一力亭

 西日が傾くことで次第にその赤味を濃くしていく夕焼けが京の町全体を包み込んでいた。


 土道である上七軒とは異なり、石畳をカランコロンとぽっくりを鳴らして急ぎ足で進むのは、今から御座敷に向かうであろう芸舞妓達だ。


 黒髪を綺麗に結い上げ、華やかな着物にだらりの帯を締めているのは上七軒と同じである。朱色の外壁が堂々たる存在感を醸しているとある町家へと吸い寄せられるように入っていく。



「着いたぞ」


 建物の前で一行はピタリと立ち止まった。永倉の声を合図に更紗は駕籠を降りる。乗り心地はいいとは言い切れなかったが、歩かないだけマシだ。背中を伸ばしながらその町屋をマジマジと眺める。



「……永倉さん。ここって、あの一力亭?」


「そうだ、この前近藤さんが肥後守様直々に会合へ招かれたのは知ってんだろ。公武合体派の前で意見を述べて一目置かれたっつってたのがこの一力楼だ。俺らのような下っ端が入れる場所じゃねぇからな」


「そっか。ここで……開かれてたんだ」



 緋色の暖簾に書かれた『一力』という太い文字を見つめる。そこは現代でも変わることなく祇園を代表する格式の高い御茶屋だった。更紗は思わずほぅ、と息を洩らす。



 去る十月十日、近藤は祇園一力茶屋にて会津藩主松平容保公主催の会合に報国有志代表として出席し、その席上で国家大義における時勢論を展開した。


 近藤の考えるところによると、現時点で四カ国艦隊砲撃事件・薩英戦争を仕掛けた薩長による攘夷はあった。けれどそれは一藩、一港のみの藩国家単独攘夷であり、朝廷の望む日本国全体の攘夷には程遠いものであった。


 そこで、まずは公武合体を第一とし、朝幕関係をより強固なものにしてから幕府が断然攘夷を実行すれば国内情勢は自然と安全になる。その上で攘夷方針を固めて海岸防御策略を立てるべきだと発言したのである。


 この意見には、会津・薩摩・土佐・肥後・久留米・他公武合体派諸藩の参加者達も賛同した。それは将軍家茂公が再上洛し、幕府主導での国政を執ることが日本国内の紛乱を防ぐ重要な勤めなのだと結論付けるに至ったからだった。



「さて、気を引き締めて行くか」


「……え、ちょっと待って。私、この格好で入るの!?」



 完全に剣術稽古の帰りとでも言えそうな己の軽装が場違いであることを悟った更紗は、奇妙な焦燥に駆り立てられていく。



「だから、何で今日に限って浪士みてぇな格好してんだって言ったんだよ。芸の手習いは小袖だろ」


「じゃあ、その場で言ってくれたらいいじゃん。由緒ある一力亭にこんな格好で入りたくない…」


「先に此処に来る事をお前に伝えてたら付いてこなかっただろうが。法度において敵前逃亡は切腹だぜ」


「……ズルい」



 さらりと暖簾を潜る男の背中を睨みつけた更紗は仕方なく後に続いた。男衆に案内されるまま手入れの行き届いた見世庭を歩いて、立派な玄関へと進んでいく。


 屋内の装飾は島原遊郭の角屋と比べても全く見劣りしない豪勢なものだ。ベンガラ塗りの朱壁を囲う黒柱や梁の色の調和が美しく、より妖艶で品格のある空間となっていた。


「……それで、私は何をしたらいいの? 開国派の太鼓持ちって……何?」



 自分の周りで開国派だと分かっている人間は今のところ坂本龍馬だけである。表向きは攘夷派を装っている一橋慶喜は、致し方なく開国の道を模索している様子であった。


 無論、佐幕の意識が根付いている新撰組の思想は攘夷派。日本人の誰もが自然と持つ攘夷の志を掲げているため、彼らと開国派との繋がりは見えない。



「お前、芹沢先生の葬儀に来てた恰幅の良い会津藩士覚えてるか?」


「全然。どんな人ですか?」


「どんな……島田みてぇにでけぇんだけどよ。あー……芹沢先生と最期に飲んだ角屋の宴にも来てたなぁ…」



 永倉は何かを思い出したように余韻に浸り始めた。更紗は、胸の内に広がる罪悪感を押し込めるように目を伏せる。



 凄惨な暗殺事件から一ヶ月以上経つが、未だ永倉が夜に八木邸を訪れては芹沢を偲んで献杯を捧げていることを人伝に聞いていた。


 一隊士である以上、亡き筆頭局長を惜しむような行為は控えて貰いたいところ。けれども、死しても尚、芹沢へ想いを馳せる永倉を目にした近藤は、好きにさせるようにと静観の指示を幹部に出していた。



「……でだ、お前に会いたがってるんだとよ。どうやら異人の知り合いがいるらしくてな。お前を見て是非とも話してみたいと近藤さんに言ってきたそうだ」


 こちらに視線を寄越した永倉の表情はいつものものだった。ホッとした更紗は真面目な顔つきで何度か小さく頷く。



「……なるほど。そういうことですか」


「お前はその藩士の酒の相手をするだけで良い。取って食われねぇように俺も見ててやるし、周りには近藤さんも土方さんも……もしかすると左之もいるかもしれ…」


「ちょっと待って……近藤先生はともかく……他の人もいるの!?」


「別に全員の相手をしろって言ってんじゃねぇぞ。妓も呼んでるだろうから俺らの事は気にすんな」


「それが一番嫌なんです! ああ、もう……」



 心の奥底にある後ろめたい思いが複雑に渦を巻いていく。瞬時に胸は激しく波立っていた。


 只でさえ、初対面の人と会話をするのが苦手なのに、相手が新撰組を預かっている会津藩士だと知れば、言葉を選んで話さなければならない。


 その上、一番見られたくない相手が監視役とは新手の嫌がらせなのだろうか。近しい人達に高みの見物を決め込まれるのは、更紗にとって受け入れがたい罰でしかなかった。



「……こんな格好だし……会わないようにしてたのに……やだ…」


「何一人でブツブツ言ってんだよ。ほら、入るぞ」


「やっぱ無理です……帰る…」



 土壇場で逃げ出そうとする女の腕をパシリと掴んだ永倉は、男衆が静かに開けていく襖の前に躊躇なく更紗を引き摺っていき。


「敵前逃亡は……切腹だっつってんだろ」



 否応無しに突き出された女の目に飛んできたのは、三味線と艶っぽい歌に合わせて扇子をひらり、ひらりと戦がせる舞妓の美しい舞姿だった。


 寛いだ様子で盃片手に見入っていた侍達とその横にもれなく寄り添う妓達の視線が一気に集まる。



「……本気で……無理」


 完全にお呼びでない空気感が漂っていた。更紗は誰とも目を合わさぬよう朱壁に視線を流す。今すぐにでも消え去りたい衝動に駆られた。


「…おお、更紗! やっと来たか! 広沢殿がお待ちかねだ。此方へ来なさい」


 ほんのりと赤らんだ顔で上座から嬉しそうに手招きをする近藤の傍には、丁髷を結わえた見知らぬ侍が二人。



 一人はスラリとした体躯たいくをしている男だ。精悍な顔を興味深げにこちらへ向けて、芸妓と親しげに談笑している。


 もう一人の男は偉丈夫と呼んでもいいほどに大きく立派な身体つきをしている。目が合うと柔らかい表情を浮かべて会釈をしてくれた。


(見たことあるかなぁ……覚えてないや)



 同じように頭を垂れた更紗は、全員の視線を一身に受けながら仕方なく男達の元へと歩みを進める。



「何だよ更紗! その男みてぇな格好は! どっかの藩の美丈夫が間違って入って来たのかと思ったぜ」


 あどけなさの残る舞妓に酌をして貰っていた原田は下座にいた。更紗に向けて茶化すような物言いで言い放てば、隣の妓が頬に手を当て愛くるしい目を見開いた。



「え、原田先生……あのお綺麗なお侍はんは男の人やないんどすか?」


「ああ、見ての通りの色男だが正真正銘の女だ。だから、俺のように股に良いもんはぶら下げてねぇぜ。何だ、残念だったか?」


「そないないけず、言わはらへんといて下さい。背も高いし……ほんまもんの男の人みたいどすなぁ…」


「それにしても何でまた……天下の一力楼にそんな格好で来たんだ? 今日は手習いの日だろうが」


「……今、身に沁みてるから、それ以上言わないで」


「ま、似合ってんだから気にすんな! 後で俺の相手もしてくれ、な」


「……元気だったらね」



 慰めにもならない言葉だが、原田にはよそ行きの顔がなかった。畏まった場所でも、いつもと同じ態度で接してくれるのは更紗としてはありがたいものだ。緊張がほぐれ、平静を装うことができた。


(……綺麗な人。こんな感じの人も好きなんだ)



 無意識に土方に寄り添う芸妓を横目に見る。衿を大胆に抜いているのは、普段からなのだろうか。一重の涼しげな瞳でこちらを見据えてくるため、更紗は慌てて視線を逸らした。



「さぁ、此処に座りなさい」


「……あ、はい。失礼します」



 近藤の機嫌はすこぶる良いようだ。見知らぬ侍達の間に入るよう促され、空けてもらった空間へ腰を下ろす。



「更紗、紹介しよう。新撰組が懇意にさせて頂いている会津藩の公用方であられるのだが……此方が山本覚馬殿で藩の軍事取調兼大砲頭取で居られる」


「はい……山本様、こんな格好で申し訳ありません。市村と申します。どうぞ宜しくお願いします」


「いやぁ、貴女様がめごいと噂のおなごですか……たすかに気になるのもほうほうねぇ。わりが、つうとこの奥手にかまってくなんしょ」


「……え…あ、はい……?」



 凛々しい顔からは想像できない方言が目の前に落とされる。何を言っているのか理解できず、咄嗟に拍子抜けした声を上げてしまったが。


「……山本殿の言葉は聞かなくて良い。忙しい所、呼び付けてしまって申し訳なかった」



 傍に落ちてきた野太い声がとても優しいもので、更紗は自然と声のした方へ顔を向ける。


 その男は会釈をしてくれた侍であった。巨体に似合わず、どこか緊張したような、少し恥じたような、曖昧な表情を浮かべている。


「……私の事は知って貰えているだろうか? これまで二度、顔を合わせてはいるんだが…」


「えっと……広沢様ですよね…? 確か……芹沢さんのお葬式の時と……角屋で…」



 本当のことを言うのも角が立つので、ここへ来るまでに得た情報を口にしてみる。全ては永倉からの受け売りだ。自信はないが、嘘ではないはずである。


「……角屋の時は直ぐ傍に居たんだが、如何しても声が掛けられなくてね。まさか気に掛けて貰えてたとは思わなかったよ…」



 その侍は、至極嬉しそうに微笑んでくれた。更紗は気まずさを覚えつつ、心の奥底へ仕舞っていた当時の記憶を手繰り寄せてみる。


(角屋で傍にいたっけ? いないよね……)



 あの日の角屋で思い起こされるのは、芹沢と向き合ったひと時だけ。一生忘れることのない思い出ができるくらいには、周りに目を向ける余裕は持ち合わせていなかった。



「あの時の遊女が偽りだと知り、安心したんだよ。葬式で見かけた貴女が同一人物だとは思わなかったが……成る程、確かにこう見てみると……あの時の遊女なのだと納得した」


「え、ちょっと待って下さい……何でそれを……」


「……更紗、済まない。広沢殿が如何してもと仰られてだな、その…」



 円らな瞳を細めて笑う広沢を見つめていた更紗は、罰が悪そうに苦笑う近藤の言葉の意味を理解するや否や、恥辱に似た感情が呼び起こされカッと全身が熱くなる。


 誰にも言わないと約束した出来事は、自分が知らないだけで当たり前のように赤の他人の耳に届いている。

 

 近藤が言い出せなかったのは無理もない。代わりに永倉にここまで連れて来られた理由も理解した。けれども、絶対に逃げられない状況下で白状されるのは己の存在を認められていないようで、怒りを通り越して心底悲しかった。


(……終わるまでは頑張ろう。似たようなことはこれまで何度もあったんだから……落ち込むのは後だ)



 自分が悲しんでいる理由が実に下らないもので、新撰組が抱える諸問題のほうが遥かに大事なのは分かっている。


 この宴を円滑に進めるために芸舞妓が必要であるように、会津藩と良い関係を築くためにも今、この場で新撰組に貢献すべきなのだろう。



「如何してももう一度貴女に会いたくてね。異国人の血を継ぐのだと聞いて、ゆっくり話してみたかった」


 男は愛嬌のある顔一面に満悦らしい笑みを浮かべていた。対して女は切り裂くような胸の痛みを隠してよそ行きの笑顔を貼り付ける。


「……私で良ければいくらでもどうぞ」



 自尊心が霧のように薄れていく代わりに、裏切りの闇に潜む孤独が更紗の心にゆっくりと確かな足取りで歩み寄ってきていた。

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