、やはり自分達の地元でのライブということが大きな要因であり、さらにその後に演奏される曲に対して、そう簡単にはおまえ等には聴かせないぜ? という焦らし的な要素もあった。だがその策略は見事に功を成し、さらに五分ほど続いたMCは、まるで曲が演奏されているかのように客達を熱くさせた。

 そして……。

 MCの締めくくりとして、太陽はそれまでに温めていた特別な想いを、声という音に乗せた。「今日は、ウチのバンドにとって、そしてオレにとって特別な人のバースデーだから、その人に贈る意味を込めて、天地がひっくり返るくらいの、今日一日だけのスペシャルメンバーを呼んであるぜ! 言っとくけど、オレの親友なんだぜ?」

 会場全体に、超高速で重低音を刻んだバスドラの音が響き渡った。そして鋭い刃ですべてを切り裂くような超攻撃的なギターサウンドが会場を支配し、その圧倒的な存在感を前面に出した一人の男が、ステージの右袖から黒いストラトキャスターを抱えて現れた。同時に太陽が左手でマイクを握り締め、右手を天高く突き上げたまま顔を真上に向け、歌声とも叫び声ともつかない情熱的な音を吠え上げる。そして五臓六腑をえぐり取るようなベースの低音が重なり、そこにすべてを柔らかく包み込むようなレスポールの音が重なった。

「みんなも知ってるよな! いや、知らねぇやつなんかいねぇよな! オレがこの世で一番リスペクトするギタリスト、ライフボックスの春人!」

 会場は一気に異次元へと加速して行った。

 それまでちらほらとしか見えなかったはずの頭を激しく振っている客達が、最前列の客を筆頭にそこら中に溢れ出す。涙を溢れさせながら両腕を振りかざしている少女が見える。声の限り熱い声援を送っている少年も見える。小さなライブハウスのように、身体中を使ってビートを表現しながら暴れている客も見える。そしてダイブを試みようとして、スタッフに取り押さえられている客も見える。

 太陽の瞳に映り込むそれらの客の反応は、さらに彼の心を刺激し、燃え上がらせ、熱いなにかを与えるのだった。その証拠に、彼は今までに感じたことのない、覚醒という言葉では到底追いつくことの出来ない、究極のハイエナジーという域に達していた。会場には熱狂という名の雨が降り注ぎ、情熱という名の風が巻き起こる。メンバーもそれを刻銘に感じ取っているのだろう。それぞれの楽器からは、それぞれの熱さが究極の音となって響き渡っている。もっと熱いものを、もっと激しいものを、そしてもっと燃え上がるようなものを……。メンバーを含め、そこにいる三万の人間達が、音に対する快楽の向こう側にある、究極のエクスタシーを求め始めていた。そして……

 空間全体を刃のように切り裂いていた春人のギターが突然、完全な無を表現した。そこに康介のベースが、まるで地獄を思わせるような超低音の高速のリフを奏で上げる。その直後、拓人の神業的なスティック捌きが空間を支配し、同時に天国を思わせるような千秋の超高速のギターソロが響き渡った。再び春人が音を奏で始める。超高速で奏でられたその音は完全に千秋の音とシンクロし、瞬く間に異次元へと走り始めた。究極の和音を奏で始めた二つの弦楽器は、そこにいるすべての人間の聴覚中枢にダイレクトに入り込み、すべての意識を魅了し、快楽の世界へと誘う。二人のギタリストは互いに己の宇宙を感じ始め、まるでこの世の創造を表現しているようだった。

 そして曲の後半に向け、ステージと客席との一体感はさらに加速して行った。

 曲が通常のリフに戻るのと同時に、太陽の声が空間を渦巻く情熱的なバンドの音と重なった。その瞬間に自身のボルテージを完全に開放し、暴れ出す客が急増した。頭を激しく振り乱す者がそこら中に溢れ出し、また再びステージの端からダイブを試みようとする者が何人も現れる。まるでいたちごっこのように、そのたびにスタッフがそれを止めようと走り回る。情熱の表現の仕方はそれぞれ違うが、音に対する究極の欲求は、そこにいる全員が寸分狂わず同じ方向を示していた。

 曲が変わっても客達のボルテージはまったく衰えることを知らず、会場は完全に一体と化していた。大部分を占めているロック好きの若者達はもちろんだが、まだ幼さの残る小学生や、初老と見受けられる客達も両腕を振りかざし、興奮と感動を身体中で表現している。春人を加えたミステリアスムーンの、超攻撃的で超情熱的な神がかり的な音は、一般的な音楽ファンでさえも生粋のパンクロッカーへと進化させてしまうらしい。


 そして究極の音を奏で続けたステージは終焉を迎え、会場からの熱狂と興奮、そして感動と称賛の込められた無数のアンコールの声が響き渡った。

 ステージ中央では、キラキラした笑顔の太陽と、同じように最高の笑顔をたたえた春人が、互いにそのステージでの最高のパフォーマンスを讃え合うように熱い抱擁を交わしていた。拓人と康介、そして千秋も、これ以上はないくらいの達成感と充実感を胸に、爽快な笑顔でステージ中央の二人の天才を見つめていた。

 そして、これこそが史上最高のパンクロックだと、そこにいるすべての人間の胸に刻み込んだ最上級のステージは、究極の熱狂と感動と共に幕を閉じた。 

 ステージの袖では、夏妃と真夏が満足そうに、まん丸の瞳でとびっきりの笑顔を見せていた。

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