第9話 秋
「千秋、どうだ、たまには一緒に食事でもしないか」久彦は、久し振りに顔を会わせた娘に、精一杯の笑顔を作りながら話し掛けた。
「ごめん、今日はスタジオでリハがあるから……」靴をはき、今まさに家を出ようとしていた千秋は、背後から聞こえて来たその声を振り切るように、抑揚のない声で答えた。
千秋は自分の父親と、必要以上に接点を持つのを避けていた。それは一般的な、年頃の娘が父親に抱く感情とは根本的に違ったもので、もっと生理的な心の根深い部分にある、普通の人と違った感情が彼女をそうさせていた。
物心付いた時から、音楽関係の会社の役員をしている父親と、住み込みのお手伝いの三人で暮らしていた千秋は、ある時期まで母親の顔を知らずに育った。母親がいない分、父の久彦は彼女をとても大切に育て、その期待に応えるように、千秋も素直で心のやさしい少女へと育って行った。
そんな千秋の心に変化が現れたのは、彼女が小学一年のある日のことだった。それは彼女の叔父の結婚式でのことである。
酔った親戚達が、トイレのために席を立った久彦のいない間に、そこに千秋がいるにも拘わらず、心無い会話を始めたのだ。
「ねぇねぇ、知ってる? あの人いるじゃない、ほら、久彦の。そうそう、雪乃さん。あの人ね、千秋ちゃんを産んだ次の年には、もう違う人と結婚したんだって。それでその次の年の春には子供も産まれたって話よ? まったく、どういう神経してんのかしらね。いくら久彦と籍は入れなかったからって、千秋ちゃんを押し付けといて、さっさと自分の幸せを手に入れちゃうなんてさ」
「えぇっ? ホントかそれ? でも、あの二人が別れたのは久彦に原因があるって話だから……」
「ちょっと、やめなさいよ、二人とも。千秋ちゃんが見てるわよ?」
この親戚達の会話は、幼いながらも感受性が強く、頭の賢かった千秋に、強烈な嫌悪感とショックを与えた。そして父親に対する不信感と、まだ会ったこともない母親に対しての憎悪が、小さな心の中に沸々と生まれ、まだ幼い彼女の心を侵食し始めるのだった。
「おとうさん、わたしにはどうしておかあさんがいないの? わたし、おかあさんにあいたい……」それから何日かたったある日、千秋は父親に突然、こんなことを言った。それは父親への精一杯の反抗心と、まだ見ぬ母親への軽蔑感が出させた言葉だった。
だが実際、一度だけでも母親に会ってあまえてみたいという気持ちもなかった訳ではない。まだこの時、千秋は六歳なのである。実の母親に愛情を求めるのは当然の事だろう。
この千秋の台詞は、久彦にとってとても重い言葉だった。実際、千秋が生まれた後、しばらくして久彦のもとを去って行った雪乃には、その後一度も会っていないのである。子供が会いたいからと言って、簡単に会いに行ける状況ではないのだ。それどころか、籍を入れなかった理由も、二人が別れることになった原因も、当人同士以外では解決の出来ない、とても奥の深いものだったのである。
「千秋のお母さんはね、とっても遠いところにいるんだ。だから簡単には会いに行けないんだよ」久彦は、そう言ってごまかすしかなかった。
だが、そんな状況をまるで神が見ていたかの如く、その瞬間は突然やって来た。久し振りの休日に千秋を連れ、久彦がショッピングモールを訪れたある日のことである。
最上階にあるゲームコーナーで、久彦は、千秋が同年代の姉弟らしい二人と仲良くなって遊んでいるのを、ベンチから微笑ましく見つめていた。やはり子供同士というのは心が無垢なせいだろうか、まるで過去からの知り合いのように、あっという間にお互いに心が打ち解けている。うまく自分を表現しなくとも、その場の空気でお互いのことをわかり合えてしまうらしい。
そんなことを考えながらしばらく経った頃、千秋がその子達を連れて目の前にやって来た。
「おとうさんあのね、このこたち、なっちゃんとはるくんっていうの。おともだちになっちゃった」
満面の笑みの千秋が紹介したその子達は、やはり姉弟のようだった。おそろいの赤いシャツを着て、よほど仲がいいのだろう、手をしっかりと繋いで千秋の脇に立っていた。
女の子の方は千秋と同い年くらいだろうか。目をきらきらさせて、可愛い笑顔を久彦に向けている。男の子の方は千秋よりも一つ二つ下だろうか、芯の強そうな凛々しい顔をしていた。
「こんにちは。ウチの千秋と友達になってくれたのかい? どうもありがとうね。今日は二人で来たのかな? お母さんは?」久彦は頭を低くし、目線を合わせて二人に話しかけた。
「うぅん、おかあさんときたの。おかあさんはあそこにいるよ?」弟の方が、ゲームコーナーを挟んだ反対側の方に指を向けて言った。
久彦は、男の子からその指先の方向にゆっくりと視線を移した。が、そこにいる見覚えのある人物を視界に捕らえた瞬間、彼は驚きを隠せず、思わず声を漏らしてしまった。
「雪乃……」
「えっ? おじさん、おかあさんのことしってるの?」突然、自分の母親の名前を知らない人が、しかも呼び捨てで呼んだことで驚いたのだろう。姉の方が、目を丸くしながら大きな声を上げた。
「えっ? あぁ、いや、うん、ちょっと知ってる人かな? あっ、もうこんな時間だ。さぁ千秋、もう帰るぞ」久彦はそう言うと、千秋の手をとり、足早にその場を離れようとした。
だが、その姉の大きな声が耳に入ったのだろう。ゲームコーナーの反対側から、娘を不安に思う雪乃の声が飛んで来た。
「なっちゃん? どうしたの? 誰と話してるの?」
その場を離れようとした久彦と、自分の子供達のそばに駆け寄って来た雪乃は、まるで自動車の出会い頭の事故のように、まともに顔を会わせてしまった。
「そう、あなたはまだ一人なんだ……」缶コーヒーを一口飲んだ後、雪乃がぽつりと呟いた。
「あぁ……。だけどおまえは幸せそうだな。あんなに可愛い子が二人もいて。あの子は……女の子の方は旦那さんの子か?」久彦は、すぐ脇にあるゲームコーナーで遊んでいる三人の子供達に目をやりながら言った。
「うん。夏妃っていうの。とっても活発な子でね、なんにでも興味を持っちゃってもう大変。目を離すと、すぐどっか行っちゃうんだから。それにしても……千秋は大きくなったわね。元気そうでなによりだわ……」
「あぁ、とても素直ないい子に育ってくれたよ。おまえに似て、利発で手先の器用な子だしな。そうそう、男の子達と公園で遊ぶのが大好きなんだよ」久彦は優しい目を雪乃に向けると、左手で頭を掻きながら言った。「それはそうと……、あの男の子はおまえの産んだ子なのか?」
「うん、春人っていうの。春に生まれたから春人。まだ五歳になったばかりなんだけど、すごく感性の豊かな子なの。すごいのよ? 次々と最新の音楽なんかを聴いたりして」雪乃は、千秋と無邪気に笑い合っている春人を見ながら、嬉しそうに話した。
久彦は、そんな雪乃の表情に嬉しさを感じると共に、なんとなく切なさに近い感情を抱いた。それはもしかしたら、嫉妬という感情に近いものなのかもしれない。彼はそんな感情を振り切るように大きく深呼吸をすると、腕を組みながら口を開いた。
「そう言えば実はな、千秋がこの前突然、お母さんに会いたいだなんて言い出したんだよ。まさか、あの子の口からそんな台詞が出てくるとは夢にも思わなかったから、どうしていいかわかんなくなっちゃってさ」久彦はにっこりと微笑むと、雪乃をまっすぐに見つめ、話を続けた。「でもまさか、こんなところでそれが実現しちゃうなんて夢にも思わなかったよ。どうなんだろ? あの子にこの人がお母さんだよって言うべきなのかな?」
「それは……どうかな? 普通に考えたって、それがあの子のためになるとは思えないわ。それどころか、自分の母親が違う人と結婚してるなんて知ったら、あの子はまだあの年だもん、きっと心に深い傷がついちゃうわよ。それに、せっかくああやって仲良しのお友達が出来たっていうのに、それが実は姉弟だなんて知ったら……」雪乃は、ゲームコーナーで楽しそうに遊んでいる子供達に目をやりながら、難しい顔を作って言った。
「まぁ、普通に考えたらそうだよな。俺も当たり前だけどそう思うよ。だけどな、あの時の切実な千秋の目を思い出すと、なんかこう、なんとかしてやりたいって気持ちが湧いて来るんだよな。なんだか、まだあんな年なのに、何でも見透かしてるような目付きでさ」
「でも……やっぱりそれはダメよ。やっぱりあの子のために……。少なくとも、あの子が自分でちゃんと物事を決められるくらいの年にならないと……。あっ、じゃぁこういうのはどう?」雪乃はまるで少女のように瞳を輝かせると、両手をパチンと合わせて話を続けた。
「せっかくああしてあの子達も仲良くなったことだし、時々あの子だけ私のところへ遊びに来させるっていうのはどう? もちろん私が母親だってことは伏せておくけど、その時ぐらいは私、母親のように接するわ。ウチの子達も喜ぶだろうし。それに――やっぱり私もあの子に会いたいし……」
そんなやり取りを余所に、ゲームコーナーの片隅では、千秋が愛情と憎悪を混ぜた瞳で、静かに雪乃を見つめていた。
『あのひとが……ゆきのさん……。わたしのおかあさん……』
父が不用意に漏らしたその名前、結婚式の場で親戚達が交わしていた言葉、その二つを照らし合わせ、千秋はその小さな胸の中で、まだ自分でも開いたことのない未知の感情を少しずつ育て始めていた。
それからの千秋は、たびたび夏妃と春人のいる水野家を訪ねるようになった。相沢家から車でおよそ十分程の距離にある水野家は、住宅街の一角に立つ大きなマンションの十二階にある。一般的な家族向けの分譲マンションのため、相沢家とは違ってそれほど広くはないが、千秋はそこで楽しい一日を過ごしていた。
母親である雪乃は、もちろんその素性を明かしてはいない。だがやはり、実の娘である千秋と過ごすことは、彼女の心の中でもこの上ない楽しみの一つだった。
そんなある日のことである。雪乃は子供達と一緒に、遊び方を教えながらトランプをしていた。子供でもわかりやすい、ババヌキである。
そのババヌキを子供達はとても気に入ったらしく、勝ったり負けたりを繰り返しながら何度も遊んでいたのだが、カードの柄に興味を持った春人が何気なく放った言葉が、その場の空気を大きく変えてしまった。
「じゅういちのおとうさんがじゅうさんで、じゅうにがおかあさんだよね? ねぇ、ちぃちゃん、ぼくにおかあさんちょうだい?」
春人はクイーンのカードを捨てたくてこんな言葉を言ったのだが、この台詞は、千秋の心に育ち始めていた未知の感情に大きな刺激を与え、雪乃の心に大きな不安を与えるような強烈な台詞を吐かせた。
「わたしにはおかあさんいないもん! もうだれかにとられちゃったもん!」千秋はそう言うと、次の瞬間、雪乃を上目遣いに睨んだ。
その瞳はまるで、すべてのことを見透かしていると言わんばかりの、とても子供の目とは思えないものだった。
雪乃はその台詞と瞳に恐怖すら感じた。自分の生活、家庭、幸せ、そういったものが壊れていく錯覚さえもが頭をよぎる。
『この子は……知ってるんだわ……何もかも……』
その日以降、千秋は、まるで性格が変わってしまったようにふさぎ込むようになってしまった。もちろん、水野家を訪れるというようなこともまったくなく、学校以外に外に出ることもしなくなった。大好きだった公園にも行かなくなり、友達の誘いにもまったく応じようとしなくなった。
久彦は、突然変わってしまった千秋を心配するのと同時に、心の奥底を針でつつかれるような、そんなとても嫌な予感を感じていた。何気なく見せる魂の抜けたような表情、そして時々見せる、なにかを訴え掛けて来るような力強い瞳、そういったものが彼の心を不安にさせ、また恐怖に近い感情を与えるのだった。そしてその不安は現実のものとなってしまう。
ある日、仕事を早く終え帰宅した久彦は、玄関を開けて家に入るなり、お手伝いの素っ頓狂な声を聞いた。
「あっ、旦那様、千秋ちゃんが、千秋ちゃんが……」
ただ事ではない雰囲気に慌てた久彦は、お手伝いを押しのけ、千秋を探しに部屋の中へと駆け込んだ。
「千秋っ、千秋どこだ!」
千秋は久彦の寝室にいた。彼女の周りには、古いアルバムや手紙、日記などが散乱していて、千秋はその真ん中で、目を丸くしながら久彦を見つめ上げていた。
「何をしてるんだ、千秋!」
「すいません旦那様、それはダメだって止めたんですけど、どうしても言うことを聞いてくれなくて……」
そんなお手伝いの言うことも耳に入らず、久彦はズカズカと部屋の中を進むと、千秋が手にしていたアルバムをひったくるように取り上げた。
「どうしてこんなものを見てるんだ! こんなものはおまえには必要ない!」そう言うと久彦は、部屋に散乱しているものを押入れに放り込み、再び声を上げた。「千秋、もうこの部屋には入っちゃダメだ。ここはおまえには必要のない場所だ、わかったな?」
いつもの素直で純粋な千秋であれば、自分の非を認め、素直に一言、ごめんなさいと謝ったことだろう。だがその時の彼女は、瞳に憎しみを浮かべ、まるで子供らしくない表情をしながら、小さな声でなにかを呟いていた。
「千秋、わかったのか? わかったら返事をしなさい。それから、さっきから何をぶつぶつ言ってるんだ。そんな小さな声じゃお父さんには聞こえないぞ?」
「……っぱり、そうなんだ。……のさんは、わたしの……さんなんだ……。はるくんとなっちゃんのおかあさんは……」千秋は、まっすぐに久彦を見据えたまま視線をはずそうとはせず、憎しみの
その瞳は、人の心を見透かすような、自分の娘のものとは思えない、とても恐ろしいものに久彦には見えた。
「なっ、何を言ってるんだ。どうしてあの人がおまえのお母さんなんだ? だいいち、あの人は春人君の、夏妃ちゃんのお母さんじゃないか」
「だっていってたもん。よしのりおじちゃんのけっこんしきのとき、かわぐちのおばちゃんがいってたもん。ゆきのさんはわたしをうんだあと、ちがうひととけっこんしてこどもをうんだって」
「そっ、そんなのおまえの聞き違いだ! そんなバカなことがある訳ないだろ? 子供はそんなことに興味を持たなくていいんだ!」
「だってあるばむにもゆきのさんがうつってるもん。わたしのことだいてたもん。おとうさんもゆきのさんもうそつきだ!」千秋は憎しみを込めた瞳でそう叫ぶと、父親を突き飛ばすように部屋を飛び出して行った。
久彦はその後姿を、魂の抜けた人形のように見つめることしか出来なかった。
それからの相沢家は、まるで他人同士が暮らす家のようにひっそりと静まりかえっていた。
久彦が帰宅しても千秋は出迎えに出ることはなく、まるで他人事のように自分の部屋に籠っている。食事の時でさえも、千秋は誰とも目を合わせようとはせず、無言での食事が当たり前になっていた。
そんな千秋に対して、久彦は自分の負い目から何も言うことが出来ず、胸を掻きむしられるような、そんなもどかしい時間がただ過ぎるのを待っているだけだった。親としての威厳、そして正しい道を教えて行かなければならない立場、そういったものまでもが心から薄らいでしまったかのように、彼自身もだんだんと口数が減って行ってしまったのである。
そんな状況を久彦から聞いた雪乃は、心の中に正体のわからないモヤモヤしたものが増殖して行くのを感じていた。それは不安や危惧といった感情に近いものなのだが、その正体がわからないだけに、彼女にはどうすることも出来なかった。
大人という生き物は、そんな心境の時には決まって似たような行動をする。悩みや不安を打ち明け、聞き入れ、なおかつ共有してくれる相手を探すのである。久彦と雪乃も、そんな一般的な大人達と同様に、ある日、傷を舐め合うように顔を合わせていた。
U駅に程近い、モダンな造りのビルの一階にあるカフェで落ち合った二人は、窓際の席で重そうな雰囲気を漂わせながら話をしていた。
「そう……あの子、昔の写真を見つけてそんなこと言ったの……」雪乃は、運ばれてきたレモンティーに口もつけず、ため息を交えながらポツリと呟いた。
「そうなんだ。まったく、困ったもんだよ。それに俺の弟の結婚式の時、親戚達が何やらおまえのことを話してるのを聞いてたらしくてさ。頭の回転の速い子だから、きっとそれを繋げて考えたんだろうな」久彦は、ため息のようにタバコの煙を真上に吐きながら言った。
「えっ? 私のこと?」
「あぁ、そうらしいんだけど、たぶん俺が席をはずした時に話してたんだろうな。俺も詳しくは知らないんだよ」
「そう……。それでなのかな……」
「えっ? 何が?」
「うん、この前千秋が家に来て、子供達とトランプをしてた時のことなんだけど……」雪乃は、先日、意味深な台詞とともに恐ろしい目で千秋に睨まれた経緯を話した。その時の情景が甦り、心の奥底を苦い液体が流れて行くような気分になる。「たぶんあの子は、もうあの時点で何もかも知ってたのね。それであんな態度を……」
「それじゃぁ、春人君と姉弟だってことも気付いてるのかな……」
「たぶん……あの子のことだから……」
そんな二人を、千秋は憎しみを湛えた瞳で見つめていた。たまたまお手伝いと街に買い物に来ていた千秋は、通りを挟んだ反対側の薬局にいたのである。
『どうして……おとうさんはゆきのさんといっしょにいるの? ゆきのさんは、もうおかあさんじゃないのに……』
時は流れ、千秋は中学生になった。
夏妃と同じ学区内のため、同じ中学に進むことになるのを嫌った彼女は、都内にある私立中学に通うことを選んだ。彼女の学力を持ってしてみれば、それはまったく難しいことではなかったのである。
背が伸び、うっすらと大人の顔を身に付けた千秋は、クラスの誰よりも成績がよく、また美しさも備えていた。当然、男子からはもとより、女子からも羨望の眼差しで見つめられていたのだが、彼女には、うまく人とコミュニケーションを取れないという、この年代の頃には必要不可欠と言っても過言ではない欠点を持っていた。
久彦と雪乃のことで、幼いながらも人間不信に陥ってしまった千秋は、興味を持って親しく話し掛けて来るクラスメートにも心を開こうとはせず、毎日教室の黒板と、窓の外の青い空ばかり見て過ごした。
当然、そんな態度を続けていれば、感情がストレートな年頃の普通の中学生には面白くは映らない。
「ねぇねぇ、相沢さんってさぁ、なんか感じ悪いよね。ちょっと可愛いからって、それが偉いことだとでも思ってるんじゃない?」
そんな悪口が、教室のあちこちから聞こえ始めた頃になっても、千秋は人に対して自分の感情をコントロールすることが出来ずにいた。
同級生達との溝は、日を増すごとに深くなって行き、夏休みを迎える頃には、彼女に対して口を開く者は誰一人としていなくなっていた。
普通の、感情がナイーブな年頃の中学生であれば、孤独感や疎外感で心を傷付けられ、登校拒否や非行という行為に身を投じてしまうのかもしれない。だが千秋の心は、悲しみや寂しさといった負の感情で埋め尽くされている訳ではなかった。
――レスポール・スタンダード。その重量感のある黒いギターは、まるで千秋の心の隙間を埋めるように、いつも軽快なサウンドを響かせていた。
父親の仕事の関係で、幼い頃から様々な種類の音楽と、ギターという楽器に親しんでいた千秋は、ギターのサウンドが強調されるロックという音楽にとても興味を持っていた。
小学生の頃は、自分で楽器を弾くという発想はまったく持っていなかったのだが、中学に上がってまもなく、FMから流れて来たあるバンドの曲が、彼女の心に大きな衝撃を与えたのである。
ニューヨーク・ドールズ。ニューヨークパンクの代表とも言えるそのバンドの曲は、千秋の心に、言葉では語ることの出来ない、計り知れない程の大きななにかを与えた。特に、七十年代前半とは思えないアグレッシブなギターのサウンドが、彼女の心をえぐるように攫って行ったのである。
千秋はすぐにそのバンドのことを調べ上げ、曲と映像を手に入れると、毎日飽きることなくそのサウンドを自分の頭に叩き込んで行った。そしてそのバンドのギタリスト、ジョニー・サンダースが愛用しているレスポールに心を奪われた彼女は、自分でもそのギターを弾いてみたいという想いに駆られ、父のコレクションの中から黒いレスポールを手にするのだった。
そしてそれは夏休みが明け、二学期を迎えたある日のことだった。
放課後、千秋が下駄箱で靴を履き替えようとしていた時のことである。
「あっ、相沢さん、なんか落としたよ?」
突然、背後から声を掛けられ、千秋は驚くのと同時に身体が固まってしまった。学校内で声を掛けられるのは、先生からを除いては本当に久し振りのことだったのである。
「ほらっ、これ」そう言って千秋にギターのピックを手渡したのは、背の高い、まったく見たこともない男子生徒だった。
千秋は驚きながらもなんとか頷くと、小さな声で口を開いた。「ありがとう」
千秋は、この男子生徒が自分の名前を呼んだことを不思議に思うのと同時に、この男子生徒が誰なのかを考えた。当然話したこともなく、目を合わせるのさえも初めてだったのだが、脇に大きく“日比野”と書かれたかばんを持っていたことで、その名前だけはわかった。
彼はピックを手渡すと、にっこりと微笑み、明るく爽やかな口調で話を続けた。「俺、A組の日比野。もしかして相沢さんって、ギターやってるの?」
「えっ? あぁ、うん、ちょっとだけね……」
千秋はなぜか不思議と、この日比野の話すペースに好感を抱いた。それは異性に対しての感情ではなく、心の中のどの部分にも触れずに入って来るような、そんな彼の話し方に心地良さを感じたのである。そんな想いから、彼女は珍しく自分から口を開いた。「日比野……くん? どうしてあたしの名前知ってるの? クラスも違うのに」
「えっ? そりゃぁ知ってるよ。相沢さんは学年一の秀才だからね。それに……」日比野はそこで言いよどむと、顔を赤くしながら話を続けた。「そんなことより、ギターやってるって、どんな音楽やってるの? 実は俺もギターやってるんだ。まだヘタクソだけどね」日比野はギターを弾く仕草をして見せた。
「あぁ……うん、あたしもまだヘタクソだけど……ロックかな。洋楽の」
「へぇ、洋楽好きなんだ。んで、ロックってどんなジャンルの? 俺はパンクをやってるんだ。グリーンデイとかブリンク182とか」
「あぁ、グリーンデイ……」それは千秋もお気に入りの、ポップパンクを代表する、アメリカの超有名バンドの名前だった。「グリーンデイは……あたしも好きだよ。カッコいいよね、あの人達」
千秋のその台詞を聞いた日比野は、嬉しいという感情を溢れさせた顔を作り、身振り手振りを加えて話を続けた。
グリーンデイのヒット曲の話、国内外のパンクバンドの話、有名なギタリストの話、自分が将来ミュージシャンになりたいと思っている話など、情熱的に、本当に嬉しそうに話を続けた。
千秋はそんな日比野の話の中に、たくさんの自分との共通点を見つけ、他の同級生には感じなかったなにかを感じた。そして同時に、今まで感じたことのない、胸の奥がくすぐったくなるような温かい感情が、心の一部分を支配して行くのを感じていた。
「そんじゃさ、今度ライブを観に行こうよ! 俺、高等部に兄ちゃんがいるんだけど、その兄ちゃんもギターやっててさ、パンクバンド組んでるんだ。たしか今月の終わりの土曜日にやるはずなんだよ」
「それって……ライブハウスでやるの? あたし、ライブハウスって行ったことないんだけど……。中学生が行っても大丈夫なの?」
「えっ? もちろん大丈夫だよ。もう俺も何回か行ってるもん」
パンクロックという世界に大きな興味を持っていた千秋は、ライブハウスという場所を一度は訪れてみたいと思っていた。さらに、好感を抱いた相手が誘ってくれたことで、閉ざされていた彼女の心が少しずつ開き始め、前向きな気持ちが生まれるのだった。
「そうなんだ……。それじゃぁちょっと、考えてみる」
ということで、その月の終わりの土曜日、千秋は生まれて初めてライブハウスを訪れた。場所はライブハウスNである。
それは想像していた光景とは大きく違うものだった。
千秋が映像で見た世界、それは客達が音に酔い、頭を振りまくり、誰もがビートを身体中で表現している情熱的な世界だったのだが、今、目の前に広がっている光景は、一部を除いた客の大部分が棒立ちで、曲の切れ目に拍手を送るだけのような、そんな情熱のかけらもない空間だった。
会場には楽器とボーカルの爆音が響いているのだが、それと比例するはずの客の熱気がまったくと言っていい程感じられない。その反比例してしまった客とバンドの情熱の差が、会場を虚しさに近い空気で包んでいた。
ただし、それにはしっかりとした理由があった。それまでに出演したバンドは、あまりにもチープで、明らかな技量不足だったのだ。
『なんだ、こんなレベルでライブとかやれちゃうんだ……。あんまりあたしと変わらないレベルかも……』それは素直に千秋の心に生まれた感想だった。
実際、それまでに出演したバンドは、ジャパニーズパンクのコピーを主体としたものだったが、有名な曲をやればやる程、オリジナルとの差が歴然となってしまっていた。ボーカルの声量不足もさることながら、ギターやベースの音のずれ、しっかりとキープされないドラムのビートなど、細かいところを指摘したらキリがない程である。
『この人達は……音を大切にしてないんじゃないの? もったいないよ、音がかわいそうだよ……』
千秋は真剣にそう思った。そして、もし自分があの舞台に立つことがあるのなら、きっとあんな演奏はしないだろうと心に強く思った。
心が燃え上がらないまま時間が過ぎ、いよいよこの日のトリを務める日比野の兄がいるバンドがステージに登場した。が、ここで少し会場に異変が起こった。
ステージの右手のある階段から、次々と奇抜な格好をした客達が降りてくる。さらに、それまで会場のあちこちに散乱し、比較的おとなしかった大部分の観客が、ステージの目の前に集まり出し、まるでそれを待ち望んでいたかのように、みんな瞳を輝かせ始めたのだ。そしてメンバーがステージに揃うと、多くの歓声が上がり、あちこちから指笛が鳴り響いた。
「さっ、俺達も前の方に行こうよ。こんなところにいたんじゃもったいない」日比野はそう言うと、千秋の手を取り、ステージの前の方に進み出した。
「えっ? あぁ、うん……」千秋は手を握られたことにドキッとしたが、されるがままに日比野についていった。
そこで聴いた音は、千秋が今までに経験したことのない、胸の奥を燃え上がらせる程の素晴らしいものだった。
生の楽器の音、しかもこれ程の大音量で聴くのは彼女にとってその日が初めてのことだったのだが、日比野の兄のバンドは、先程までのバンドのただやかましいだけの音とは違い、完成されたものだと千秋には思えた。特に、空間全体を包み込むように響き渡るボーカルの声と、それを壊さないように切り裂くギターの音が、彼女の中に眠っていたなにかに訴え掛けて来るようだった。
『これがバンド……。これがパンクロック……』
それはバンドというものを、パンクロックというものを、千秋が身体で理解した瞬間だった。
どうしても音楽というものは、映像やステレオで聴いただけでは、そのクオリティは大幅にダウンしてしまう。生の音楽を体験したことのない人、例えばライブやコンサートに行ったことのない人は、きっとその素晴らしさを知らずに生活しているのだろう。
「ねぇねぇ、すっげぇカッコよくない? もう俺、全身鳥肌立っちゃったよ」隣で日比野が大声で話し掛けて来た。
それは千秋も同じことで、鳥肌どころか胸が熱くなり、うまく声を発することも出来なくなってしまっている。
「う……ん、すごい、すごいよ……。こんなの……あたし、はじめてかも……」千秋は嬉しさを湛えた瞳でそう答えると、彼女にしては珍しく、いきいきとした表情で話を続けた。「このバンド、なんていう名前なの?」
「あれっ? 言ってなかったっけ? プロミネンスっていうんだよ。あのボーカルの”凌さん”が作ったバンドなんだ。ウチの兄ちゃんと、あのベースのコウタローさん、あっ、兄ちゃんの幼馴染みなんだけど、二人とも小学生の頃から楽器やっててさ、中学に入ってすぐ、高等部にいたあのボーカルの凌さんにスカウトされたんだって。だからもう四年もやってるんだよ。カッコいいでしょ? このバンド」日比野は大声で、まるで自分がそのバンドの一員であるかの様な口振りで言った。
『そっか……プロミネンス、か……』千秋の心に、そのバンドの名が深く刻み込まれた。
それからの千秋は、日比野と共にプロミネンスのライブに欠かさず姿を見せるようになった。
およそふた月に一度のペースで催されていたライブには、千秋達と同じように毎回姿を見せる客がいて、同じ趣味のせいだろうか、彼女はそんな客達と、少しずつだが会話を交わすようになって行った。そして、なんとなくだが、ライブの回数を重ねるたびに、プロミネンス目当ての客が少しずつ増えているように彼女には思えた。
『やっぱりこのバンドって、カッコいいと思う人が多いんだ……』千秋はそう思うことで、自分の感覚が他人と大差がないのを確認し、安心するのだった。
そんなある日のことである。それはライブの帰りに、日比野と並んで歩いて帰っている時のことだった。
「相沢さん、あのさ……俺、もっと練習して相沢さんと同じくらい上手く弾けるようになるよ。そしたらさ……俺とユニット組まない? もちろんメンバー集めてバンドでもいいんだけど……」日比野は目をキラキラさせながら唐突に千秋に話し掛けて来た。
「えっ? あぁ、それは……あたしも同じこと考えてた。たぶん、日比野君とあたしは、同じ感覚で音楽が出来ると思うんだ。そういうのって、たぶん組んでやって行くためにはすごく必要なことだと思う。もちろん技術もある程度は必要なんだろうけど、そんなことよりも、もっと大切なことなんじゃないかな……」千秋も同じように目をキラキラさせながら言った。
「ホントに? それじゃぁ俺と組んでくれるの? じゃぁ俺、マジで頑張るよ! マジで超頑張って、そんで相沢さんよりも絶対上手くなっちゃうから。そんでいつかは、プロミネンスと対バン出来るくらいになるから!」
「そんなに焦んなくたって大丈夫だよ。それに日比野君は全然ギター上手いし……」千秋は、嬉しそうに熱く語っている日比野を見ながら、心の奥で熱い感情が湧いて来るのを感じていた。
『あたしって……日比野君のこと、好きなのかな……』それは、恋をしたことのない千秋にとって、胸の奥底をくすぐるような、甘酸っぱい疑問だった。
「それでさ……」千秋がそんなことを考えていると、隣から日比野が神妙な顔で話し掛けて来た。「もしも……もしもだよ、俺が相沢さんと同じくらいギターが上手くなったらさ……あの……俺と……」
そこまで日比野が言った時、二人の隣に突然、黒いワンボックスが止まった。そして助手席のウィンドウが静かに開き、車内からぶっきらぼうな声が飛んで来た。
「おいっ、家まで送ってってやろうか? 今日は打ち上げ無しだから、俺もこのまま帰るし」助手席から飛んで来た声は、日比野の兄のものだった。
「えっ? あぁ、なんだ兄貴か……。いいよ、歩いて帰るから」
「ふぅん、そっか。んじゃ、先に帰ってるぞ? なんかおジャマみたいだしな」日比野の兄は、ニヤッと笑いながらそう言うと、千秋に向かって声を掛けた。「こいつ、見た目と違ってまぁまぁイイやつだからさ、よろしく頼むよ!」
「なっ、何言ってんだよ! 早く帰れよ!」日比野は顔を真っ赤にして、兄に向かって怒鳴った。だが、その声が届くか届かないかのうちに、その黒いワンボックスは風のように走り去ってしまった。
「まったく、何言ってんだよ、あいつは。いっつも訳のわかんないことばっか言って。少しは真面目なこと考えろっつうの。だいたいあいつはいっつも……」日比野は恥ずかしさで胸がいっぱいになってしまい、自分の兄の悪口を言うことで動揺をごまかそうとした。
そんな日比野を見て、千秋はなんとなく彼の心情を察したのだが、その態度がおかしくて、思わず声を上げて笑ってしまった。「なんでそんなにムキになってんの? 変なの。それより、日比野君のお兄さんって、おもしろいね」
「えっ? そんなことないよ。あいつ、いっつも俺のこと小バカにしやがって。その上自分はギターが上手いからって自慢ばっかするし。ちくしょう、今に見てろよ?」日比野は握り拳を作り、目を輝かせながら言った。
その純粋さ以外、まったく何も映っていない彼の瞳を見て、千秋は、再び心の奥に熱い感情が湧いて来るのを感じた。そしてそれは、自分が日比野に恋をしていることに気付いた瞬間でもあった。
初恋――。そう、それは千秋にとってまぎれもなく、生まれて初めて他人に抱く恋心だった。
空にはちょうど半分の形をした月が、二人を包み込むように煌々と青白い光を放ち、薄暗く寝静まった街を照らしていた。
青白い半月が空に浮かんでいたその夜、それが、千秋と日比野が顔を合わせた最後の夜だった。
千秋がその知らせを聞いたのは、それから二日後の月曜日の朝だった。
授業が始まる前、同級生達の話している声が、窓の外を眺めている千秋の耳に飛び込んで来たのだ。
「ねぇ聞いた? A組の日比野君、昨日の朝、国道のファミレスのとこで車にはねられたんだって」
「えーっ、マジ? 日比野君って、背が高くてちょっとカッコいい人でしょ? そんで? 大丈夫だったの?」
「それがね、救急車ですぐに病院に運ばれたらしいんだけど、もうすでに手遅れだったんだって……」
「えっ……やだぁ、ちょっとそれ、ホントなの? だって先週だってあんなに元気に……」
『えっ……、この子達は……何を言ってるの……』千秋の脳裏を、正体不明のどす黒いなにかが支配し始め、見えない力で締め付けられた心臓は、鼓動を急速に速めて行った。
『どうして……どうして日比野君のことを話してるの? 日比野君が死んじゃうはずないのに……。何を言ってるの?』
日比野のとびきりの笑顔、少しかすれた声、子供っぽい仕草、そういったものが次々と記憶の浅い層から飛び出し、千秋の頭の中をあっという間に埋め尽くした。そして、いつも彼女に熱っぽく語っていた、ギターに対する情熱、音楽に対する真剣さ、将来の夢、そんな話と彼の口調が刻銘に思い出され、知らず知らずのうちに彼女の頬を涙が流れ落ちた。
『そんな、そんなバカなことがある訳ないじゃない。そんなのウソに決まってるわよ……』
だが、そんな想いとは裏腹に、千秋はまるで糸の切れた操り人形のようにふらふらと立ち上がり、教室を飛び出していった。
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