思うに別れて思わぬに添う

 崇高な場所とは言え、花街にほど近い神社内は、予想以上にある種の歓楽街と化していた。


 屋台の呼び込みが飛び交う中、赤い灯りの下を歩いているのは化粧を施した女達だ。それなりに身なりを整えたであろう男達も多数いる。


 更紗は人混みに揉まれながら前へ進んだ。すれ違う女達は黒紋付袴の色男を見上げた後、その背後にいる稽古着の自分へ視線を向けてくる。


 想像していた縁日とは全く異なっていた。ここは男女の出会いの場なのかもしれない。場違いな空気をひしひしと感じ取った更紗は存在を消すように身を縮こめる。



「土方さん……手、離して下さい……歩きにくいです…」


「はぐれねぇようにしてやってんだ。我慢しろ」



 目の前の土方は余裕の顔つきだった。人に見られることにも慣れているのだろう。この状況を楽しむように満遍なく視線を這わせている。


 釣られて辺りに目を向けた更紗には、そんな余裕はなかった。どうやら女性だけでなく男性からの視線も集まってきているようだ。目立つのも無理ない。土方のような小奇麗な侍はこの境内に似つかわしくなかった。



「大丈夫ですから……迷子になっても一人で帰れます」


「そんな辛気臭ぇ面でウロついてたら、飢えた野郎に何されるか分かったもんじゃねぇぞ」


「……別に、今の格好じゃ男にしか見えないし…」


「その目論見はとうに外れてんだよ。お前は男の目から見りゃあ女でしかねぇよ」



 低い声が味気なく落とされるや否や、グイッと手を引かれ、互いの肩が触れ合う距離まで引き寄せられていく。


 不意打ちの接近に更紗は鼓動が跳ね上がるも、当の本人は何とも思っていないようで涼しげな眼差しをこちらに寄越した。



「江戸の祭りは滾るような勢いがあるが……京のは地味なもんだな。お前の時代ではどうだ」


「私の時代は……もっと健全です」


「健全ねぇ。祭りっつうのはこういうもんだろ」



 小さく笑みを零した土方は、不可解そうに眉を寄せる更紗を見据えると絡めていた指を解いて栗色の髪についた赤い葉を取り除いた。



「あ、すみません」


「一力で大して食ってねぇだろ。何か食っていくか」


「屋台、ですか?」


「何だ、不満か。茶屋へ行っても構わねぇが…」


「屋台で食べたい。ずっと行ってみたかったの」



 思ってもなかった土方からの提案に、女は珍しく食い気味に言葉を放つ。


 二条城の城下町を通る度に屋台に入る人々を羨ましく眺めていた。市井の民の暮らしぶりを体感できるのは、ほとんど屯所から出られない更紗にとって願ってもないチャンスである。



「なら、何が食いてぇんだ。連れてってやる」


「屋台と言えば……立ち食いそば?」


「立ち食い蕎麦なんざいつでも食えるだろうが」


「私は初めてですよ? お店では何度もあるけど、屋台でお蕎麦を食べたことないもん」


「そりゃあ、良い御身分なこった」



 土方は白けたような顔つきでふぅ、と息を吐いた。少し赤い目をあちらこちらに向ける更紗の手を掴むと踵を翻し、元来た道を戻ろうとする。



「……え、そっちから来たんですよ?」


「蕎麦屋は四つ前の屋台だ」


「覚えてるんですか?」


「お前のように年中悩んで呆けてられねぇからな」



 人を小ばかにする土方の口振りに思わず眉を顰めるも、この男のズバ抜けた洞察力と記憶力は侮れない。


 あながち間違ってはいない言葉を前に更紗は口を結ぶ。喉元まで出かかっていた反論をそっと飲み込んだ。


 どこからともなく祭り囃子の笛や太鼓の音が聞こえてくる。この時代の縁日にも慣れてきた宵頃、侍風情の二人はようやく並んでいた列の先頭まで辿り着く。


 店主と向き合うように作られた簡素な板台にあるのは一つの徳利であり、二つの猪口には並々と良い塩梅の燗酒かんざけが注がれている。



 『二八そば』と書かれた白提灯の明かりをぼんやりと見つめていた女は、温い猪口を手の内に収めるとちびちびと口を付け、嬉しそうに微笑んだ。


「……美味しい」



 冷たい秋風が吹き抜ける度に、さわさわと色を付けた木々が戯れる音色が鼓膜を揺らした。目先では出汁の匂いが鼻腔を擽っていく。


 日常のような非日常だった。時間の経過とともに落ち着きを取り戻していた更紗は、特に会話もないまま自分に付き合ってくれる隣の男が気になり、それとなく様子を伺っていた。


(……悔しいけど。どこ行ってもモテるだろうなぁ…)



 珍しく書状を読むこともせず、手にした猪口を静かに口元へ傾けているだけなのだが、如何せん整った顔立ちが相成って仕草の一つ一つが絵になるのだ。


 細面に掛かる剣だこだらけの指も月の下では綺麗なものだ。スッと通った鼻梁の先に繋がるは前方を見つめる冴えた切れ長の二重であり、伏せた長い睫毛には美しい陰りができていて──



「……何だ」


 口の端を持ち上げた土方は、猪口を軽く煽ると板台へコツンと置き、全てを了見しているような顔付きで隣の女へと殺しの流し目を寄越す。


「俺の顔に何か付いてるか?」



 完全に見惚れていたことを気づかれたのだと悟った更紗は瞬時に顔が熱くなる。茹でられている麺のようにへにゃりと崩れ落ちそうになるのを既の所で耐え忍んだ。



「……何でもないです……どうぞ」


 バクバクと騒ぐ心臓を抑えるように上擦った低い声を絞り出すと、徳利へ手を伸ばして空になった土方の猪口へ注ぎ入れていく。



「面が赤ぇぞ」


「……酔いです」


「猪口一杯で酔うような柄じゃねぇだろ」


「空きっ腹なんで! 酔いが回るんです」


「ほぅ、そうかい。珍しい事もあるもんだな」



 愉しげに相槌を打つ色男に返す言葉が見つからない。更紗は堪らなく恥ずかしかった。プイッと誰もいない方角へ顔を背ける。



「お待たせしました。しっぽく蕎麦お二つどす」


かたじけない」



 店主と土方のやり取りが聞こえる。どうやら蕎麦ができ上がったようだ。躊躇いがちに視線を戻せば、目の前に湯気の上がる大ぶりの器が置かれていた。



「ほら、惚けてねぇで食えよ」


「……頂きます」



 透き通るようなつゆに色の白い蕎麦が浸されていた。蒲鉾や湯葉、三ッ葉、飾り切りの人参が少しずつ添えてある。


 指先で熱い丼を持ち上げた更紗は、そっと口を付けて出汁の効いた優しいお味のつゆを堪能する。



「美味しい。京風だ……あったまる」


「……まぁ、旨いが。江戸のに比べりゃ薄いもんだな」



 ズルズルと音を立てて熱い麺を啜っていく土方は、ふぅふぅしながら口元へ細麺を運ぶ更紗をチラリと一瞥すると言葉を続けた。



「こっちに来てから蕎麦を食うのは初めてか」


「そうですね。初めて……あ、違う。一回食べに行ってる」


「へぇ、誰とだ」


「えっと、山南さんと……愛次郎さん。大坂で愛次郎さんに連れて行って貰ったんです」



 更紗は蕎麦を咀嚼する。朧げになりつつあった遠い日の記憶を掘り起こしていく。


 蝉の声が聞こえる夏の昼下がりだった。


 愛次郎に連れられるまま、山南と一緒に遊郭近くの蕎麦屋に足を運んだ。そこでは、束の間の楽しいひと時を過ごしたのだが。


(その後に事件があって……山南さんが大怪我したんだよね)



 今だに本調子でないように伺える山南の左腕は、その日に呉服商へ押し入った不逞浪士を討伐した際の手負い傷だ。


 たとえ今までのように剣を揮えなくとも必要な存在であることに変わりはない。けれども、本人は現状を深刻に考えているのか、これまで以上に事務方の業務を引き受けている。


(お陰で私が土方さんに呼ばれることは減ったけど。山南さんが無理してるっぽいことは……誰か気づいてるのかな)



 人は皆、何かを得るために時として己の持つそれ以上に大きな何かを犠牲にしているのかもしれない。


 この世に生を受けた瞬間からそれは始まっているのだ。例えば、自分の足で歩むことを覚えた代償として、無条件の安全を手放すことになる。


 人生において失うものは計り知れないだろう。その分、何かを取り戻そうと焦ってしまうのには身に覚えがあった。山南が新選組での役割を求めるように、更紗も手の内から零れ落ちる何かを必死に食い止めようと悩み苦しんでいる。



「其処が旨い蕎麦屋なら、俺が佐々木の代わりに一緒に行ってやるぞ」


 抑揚のない男の声が更紗を鼓膜を揺らし、その胸懐を騒つかせていく。


 もう二度と戻れない三人での穏やかな時間は、更紗にとって愛しくて悲しい思い出だ。記憶の欠片でさえ、彼ら以外の誰にも踏み入って欲しくはない。



「お気遣いありがとうございます。でも、山南さんと行くので大丈夫です」


「お前はよ……人の厚意を素直に受け取れねぇのか」


「新町遊郭の目の前のお店なので。私と行くより一人で行ったほうが都合いいでしょう」



 掴めない何かが指の隙間から滑り落ちていけばいくほど、人は強かに生きていく術を見つけていくのだ。



「……相変わらず、可愛げのねぇ女だな」


 更紗はほんの僅かでも動揺しないように気を張った。掬った蕎麦を啜り上げると、少しの間を置いて隣の男へ言葉を掛けた。



「愛次郎さんのことはもう乗り越えましたから。心配して貰わなくて大丈夫ですよ」


「さっきまで泣いてた奴が何言ってんだ。…たく、あの時……誰を追いかけようとした」



 こちらの真意を探るような視線が投げかけられる。更紗は横を向くことはしなかった。心の奥底に押し込めた熱情と焦燥がゆっくりと身体中を巡り始める。



 あの時、確かに手にした女としての感情をこの世界にいる誰一人にも話すつもりはない。


 ましてや、かつて惚れた男に知られる程の恥辱はない。更紗は食べ終わった器に箸を置いて押し黙ったまま手を合わせた。



「この期に及んで話さねぇつもりか」


 不機嫌な声音が聞こえたような気がしたが、燗酒を出す店主と新たな客との饒舌なやり取りによって掻き消されていく。


 そんな喧騒が嘘かのように二人の間に重苦しい沈黙が流れるものの、吐息交じりの言霊がいとも容易くその空気を壊していき。


「まぁ……女に口を割らせる方法は幾らでもあるんだがな」



 不意に伸びてきた長い指先がツ、と綺麗な項を撫でたと思いきや、慣れた手つきで組紐の結び目に触れる。


 結われていた栗色の髪がはらりと肩に落ちる。更紗は解かれた髪を両の手で押さえつけると片眉を吊り上げる土方を睨みつけた。



「やめてください」


「吐いちまえば楽だぞ。お前が取り乱すなんざよっぽどの事だろう」


「……別に誰も追いかけてません」


「な訳ねぇだろうが。それとも何だ、俺に知られちゃ不味い相手か」



 土方は見透かした顔つきをしていた。肌に触れようとしてくるその指先を更紗はパシリと跳ね除ける。あの芸妓にした仕草が自分にも通用すると思っているのか。カッと血が上った頭では本心は隠せなかった。



「知られちゃマズイも何も……土方さんの知らない人ですから」


「どういう意味だ」


「あっちの時代で大切だった人です。でも、別人だった。それだけです」


「男、か」



 落とされた問いに肯定も否定もしない。でも、それが答えだった。更紗は射抜くように見据える漆黒の双眸から顔を逸らす。


「未だ惚れてんのか」



 本能的に自分の欲した人物が男か女かなんて、どれだけ愛おしい存在であったかなんて、この男に話す道理は一つ足りともない筈だ。


 一瞬でも蘇った想いに嘘をつく位なら、いっそ何も言わないほうがマシなのだと、再び逃げ場のない沈黙の中へ身を沈めていくが。



「勘定を頼む」


 土方は静かに息を吐いた。袖口に手を差し込み、深緋の小袋から取り出した小銭を板台へ置く。


「へぇ、おおきにさんどす。上酒一合としっぽく蕎麦二杯で八十八文どす」



 勘定のやり取りを見届けた更紗は、これ以上の追求は御免だと、人々の行き交う境内へ足を踏み入れた。


 地上が厚い闇に覆われていく中、侍風情の二人は幾らか人の波が緩やかになった土路を歩いていた。


 奥に行けば行くほど赤提灯の数が減っていく。屋台も申し訳程度にあるだけで祭りの賑わいも鳴りを潜めていた。


 時折浴びせられる男達からの視線に気づいてはいたものの、傍に寄らないと互いの気持ちが読めない程の濃くて深い闇が立ち込めていて。



「……神社を抜けるまでは我慢しろ」


 儚げに照らされた道をひどく冷たい風が吹き抜ける。更紗の解かれた髪が不躾に揺らされた。


 思いの外、強く掴まれた手首に躊躇うが、振り向くことなく歩む精悍な後ろ姿にぼんやりと昔の記憶が重なっていき。


(先生とも……こんな感じだったな)



 ただ、真っすぐに手を伸ばして届かなかったもの。最終的に自分の意思で手放すことを決めたもの。


 一生懸命に背伸びして、同じ道を歩いていたつもりが、気づけば自分だけが一人、ささやかな想い出の中に取り残されていた。

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月夜に誠の桜はらりと【承】 沓名 凛 @uminoesoragoto

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