第一幕:完




 かつん、かつん……と、広い廊下に響く靴音。


 美しく磨き上げられた床面に、豪奢な外套の裾が翻る。


「お帰りなさいませ」


 平伏する者達が左右に列をなして、この広大な敷地の主人を迎えた。


 黒い髪に黒い瞳。深い色の眼差しで周囲を見据えたその人は、真っ黒な魔法学校の制服に外套を羽織った姿で、悠然と歩いていた。


「ただいま」


 何十人もの頭を下げる侍従達に小さく声を掛けると、先導する側近に促されて最上段の椅子へと腰を掛ける。


 長い脚を軽く組み、緻密な刺繍の入った肘掛に手を添えれば、しずしずと寄ってきた少女が、螺鈿の盆を恭しく捧げた。


「どうぞ」

「有難う」


 出された茶器を受け取った累は、一口つけてから、大きく息を吐いた。


「ふぅ……で、何か用があったかな?」


 実地訓練の場から直接呼び戻されたのだ。急用でもあったかと思ったが、ずらりと控える【止まり木】達を見るからに、そんな雰囲気ではない。


 苦笑気味に、隣のアトリに視線をやると、


「まずはごゆるりと。暫くお忙しくされていたのです、ご休息を楽しんで頂ければ……」


 そう言って累の手から茶器を受け取り、代わってスズメが、温かいタオルを差し出した。

 疲れた手に、じんわりとした温かさが気持ちいい。


「あったかー。……えー、じゃあ特に帰ってくる必要ないじゃん」

「緊急の件はございませんが、細かいものはいくつかございますよ。……用が無いとお戻りになられないから、皆、何かしらの確認事項を持ってくるのです」

「そうきたか。別に僕がいなくても、上手く回ってるならそれでいいんだけど……ありがと、スズメ」


 軽く手を拭ったタオルを返せば、すぐに新しいものに交換したスズメが、今度は自ら累の手を拭い始めた。

 丁寧に、爪の先まで優しく清めていくのを好きにやらせながら、周囲を見渡す。


「あれ。ササゴイは?」


 そう言えば、こんな時いつも真っ先に出迎えてくれた老人の姿が無い。人好きのする温和な笑みは、若い頃から変わらずに、常に累に注がれていたものだが……、


「申し訳ございません。足腰が悪くなり、十分にお仕えすることが出来そうもなく、裏方に下がらせて頂きました」


 アトリの静かな言葉に、軽く目を伏せた。

 それだけの時間が過ぎたという事実に、思いを馳せる。


「…………そうか、もうそんなになるか……」

「本人も酷く落胆しておりました。しかし累様が気に掛けて下さったと伝えれば、望外の喜びでしょう」

「後で顔を見せに行くよ。近くにいるんでしょ?」

「は……ご配慮有難く……」

「——ご足労には及びませんよ、累様。……お久しゅうございます、ササゴイにございます」


 広い室内の奥から、1つの影が現れた。

 控えめに歩み寄ってくる姿に、累の頰が緩む。


 名残惜しそうに累の手を取るスズメを下がらせ、深く座り直した。


「久しぶりだね、元気そうだ」

「累様がお戻りになられるのを、首を長くして待っておりましたら、こんなに老いてしまいましたよ。……お変わりないようで、安心致しました」


 下段で深々と礼をしたササゴイに、頭を上げるように促せば、温和な笑みが累を見つめた。


「ご活躍は、常に耳に入ってきておりましたよ。序列0位の近衛魔法士だなんて、誰が作ったのやらと思っておりましたら……」

「あはは、それね。名乗ったわけじゃないよ、周りが勝手にそう言っただけで……」

「否定しなかったのは意図的でございましょ? 近衛魔法士達も、まさか自分共の配下に置くわけにはいかなかったのでしょうね。——我らが皇帝陛下を」


 ササゴイの言葉に、一層深い笑みを浮かべた累。

 円熟しきった、全てを達観するような表情で、どう見ても自分より老齢の従者を見つめる。


「……もう、ここからの景色は見飽きたんだよ」

「在位500年、御目出度う御座います。今も昔も、そして未来も、変わらぬお姿で我らを導いてくださる、唯一無二の陛下……」


 言祝ぎに返したのは、シニカルな微笑だった。

 何の心情も映していない瞳で、質問を口にする。


「ササゴイも、僕を表舞台に出したいの?」

「いいえ。我ら【止まり木】は、累様を戴く為に存在しておりますが、それは我らの勝手。累様は御心のままに過ごして頂けば良いのでございますよ」

「そう……出る気は無いんだよね。陛下だなんて、キャラじゃ無い……」

「それこそ何のご冗談を……! 累様こそが始祖であり、世界の象徴。民が禍羽根を信仰するのは、それが自分たちを守る翼であると、理解しているからで御座いますのに」


 きっぱりと言い切ったササゴイに、苦笑が漏れる。


「ほんとブレないね……。……カナリアも相変わらずだった」

「アレは累様への気持ちだけで生きている哀れな娘です。今日の一件、聞き及びました。【止まり木】としての不始末、大変申し訳ございません」


 ササゴイに合わせて、その場の全ての【止まり木】達が一斉に叩頭した。

 その壮観なまでの光景を、無感動に一瞥した累は、軽く頬杖をついて視線を落とす。


 ……彼女の情はこわい。


 累の為ならば何を犠牲にすることも厭わない、強い信念があるのだ。そしてそれは、一部の離反者達の思想にも共通する部分がある。……『皇帝陛下』への盲信だ。


 表へ出ることのない累を戴く為に、人同士が争う、不毛。

 戦うべき人類共通の敵であるノクスロスを差し置いて、他で争えるというのは、この世界が安定してきた証拠とも取れるのだろうか。


 しかし、それでも累は表舞台に出るつもりなどないのだ。ただ、呪われたこの身に課せられた役割として、穢れを喰らい続けているだけ。


「……本当に、煩わしいものだね。……普通に生きていた時を忘れてしまいそうだ」


 もう、うれいの時期なんて、とうに過ぎている。

 それでも累は、望む声に応えるために、各地を回り続けるのだ。


 ——その延長線上に、終わりがあると信じて。


「……今回押収した『聖遺物』が届いてございます」


 ひたすらに平身低頭のササゴイの合図で、精緻な飾りの施された台車が運ばれて来た。


 分厚いクッションの上に置かれているのは、何個もの平たい四角の塊。どれも砂に塗れ、全面に大きくヒビが入っている、用途不明の物体だ。


 目の前に届けられたそれらを、目を細めて眺めた累は、手を伸ばして1つを掴んだ。


 ザラリとした砂の感触と共に、ずっしりとした重さを感じる、手のひらサイズの塊。黒い一面は何個ものヒビで覆われ、本来の機能を満たすことがないのは明らかだった。


「如何でしょうか?」


 離反者たちが不正に売買していたガラクタだ。

 そんな価値は無いのだと、教皇庁にも何度も伝えているのだが、陛下の探し物だ、と仰々しく扱う習慣が根付いてしまった。今では遺跡を発掘することで生計を立てる者もいるのだから、余計な口を挟むべきでは無いと静観している。


 1つを確認した累は、ため息を飲み込んで別のものを手に取った。が、それも大きく破損している。更に次を、と見ていくが、どれも期待するものは無さそうだった。


「うん。有難う。やっぱりダメだね……」

「左様でございますか……。無知でお恥ずかしい限りなのですが、これは何を入れていた箱なのでしょうか?」

「……ははは。箱、かぁ……そうだね、入れていたのは、情報、だよ」

「……情報、ですか……?」


 ポカンとしたササゴイの反応に、思わず切ない笑いが漏れてしまう。

 これが、時間の流れという残酷さなのだ。


「……昔はね、皆が持ってたんだ。1人1台ってぐらい……。今じゃただの聖遺物ロストテクノロジーだけどね」


 寂しさを振り切るように、遥か過去の遺物をクッションの上へ戻す。



 ——もう、あれが電波を受信することなんて、無いのだから。



「……では、こちらはまた保管庫へ入れるとしまして……」


 累の沈んだ空気を敏感に察したササゴイが、空気を一新するかのように手を叩いた。


「さぁ、累様はお疲れだ。湯殿の準備を!」


 すぐに、何人もの【止まり木】達が、音も無く支度を始めた。

 その素早い行動に、一歩出遅れた累がパチリと目を瞬かせる。


「え、もうお風呂?」

「久しぶりにご奉仕が出来ると、湯殿番達が張り切っておりますよ」

「いや……ここのお風呂、広過ぎるし落ち着かないんだよね……」

「皇宮の湯殿に文句を言われる方など、累様以外にはおられませんな。ささ、お前達……」


 ササゴイが数歩下がれば、代わりにスズメが、数人の少女を引き連れて累の手を取った。


「ご案内致します」

「……またいっぱい連れて……」

「これでも少ないくらいでございます」


 すました美貌でにこりと笑うスズメに、累も小さく吹き出した。


「今日は水浸しにならないでよね」

「なんだい、スズメ。お前はまだ累様にご迷惑をお掛けしているのか?」

「っ、あ、あんな粗相はもう——……」

「時々だもんねー」

「累様ぁっ…………」


 広い皇宮に、和やかな笑い声が響き渡る。


 禍羽根の王と、その止まり木を成す鳥達の、優しい空間。


 それは500年余り、変わらない光景なのである——。



***



 ——最初の災厄ノクスロスが世界を襲ってから、500年超。


 この世界は、魔力の始祖オリジナルとして、わざわいを殲滅する翼を持った【禍羽根かばねの王】を、皇帝陛下に戴いた。


 科学文明が滅んだ代わりのように生まれ始めた、魔力の因子を複製レプリカする子供達を希望の礎に、新たな歴史を刻み続けている。


 遥か昔から未来永劫、変わらぬ姿で至高に座する、禍羽根の王を信仰しながら——。




   ■第一幕:完■


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禍羽根の王 〜序列0位の超級魔法士は、優雅なる潜入調査の日々を楽しむ〜 しののめ すぴこ @supico

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