3) 女竹の視線の交錯


 私のアシスタントとして未唯が働き始めて一年ほどした現在、『玲』のとある写真撮影のためのヘアメイクを私が担当する運びとなった。

 お互いの過密なスケジュールにも関わらず、晶さんの類稀なる働きによってそれは実現した。ちょっと面倒くさくなりそうだな、と感じた私はこのコラボレーションにあまり乗り気ではなかったのだが、私以外は皆やけに協力的だったのだ。



 メイク室で道具を広げていると、颯爽としたオーラをまとって"玲"が部屋に入ってきて、一瞬にして空間が華やいだ。どちらかが寝ぼけまなこでないタイミングでまともに顔を合わせるのは久しぶりだった。

 こちらの姿を認めるなりぱっと顔を輝かせた私の恋人へ、「よ」と手を上げて声をかけた私に、彼女はたちまち澄ました顔つきに変じ、軽く手を掲げ「ん」と返してくる。

 彼女の現マネージャー、返しきれない恩のある晶さんへ「おつかれさまです」と腰を折って挨拶する。未唯は彼女へ駆け寄り、「ご無沙汰しております」と深くお辞儀をしている。元マネージャーとその担当だったタレントが立場を変えて一堂に会し、なんだか変な空間だ。


 それぞれの挨拶もそこそこに、さっそくヘアメイクの準備に入る。

 一向に部屋を去ろうとしない晶さんへ、何食わぬ風を装って訊く。


「……有働さん別にここにいる必要なくないですか?」

「マネージャーなので。いたら不都合でも?」


 ごもっとも。だけど、晶さんにこの環境を観察されるのは……なんだか居心地が悪い。


「……いや別に」


 もごもごと返すと、晶さんは悪びれもせず、


「正直に言うと、面白いものが見られそうだったから」

「見世物じゃないんですけど……」


げっそりとして答えた私と晶さんを見て、未唯が興味を引かれたように言う。


「お二人、そこそこの面識があったんですね」

「……マネージャー引き継ぎでいろいろお世話になったし」

「――瀬戸さんの可能な限り嘘をつかないスタンス、私は好ましく思っていますが、それが事態をややこしくすることもあると思いますよ」


 ぎょっとして未唯を見やると、そばの慧から、


「この人、嘘つくときの癖があるから、やたらめったら嘘つけないの」


まさかの機密事項の漏洩に、さらにぎょっとして鏡の中の彼女を見つめるなか、


「なるほど。あとでその癖を私に教えていただけると助かります」


弟子が謀反行為を堂々と働こうとするではないか!


「……どうしようかなあ」


 鏡の中の愛しい人は、ちら、とつれない視線を投げかけてくる。絶望。


「ええ……なんだろう……周りが全員敵、みたいなこの状況」

「自分で蒔いた種だと思うけど」

「……」


 澄ました顔で余計なひと言を言ってくる晶さんには何も言えない。いや、何の話よ、と抗議したい気持ちはあるのだけれど、さりとて開き直れるほどの度量もない。情けない顔をしていたようで、こちらを妙な目線で見る慧に「何」と問うと、「……べっつにー」なんて目をぐるりと回して、絶対何かあるだろうという素ぶりで答えてくる。

 ほら、やっぱり面倒くさい感じになった。だからこの仕事受けたくなかった。



「あ、外すの忘れてた」


 ふと思い出したように慧は首の後ろへ手を回し、それからまもなくネックレスを両手で広げた。チェーンの中央でリングが光っている。


「失くさないように、何か容れ物貸してくれる?」


 鏡の前で見せつけるように掲げたそれは、私も所持している。ある日、慧から贈られたもの――ペアのリングだ。超有名ブランドのそれは、きっと目玉が飛び出るような値段のはずで。お互いの左手の薬指につけることはまだできていないけれど、ネックレスとして身につけている。

 といっても慧の場合は撮影の際は身に着けることができず、着脱のたびに紛失のリスクを負うのは怖いから、たいていは自宅に置いてきているはずなのだが……。


「……仰せのままに」


 恭しくネックレスを受け取って、手近な小物入れへ収納して差し上げる。


「……」


 こんなときに限って、私は胸元がわりとあいた服なんかを着ていた。その胸で輝くのは、今しがた慧から預かったのと同じリングである。

 今までだって、長い時間を未唯と過ごしている。私のこのネックレスは散々見てきているはずだ。未唯をちらりと見やると、口の端にほんのわずかな笑みが伺えた。また、晶さんが素早く背を向けたのを鏡越しに認めた。


「……」


 慧はつんと澄ました猫のように振舞っているけれど、その行動の実態としては、わんわんと吠えて威嚇しまくっている犬だ。大型犬ではないだろう、小型犬。キャンキャン言って、ぐるぐる回って、可愛いわねーこのわんちゃん一生懸命で、って微笑ましく見守ってもらう系。

 対する未唯は安全地帯の高みから鳥瞰で全てを見通しているだけだ。……慧ちゃんよう、年下の女の子に笑われてるぞ。



 何はともあれ、お仕事だ。ケープを"玲"に装着させながら、未唯へ尋ねる。


「ディレクターに確認したテーマ、なんて言ってたっけ」

「個人が個人であることの誇りと自信。大胆さを感じさせる表現を、と」

「うん。私はそれを、力強い目元のメイクを目立たせることで近づけようかなって思ってる。肌は彼女本来のものを活かしながら透明に仕上げてなるべく主張を消して、アイメイクは強めのスモーキーで」


 保湿剤をたっぷり馴染ませた両手で、化粧を完全に落とした"玲"の顔を包み、まずはしっかりと素肌を整える。


「髪はどんなイメージですか」

「衣装見せてもらったけど結構パンクな感じだったから、髪はタイトにまとめて、ラフさも交えつつ――って感じかな」

「私にやらせてもらえますか?」

「――んーそうだなあ……」


 普段は、経験を積ませる意味でも色んな作業を未唯に任せることもある。

 鏡の前に座る"玲"を今一度見る。何の感情も映さない透き通った瞳が見返してくる。

 ――今日の彼女は、全部私の手で創りたい。

 それは、全力で私の技術を今の"玲"にぶつけたい気持ちも当然あったし、あとは……なんてことはない、単純に独占欲のようなものだ。


「今日は、全部私にやらせて」


 そう私が言った瞬間、プロの仮面が吹っ飛びにやけた慧が、椅子の上で落ち着きなくもぞもぞと座り直した。


「わかりました」


 特に落胆する様子もなくいつも通りの様子で未唯も答えた。

 ……未唯にうっかり触れさせると、血気盛んな小型犬が噛みつきかねない、という弟子の身を案じる親心も多分にあった。


 手を動かし続けながら、メイクの意図と選択の根拠を未唯に説明する。


「相性を考えて、ベースメイクにはこれと、A社のこれを使います。ベースはB社の新作を使うことも考えられるし、そっちのほうがテクスチャ的にもフレッシュになりそうなもんだけど、今日は使わない。なぜでしょう」

「……撮影時間が長くなりそうだから。B社のベースのほうが後退するのが早くて、その分不自然な照り感が目立ってしまう可能性があるためです」

「そそ。適宜直しが入れられるならそっち使うのもありだけど、今日の監督は撮影中に中断入るのは好きじゃないから、あんまりメイク直しも時間かけられないだろうしね」


 あくまで主役は目元に据えたいからこそ、肌は周到に整える。背景に溶けるほど透明に、存在感がなくなるように、手間を惜しまず徹底的に作り込む。


「ただ、A社のこれはベージュが結構強くて彼女の肌にはくすんで見えるだろうから、対策として――」


 説明しながら手を動かしている間にも、鏡の中のモデルさんからガンガンに視線が刺さってくる。圧がすごい。


「なんかやりにくいなあ……。うるさいんだけど」


 鏡を通して"玲"に抗議すると、わざとらしく驚いた風に、


「黙ってるじゃん」

「顔がうるさい」

「すごく失礼」


心外とばかりに肩をすくめている。眼圧と顔圧がすごいモデルさんとの話し合いは諦めて、未唯に目線を投げ、


「うーん……あとはもう黙ってやるから見てて」

「はい」


 モデルさんへ指示を出す。


「目、閉じてください」

「……」


 ややして、彼女は目を開く。再び指示を送る。


「目、閉じてください」

「……今その必要ある?」

「ないけど」


 ふふ、とかすかに笑い合って、それからは、道具が立てる音だけが室内に響く。



 時間が合えば、家のなかでも彼女にメイクしてあげることはある。でも、仕事におけるヘアメイクを施すのは久方ぶりだ。


「……………」


 この数年で、彼女も高名なヘアメイクアップアーティストに幾度もメイクされてきた。その彼女に化粧を施すというのは、私の技術をジャッジされるような緊張感もある。

 だが、私だって腕を上げている。


 鏡を通して、あるいは直接至近距離で、"玲"と何度も視線が交錯する。

 ヘアメイクを施すプロと、施されるプロ同士として相対する、その昂揚感が胸を躍らせる。


 繊細で精密な、透明に輝く肌が出来た。

 眉毛を逆立て、糊を薄く何度も擦り付けて、野性味溢れた鮮烈な眉を作る。


 短くはなかった道のりの記憶の端々が頭に浮かんでは過ぎ去っていく。かつて、彼女のマネージャーで、専属メイク担当で、恋人だったときを思い出す。


 マスカラをニュアンス程度に滑らせる。


 あの頃から変わらず綺麗――いや、どんどん綺麗になる彼女を見る。

 口元に笑みが浮かぶ。それを受けて、鏡の中の彼女も目だけで淡く微笑む。


 すると、晶さんの冷静な声が飛んでくる。


「人前でいちゃつかないでくれる」

「えっ……えっっ? 完全にお仕事してるだけでしょうが」


 仰天して言い返すが、すかさず未唯が早口で、


「今のは完全にいちゃついてましたよね。こっちが恥ずかしかったですしイライラしました」

「ちょっと待って、イライラって何よ」


 聞き捨てならないとばかりに問う慧へ未唯は涼しく答える。


「なんでもないです」


 鏡からじろりと慧がめつけてくる。


「な、なんでそんな非難がましい目で私を見る」

「……別に」


 むっつりと答えた彼女に続いて、晶さんがため息混じりに言う。


「ああ、もう邪魔者たちは出て行きましょう」


 そして、未唯の背中に手を当て部屋の出口へ促している。未唯は晶さんを見上げて食い下がる。


「瀬戸さんがどんなアイメイクをなさるのか、直接見たいです」

「――今日ぐらい、師匠にのびのびメイクさせてやったら」


 かすかに笑みを浮かべた晶さんに言われた未唯は、ゆるゆると首を振って呆れたようにこぼす。


「……はあ、仕方ないですね。公私の区別がつかない人たちは」

「めたくそ言うやん」


 弟子の手痛いひと言に私は苦笑いするしかない。扉の前で腕時計に目を落とした晶さんが、


「50分までにはメイク完了させておいてよ」

「承知しております」


未唯と共に部屋の外へ消えた。やっと静寂が訪れたものの、なんだか気が抜けてしまった。



「……はー集中力切れた」


 手の中のメイク道具を置き、苦笑して机の天板へ腰を預けると、慧が黙って両腕を広げてきたので、その膝の上へ座る。

 ほっぺたに触れられて自分も手を伸ばしかけるが、ベースメイクはあらかた完了済であることを思い出して、手を泳がせ耳に軽く触れるに留めた。


「……」


 無言で唇を尖らせて不満を表す人にくすりとして、それからその両肩へ腕を預けて相談する。


「ねえ、ご両親に何持って行くべきかなあ」

「いいよ、何も持って行かなくて」

「だからーそんなわけにもいかないじゃーん、一緒に考えてよう」


 今度、彼女の実家へ挨拶に行く。私たちの関係を説明するのだ。


「んーお母さん、最近老眼になってきたって言ってた」

「老眼鏡を手土産に? なんかすげー嫌味じゃない?」

「お父さんはさ、ほら前にあなたのサイン欲しがってたから、色紙にサイン書いてあげたら」

「どんなご挨拶よ」

「あ」

「何」

「……"百瀬 穂高"って書く、とか」

「……おお、なるほど。……なるほどか? どっちかっていうと、養子にしてください、みたいな意味っぽくならない?」

「"瀬戸 慧"もありなのかーふふ」

「おーい」


 妄想にけてニタつく人へ声をかけるが返事はない。


「……はー緊張するなあ」

「私は楽しみ」

「そりゃあ君は実家に帰るだけの心持ちなら楽しみでしょうよ」


 上機嫌な彼女に恨みがましい目を向けると、彼女は柔らかく微笑んだ。


「だって、やっと家族にちゃんと知ってもらえるんだもん、それが嬉しいの」

「うん……そうだね。でも……もしかしたらいい顔しないっていうか、怒ったりとか……認めてもらえなかったら……」

「そこは大丈夫、私が意地でも認めさせる。反対されたら、縁切ってでも、認めさせる」

「うおお、慧とご家族の縁が切れるかもしれないかと思うとまたプレッシャー感じます……!」


 恐ろしい想像に悶え苦しむ私の頭を、慧が優しく撫でた。


「大丈夫だよ、きっと。絶対わかってくれる。信じて?」


 どんなことも必ず成し遂げる、そうなることはわかっている、とばかりの凪いだ瞳に覗きこまれて、苦笑するしかない。


「……うん」


 さて、メイク仕上げちゃいますか、と立ち上がった私の服の端が、くん、と引っ張られる。振り向けば、不安げな色を溶かした目が見上げてくる。


「……今だけは」


 小さな声で請われる。


「今だけは、私とちゃんと恋に落ちて。――私を世界でいちばん綺麗にして」


 さっきまでは、世界を支配下に置いた女神みたいな目をしていたのに。

 その逃れようのない視線に釘付けになる。

 笑って、親指でその唇を軽くなぞる。


「奈落の底まで一緒に落ちよう」


 深いブラックを、ブラシでまぶたへ丁寧にのせる。大胆に、精巧に、ここだと思う場所へ、迷いなく、綿密に。オリーブ色をほんの少し混ぜ、渋みを足す。


 ――そろそろ。


 これ以上はないというくらい、丹念にダークカラーのグラデーションを重ねる。下まぶたにもペンシルでぐっと色を差し、ブラシでそっとぼかす。

 暗く、力強く、反逆的な目元ができている。

 目頭から目の中心にかけて、ブラウンのグリッターをブラシでのせる。


 ――ご両親にちゃんと認めてもらったら。


 息を止め、まつげのキワにホワイトシルバーのアイラインをシャープに、躊躇せず描ききる。


 ――私たちのこと、発表しようかな。


 アイラインに沿って、クリスタルの小さなストーンをピンセットで置いていく。


 ――『玲』の仕事のこともあるから、有働さんに相談してからだけど。


 頬にはほとんど色を差さない。一度だけ、大きなブラシでさっとコーラルを走らせる。


 ――うう、しばらくは周りが忙しなくなるんだろうなあ。


 唇もヌーディカラーで主張は激しくしない。ただ、瑞々しさはきちんと作り、肉感的に仕上げる。


 ――もう少しだけ、私が有名になるのを待ったほうがいいだろうか。うーん……でも散々慧を待たせちゃってるし。


 髪をランダムに巻き、お団子にしてラフにまとめる。


 ――怖いけど。どんな反応があるのか、とか考えちゃうと、怖気づきそうになるけど。


 少し眺めてから、前髪をひと房引き出し、強烈に巻いて流す。


 ――この子は喜んでくれるかな。


 慧の背後に立ち、その出来栄えを鏡で確認する。


「…………」


 ――きっと、喜んでくれるだろう。飛び上がって、目をきらきらさせて、ぎゅっと私を抱きしめてくれるだろう。……泣くかな。どうだろう。



 ……鏡の中の慧は、なぜだかにこにこしている。


「なあに?」

「ん?」

「にこにこして」


 笑顔の訳を訊くこちらに、さらに笑みを深めて彼女は言う。


「あなたがにこにこしてるから」

「あ、そお? ふふ」


 ――きっと、すごく喜んでくれるだろう。



 ひと区切りついて、改めて見やる。

 世界でいちばん綺麗な、私の愛しい人。


「……」


 仕上がりに満足して微笑むと、彼女も花がほころぶように笑む。

 それがあんまり可憐で、ぞっとするほど魅惑的で、儚く、かつ生気に溢れて、


「――綺麗」


思わず言葉が口からこぼれた。

 ぽろりと落ちた短い賞賛を受けて彼女は目を丸くし、それから顔を伏せた。


「……」


 耳が赤い。


「なぜ照れる」

「なんか素直な心の声出ちゃったって感じで、嬉しかった」


 下を向いたままつぶやいている。


「はーいつまでも君は可愛いねえ」


 なんだか呆れ半分で言うと、彼女はピースサインを顔に添えて大げさにウィンクを決めた。

 笑い声を上げながらケープを外してその肩へ手を添える。


「さ、『玲』の美しさ、世界に見せつけてやろうじゃん」


 瞬きのうちに彼女は、尊大で不遜で、この世に従えさせられない者なんていないと言い放つような、挑発するような笑みを小さく刻み、そして鏡の中から頷いて立ち上がった。



(おわり)


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鏡越しの恋歌 東海林 春山 @shoz_halYM

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