ある女子大学生の独白
「俺の
その言葉を最後に、
「何が『字余り』よ。短歌にも俳句にもなってないぞ」
聞こえていないのを承知の上で、酔っ払いの
彼が口にした「俺の愛しのファイナルブレーキ」という言葉に、私は実はドキッとしていた。
改めて今の状況を考えてみると、男子大学生の部屋で、男と女が二人きり。一般常識では、色恋沙汰を期待したり、貞操の危機を心配したりという場面だと思う。
でも私と田貫くんなら、そんな関係にはならない。大丈夫。
私は田貫くんを、そう信頼している。
田貫くんは私と同学年。でも彼は一年浪人してから大学に入学しているので、現役で入ってきた私より一歳年上だ。
高校時代の一年先輩は凄く目上の人に思えたけれど、田貫くんに対して「目上の人」という意識は生まれなかった。
ある意味、当たり前なのかもしれない。高校時代はどうだったにせよ、今は同学年なのだから。それに高校時代は、互いに知り合ってもいないのだから。
私が田貫くんと知り合ったのは、今から三年前。サークルに入ってすぐの頃に行われた、新歓コンパの席だった。
サークルといっても、おちゃらけたサークルではなく、クラシック音楽のサークルだ。むしろ地味で暗い感じなのだけれど、それでも新歓コンパをするというのが、やはり大学のサークルなのだろう。
席順はクジで決められていて、私の隣に座ったのが田貫くんだった。彼は最初に「リスみたいで可愛いね」という言葉で私をドキッとさせておきながら、その後ほとんど私と会話せず、ひたすら反対隣の女の子とばかり喋っていた。
後で聞いたら、その頃の田貫くんは、その女の子に惚れていたという。でも残念ながら、その子はすぐにサークルを辞めてしまって……。
でも当時の私は、田貫くんの恋愛事情なんて知らなかった。だから「適当に女の子に『可愛い』とだけ言う、軽薄な人なのかな?」という印象になった。
そんな田貫くんのイメージが変わったのは、サークルで練習中、彼の演奏する姿が目に入った時だった。
「あれ、あの人……。この前のコンパで、隣だった人だ」
音楽というものは不思議なもので、耳で聞くだけでなく、演奏している姿を目で見ても、何か伝わってくる場合がある。その時の田貫くんも、そうだった。
まだ決して上手ではないけれど、真剣に演奏している感じ。上手くなりたい、と全身から主張しているように見えた。
そんな田貫くんと、いつのまにか仲良くなって……。
いつしか、私は彼の恋愛に関する相談相手に収まっていた。いや恋愛相談というより、愚痴の聞き役といったほうが正しいかもしれない。 基本的に「また失恋したよー!」という話ばかりなのだから。
でも、そんな関係が私には楽しかった。私に兄弟はいないけど、よく懐いてくれる弟が出来たような気分だったのだ。
だから、実年齢では彼の方が上だと知った時には少し驚いた。でも、昔どこかで「基本的に女性の方が精神年齢は三つ上」という話を聞いた覚えもあるので、
「それに当てはめれば、私は田貫くんより二つ年上のお姉さんになるかな」
と納得している。
そんな弟扱いの田貫くんだったが……。
いつの頃からか、私の中に「ひょっとして、これがブラコン感情?」という疑問も芽生え始めた。
田貫くんの失恋譚を聞き続けるうちに、少し「羨ましいなあ」という気持ちが湧いてきたのだ。もちろん「田貫くんみたいになりたい」という意味ではない。「田貫くんの相手役になってみたい」という気持ちの方だ。
もちろん、あくまでも「少し」。はっきりとした恋心とは違う。
だから、田貫くん本人に告げるつもりは全くなかった。軽々しく「告白」を繰り返す田貫くんとは違うのだ。
でも、今こうして、私の目の前で酔いつぶれている田貫くんを見ていると……。
「ちょっとイタズラしたくなるのよねえ」
例えば、田貫くんは今、顔の向きが斜めだ。
つまり、右の頬はテーブルにペタリと隠れているけど、左の頬と唇は、こちらに見えている状態なのだ。
特に彼の唇は、端正な女顔に似つかわしく、ちょっと色気のある唇なので……。
ジーッと眺めていると、ついつい引き寄せられそうになってくる。このまま寝ている間に奪ってしまうのも簡単そうだし、たとえ後でバレても、私と彼の仲ならば許してもらえるかもしれない。
そう考えると……。
「いやいや」
自分を否定する意味で、ブンブンと強く頭を横に振った。
そんな恐れ多いこと! こんな形でファーストキスなんて!
そういうのは、妄想の中だけで十分。
「やっぱり、私も酔ってるのかなあ」
唇が無理なら、ほっぺたにチューはどうだろう?
「うーん……。考えるだけなら楽しいけど、それも実行するのは抵抗あるぞ……」
そう。
彼にとって『ファイナルブレーキ』であるように、私自身にとっても、私は『ファイナルブレーキ』なのだ。
だから最初に思った通り、
「私と田貫くんなら、そんな関係にはならない……」
自分に言い聞かせるようにして、改めて口に出してみる。
「でも私一人が起きているのも、なんだか寂しいよね」
そうかといって、酔いつぶれた田貫くんを放置したまま帰るのも薄情であり、私には無理な話だ。
それならば……。
まずは自分のコップを、邪魔にならない場所へ置く。
続いて、彼の右手から、握られたままのコップを抜き取る。
その「彼のコップ」に、なみなみと日本酒を注いだ。
彼が『ビヨンド・ザ・コールド・プラム』と呼んでいる酒であり、彼を酔いつぶした酒でもある。
「そう、この酒を飲んで、彼は眠った。だから、私も同じ酒を飲んで……」
ふと、ロミオとジュリエットの話を思い出す。あの二人は確か、同じ毒を飲んで死んだのではないか。それとも、毒で亡くなったのは片方だけだっただろうか。
……ああ、やっぱり私も、酔っ払いだ。古典文学に想いを馳せたり、しかも、きちんと思い出せなかったり。
とりとめもない考えが頭の中をぐるぐる回る状態で、
「どっちにせよ、酒は酒。毒じゃないから、明日には目が覚めるわ。……おやすみなさーい」
彼のコップで、グイッと一杯。
そのまま彼にもたれかかるようにして、私も目を閉じるのだった。
(「ファイナルブレーキと飲む酒は……」完)
ファイナルブレーキと飲む酒は…… 烏川 ハル @haru_karasugawa
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