太郎の家、衛の庭

綿引つぐみ

白亜の家のバオバブの庭


 衛はオナニーを覚えたばかりだった。

 クラスでは男子女子を問わず、相手の体に触り合うことが流行していた。

 最初のうちは同性同士でこそ、あからさまにその性徴を示す部分に触ってどうのこうのとふざけ合っていたけれども、やがてそれはエスカレートし、偶然を装った異性への接触から、男女の間でのちょっとしたゲームへと進化していた。女の子たちは、おとなしそうな男の子を囲んでは裸に剥いて玩具にし、あるいは一対一で、ジャンケンの戦利として負けたほうが十数える間、相手の体に触ってもいいことになっていたりした。

 宇佐見月子はやたらと衛のことを構い、そしてそれとなくゲームのきっかけをつかむと、自分と勝負することを迫った。特に可愛いわけでもない十人並みのうさ子に、宇佐見月子はそう呼ばれていた、衛は何度かその相手をしていたが、一通り触るべきところに触ってしまうと急に興味が失せ、飽きてしまった。

 それでもうさ子は原始的な好意を以って、うるさく衛の周りに纏わりつく。それで衛は、このところ授業が終わるとなるべく早く家に帰ることにしていた。もたもたしているとうさ子に捕まるからだ。一度捕まってしまったら、自分の性格ではそう無下にできるものではないことを衛はよく分かっていた。


      #

 ただいま。

 衛は開け放しの玄関にランドセルを放り出すと、勢いよく階段を駆け上がる。

 衛の家は畑のなかにぽつんと建っている。半世紀以上も前、戦前に建てられた洋風の白亜の家だ。大きな家だが、住んでいるものは少ない。衛とその祖父の二人だけだ。

 二階途中の踊り場まで来ると、そこにある窓から衛は身を乗り出す。外壁には梯子が付いていて、そこから屋根に登れるのだ。衛は屋根に上がるのが好きだった。そして月に一度の大好きなマンガ雑誌の発売日には、その場所でそれを読むのを習慣にしている。今も衛はさっき買ったばかりの雑誌を小脇にして、錆び色の梯子を登っていた。

 いつもの場所まで来て雑誌を開く。そしてすぐに衛はがっかりさせられた。大好きだった流区とレアの物語が突然連載中止になっていたからだ。何の告知もなく、まるであらかじめ存在していなかったかのように。


 流区とレアは周りの人間と、生まれたときからすべてが違っていた。肌の色、体のかたち、例えば顔の表情の表現のしかたなども違う。おまけに背中には油虫のそれのような羽がついていた。男の子の流区は言葉が喋れず、女の子のレアはものを見ることが出来なかった。成長がとても遅く、いつまで経ってもふたりは子供のままだった。違うこと、が理由となって、やがてふたりは旅をする身となった。旅の先々で、ふたりはさまざまな人間に出会った。人びとはふたりにあまり好意的でなく、流区とレアを不幸でかわいそうな存在だとみなしていた。

 しかしふたりは自分たちのことを不幸せだとは思っていなかった。実際それはその通りで、ずっと物語を読んできた衛にとってもふたりがかわいそうな存在だとはとても思えなかった。ふたりより楽しそうで幸せそうな人間など、物語の中にはひとりも出てこない。衛は流区とレアの仲間になって一緒に旅が出来たらと、ずっとそう思い憧れ続けていた。


 流区とレアとともに、衛は何だか自分も仲間外れにされた気分がした。もしかしたら自分がこのお話を好きなせいで、連載が中止されてしまったのではないかと、そんなありえない思いがふと浮かんだりした。

 マンガ雑誌を読むのを諦め、衛は目の前に広がる風景を見渡した。家の大きな庭はさまざまな種類の果樹に覆われている。どこからか落語の咄が聞こえてくる。じいちゃんだ、と衛は思う。じいちゃんがまた落語を聞いている。七十七になる衛のじいちゃんは果樹を育てるのが趣味であり生き甲斐で、表で畑仕事をするときは必ずラジオを持ち出してよく咄を聞いている。

 果樹畑のむこうの家の外には、麦の畑が南を除く三方を囲む山の麓まで続いており、その途中にある岡の最も高くなった所を東西に一本の街道が通っている。中通りと呼ばれるそれが村の中心街道で、この地区にある建物のほとんどはその道に沿い、列をなして建てられている。

 南からは可笑しくなってしまうくらい奇妙に暖かい風が渡って来る。一面に広がる麦の青を揺らしながら近づいて来るそれは、見えない何者かのようで、ひとつの塊となってあるものは疾く、鋭く、青を切り裂くように衛めがけて突進し、あるものは百メートルにも及ぶ巨体を緩やかにくねらせながら、ゆうゆうと衛の上を通り過ぎてゆく。太ったもの、細長いもの。麦の穂列に映し出されるそれを、衛は中空を泳ぐ魚が落す影だと思った。

 実際衛にはそれらの姿が見えた。衛の精神は、まだ少なからず混沌を含んでいた。衛の世界に対する認識は柔らかく、彼が通学路沿いの溜池で見た食用蛙の卵のように揺らいでいた。


      #

 その日も衛は授業を終えるとすぐ教室を出た。うさ子に捕まりたくないのはもちろんだが、今日は他にも早く帰りたい理由があったのだ。岡の上の街道を逸れると、家までは畑の中の一本道だ。

 その道の途中、衛は葬列に出会った。列の先頭をワカサマが金糸銀糸を刺繍した派手な着物を着て歩いている。その横に赤い服の小さな女の子が侍り、その二人の後を棺の縁者たちがぞろぞろとついて行く。在家から山中の墓地まで、ワカサマと呼ばれる者に葬列を先導してもらうのがこの辺りの地域の風習だった。男は何やら呪文のようなものを唱えながら葬列を導く。

 衛が葬列を見るのはこれが初めてだった。しかしその男の顔はよく知っていた。川縁の胡桃の樹木の下に、何時からか小屋を建てて住んでいる男だ。男も少女も、普段は襤褸を着て滅多に居所を離れることはない。当番で村の人間が食物の差し入れをしていて、それを糧としているようだった。小屋にいるときの男を、誰もワカサマとは呼ばなかった。

 以前、衛はワカサマが村の狐憑きの女の人の祓いをするのを見たことがある。まるで見世物のようにたくさんの人が集まって、その時はとても偉い人に対するように皆で頭を下げ、ワカサマの前にはいつもの差し入れものとは比べものにならないほどの豪華な膳が並べられていた。


 家に帰ると果樹畑の中にある納屋へ衛は向かう。

 納屋の戸を開けるとそこには木屑が散らばり、なかに作りたての木箱が置かれている。宝箱だ。三日がかりで作り上げたその箱を、今日はいよいよ埋める日なのだ。衛は仕上げに、木箱の裏側に日付と自分の名前を彫り込む。

 箱の中にはさまざまな宝物が入れられる。たとえば古びたコイン、エトセトラ。誰もが子供のころに大切に思う物たち。それらを詰め込みゆっくりと蓋をすると、衛は大事に抱えて外へと持ち出す。埋める場所はもう決まっている。庭の隅にある栗の古木のその下だ。納屋から一緒に持ってきた小さなスコップを、木の根に邪魔されない辺りを見計らい突き刺す。

 ざくっ。

 小石雑じりの土は思いの外乾いた音をたてる。三十センチほど掘ったところで衛は手を止める。土の下から何か白いものがのぞいている。

 骨だ。それも球形の、人の頭ほどの大きさの。

 衛はそれを凝視し、そして走った。


 こらこら。どうしたあ?

 ラジオの傍から引っ張るようにしてじいちゃんを連れて来ると、説明代わりに衛はその穴を指差す。粘土質の泥で茶色く汚れた軍手を脱ぎながら、じいちゃんはゆっくりと歩み寄り穴を覗き込む。それから少し間を置き、にっこりと微笑む。

 ああ。これは太郎だ。

 じいちゃんは穴の中から孫の取り落としたスコップを拾い上げると、その穴を埋め戻し始める。

 たろう?

 そおだ。太郎だ。

 だれ?

 太郎は太郎だ。だれでもね。

 にんげん?

 や。

 どうぶつ?

 んだねえ。

 じいちゃんが振り向き孫を見ると、衛はじっとじいちゃんを見つめ返している。

 太郎は太郎だ。人間でも、犬や猫や馬や牛でもね。物の怪でなきゃ、あやかしでもあんめえ。たあだ、そういうもんがいるんだわ。この世にゃなあ。人間とおんなじ格好してな。

 人間のふりしてるの? 

 だねえ。最初からそういうかっこなんだっぺ。

 なにか悪いことするの? 

 いや。別になんにも悪さしねえ。たあだ殖えんだ。どんどん。ほっとくとそこらじゅう太郎だらけになっちまう。

 じいちゃんは穴を埋め終えると、衛にスコップを渡す。

 んだから、見つけたらなるたけ始末するようにしてんだ。のめんならここじゃね。どっか別なとこさ探せ。

 じいちゃんは放り出された宝箱を見て云った。


      #

 衛にとって太郎の存在を信じることは、UFOの存在を信じるのと同じくらい簡単なことだった。それは学校で習っている科学の法則と、何ら相容れぬことのない一つの真実のように思えた。

 たとえば翌日。衛が登校すると、ずっと空席だった隣の席に見知らぬ男の子が座っていた。

 おはよう。

 おはよう。

 きみはだれ? 

 転校生なんだ。

 転校生? 

 うん。よろしく。

 彼はにっこり微笑んだ。

 彼は太郎かもしれない。衛は思った。


 そうして自分の周りの日常を見渡してみると、太郎のようなもの、はそこかしこいろいろな場所に存在した。

 ときどき家にやって来る、戦争で片足を無くしたという伯父さんは今年四十七になるが、帰ってきたときは確かに足は生えていたと皆云い、働くのが嫌で年金で一生食うために、自分で足を切り落としたのだという。

 近所には飛蝗食いの婆さんが住んでいて、独り暮しの婆さんはいつも買い物籠を下げて、畑の中の道を歩いている。中通りの商店街まで買い物に行くのが婆さんの日課で、その途中飛び跳ねるものを見つけては捕まえて生きたまま食うのだ。衛も実際に、婆さんが意味もなく畑の中に佇んでいるのを何度か見たことがあった。

 日曜に乗った隣町の中心まで出るバスでは、灰色の服を着た十数人の人たちが他の乗客が降りて衛一人になると、突然意味の分からない言葉を話し始めた。そしてまた誰か乗客が乗ってくると、会話は普通の言葉に戻る。

 太郎かもしれないもの。それは他にもいろいろ発見され、その日一日衛はずっと太郎のことを考えていた。太郎の存在を織り込むと、世界はちょっと違った色合いを帯びて見えた。覚えたはずの漢字をずっと見つめているとその意味がだんだんと解体されてゆくのと同じように、トイレの鏡に映る自分の姿さえ、どこか見慣れないもののような気がした。


      #

 放課後、衛は所属している英語クラブで文通のための手紙を書いていた。すると同じクラブのうさ子が近づいて来て衛を誘った。しかたなく衛はついていった。


 使われていない家庭科準備室だった。古い暗幕とカーテンが山積になっている。

 うさ子は自分にキスをするように要求した。衛は云われるままにキスをした。もうゲームを介したりしなかった。うさ子の命令調の要求に従い胸に触れ、スカートの中を探った。パンツの中に手を入れぬるぬるした感触のある部分まで指を伸ばした。衛が半ズボンのベルトを弛めると、うさ子は衛のペニスをしばらく弄び、そして口に含んだ。そうするうちにうさ子はパンツを脱いで、その部分に衛の下半身をくっつけるように云った。指で触ったことはあっても、そういうことをするのは初めてだった。衛は急に自分の心臓がドキドキし始めるのが分かった。セックスのことはよく知らなかったが、それが今までのこととは違う何か重要な意味を持つ行為であるとはなんとなく分かっていた。

 衛はうさ子の足と足の間に自分のペニスを押しつけた。うさ子はぎゅっと抱きついてくる。それはどこか知れない暗い穴を探り当てて、その中へと埋没していった。

 衛にとってオナニーは、女の子の体とは結びつかない純粋行為だった。それが繫がりうることを、衛はそこで初めて理解した。


      #

 翌日、衛が学校へ行くと亜美という上級生のことが噂になっていた。彼女が赤ちゃんを産んだという話だった。小学生が子供産めるのかあ、と誰か男の子が云った。産んだんじゃないよ、おろしたんだよ。女の子が答えた。


      #

 その日の帰り、衛は畑の中で知らない男に声をかけられた。

 衛のことをよく知っているようだった。男はしきりに懐かしがって、衛を夕餉にと招いた。男の指すその道の先には飛蝗の婆さんの家しかなかった。

 独り暮しの婆さんの家は、今日は人で溢れていた。男は婆さんの息子だった。息子は全部で九人いた。九人はつぎつぎに衛を懐かしがったがそのうちの一人が、云った。

 赤ん坊のころ、うちに預けられてたの憶えてっか? 

 衛は憶えていなかった。

 母ちゃんのおっぱい飲んで大っきくなったんだぞ。うちの母ちゃんはいつでも乳が出んのが自慢だかんな。

 もう一人が頭を撫でながら、念入れをした。

 おまえは俺らの弟だ。

 晩餐は婆さんの還暦祝いだった。息子たちによって運ばれてきた料理を衛は無表情に見つめた。

 どれも見慣れた普通の料理だった。


      #

 薄暗くなった帰り道、衛は誰かの影が自分の後をついて来ていることに気づいた。振り返ると姿を消すが、何かがそこにいることは明らかだった。再び衛は歩き始める。気づいた瞬間に全身がひやりと冷たくなって、それから反動で顔が火照り、その熱を身に纏いながら、歩いた。そして息がもつ距離まで家が近づくのを待ち、そこから一気に走り出した。


 太郎だ! 

 衛は家門を潜るなり、叫ぶ。じいちゃんが畑から出てくる。

 家ん中さ入ってろ。

 じいちゃんはそう云うと外の道に向かって歩き始める。

 家の中に駆け込み、いちにいさんしごおろくななはちきゅうじゅう、衛はドアの後ろで十、数をかぞえる。数え終ると再びノブを回し、そっと外を覗く。しかしそこからは何も見えなかった。どこかで人の声がする。階段を上がり踊り場の窓から外を窺い、子供らしい迅速さでさらに上へと向かう。そのまま屋根裏まで来ると、その汚れた窓硝子越しに庭を見下ろす。見える範囲を隅々まで見渡すが誰の影も見つからない。衛は不意に振り返る。部屋には埃っぽい暗がりが広がる。屋根裏のその静けさが衛の柔らかな現実感を揺らす。再び庭に視線を戻し、凝らす。そして葡萄棚のほうに目を遣ると影が動くのが見え、そこにじいちゃんがいた。


 庭に出ると、衛は葡萄棚のそばまで歩み寄りその場を遠巻きにする。

 すっかりと陽が落ち、樹木に遮られ果樹の畑は余計に暗い。その宵闇の中で、じいちゃんがシャベルを揮っていた。

 太郎? 

 ああそおだ。

 死んだ? 

 ああ。

 衛が近づいてみるとじいちゃんの傍にそれが横たわっていた。どうやったのか、どこからも血は出ていなかった。衛はむこうに向いた顔を、まわり込んでじっと見た。それはときどき学校の行き帰りに見かける男だった。衛はその男を見かけるたび、誰かに似ていると感じていたことを思い出していた。

 太郎はじいちゃんの掘った穴に躊躇なく放り込まれ、そして地下の住人となった。

 また木を植えなきゃなんね。今度はバオバブの木でも植えっか。

 じいちゃんはそう云うと滅多に吸わない煙草を口にし、闇のなかに白い煙を吐いた。


      #

 その夜衛は夢を見た。

 太郎に追いかけられる夢だ。果樹畑の中、太郎は衛を追いまわし、捕まえると何をするでもなくただニッ、と笑うのだ。

 李や梅や栗や林檎やキウイや梨や葡萄や庵摩羅や、杏やちちうりのきや枇杷や映日果の樹木の中を衛は逃げまわる。太郎に害意はない。それは夢の中の衛にも分かっている。しかし正体の知れない恐怖にそそのかされ、衛は足を止められない。息が切れ、このままではもうもたない、そう思ったとき衛は自分が園芸用の小型スコップを握り締めていることに気づく。衛は納屋のところまで来ると半開きの扉の後ろに隠れ、太郎がやって来るのを待つ。

 太郎が扉に手をかけ、それがギギギと音をたてる。納屋の中に太郎の長い影が伸びる。太郎が一歩足を踏み入れたとき、衛は太郎の腹をめがけて思いっ切りスコップを突き立てる。太郎は声も上げずにその場で動きを止める。衛は突き立てたスコップの刃の円弧に沿って、太郎の腹にぐるりと穴を空ける。どろどろとした臓物が流れ出し床を覆う。太郎は立ったままだ。

 やがてすっかり空になったはずの腹の穴からひょいと何かが顔を出した。それは一度頭を引っ込めると、今度は手を先に出して周囲の肉を掻き分けながら外へと出てきた。それは戦争で足を無くしたという衛の伯父さんだった。しかし今よりも少し若くまだ足があった。伯父さんはきょろきょろと辺りを見まわすと、まるで巣穴から飛び出した兎のようにどこかへ消えていった。

 伯父さんがいなくなると、次に飛蝗たちを追って飛蝗食いの婆さんが穴から出てきた。婆さんの皮膚の下には食ったばかりの緑色の飛蝗が這いずり回っているのが見える。そしてその婆さんもどこかへ行ってしまった。

 次に出てきたのはバスで会った灰色の服の男たちだった。ひとり、ふたり、三人四人。五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十、二十一、二十二。全部で二十三人いた。バスのときよりもずっと数が殖えていた。

 転校生の男の子が出てきた。

 その空席でもともと授業を受けるはずだった、始業来一度も登校して来たことのないクラスメートが出てきた。

 衛の母親が出てきた。父親が出てきた。兄が、妹が、弟が出てきた。

 うさ子が出てきた。うさ子は裸だった。

 うさ子は太郎の腹の中から、何かを引っ張り出そうとしている。ようやく出てきたそれは、いつかテレビで見た紫色をした人間の胎児だった。

 さらに何か出てこようとしている太郎の腹に、切り取った肉で衛は急いで蓋をした。

 気がつくと紫色の胎児は、へその緒の切れ端を引きずりながらどこかへ走り去るところだった。うさ子もそれを追いかけていった。

 腹の穴の塞がった太郎は、ふたたび動きを取り戻し、その蓋を必死に両手で押さえ込んでいる衛の頬を撫でそしてニッ、と笑った。


      #

 悪いことしないのになぜ殺すの? 

 うさ子の家に来るのはこれが初めてだった。衛は太郎のことを話した。

 うさ子の部屋はまるでずいぶんと年上のお姉さんのそれのようだった。教科書や教材など学校のものは部屋の隅にきちんとまとめられ、それ以外の、部屋のほとんどの場所には服やおしゃれのための雑誌などが散乱し、テーブルの上の小さな鏡の前にはアクセサリや化粧品が並べられていた。そこには衛の知っている小学生のうさ子のほかに、もう一人のうさ子が住んでいるようだった。

 だって怖いよ。

 衛はうさ子のほうを見ずに云った。

 なにが怖いの? 

 夕日に暖まる壁際の床に並んで座り、衛はうさ子と話をする。

 ふえることが悪いこと? 

 本当の姉のような口調でうさ子が訊く。たぶん。と衛は口に出さずに思った。

 続く会話の中で太郎のイメージは巡り、やがて転校生のことから赤ちゃんを産んだという上級生の話になった。

 月子も産む? 

 衛は思う。もし。もし産むとしたら。それは太郎に違いない。

 産まないよ。

 うさ子は身を寄せて、俯く衛の顔を下から覗き込みながら云った。


      #

 夢見さまの通り抜けがあることが、数日前から噂になっていた。あれば三年ぶりのことだった。村の人々は迎える用意をして待ち、それはどうやら本日の昼下がりらしいということになった。

 夢見さまは放浪する人だった。じいちゃんの話では、何百年も前からこの辺りに夢見さまはいるらしかった。今の夢見さまは九代目だという。八代目が死んだのは五十年ほど前、まだ戦争の前の話で、今の夢見さまは十年ほど前にふらりと姿を現し、そして九代目になったという。現れては消え、しばらく間をおいてはまた現れる存在。県北の一帯を歩き回り、時には県境をも越えているらしかった。

 この村にも時折やって来て、小高い中通りをただに通り過ぎてゆく。

 その時通りに面する家々では、不幸や悩み事を記した紙を幾らかのお金とともに戸口に置いておくのが習しとなっていた。それを夢見さまが持ち去ってくれれば、その件はおのずと解決するという。衛のところのように通りから離れた家では、願い事をしない家に頼み込んでそれを置いてもらうこともあった。

 ただしどんな場合であっても、夢見さまの通り抜けがある間は、数時間前から家の戸をかたく閉め、誰もその姿を見てはいけないことになっている。

 衛が通り抜けを経験するのは、これが人生で二度めのことだった。


 衛は昼から屋根裏に籠り、かつてそこで見つけた双眼鏡を手に、夢見さまの通り抜けを見てやろうと考えていた。最初は屋根に登ろうかと思ったが、あからさまに過ぎるのが後ろめたくて止めにした。それでも見てはいけないものを見たいという思春期の好奇心が、衛を屋根裏に連れてきた。そしてそれが現れるのを、衛はざわつく心を宥めながら待っている。

 覗いた双眼鏡の中を、時折外から来た車がただ村を通過するためだけに、走ってゆく。蚯蚓の口から肛門に到る通路がそうであるのと同じ意味で、この中通りは村の内ではなく外側だった。村人同士で互いに確かめ合ったことはなくとも、衛が持つその感覚は、多くの住人が共有しているものだった。

 幾台めかの車を見送ると、ついに人影が見えた。若い麦の穂波のむこうの、村の外側の通路を、ぼさぼさの髪を長くして、衣を何枚も重ね着して、ぼうぼうと無音の中を歩いて来る。夢見さまだ。周りの物事には何の興味もないようで、ひたすら前を向いて進む。ゆっくりと、その動作はまるで水中を歩行しているようだ。それでも家々の戸口の前まで来ると、あらかじめそれがある家を知っている、そんな様子で願い事の書かれた紙とお金を持ち去ってゆく。

 そのようにして通りの端まで来たとき、足を止め、ふいに夢見さまは振り返った。絶対に見えているはずのない衛のほうを。

 双眼鏡を通して衛は夢見さまと目が合った。衛のいる部屋の中は暗く、昼の明るい陽の下からこちらが見えるはずはなかった。ましてや距離がある。しかし衛は見られていた。双眼鏡の二つの筒を通して、夢見さまが衛の中に入り込んでくるようだった。あるいは衛が、夢見さまの中に入り込んだのかもしれない。一瞬に立場が逆転した。

 そして衛は夢見さまになっていた。


 衛は村の中通りに立っていた。

 突然声がして、目の前に五つくらいの女の子が飛び出してきた。夢見さまである衛は恐怖を覚えた。太郎だ。それは太郎に対して覚えるのと同じ種類の恐怖だった。女の子の顔には目が二つしかなかった。両手の指が五本しかなかった。衛は自分には三つの目があると感じていた。手の指は五本であってはいけないはずだった。衛は家の陰にある幾つもの目の気配に気がついていた。女の子を見ているわたしを見ている。それらはすべて太郎のものだった。女の子は衛を見ても逃げることなく近づいて来る。わたしに自ら近づく人間がいる。彼女に害意はない。それはわたしにも分かっている。触れ合ってはいけない。彼女と自分は触れ合ってはいけない。駄目だ。怖い。いけない。衛の頭の中をそんな感覚が支配する。

 おじさんだあれ? 


 衛はレンズから目を離した。

 床に双眼鏡を投げ出した。顔が冷たく、なのに汗の粒が全面に浮いていた。しゃがみ込んで、一呼吸した。それから再びそっと窓の外を覗いた。夢見さまはもうどこにもいなかった。身体全体ををねっとりと違和感が覆っていた。衛は自分の身体が意味を離れ、ばらばらになって溶け落ちてゆくのを感じていた。


      #

 川縁の胡桃の木の下に住む男のもとへ、衛は食べ物を届けるように言いつけられその戸を叩いた。丁寧に戸が開けられ、現れたのは男に侍っているあの少女だった。相変わらず無表情で襤褸を着ている。思っていたほど幼くはなく、衛よりやや上くらいの齢と思えた。小屋の奥の暗がりの中には、男が横たわっている。

 少女は太巻や野菜の煮物の入った折を黙って受け取ると、やはり無言で奥の男と何やら遣り取りをする。ふっと少女が笑い、その表情を見て衛は急にここにいてはいけない気分になった。

 踵を返すと衛は足早に小屋を離れた。衛は途中、無意識に小屋からの歩数を数えている自分に気づいた。三百六十四、三百六十五、さんびゃくろくじゅうろく。

 まもる、と誰かに名前を呼ばれた気がして、振り返ると小屋の前に小さく男が立っていた。再び歩き出すとまた衛を呼ぶ声がした。男の声ではないと思った。今度は振り返らず、衛は身を固くして足を速めた。


      #

 しばらくして衛のところへ手紙が届いた。イギリスの文通相手からだった。

 連休前の金曜日、衛が家に帰るとそれが届いていた。二階の自分の部屋に駆け込むと早速辞書を開く。たどたどしくも読み下すと、手紙にはこう書かれていた。──今日本にいます。金曜の午後二時、駅にバスは着きます。少し会えます。マンガ読みたいです。

 彼が遊びに来る! 時計はもう二時をとうに回っていた。早く迎えに行かなくちゃ。とさっき駆け上がった階段を、今度は急いで駆け下りる。衛が靴をつっかけて門を出ようとすると、例によってじいちゃんが庭に穴を掘っている。

 また太郎? 

 衛がルーティンに尋ねる。じいちゃんは手を止めて一息つきながら云う。

 いんや。これは太郎じゃねえべ。ジャックだわ。


      #

 再び衛は夢を見た。

 家族の夢だ。

 家出した兄。誰かに連れ去られた弟。妹。衛を棄てた母。いつの間にかいなくなった父。母父の顔はもう憶えていない。その父に似る太郎。母に似る太郎。存在しない姉に似る太郎。兄に似る太郎。自分に似る、幼い子供の太郎。それらの太郎が周りを囲んで夢の中の衛に近づこうとする。しかし見えない何物かに阻まれるようにして、なかなか前に進めないでいる。衛、衛と呼びかけるようにもがきつつ父、母は歩みを進める。かたち有るもの、無いもの、何もかもが曖昧などことも知れぬ真っ白な空間を、太郎たちは近づいて来る。一歩、一歩。そうしてようやく衛の傍にたどりつき、伸ばされた父の手が衛の腕をつかんだ。温かくも冷たくもない、砂土のような感触。指は固まり、握るちからは弱まることも強まることもない。

 一瞬動きを止めていた太郎は、今度は衛の腕を引いてどこかへ連れて行こうとする。嫌な感じはしない。衛も抵抗せずに大人しく曳かれてゆく。周りを他の太郎たちも共に歩いている。それは家族の姿だった。一家の歩みはいまだ苦行だった。思うように進めない。太郎たちの動作は、まるで時間そのものの流れが遅くなってしまったようだ。そして一足ごとにそれは目に見えて鈍り、今にも止まってしまいそうなほどになっている。動きは鈍くても太郎たちの顔には苦しみはない。単に、単に前へと歩を進めようとする。

 ぱさっ、と音がした。見ると先を行く兄の右腕が取れて、地面に崩れ落ちていた。崩れた部分は砂のようだ。衛を曳く父の身体にもひびが広がり始め、ぽろぽろと指先や耳や鼻が零れ落ちる。母や弟、妹の身体もすでにぼろぼろだ。手が足が、あっけなく亡んでゆく。父の膝が崩れ、進みたくとも進めなくなった父は衛を振り返る。おそらくもう目も見えない。眼窩から眼球が取れかかっている。そしてぽたりとそれが落ちると、父に似る太郎、母に似る太郎、兄、弟、妹、姉に似る太郎の欠片が地面に散らばり、そこには歳の違う二人の衛のみが残された。


      #

 そしてそれから季節の変わるのを待つ間もなく、衛はじいちゃんの果樹の庭に埋められることになった。衛の上には小さなバオバブの苗が植えられた。

 夜、じいちゃんは階段を上がり衛の部屋へと入ってゆく。やがて出て来るじいちゃんの肩には衛が抱えられている。じいちゃんが月だまりの中に出てゆくと、彼の庭からはスコップの音が聞こえ始める。

 風はなく、果樹たちは静まっている。穴の深さは一メートルあまりあった。じいちゃんはすっかり重くなった衛の体を穴の底に座らせると土を戻した。

 一通りの作業が済むと、じいちゃんは大きな石榴の木の下まで来ておもむろに新たに穴を掘り出す。しばらくすると衛の埋めた宝箱が出てきた。それを傍らに置き、彼はなおも掘り進める。穴の深さが二メートルほどになると、じいちゃんは一度穴の外に出て衛の宝箱を手に取り、また穴に戻った。箱を抱き、穴の底に座り込む。

 そして外を見上げた。月はまだ出ている。

 じいちゃんは待った。誰かが穴を埋めてくれることを。しかし誰も穴を埋めてはくれなかった。最後の穴は、いつまでも埋まることはなかった。

 じいちゃんはその日朝から、自分が一言も口を利いていないことに気づいていなかった。そしてそれから一週間、彼は誰とも口を利くことがなかった。


      #

 宇佐見月子は衛が学校を休んでいる間、一度衛の白亜の家を訪れた。胸には一冊のマンガ雑誌を抱えていた。衛の好きだったマンガの連載が他の雑誌で再開されているのを見つけ、それを教えてあげようとやって来たのだ。しかしその内容が以前と全く違ってしまっていることなど、月子には分からなかった。

 月子は門扉が閉じられているのを見るとそこを諦め、横手に回り生垣をくぐった。母屋の前まで来て二階を見上げる。けれど人の気配はなかった。納屋も覗いたが誰もいなかった。

「まもるくん」

 果樹に覆われた庭に向けて、月子は声に出して問うてみた。耳を立てると、何種類もの鳥の鳴き声が聞こえた。最後に烏が一声して、庭はそのまま静かになった。

 しんと静まったその光景に、月子は急に叱られたような気分になった。持ってきた雑誌を抱いたまま、月子はそっと来たときと同じ垣根をくぐった。

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