わたしと憧れのひと

依月さかな

わたしと憧れのひと

 子どもの頃からずっと、憧れている人がいた。

 その人が書いた本が大好きで、毎日毎日ボロボロになるまで何度も夢中になって読んだ。


 わたしみたいなちっぽけな存在が、あの大賢者さまみたいになれるはずがないのは分かってる。


 でも、いつか。白き賢者さまみたいに、世界の役に立てるような立派な研究をしてみたい。

 それがわたしの夢だった。


 ——その、はずだったの。





「聞こえなかったのか?」


 すぐ近くまで迫ってきているのに、わたしは言葉を返すことができなかった。なにか言わなきゃいけないって分かってたけど、喉がふさがっていて思うように声が出ない。


 逃げなきゃ。

 その思いで後ずさろうとしたら、背中に固いものが当たった。視線を巡らせてすぐに悟る。わたしはついに壁際にまで追い詰められてしまったのだ。


「あ、あの……」


 ただただ、目を上げて、その相手の顔を見るので精一杯だった。


 真っ白な髪に、宝石のような深紅の瞳。女のわたしよりも色白で、魔族ジェマ特有の尖った短い耳をしていた。そして身にまとっているのは、きれいな白いローブ。

 そう。彼は夢に見るくらいずっと憧れていた北の白き賢者、カミル=シャドールその人だった。


 なのに、どうして今わたしはそのひとに、親の仇を見るような目で睨まれてしまっているのだろう。


「なぜ、おまえのような翼族ザナリールの小娘がここにいると聞いている」


 初めて聞く声は思っていたよりも低かった。もしかして、怒らせてしまったのかな。


 どういうふうに答えたら一番穏便に済むんだろうか。

 いくら考えても分からなくて、胸のあたりで手を握りしめていたら、不意に白い腕が伸びてきて、わたしのすぐ真横の壁をバンと叩いた。

 突然の衝撃に思わず身体が震え上がる。


 こわい。


「ここは女王の管轄下、王立魔術具マジックツール開発部の研究室だ。一般人が入り込めるような場所ではない。だからここで何をしていると聞いているのだ。やましいことがなければ答えられるはずだが?」


 目の前には、すぐ近くまで迫る白き賢者さま。左は退路を断つかのように彼の腕で塞がれている。

 とっさに周囲にいる魔族ジェマのお兄さんたちに視線を投げかけたけどダメだった。一度だけ、ちらっとこっちを見たけど、みんな知らないふりをして机の上の書類に戻ってしまった。


 どうして、みんな助けてくれないの。

 どうして。


「それとも」


 わたしの顔に賢者さまが触れた。びっくりするほど冷たかった。


「洗いざらい白状させてやろうか」


 白き賢者さまは笑っていた。でもわたしを見る紅い瞳は鋭くて、笑ってはいなかった。まるで喉元に刃物を突きつけられているようで、こわかった。

 目の前の賢者さまが歪む。泣いちゃいけないって分かってたけど、もう我慢できなかった。


 もっと優しいひとだと思っていた。

 彼は本の中で、精霊だけじゃなくモンスターたちにまで理解の手を差し伸べていた。同じ世界に生きる者として、互いに手を取り合うべきだと。


 わたしはどこかで、道を間違えちゃったのかな。

 こんなことなら、故郷の村から出なければよかった。魔族ジェマばっかりいる街に、わたしみたいな翼族ザナリールが来ちゃいけなかったんだ。


「ちょっと、カミル様! 何やってるんですか!?」


 冷たい指の感触が離れていき、目の前を覆っていた影も遠のいていった。


 ゆっくりと顔を向けて、声の主を確かめる。ううん、誰が白き賢者さまとの間に入ってくれたのか、わたしにはもう分かっていた。


「見て分からないのか、ライズ。怪しい者を見かけたから、私みずから尋問していたのだよ」


 彼に返答する白き賢者さまの声は、さっきよりも少しだけ明るくなったように感じた。ピリピリした空気も、今はなくなってる。


翼族ザナリールの女の子にそんなことしちゃダメですよ。こわがって震えているじゃないですか。それに、その子は怪しい者じゃなくて、本日付けでウチに入った新人です!」

「ほう?」


 賢者さまの紅い瞳があやしく光った、ような気がした。


「まだ右も左もわきまえていない新人を何の指示も与えず、独りにさせていたのかね?」


 違う。そうじゃない。

 否定したいのに言葉が出ない。


 ライズさんはとりあえず研究室内を見学しようって、一緒に見て回ってたの。そうしたらさっき魔族ジェマのお兄さんに呼ばれて、たまたま席を外していただけで。


「……申し訳ありませんでした」


 言い訳ひとつしないで、ライズさんは賢者さまに頭を下げていた。

 わたしのせいだ。わたしが白衣も着ずに、ぼんやりしていたから。


「せいぜいしっかり教育することだな。私が次に来る時までには薬のひとつでも作れるようになれば良いが」


 ライズさんから目をそらして、一瞬だけわたしに向けられる。

 条件反射で、肩がはね上がった。


「何の教育も受けていないこんな翼族ザナリールの小娘には無理な話だろう」


 言いたいことだけ言って、白き賢者さまは身をひるがえして研究室から出て行ってしまった。

 姿が見えなくなったとたん力が抜けてしまって、わたしはそのままへなへなと座り込んでしまう。


「ティオ、大丈夫?」


 心配してライズさんは駆け寄ってくれたけど、彼の声は聞こえていても頭の中は白き賢者さまでいっぱいだった。


 悔しい。


 くやしいくやしいくやしい!


 あんな言葉をライズさんに投げつける意地悪な人だとは思わなかった。あんな、そのへんにいるチンピラみたいに乱暴する人だなんて思ってなかった。

 わたしは子どもの頃からあんな人に憧れていたのか。叶うなら過去に戻って、自分をぶん殴りたい気分だった。


「ティオ……?」


 もう止まらなかった。くやしくてくやしくて仕方なくて、わたしはその場で思いっきり声をあげて泣いてしまった。






 しばらくして我に帰ると、なんて恥ずかしいのだろう。よりにもよって、上司の目の前で子どもみたいにわんわん泣いてしまったんだ。


「……す、すみません」


「仕方ないさ。カミル様はオレたち魔族でも怖がる人がいるくらいだし。ティオは翼族ザナリールなんだからなおさらだよ」


 うう、恥ずかしい。ライズさんは優しいからそう言ってくれるけど、迷惑かけていることには違いない。


「いえ、そうじゃないんです。たしかに魔族ジェマの人はこわいですけど、白き賢者さまはわたしにとって特別の存在だったので、その……」


 どう言ったらいいのか分からない。もう今となっては憧れのひとだった、なんて口にするのも気が引ける。


「もしかしてさ、ティオってカミル様のファンだったりする?」


 ズバリ言い当てられて、わたしはコクリと頷いた。


 それでなんとなく察してくれたんだと思う。青灰色の目を丸くしたライズさんは両手で頭を抱えて、ああー、とかううーとか唸っていた。

 でもすぐに復活してわたしに向き直り、申し訳なさそうにきんいろの眉を八の字に下げる。


「ごめんなー、ティオ。なら、ショックだっただろ」

「……はい。すごくショックでした。あんなひどい人だったなんて」


 ひと通り泣き終わっただけに、あとからむくむくと湧き上がってくるのは怒りだ。ライズさんはなにも悪くないのに、わたしをただ助けてくれただけなのに——!


「まあ、たしかにあの人、素行には問題ありまくりなんだけどさ。研究に関しては真面目でいいところもあるんだぜ。あんなだけど、本当は優しいところもあるんだよ」


 穏やかな声に顔を上げると、ライズさんは近くに置いてあるソファへと促してくれた。わたしが座って、続けてライズさんが隣に座ってくれた。


「カミル様はずっと昔に色々あってさ、そのせいで翼族ザナリールの女の子を嫌ってるところがあって。だからつい、ティオに意地悪しちゃったんだと思う。まあそれについては絶対にカミル様の方が悪いんだけど」

「……はい」


 わたしの目を見て話をするライズさんは真面目な顔をしていた。だからわたしも姿勢を正して、真剣に耳を傾ける。


「でも仕事をして結果を出していけば、ちゃんと評価してくれる人だよ。だから、ティオにはここで頑張って欲しいとオレは思ってる。カミル様に無茶な命令をされてら断っていい。また絡んでくるようなことがあれば、絶対にオレが守ってあげるから——」

「大丈夫です、ライズさん」


 この人はわたしに期待してくれてるんだ。社会的に弱者な翼族ザナリールだからとかじゃなくて、新人でも一人の研究員としてわたしを見てくれてる。

 それなら頑張るしかないじゃない。おびえて泣いてる場合なんかじゃない。


「わたし、頑張ります。必要なことはなんでも勉強します。だから、仕事を教えてください」


 まっすぐにライズさんを見つめる。すると、彼は優しい青灰色の瞳を和ませて、こう言ったのだった。


「オッケー。じゃあ、最初は作業の手順を説明しよっか」






 あれから数週間、わたしは少しずつ仕事を覚えていった。

 賢者であると同時に医者見習いでもあったわたしは魔術具マジックツールよりも薬の開発の方が合ってるとのことで、ライズさんと同じ幻薬担当になった。


 幻薬っていうのは、魔法の効果を付与したお薬のこと。普通のお薬にはない効果のものが幻薬は作れたりするから、とても面白い。


 何度も実験を重ねて、わたしはこの日初めて一人で幻薬を作った。

 あとは使用方法や注意事項を記した書類を添えて納品するだけ。


「まだ辞めていなかったのか」


 背後から覚えのある声が聞こえてきて、わたしは肩を震わせた。


 初日に会ったきり一度も来ていなかったからすっかり油断してしまっていた。

 こわがっちゃダメだ。わたしにはやましいことなんかないんだから。


「辞めたりしません。わたしはここでお仕事をするために来たんですから」


 ガタリとわたしは立ち上がった。振り返って、相手の目をまっすぐに見る。

 肩につかないくらいの真っ白な髪、鋭い印象の深紅の瞳。わたしの憧れだったカミルさま。


「ほう? 見ない間に随分と達者に口をきくようになったではないか」


 周りの研究員さんがざわめき始めている。

 だけどわたしは気にしない。この開発部で、親切に指導してくれたライズさんと一緒にお仕事を続けていくためにも、名誉顧問である彼との対立は避けられないんだ。


「これを見てください」


 見え透いた挑発にのったりなんかしない。


 わたしはデスクの上に置いてあった小箱をカミルさまに押し付けた。

 銀色の竜の意匠が施された白い箱だ。完成された品は決まってその箱に入れて納品するのだと、次長のライズさんは教えてくれた。


 紅い瞳が、これは何だと言いたげにわたしを睨む。


「あなたは先日、薬のひとつでも作れるようになっておけと言いました。だから見てください。これは、わたしが一人で開発した幻薬です」


 この時のわたしは、自分でも考えられないくらいに強引だった。

 ぐいぐいとカミルさまに箱を押し付ける。見てもらうまで逃すつもりなんてなかった。


「……随分と自信があるようだな。いいだろう。見てやろうではないか」


 にやりと笑って、ようやくカミルさまは箱を受け取ってくれた。

 中に入っている透明の袋を取り出すと、その中には緑色の粉末が入っている。それがわたしが初めて完成させた品なんだ。


薬草メディカルハーブか。初めて作ったにしては上出来だが、私にしてみればまずますの出来だな」


 眺めたのはほんの少しの間だけだった。すぐに戻して蓋を閉めて、そのまま箱をずいっと寄越される。


「おまえの名前を聞いておこうか」


 油断して聞き逃すところだった。

 黙って目で問いかけてくるカミルさまを見て、ようやく何を聞かれているのか悟ったんだ。


「てぃ、ティオです!」

「ふん。いささか不本意だが認めてやろうではないか、ティオ。だが、次に私が来る時までには魔法卵ルーンエッグくらいは作れるようになっておくことだな」


 そんな捨てセリフを残して、カミルさまは去っていた。初めて会った時みたいにくるりと背中を向けて。

 カミルさまがわたしの名前を呼んでくれた。ついこの間までは見向きもしてくれなかったし、「翼族ザナリールの小娘」止まりだったのに。


 認めてくれたんだ。わたしを開発部の研究員だと、自分の部下の一員として。


「ティオ、カミル様が来たって聞いたんだけど!?」


 焦ったような顔でライズさんが飛んできた。あまりに突然で驚いてしまったけど、彼の後ろにいる研究員さんたちを見て納得する。

 きっと、みんなはわたしのことを心配してくれたんだ。


「はい、さっき帰りました。わたしのことを認めて、名前で呼んでくれたんですよ!」



 カミルさまは思っていたような人じゃなかった。だけど大丈夫。この場所にはこんなにも優しい魔族ジェマの人たちがいるから。

 わたし、これからもこの開発部でうまくやっていけそうな気がするもの。

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