三言目


「幸せになるのがこわい」

 いつだったか、当時付き合っていた人にそう伝えてみた記憶がある。そう伝えたことを覚えているだけで、その前後に彼と私がどんな会話を交わしたのかこれっぽっちも覚えていない。けれど一つだけ思い出せる。あの人は私に「でも、結婚して子供産んで──幸せにはなりたいでしょ?」と言ったんだ。




 今交際している人を目の前にして元彼のことを思い出すのは失礼だろうか。そんなささやかな罪悪感を覚えながら、あの人の言葉を頭の中でなぞる。

 私は生まれた時から幸せだ。五体満足で産まれ、大きな病気をすることもなく、普通に学校に行けて友達もそれなりにいて、もちろんいじめなんかもなく、家に帰れば温かいご飯が準備されていて、決して裕福ではないどころかそれなりに貧乏だけど私を愛してくれる家族がいて…。十分過ぎるほどに幸せなのに、確かに私はどこかで「幸せになりたい」と願っている。

 もちろん、障害があれば、いじめられていれば、親から愛されていなければ、それなら幸せではないのかと問われればそういうわけではないと思う。それはそうなのだけれど、それとして、私は恐らく生まれてから今日この日まで幸せに生きてきたと思う。幸せの尺度は人それぞれと言うし、それならば私の尺度でもって測ったところ私は幸せなのだ。私が幸せだと思うのだから、誰がなんと言おうと私は幸せに生きている。それは事実だ。私が今幸せだということは確固たる真実で疑いようもないのだけれど、では私自身がこの幸せを甘受するに足る人間かと問われると是としない。その人達がどう思っているにせよ、私の尺度で測った時に不幸せであると思われる人(私はこの自分の尺度でもって他人の幸不幸を決める酷く浅慮な行為をする度に心疚しさを覚えるのだけれど)はこの世の中にたくさんいて、それを思う度に私はその人達にこそこの幸せは相応しいのだと考える。

 私はきっとこの世の人々の幸せを少しずつ奪って生きているのだ。私の幸せは誰かの不幸でできている。もしも私が不幸になることで───


 彼の手が私の手に触れたことで思考が中断する。我に返った、と言うのだろうなと頭の片隅で小さな私が呻った。

「ネイル、新しくしたんだね」

 と彼が言う。今日のデートのために塗り直したのだ。今日着る服と、季節と、いつだったかに彼が好きと言ってくれた色合いと。色んなことを考えながら塗り直したのだ。「かわいいね」と彼が微笑む。気づいてくれたのが、褒めてもらえたのが嬉しくて、ついだらしなく頬が緩む。思わず両手の爪を剝いでしまいたくなった。

 彼はそのまま私の左手を握る。大きくて温かい手が、ぎゅっと私の手を包む。幸せだなぁと思って、左手首を切り落としたくなった。

 じっと私の顔を見てくるのでどうしたのと問うと「今日もかわいいなと思って」などと気障きざなこと言う。そんな恥ずかしいことをさらっと言ってしまえるところも大好きだ。愛おしくて堪らない。自分の眼玉をくり抜いてしまいたくなった。


 目の前の彼の存在はいつだって私に「今が一番幸せだ」と思わせてくれる。そしてその幸せは私の身に余る。余りすぎる。

 だから私は手放さなければならないと思った。この幸せを、かけがえのない幸せを、私は今すぐにでも手放さなければならない。そうじゃないと、殺されてしまう。私は「幸せ」に殺される。これ以上の幸せには、もう、耐えられない。

 幸福感、愛しさと、それらを手放さなければという気持ちと。これまで堆積してきたそれらが遂に溢れ出すのを感じた。

 壊してしまえ。幸せに殺される前に、その身に余る幸せを自分の手で。


 私は私に幸せを与えてくれる恐ろしい温もりからそっと手を離した。不思議そうにこちらを見る彼を見て、胸がぎゅっとなる。


「ねぇ、もう別れよう」


 彼の顔を見て、幸せがほろほろと死んでいくのを感じて、私はそっと微笑んだ。



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独白 紅野 小桜 @catsbox

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