花宵に駆ける

 夕闇はいつしか宵闇の暗さを手に入れ、天に輝く月が高い位置から冴えた光を解き放っている。


 仄暗い部屋を代わりに照らすのは赤みの強い行灯の明かりであり、花街独特の妖艶な雰囲気を醸し出していた。



「……なら、広沢様と山本様は京へ来る前は、江戸にいらっしゃったんですか?」


 更紗は銚子の酒を頑丈そうな手に収まる盃へ静かに注ぎ入れた。優しげな眼差しで自分を見つめる広沢と視線を合わせる。



かたじけない。神田湯島にある昌平黌しょうへいこうに山本殿と共に遊学していてね。洋学の開成所であったお陰で、異国の文化に触れて……それから異国人に興味を持つようになった次第だ」


「広沢殿はひといつばい勉強熱心で、皆が揃いで花街へ行ぐ時も一人藩邸に篭って学んでました。したがら舎長にまでなったんだけんじょも如何せん女には疎い…」


「……覚馬、余計な事は申すな」


「江戸の昌平黌といえば幕府一の学問所ではないですか! 廓遊びもなさらず舎長をされていたとは、いやはや広沢殿に見せる顔がありませんな! 我々が神田湯島を通る時は吉原へ行く道中位なもんですよ。なぁ、歳」



 近藤はここぞとばかりに声を張り上げ、陽気に話している。一体あの男はどんな返答をするのか。更紗は無意識に一瞥する。


 そこには整った表情を変えることなく、芸妓に酌をして貰っている土方がいた。いつも以上に落ち着き払った様子だ。



「まぁ……付き合いで吉原に行く事もありましたが、我々は他流試合でもあの一帯の道場に顔を出していましたからね」


「ああ、そうであったな! 天然理心流の更なる剣技向上の為、江戸にある多くの道場を回らせて頂いたか!」



 人目も憚らず大口を開けて笑う近藤に釣られるように、部屋にいる一同が和やかに笑い合う。更紗も口角を上げて同じように会話に馴染んでいる振りをする。


(……嘘ばっか。吉原の帰りに恋敵に待ち伏せされて喧嘩吹っかけられてた癖に)



 複雑な心境のまま宴に加わってから早半刻が経とうとしているが、億劫な気持ちは晴れることなく、寧ろより掻き乱されるように心の濁りが増していた。



「……しかし、まさか市村殿も江戸にいたとは思わなかったが……江戸の何方へ住まわれていたのか?」


 男達の会話と妓達の上品な笑い声が目の前で飛び交う中、そっと自分だけに聞こえるよう囁かれた声に心臓が波打つのを感じる。



「えっと……海側でしょうか…」


「それはまことか……我が藩の下屋敷が海の側にあるのだが、屋敷脇にある三之橋を通った事は? 市井の者には肥後殿橋と呼ばれていたんだが」


「……そうですね。何度か通ったかもしれないです」


「そうか、通った事があるか……もしかしたら気付かぬうちにすれ違っていたかもしれんな」



 広沢は全てを信じきって嬉しそうな表情を浮かべた。更紗は良心がちくちく痛むのを堪えるように両の手をそっと握り締める。


(……嘘ばっかついてるのは私だ。でも、本当のことなんて言えないから…)



 この時代に存在してはならない人間であるからこそ、知り得る真実の一切を隠す。未来に影響が出ないよう細々と生きていこうと心に決めたのだ。


 それでも何もかもが嘘で塗り固められていく己の姿に、守るべき本質さえも見失ってしまいそうな気がした。漠然とした恐怖と不安が背後にやたらと付き纏っていく。


「……幕府と言えば、数日前に一橋様が刺客に襲われました沙汰事……噂によると下手人は水戸の脱藩浪士だそうですな」


 突如、盃を膳に置いて真面目な顔つきで話しを始めたのは近藤だった。更紗の鼓動が瞬時に跳ねる。



「……たまげた。もう新撰組さんの耳に届いてるのか。そんの情報はどっから仕入れたんですかい?」


「いやぁ、風の便りと申しますか。壬生村でもその手の話題に事欠く事はありませんぞ。永倉君も聞いた事あるだろう」


「はい。巡察中にも市井の民が集まって、幕府の要人が攘夷派の不逞浪士に命を狙われたそうだと話してました。直ぐに止めさせましたが」


「……失礼ながら申し上げれば、我々には有能な監察もおりますし、事件を機に二条城付近の警備を強化しましたので自ずと情報は入ってきますよ。例えば、下手人はその場で一人残らず惨殺され、それはそれは凄惨な現場だったと」



 漆黒の双眸がこちらを見据えるのを視界の端に捉えた更紗は、どきんどきんと動悸が打ち始めるも動揺を悟られないよう手に取った盃に口を付ける。


 洞察力に長けている男の視線の先にいるのは隣の会津藩士なのに、手の平を湿らせる汗が平静を保ち切れない自分の弱さを思い知らせてくれる。



「……流石、新撰組副長。よくご存知でいらっしゃる。私達がその場を見た訳ではありませんが駆け付けた者の話しによると、とても酷い有り様であったようです」


「幸いにも一橋様にお怪我はなかったと聞いておりますが……代わりに家臣が一人斬られたそうですね」


「……左様。腹心を失くされた一橋様の御心痛は大層なものでして……実を言うと、亡くなられた中根殿は内内に開国を説いておりましてな。幕府が攘夷期限を延ばしていたのも彼が唆したのだと一部の水戸藩士が騒いでおったようです」


「……そうでしたか。いや、幾人もの下手人を鮮やかに始末した者の所在が不確かなものでしてね。内密に処理をされているようですが……何かご事情でも?」



 土方が淡々と放つ声が部屋に響くや否や、隣で丁寧に答えていた広沢の動きがピタリと止まる。


 不気味に静まり返る重苦しい沈黙だった。急激に早まる更紗の心臓の音が今にも部屋中に響き渡りそうな錯覚を覚え始めた刹那。



「……いやぁ、参った参った。其処まで御察しとはしょうねぇ。よがんべ、広沢殿話しっせ」


 目を細めて苦笑を零す山本が厚い沈黙の壁を取り払うように言葉を紡ぐと、広沢も大きく息を吐いた後、観念したように静かに言葉を続けた。



「どうやら見ず知らずの浪士に助けられたようで……幕府の体面を保つ為にも口外するなと通達がきましてね。そもそも一橋様が旅籠屋に出向いたのも地女との逢引だったそうで、此方からすると何とも耳の痛い話です」


「……我らが公武合体の上の攘夷を画策している時に将軍後見職は女遊びとは。その元凶の女は、さぞかし良い女なんでしょうな」


「まぁ、歳そう言うな。一橋様も男ですからな。我々のように表立って花街に来る事も出来ませんし」



 苦笑混じりの近藤の返答が心に虚しく響く。更紗は反論できないもどかしさが脳内を駆け巡るのを感じ。



「……あの……少し席を外していいですか?」


「如何されたのか?」


「酔ったみたいなので……酔いを覚ましてきますね」



 心配げな顔つきを覗かせる広沢に力無く微笑んで席を立つ。誰にも視線を向けることなく足早にその場を立ち去った。


 思いの外、乱雑に閉めてしまった襖の音が、心が苛立ち始めたことを自覚させてくれた。


 朱壁の続く迷路のような板廊下を、当てもなくただ道なりに歩いていく。


 等間隔に置かれた行灯の明かりが妖しげな雰囲気を演出していた。微かに聞こえる三味線と手拍子がやけに耳へと纏わり付いてくる。


「もう……聞きたくない…」



 胸を締め付ける息苦しさを感じた更紗は、咄嗟に伸ばした指先で着物の合わせをギュッと握り締めた。



 あの日、一橋慶喜は見合いと銘打って女の自分を同席させていたが、あくまでそれは建前だ。裏では開国派の浪士、坂本龍馬と密議を交わしていた。


 ゆえに決して女に現を抜かしていた訳ではない。日本の未来を考えた上で幕府として最良の選択を思案していたように見えたが、それを誰にも訴えることはできず。


「確かに……私は元凶なのかもしれないけど」



 収拾のつかない自己嫌悪に苛まれた更紗は、庭が一望できる渡り廊下を漫ろ歩く。


 真っ暗闇で一際明るく輝くのは月だ。あの明かりを頼りに屯所へ帰ってしまいたい。部屋へ戻る気はさらさら起きなかった。



「──先生、何処行かはるんどすか?」


 艶気を含んだ落ち着いた声が響く。二つの伸びた人影が背後から月光を受けて視界の端に紛れ込む。


「何処って……厠だが」



 更紗は慌てて渡り廊下を渡って曲がり角に身を隠した。寄り添う朱壁に手を這わせながら無意識に息を潜める。



「それなら、彼方どす。うちが案内しますさかい」


「否、案内には及ばねぇ。売れっ子芸妓さんは戻って広沢殿に酌でもしてやってくれ」



 聞き馴染みのある低い声だった。肌を刺すような冷たい夜風に溶け込んでこちらへと流れてくる。


 更紗は今すぐに立ち去りたい衝動に駆られるも、足に根が生えたように動けない。



「……広沢先生にはさっきの男の人みたいな剣士はんがいはりますやろ」


「男みてぇな剣士か……その算段だったんだがな」


「うちは土方先生の御相手をしに来たんどす。それで呼んでくれはったんやと思うたのに」



 立っているのがやっとの足下まで二つの影が伸び、ゆっくりと重なり合う。


 恐々覗き見てしまったことを後悔した。柔らかい光に照らされた紋付袴の土方の胸元に顔を寄せているのは、衿を抜いた芸妓だった。



「御部屋を用意してますさかい……朝までゆっくり泊まっていっておくれやす」


「ほぅ、祇園の芸妓は色は売らねぇんじゃ無かったのか。生憎、今宵は金子の持ち合わせはねぇぞ」


「……殺生な事言わはらへんといて……うちの気持ち分かってはりますやろ」



 涼しげな顔つきの色男が、陶器のように真っ白な女の頬にその長い指を添えていく。


「さて、何の事だか」



 更紗は目を逸らした。カッと顔が熱くなる。これ以上、二人の姿を見たくない。覚束ない足取りで後退る。



「……土方先生から金子を頂くつもりはあらしまへん。遊びで構わへんのどす……あの夜みたいに一晩…恋人にしておくれやす…」



 絡みつくような甘い声が耳の奥を攻めてくる。漸く動き始めた足が、呪縛から解き放たれるように地面を蹴る。


 玄関には誰もいなかった。更紗は緋色の暖簾を再び潜る。軒先に赤い提灯が吊るされた町屋続きの石畳を無心で駆け抜けていく。


 込み上げる熱いもの全てをなかったことにしなければ。たとえ視界がぼやけて前が見えなくても、心臓が破裂しそうに脈打とうとも、振り返ることなく無我夢中で走っていく。


 気づけば記憶の片隅に眠っていた、幼い頃に亡き母と何度も手を繋いで歩いた細道へと出ており。


「……置屋だ。やっぱこの辺は変わってないや」



 ぼうっと灯る提灯に書かれた屋号『吉野』の文字を見つめる。こじんまりとした町屋は、150年後と大差なかった。今にも芸妓姿の母が出てきそうだ。


「……もう十分傷付いたし……寂しい思いもしたんだから……そろそろ帰らせてよ」



 この世界に来てからというもの、人々の言動に一喜一憂させられ、偶然か必然か分からぬ出来事に押しつぶされそうな程の哀しみや苦しみを与えられてきた。


 それでも自分なりに乗り越えてきたつもりだ。生きて帰るためにも、もっと強くなる必要がある。こんな他人の恋愛ごときで泣いてる場合でないことは分かっているけれど。



「……見たくはなかったし……知りたくもなかった」


 更紗は唯一、自分と元いた時代の繋がりを感じられる景色を眺めていた。暫くして、背を向けるように踵を翻し、行く当てもないまま歩き始める。



 葉に色を付けた鮮やかな木々が、花街特有の光を受けてより綺麗な彩りを魅せる。


 景色の美しさを語る相手はいない。市井の男達、芸舞妓の楽しげなざわめきを遠くに聞きながら、更紗は行き場をなくした心の所在を懸命に探していた。


「……私、寂しいんだろうな」



 ずっと隠していた素直な気持ちを夜空にそっと解き放つ。どれだけ堪えても涙は言うことを聞かないつもりだろう。



 初めの頃はこの時代で生きていく現実を受け止めるだけで精一杯。一刻も早く元の時代へ戻ることを目標に、日々の生活をこなしていたのだが。


 あれから幾つかの季節が巡る。多くの出会いと別れを経験し、束の間の恋心も手にすることができる位には、ここでの生活に馴染んでいた。


「……でも、もう帰りたい。私なんて、ここに居なくていいじゃん」



 自分がこの時代にいなければならない理由はとうとう見つからなかった。幾ら考えても思いつかないのだ。


 誰かに必要とされたいと思い始めた欲深さは捨てなければいけない。この世界に勝手に慣れてはいけないのに。



 絹糸のように繊細に流れる高瀬川の水面では、月がゆらゆらと儚げに揺れていた。更紗は思わず足を止めて、対岸の景色をぼんやりと眺めていた刹那。


 荷物を運ぶ小舟からひらりと岸へ降り立った旅装束の若者が目深に被った菅笠を上げる。共に舟に乗り合わせていた男に向かって意味ありげに笑いかけた。


「……やっと京に着いたな、綺麗な所だ」



 聞き馴染みのある声色に慌てて男の顔を凝視した更紗は、即座に心臓が止まったような打ち震える衝撃を受け、潤んだ目を見開いた。

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