瓜二つの旅人

 紅葉がひらり、はらりと仄かな青みを放つ水面を染める。美しい景色に、その旅人はさも自然に溶け込んでいた。


 しかしながら、更紗はその風景からひと時も目が離せなかった。くしゃりと人懐こい笑みを零す男は女の心をいとも容易く惑わせてくる。


 どんなに求めても二度と会うことの叶わない元恋人。彼と瓜二つの人間に出会えたのは偶然とは思えない。記憶の奥底に仕舞っていた残像にゆっくりと旅人を重ねていく。


「……1年ぶり…かな……変わんない…なぁ」



 夢と現実の境目が分からない混沌とした感覚の中で、頬を伝う一筋の温もりが目に映る情景を確かなものに変えていく。



 その表情は出会った頃のように若さに溢れていた。笑うたびにできる目尻の皺が何ら変わらず魅力的で胸を熱くさせる。


 普段は温和で大人の振る舞いを見せる彼であったが、一度情動に火が付いてしまうと自らの主張を押し通す気難しい一面を持ち合わせていた。


 そんな彼に心底惚れ込んで、ただ傍にいたくてその背中を追いかけ、程なくして突き付けられた別れに頷くことしかできなかった過去が蘇ってきて。



「……先生じゃ……ないもんね」


 たとえ見間違えるほどに似ていたとしても、自分のようにタイムスリップしてきたとは到底思えなかった。月代を剃り、髷を結っている出で立ちは、どう見ても江戸末期の人間だ。


「ご先祖さんとか……あり得るかな…」



 この世には似た容姿を持つ人間が三人いると言われているが、異なる時代も含めれば出会う確率は格段に高くなるのかもしれない。


 更紗は溢れ出る涙を何度も拭った。行き交う人々に紛れて、男を見つめることしかできない。彼であるなら、勇気を出して飛び込んでいけるのに。


 刹那、舟に乗せていた荷物を背負った若者がゆらりと身体を起こした。優しげな眼差しをこちらを向く。動きがピタリと止まった。



 視線が交わされてしまった。更紗の胸が激しく高揚する。自分の存在を知られてしまった今、何を思うことが正解なのだろう。


(……あの目は、私の好きだった目だ)



 まるで時間を切り取ったように、動くことができなかった。その鼓膜には猥雑な雑踏も静かな川のせせらぎの音も一切届かない。


 立ち尽くしていた。その時間は数秒のようでいて、何年も前から続いていたようにも感じる。無意識に息を止めていたのか、呼吸が苦しかった。



「───如何かしたか?」


「……否、何でもない。先を急ごう」



 旅人は仲間に声をかけられた直後、スッと目線を逸らした。菅笠を被るもう一人の男と高瀬川の上流へ向かって歩いていく。こちらを振り返ってはくれなかった。



「ま……待って……!」


 更紗は思わず対岸から声を上げる。前を歩く町人風情の男達を押し退けて後を追うように走り出そうとした次の瞬間。



「……勝手に……ほっつき歩くな……」


 後方から息の切れた声が聞こえたかと思えば、強い力に遮られる。誰かが腕を掴み、行く手を阻んできたようだ。



「やめて!! 見失っちゃう……!」


 伸びてきた手を懸命に振り解こうとするも、肌に食い込む力で引かれるため、睨み顔で後ろを振り向くが。



「……そんな泣きっ面で……何してんだ」


 明らかに困惑の色を覗かせた切れ長の双眸がこちらを見据えている。相手が誰なのか理解するのに時間はかからなかった。



「………………。」


 更紗は即座に俯いて顔を拭い、気持ちを隠すようにぎゅっと唇を噛みしめる。


 芸妓との駆け引きを見てしまった手前、その姿を目に映すことも、その瞳に映ることも拒否したいのだと心が訴えてくる。



「……少し歩くか」


 動揺を隠せない女の様子を暫し見つめていた土方は、力を緩めた指先を華奢な手首に絡め直すと、ゆっくりと下駄を鳴らした。


 高瀬川沿いの土路を手を引かれるままに漫ろ歩いていく。


 ひらひらと落ちる紅葉が宵の世界を彩る中、聞こえるのは二人の下駄の音だけ。互いに口は閉ざしたまま、息の詰まるような沈黙を続ける。


(……何で追いかけてくるの。お願いだから一人にしてよ…)



 収拾がつかないほどに感情が混乱している更紗は堪らず息を吐いた。熱くて重い目蓋を持ち上げ、ぼんやりと映る少しなで肩の広い背中から視線を逸らす。


 未だに目蓋の裏に焼き付いて離れないほんの束の間の光景に心を揺さぶられ、気を抜けば涙が溢れそうになる。


 自分を見ても何の反応も示さなかった彼が先生とは別人であることは理解したが、それでも心のどこかで期待してしまった自分がいたことにも気づいていて。


(……止められてなかったら……どうしてたんだろ)


 

 懐かしさに縋りたかったのかもしれない。追いつくことのできなかった背中を二度も見送りたくなかったのも、本音だ。


 心の所在がつかめない更紗は、早鐘のように打ち続ける鼓動を抑えるように何度も深く呼吸をしてみるが。



「……何で未だ泣いてんだ。ちゃんと聞いてやるから話してみたらどうだ」


 ぼんやりした鼓膜に響く。聞き慣れた低い声が訳もなく癇に障り、覚束ない胸の内が更に掻き乱されていく。


 手首から伝ってくる温もりを受け入れたくなくて、黙ったまま何度も手を引っ込めようと試みるも鍛えられた男の腕はビクともしない。


 前を歩く土方が立ち止まる。仕方なくそれに従った更紗は、振り返って自分を見据える切れ長の双眸に耐え切れず、気まずそうに顔を伏せた。



「腹に溜めてても良い事なんざねぇぞ。もう怒ってねぇから言ってみろ」


「………………。」


「……俺の気が長くねぇのは知ってんだろうが。そろそろ吐かねぇと知らねぇぞ」



 相変わらず素っ気なく言い放ってくるも、その心根は優しいことはよく知っているつもりだ。


 それでも、これ以上助けを乞うつもりはなく、ましてや元恋人の面影に縋りたくなってしまった弱い自分をこの男に知られることだけは避けたいのであり。


「私の個人的な問題ですから……自分でしか解決できないことなんで……すみません」



 冷たい秋の空気と同化してしまうようなか細い声を出すのが精一杯だった。ふ、と手首の拘束が緩まったことで、相手にそれが届いたことを確認する。


 ゆっくりと手を解いた更紗は小さく息を整える。仕方なく、赤く潤んだままの瞳で眉間を寄せた端正な顔を見つめた。



「私はこの通り……戻れそうにないですけど……土方さんは一力亭に行って下さい。近藤先生も……あの綺麗な芸妓さんも待ってるんだし」


「近藤さんには先に帰ると伝えてある。芸妓なんざに気を遣う必要はねぇ」



 気づかないふりを決め込むつもりだったのに、男の味気ない態度を見た途端、嫉妬めいた黒い感情が口をついて零れ落ちていく。


「だって……お部屋取ってくれてるんだし。私なんか無視して……また恋人にしてあげればいいじゃないですか…」



 涙に濡れた囁きが静寂に溶け込む。土方は表情を崩さないまま俯く女を見据えると、片眉を吊り上げ、静かに息を吐いた。


「……聞かれてたか」


 吐息交じりに落とされた男の言葉に更紗の目の奥が急激に熱くなり、否応無しに胸が波立ち騒いでいく。


 諦めた恋に未練がある訳でもないのに、この話の続きはしたくなかった。そっと下駄を引き摺り距離を取ろうとする。



「……成り行きでそうなっただけだ。もう抱くつもりはねぇよ」


 落ち着き払った低い声がふわりと宙を舞うや否や、息もできないような重苦しさを感じ、相槌も打てない程の落胆に誘い込んでくる。


(分かってたことじゃん。だから手放したんだよ……)



 この男が後腐れない玄人ばかりを選んで相手にしているのは周知の事実だ。あの芸妓もその場限りの都合の良い女であったことは嫌でも理解できる。


 それでも気紛れで一夜を過ごした自分に向かって、こんな言葉を吐く無神経ぶりにいっそ呆れて嫌いになってしまえればいいのに、心が不安定ないせいか涙が浮かんできて。



「……何でお前が気鬱になる。あの女の事を言ってるだけでお前に言ってんじゃねぇんだからよ…」


 土方は完全に扱いに困った顔つきを浮かべていた。それでも、更紗は涙を抑えることができない。こんなのは自分らしくない。でも、今夜はどうしようもないのだ。



「……どのみちその面じゃ帰れねぇんだ。付き合え」


 少しの間を置いて、男の骨張った指が触れる。今にもすり抜けそうな華奢な指先をぐっと強く握り締めて、歩み出す。 


 高瀬川に掛かる板張りの橋を、手を引かれるままに渡っていく。更紗は夜空へ向けて声にならない思いを解き放つようにそっと吐息を洩らしてみるが。


「ほぅ、暗闇祭か。六社明神のに比べりゃ小せぇが」



 独り言のように呟く男が立ち止まって一点を見つめるため、女も釣られるように緩々と顔を向けていく。



「……くらやみ…祭り…?」


「まぁ、縁日みてぇなもんだ」



 こじんまりとした朱色の鳥居門を老若男女が潜っていた。人々は荒れ狂う海の波を掻き分けるように、鰻の寝床のような境内を所狭しと楽しげに行き交っている。



「……綺麗」


 社の屋台を照らす赤提灯が美しい。永遠に続く赤い光は、とても幻想的だ。まるでその地に足を踏み入れた者を極楽浄土へ誘うかのようで。


「行ってみるか」



 赤い目を見開く更紗を見据えていた土方は小さく口元を緩める。華奢な手を絡めるように握り直し、朱色の鳥居へ向かって歩き出した。


「はぐれんじゃねぇぞ」



 漆黒の闇夜に浮かぶのは、冴えた光を放ち続ける月と数多の星々で。


 その下界を照らす数え切れない程の提灯の明るさは、古き良き時代を生きる人々の道しるべである。


 繋いだ手に温もりが宿るのを感じた更紗は、桃源郷のような別世界を前に鼓動が再び激しく打ち始めていた。

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