キルズニアアンサイズ

えむ/ぺどろ

「機杖の魔女アドレイド」

 酸素が、重い。

 白く色付いた途切れ途切れの呼気が夜の闇に溶け、薄らいで消えていく。

 右の上腕に負った傷が深い。おおよその失血量を自身の体感で計り、男は建物の壁に背を預けて表情を歪めた。

 ──血が薄い……くそったれが。

 息をひそめ、胸の内でなんとか悪態ついて壁の影から少しだけ身を乗り出し、向こう側の状況を見る。

 視線の先。朧げな月明かりの落ちる廃墟の中には、四つ脚の黒い巨躯があった。

 毛足の長い猫科の様相。鋭い爪を携えた脚は足音どころか気配すら遮断し、月光跳ねて妖しく輝く金瞳きんどうが薄暗闇を確かに見通す。

 アズァ

 それが当該の獣の名称である。人をはるかに超えた体躯をもち、瞬息の間にて暴虐の限りを尽くす存在だ。

 男はその獣を狩る人間だった。

 手負いでなければすでに動いている。それほどの間合いに、今、人と獣がいる。

 手元にある得物は用を為さない。片腕だけで扱えるような物ではない。文字通り無用の長物と化した鉄塊を左手でぎちりと握りしめる。

 それが、致命となった。

 アズァの耳が微かな音を捉えて跳ねる。動くまで一秒もかからない。セメントダストまみれのアスファルトを蹴る音が闇夜に響いた頃には、巨躯はもうそこには無かった。

 風を置き去りにする速度で跳躍し彼我の距離を消し飛ばしたアズァが眼界いっぱいに映る。目をつぶる猶予もいとまも無かった。その瞳で男は見ていた。獣が巨腕を振り上げる瞬間を。振り上げた巨腕の先にある月を。その月を背に空から落下してくる――つば広帽を被った人間のシルエットを。

 激烈な速度で落下してくるシルエットは右に携えた長物を振りかざし、アルトを濁らせて、咆えた。

「――ゥオラアァアア!!」

 激震。

 つば広帽を被ったシルエットが着地と同時、振り下ろした長物でアズァごとアスファルトを叩き潰した。衝撃の波紋が咲き、纏った黒いコートの裾が暴れる。

 シルエットの正体は黒髪の女だった。女で、「魔女」だった。

 ぴく、とかすかに動くアズァの前脚。

 コンマ一秒もかからない。ブーツで苛烈に踏み込む。女は半分ほどアスファルトに沈んだ獣を目測数十メートル先の廃ビルへ蹴り飛ばし、燃えるように真っ赤な瞳を見開いて邪悪に嗤った。

「へい、終わりじゃねえだろ。起きろや化け猫」

 声を濁らせ指先でちょちょいと煽る。

 ごが、と瓦礫を弾いて身を起こす巨躯の猫は体毛逆立て犬歯を剥く。変化が起こったのはその直後だった。獣の周囲がゆらゆらと揺らめく。空間のゆらぎは程なくして無数の火種となり、数瞬待たずに火球となった。

 そのさまを見ていた魔女は、なおも嗤う。嗤って、肩に担いでいた長物をアズァへ向けた。

「いいぜ。――戦争だ」

 月光跳ねてぬらりと光る長物を構成するほとんどは銃身バレル。女の身長ほどの大きさはあるが、それはつまるところ銃だった。


 *


 魔術師、という人種がある。

 人を以って人を超える存在である彼女たちは、アズァを狩猟するために生み出された生物兵器である。

 人智を超えた超常現象「魔術」を手足のように操るかの獣は、「瑛素コナ」と呼ばれる無形無荷重のエネルギーをその身に蓄えている。超常現象――たとえば火球を起こす力はこの瑛素コナを元に引き起こされる。

 巨躯を感じさせない獰猛で俊敏な獣の動きはもとより、超自然的な力まで兼ね備えた存在に人が人のままで抗えるわけもなかった。その先の結末は、想像するに容易である。

 目には目を。歯には歯を。瑛素コナには瑛素コナを。獣の挙動に対抗するには

 人は、獣の力をその身に宿したのだった。つまりはそれが――魔術師なのだった。


 *


 つば広帽を被った女、魔女アドレイドも類に洩れない。

 獣の力を宿したアドレイドは、全長一六九九mm、重量一五・七kgにも及ぶ長銃をさも木の棒切れでも扱うように片手で振り上げる。

 尋常ならざるこの膂力は身体に内在する瑛素コナの恩恵だ。そしてその恩恵の顕現は、いわゆる身体能力の向上だけにとどまらない。

 アドレイドが長銃の腹を叩く。それを合図に機工が目を覚ます。

 グリップの底がするりと落ち弾倉が姿を現すがその形状はおよそ銃の機工ではありえない。マガジンの先に鋭い剣山が取り付けられている。

 アドレイドはその剣山を自分の脇腹に突き刺した。

 どろりとあふれる赤が剣山を伝って弾倉に流れ込んでいく。横に付いたメモリが真っ赤に染まったことを確認すると即座に銃へ装着セット

 魔女の銃に通常規定の火薬と鉛は必要ない。

 あと超常現象「魔術」を引き起こすには、頭の中で描いた情景へ瑛素コナを叩き込む必要があるのだが、これはアズァに許された方式だ。人では成し得ない。

 では、人はどのようにかの獣と同等に至るのか。その答えは、銃身の内側にある。

 バレル内には通常ライフリングと呼ばれる溝がある。これは銃弾を飛ばす際に回転をかけ、飛翔時の空気抵抗をぶち抜くための機工だ。しかし魔女の銃にこのシステムは要らない。だからライフリングの代わりに文字を刻んでいる。

 アズァでいうところの頭の中にある情景は、文字として羅列し意味を持たせることで同等の効力を発揮することが出来る。これが人における魔術の使用方式。その名を「詠唱」と呼称する。

 アドレイドはこの文字を銃身の内側に刻印していた。要は発射の過程で詠唱を辿るということだ。

 火薬は瑛素コナ。血が弾丸。詠唱為すは鋼の銃身。

 かくして。

 アドレイドは、言葉要らずの連続速射による血の弾丸の弾幕一四mmブラッドブレットバラージをぶちかました。

 凄まじい炸裂音と共にほぼノータイムで打ち出された血の弾丸六九発が壁となってアズァに迫る。

 獣が咆える。それを皮切りに火球群が唸りを上げて弾丸を迎撃する。衝突の激音が周囲に散り、鉄の臭いが漂う。硝煙こそ起きはしないが霧散した血が霞となって宙を舞う。

 全弾迎撃。

 血の弾丸を全て撃ち落とされたアドレイドは、しかし寸分も表情を変えていなかった。邪悪に嗤って銃口を血霞ちがすみへ向ける。

 ――見えてんだよ馬鹿野郎ォ。

 ふわ、と訪れる風。

 一部、かすかに晴れる視界。その先に――獣の額が見えた。

 マズルフラッシュは無い。銃弾を吐き出す渇いた激音が響いた直後には、猫の額に風穴が空いていた。


 *


 かつとブーツの底を鳴らし、アドレイドは物陰で倒れる男へ近寄った。

 この男もアドレイドと同様に魔術師である。

 瑛素コナを身体へ取り入れるということは、獣に近づくということだ。

 体内に根付いた瑛素コナは以降心臓を発生器官とし、消費されれば一定量を生産し続けて体内を満たす。

 このサイクルはアズァにも当てはまる。しかし人を以って人を超える存在たる魔術師は、人の姿と理性を保たねばならぬがゆえの対策を講じなければならない。

 瑛素濃度の管理である。

 瑛素コナと相反する性質をもったものが人の体内にはある。それが――血だ。

 人の血は獣の要素である瑛素コナを抑制する力を持つ。それゆえに魔術師において失血状態というのは単純な生命危機を現す言葉ではない。

 簡単に言えば、。ということだ。

 これを黝症候群アズァ・シンドロームと呼ぶ。

 アドレイドの目に映る男はすでに症状の発生が始まっており、下半身が獣化していた。

 原因は右上腕部からの出血による失血。

 失血状態に陥ってから短時間であれば血を強制的に造作させる造血薬を投与することで助かる見込みはある。進行具合からみるに、この男は、駆け付けるはるか前に獣化が始まっているようだった。

「なんでテメェは持ってなかったんだよ。サムソン」

 問いかけるも、男の耳はもう人語を解してはいない。

 せめて。形だけ。半分だけ人である間に。

 アドレイドは銃口を男の額につけ、静かに引き金を引いた。


「……私は戻るぜ。人間に。絶対にな」

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