玉髄と魑魅

安良巻祐介

 

 モロコシズイギョクトウを取りに、青墨で濡らしたような曇天の下を、裏山へ登って行ったら、中腹でばったり魑魅と出会った。

 一帯の除厄活動の影響なのか、ここ暫く見かけていなかったから、すっかり油断していた。

 私は背中にいやな汗がにじむのを感じつつ、目の前の、槌蛇と仏炎苞と猿を混ぜて曖昧にしたような生き物の、泥のように濁った瞳を見やった。

 ひとまとめに魑魅とは言うが、実際は「魑」という植物近縁の霊類と「魅」という奇形の偶類とがこの辺の山の瘴気をきっかけに混じり合ったもので、この種の生き物の中でも存在が殊更脆く、経文や数珠の一つも近づければそれだけで見る間に溶け崩れて、墨汁じみた液へと溶融してしまう(霊類や偶類が死んで墨のようになるのは、何でもそれらが元々、古い時代の絵師たちが描いた絵巻物を存在の起源としているせいらしい)。

 だから大体何かしらの魔除けを身に着けている山歩きや、携帯仏像・こけら念珠などの簡易護法を装備した山菜取りの翁媼などは、まともな形をした魑魅と行き会う事すら稀なのだが、私はモロコシズイギョクトウ――漢字で書くと唐土髄玉桃という、果物と霊類の中間にある桃――を採集するために、それらの物品を一切身に着けずに来たので、珍しくもこんな遭遇を果たしてしまったらしい。

 面倒なことになった、と思いながらも、私はそろそろと懐の煙草に手を伸ばした。

 こういう時の為に、煙草だけは必ず懐へ入れてある。それは神仏と何の縁もないが、偶類の苦手とする品の一つであり、見るところ霊類よりも明らかに偶類の割合の強いらしい目の前の魑魅には、十二分に効き目がありそうであった。

 煙管を咥え、火を入れて、ぷかぷかほう、と煙を吐くと、案の定、魑魅はその異様に細長い手指をわらわらと蠢かしながら、皺だらけの猿の顔を歪ませ、苦悶の呻吟をした。

 経文を近づけた時ほどではないにせよ、こちらに何らの危害を加えることなく、すぐに溶けて墨になるだろう。

 しわびた顔がぐずり、と柔らかくなって、仏炎苞が真っ黒くぐじゅぐじゅと蕩けて、呻きつつ傍の咎の樹にしなだれかかった、その声は。

「いお…り…」

 去年この山で死んだ、母の声に、そっくりだった。

 顔がくしゃくしゃに歪むのを自らでも意識しながら、私は押し黙って、煙草をふかし続ける。

「伊織…」

 やけに明瞭な発音で私の名前を最後にもう一度呟くと、魑魅はもはや輪郭を保てず、どろどろどろ…と小さな太鼓の音を響かせて、腥い墨汁へと還って行った。

 その黒い水たまりを、暫く、目の前にたなびく紫煙と共に見つめる。

 山の気を常に吸い、それらに応じた形を取る魑と、幾つかの獣の姿を学んでは、部分部分を似せようとする魅が混じっているのだから、ああいう事が起きるのもおかしくはない。

 特に、魑魅が死んだ家族の声をしたという報告は、この山に限らず、異様に多いようだ。

 そして、それらはあくまで、これらの忌み山に刻み込まれた、種々雑多な生き物の行状の記憶の一部を、山自身が記録再生しているに過ぎず、別に故人の復活や亡者の跋扈を意味するものではない。

 そういうことがわかっていても、なお。

 あのように、死んだ親しい人の声を聞くのは、けして楽しいことではなかった。

 耳の奥にまだ残響している母の声――かつてこの山の麓で、幼い私をおぶって兎追いの唄を唄ってくれたのと同じ声。

 それを、愛おしく、また悍ましく感覚しながら、私は込み上げる吐き気をこらえて、モロコシズイギョクトウの実る、山頂の崩れ祠へと、一歩一歩、足を早めて行った。

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玉髄と魑魅 安良巻祐介 @aramaki88

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