第96話 桜花と②
「うー……おはよう……」
眠そうな目を擦りながらリビングへと出てきた桜花。
足をひたひたと鳴らしながら体を引きずるように歩く様子は、さながら甦りたてのゾンビのようだ。
「おはよう――て、もしかして徹夜してたのか?」
「ううん……。間に合ったからちゃんと寝たよ……。と言っても寝たのは朝になってからだけど……」
ということはそこまで寝ていないわけか。眠そうなのも納得だ。
「そうか。もうすぐ昼だけど桜花も食べるか? それともまた寝る?」
「うーんと、食べるー……」
「よし。それならまずは顔を洗ってこい」
「わかったー……」
桜花は終始テンション低めの声で答えながら洗面所へと向かっていく。
昨日の昼に「〆切……」という呟きを残してからずっと部屋に籠っていたので心配していたが、なんとか間に合ったらしい。
桜花がイラストレーターになってから数年。
側で見ていて、彼女の調子がどうなのか少しずつわかるようになってきた。
余裕がある時はサッと描けるみたいだけど、今回は珍しく苦戦していてここ一ヶ月ほどは四六時中うんうんと唸っていた。
残念ながら俺には助けることができない。見守ることしかできなかったので、正直やきもきしていた。
せめて食事くらいはサポートしようとここしばらくの間は俺一人だけでキッチンに立っていたのだが──ようやく俺も肩の力を抜くことができそうだ。
「ふいー。サッパリした」
洗面所から出てきた桜花は、打って変わってシャッキリとした顔になっていた。
この切り替えの早さは凄いよな……。
見習いたいけど俺には無理そうだ。
特に最近は加齢のせいか、朝起きても前日の疲れが残っていることが多くて──って、悲しくなってきたのでこの事を考えるのはやめよう。
「あ、ミートスパゲティーだ」
「おう。今日のは挽き肉を増量した自信作だ。コンソメスープもある」
「えへへ。寝起きだけどいっぱい食べられそう」
席に着いた桜花の前にできたてのミートスパゲッティを置く。
見た目は非常にシンプルだけど味は申し分ない。
なぜわかるのかというと、さっきちょっとだけ味見したから。
「いただきまーす」
朗らかに挨拶をして早速食べ始める桜花。
俺も着席してそれに続く。
「うん、本当に美味しい! 味も濃いめでガッツリ系だね!」
ニコニコという擬音が聞こえてきそうなほど、満面の笑みで感想を言う桜花。
「口に合うようで良かったよ」
美味いのはわかっていたけど、人に改めて褒められるとやはり嬉しい。
あと、彼女が自分好みの味を好いてくれるというのも密かに嬉しかったりする。
それを伝えるのはさすがにちょっと照れくさいので、言葉には出さないけれど。
「迷惑かけたし、明日からは私がご飯作るね」
「仕事は大丈夫なのか?」
「うん、しばらくは余裕あるの。それに、そっちも勉強しなきゃ……でしょ?」
「……そうだな」
「あれ? なぁんかちょっと不満そうなのは気のせい?」
「いや。焦がしたり爆発させたり変な物を入れたりしないかなって……」
桜花もそれなりに料理はできるようになった。
でも時々、持ち前のドジスキルを発揮して失敗してしまうことがあるのだ。
「もう! この前のはちょっと寝ぼけてただけだってば」
「『ちょっと寝ぼけただけ』で酢とポン酢を間違えるか?」
「いや~……。あれは瓶がちょっと似てたというかなんというか……。と、とにかく今度は大丈夫だからっ」
「……その言葉、信じるからな」
「任せて!」
どむっと自信満々に胸を叩いてみせる桜花だけど……やっぱり不安は拭えない。
とはいえ、やる気になっている本人を前にしてこれ以上何かを言うのは野暮というものだろう。
そもそも、彼女は俺のために提言してくれているのだから。
「次の講習会が終わったら、いよいよ試験なんだっけ?」
「ああ……」
俺が受ける試験とは、柔道の指導者資格を得るためのもの。
……そう。
俺はかつて自分が通っていた柔道教室に再び足を運んでいる。
そして子供たちに正式に指導するために、現在勉強中といわけだ。
内容自体は講習で大体理解できたものの、いかんせん『勉強する』という行為を学生時代以降やっていなかったので、心理的ハードルが少し上がっているのも事実。
心理学や倫理学にまで範囲が及んでいるのには驚いたが、『人に教える』ということにはそれだけ責任が伴うということを心に深く刻み、次の講習会まで復習中だ。
「…………」
しばし無言でスパゲッティを頬張る俺たち。
口の中に広がるミートソースを味わいつつ、俺は桜花の顔を見つめていた。
仕事に行って帰るだけの無味乾燥だった日々を、再び変えてくれたのは彼女のおかげだ。
ひたむきに夢を追い、行動し続けた桜花。
その姿に俺も感化されたから、今こうして再び自分の好きな柔道に携われている。
年下だけど、その行動力に教えられたことはたくさんある。
初めて会った時から――彼女がまだ桜花でなかった時から、ずっと。
「……そんなに見つめてどうしたの? もしかしてソースが付いてる?」
「ああ。左の頬にな」
「――ええっ!?」
ちなみに今のは嘘ではない。
桜花は慌ててティッシュを手に取り頬を拭く。
まるで子リスのようにちょこちょことした動きだったので、思わず俺は噴き出してしまった。
「わ、笑わないでよー」
「すまんすまん。でも大人になったのに、桜花のそういうところはずっと変わらないなと思って」
「むー」
桜花はわざとらしく頬を膨らませた――と思ったら、おもむろに立ち上がりニヤニヤとしながらこっちに近付いてきた。
「な、なんだ?」
桜花は答えない。
さらに彼女は俺に近付いてきて――。
突然、頬に柔らかい唇を当てた。
「なっ――!? い、いきなりなんだ!?」
「えへへ。かずきさんも頬にミートソース付いてたから、取ってあげました」
「…………」
ペロッと舌を出して笑う桜花に、俺は何も言葉を返すことができない。
いや、今のは不意打ちすぎる……。
バクバクと鳴る心臓を抑える俺を見て、桜花はまた朗らかに笑うのだった。
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彼らの生活はまだまだ続いていきますが、これにて区切りとさせていただきます。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
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1LDK、そして2JK。 福山陽士 @piyorin92
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