舞とお太鼓

文久三年 十月下旬


上七軒 喜み乃屋にて




 抜けるように澄み切った群青色の空の下、おびただしい数の落花が辺り一面を橙色で覆い尽くしていた。


 外から縁側へと風が吹き抜ける。微かに漂う金木犀の香りをとある部屋まで運んでいた。




真葛が原に そよそよと 秋ぞ色増す 華頂山


時雨をいとう 唐傘に 濡れて紅葉の 長楽寺




 甘過ぎない爽やかな香りが鼻腔を優しくくすぐる中、二人の若き女は伸びやかに唄われる芸妓の歌声に合わせて扇子をひらひらとそよがせた。強く鳴らされる三味線を合図に、しなやかに身を反転させる。




想いぞ積もる 圓山に 今朝も来て見る 雪見酒


エー そして櫓の差し向かい ヨイヨイヨイヨイ ヨイヤサー




 パチリと扇子を閉じる音が二つ小さく聞こえる。女たちが丁寧な所作で腰を下ろし指を畳に添えると、互いの動きを意識しつつ頭を垂れた。



「おおきに、御粗末さまどした」


「はい、お二人はんとも御苦労さんどした。更紗はん、舞の硬さがだいぶ解れてきはったねぇ。君菊もよう出来てはります。はい、今日はこれで終いにします」


「君知重お姉はん、おおきにありがとうさんどした」



 声を揃えて芸妓へ礼を述べると、その女は艶やかな黒着物の裾から赤襦袢をチラリと覗かせ立ち上がる。教え子に向かって妖艶に微笑み、そろそろと部屋を後にした。


 襖が閉まり切るのを見届けた二人は途端にふぅ、と畳の上で脱力した。礼儀正しく正座していた脚を遠慮がちに崩していく。



「……良かった……怒られなかった」


「うちにもよう出来てはりますやって……初めて言われた。君知重お姉はんは喜み乃屋でも一番手習いに厳しいお姉はんやからなぁ」



 鈴を震わすように小さく笑う君菊と目が合った更紗もクツリと笑みを返し、冷たい秋風が橙色の絨毯を散らす庭へ視線を向けた。


「君知重お姉さん……何か良いことでもあったのかな」




 更紗が上七軒の置屋 喜み乃屋で芸事の手習いを受けるようになって早一ヶ月。



 初めの頃は上七軒独自の勝手が分からず、所作や行いを注意される度に戸惑い、言われるままに稽古をこなす日々だった。


 けれど、時と共に仕来たりにも慣れていく。隣にいる舞妓の君菊が世話を焼いてくれるお陰で、同門の芸妓とも少しずつ打ち解けられるようになっていた。



「……さてと、帰る準備でもするか」


 緩々とその場から立ち上がった更紗は、部屋の端に畳んで置いていた黒袴を見やり、歩みを進めていく。


 微かに薫っていた金木犀の甘い匂いが、室内で焚いていた妖艶な白檀の香りに飲み込まれ始めた刹那。


「お姉はんの良いこと……更紗はん知りたい?」



 小さく響いた言葉は控えめながらも含みがあった。更紗は辛子色の帯をはらりと解きながら興味深げに声を弾ませる。



「え、何?……君知重お姉さん、何か良いことあったんですか?」


「さっき逢状をお母はんから受け取ってはったんやけど、それ見はってから機嫌良くしてはるんどす」


「逢状って……お客さんが座敷に呼び出してくれる紙ですよね? 馴染みの人が来てくれたのかな…」


「それが、他のお姉はんの話しやと新しい馴染みはんが出来はって、その御人がこれまでの馴染みはんとは比べもんにならへん位、素敵らしいんどす」



 茶目っ気たっぷりに話す君菊の大きな瞳はキラキラと輝いていた。その愛らしい表情には憧れと同時に羨ましさが表れている。



「何処ぞの庄屋の若旦那はんらしいんやけど、苗字帯刀を許された身分の御人らしくて……背が高くて、濃い御顔立ちしてはって鼻筋がスッと通ってはるんやって」


「へぇ、男前なんですか」


「でも、それだけやなくて……いつも物腰柔らかにお話してくれはる上に、この前、馴染みになった証として平打簪を贈ってくれはったんやって」


「へぇ、太っ腹なんですね」


「更紗はん、君知重お姉はんの此処に挿さってはった銀色の簪見てはった? あれかなぁ…」



 うっとりとした表情で自身の簪をゆっくりと挿し直す君菊を一瞥した更紗は、またかと言うように口元を綻ばせた。手に取った黒袴に脚を通し袴紐を結んでいく。



 花街の世界は女の園。嫉妬や羨望渦巻く駆け引きの坩堝るつぼである。


 無論、この喜み乃屋でも噂話は止まることを知らない。置屋の妓達は誰かしらの妓の浮き名を取り上げては、お喋りに花を咲かせていた。




「うちも……土方先生が馴染みになってくれはったらなぁ……夢のような話しやけど…」


「もう何度も御座敷に呼ばれてるんだから、立派な馴染みじゃないですか。他のお姉さん達が羨ましがってましたよ」


「そうは言わはっても……お話ししてもうちの事を妹のように思うてはる気がして……もっと女として見て欲しいどす…」



 消え入りそうな声で呟く君菊にはいつものような幼さはなく、色恋を感じさせる大人の女の表情をしている。



「……君菊さん、すごく可愛いのに色っぽいから、ちゃんと女として見てると思いますよ」


「そんな事ないどす……可愛くも色っぽくもないどす…」


「もっと自信持っていいと思うけどなぁ。私、愛嬌も色気もないから羨ましいです」


「そんなん言わはらへんといて……でも、おおきに。何や、更紗はんに言われると恥ずかしいんやけど嬉しいわぁ…」



 憂いのある顔つきをしていた女はみるみる赤く染まる頬を両の手で覆った。まるで初めて恋をした少女の反応だ。はにかむ笑顔がもれなく愛らしい。


 そんな感情豊かにコロコロと表情を変える君菊は更紗には眩しくて、目を逸らしたくなるような複雑な気分を与えられるものであった。


「せやけど、更紗はんも綺麗でいてはるよ。ほら、独特の雰囲気持ってはるし」


「……独特の雰囲気、ね」



 更紗は聞き馴染んだ同じ言葉を繰り返した。袴を着付け終えたので、足下に落ちていた帯を畳み、若草色の風呂敷に包んでいく。



「いつ見ても凛としてはるから……例え一人にならはっても、健気に生きていけそうやなぁて…」


「それって、強く逞しく見えるってことですよね」


「……すんまへん。そう言うつもりやないんどすけど……急に刀持ってきはるようになったから……何かあらはったん…?」



 可憐な顔に不安の色が覗く。君菊の優しさに気づくも、更紗はあえて素知らぬ振りで置いていた脇差しを左の腰元へ差し込んだ。留紺色の羽織を手に取り立ち上がる。



「君菊さん、ありがとう。でも、特に何もないですよ。ただの護身用ですから」


「そんなん……女が袴着て刀持ってるなんてけったいどす。土方先生も気にしてはるし……一昨日来はった時も何か知らへんか聞いてきはったよ」


「そんな心配しなくていいのに。一人で生きていける位強いですし」


「……更紗はん」


「嘘ですよ。今日はお疲れ様でした。また宜しくお願いします」



 更紗はわざと明るい声を出しながら心配顔の舞妓へ悪戯っ子のように微笑んだ。開けた襖を振り返らずに後ろ手で閉める。途端に小さな溜息を落とした。


「……ほんとは強くないんだけどな」



 幼い頃から悲しいことや辛いことがあっても誰にも言わずに我慢してきた。その性格のお陰で、人前では何でもこなす勝気な女をそつなく演じるようになってしまっていた。


「……自分のことは自分で守らなきゃ……」



 これまで暗殺や粛清の現場に居合わせてしまっても、自分は一傍観者でしかなかった。加害者側だったせいなのかもしれない。どこか他人事のような気がしてならなかった。


 しかしながら、初めて被害者として暗殺未遂に対峙したあの日から考えは変わった。殺らなければ殺られるという極限状態の中では、生きるために振り上げる刀があるのだ。たとえ心が置き去りにされても、だ。


「……生きて帰るんだから」



 更紗はかろうじて光の射し込む板廊下を歩く。続く道の仄暗さはあの夜を彷彿させた。背筋に刃を当てられたような戦慄が身体中をひた走っていく。


 一人になると蘇るあの時の痺れを抑えなくては。緩々と伸ばした左手の指先で風呂敷を抱える右腕を着物の上から何度も摩り続けるが。


「……そんな顰めっ面で歩いてたら折角の色男が台無しになるぜ」



 不意打ちで放たれた芯のある低い声に、更紗は慌てて暗がりの玄関口へと視線を這わせる。


 そこには、鉄黒色の羽織袴を纏う冷めた顔つきの永倉が腕組みをしていた。いつもと違う小綺麗な風貌である。



「あれ? 永倉さんが迎えに来てくれるなんて珍しい。今日、巡察だったんじゃ…」


「源さんと代わったんだよ。つうか、お前何でそんな浪士みてぇな格好してんだ。予定が狂っちまうじゃねぇかよ…」



 会うなり不服そうにブツブツと文句を言い始める。何か厄介な問題でも起きたのだろうか。更紗はそれを横目に式台に座り、赤の鼻緒の下駄へ足を通していく。


 この永倉新八という男、ムードメーカーの原田や笑い上戸の藤堂と連んでいることが多いため、おちゃらけて見られがちだが、実は政治や時勢に詳しく物事を的確に捉える新撰組の頭脳であった。


 今は亡き芹沢はそんな永倉の才を見抜いて可愛がっていたのだろう。それを知っている更紗は今しがた呟かれた言葉が何となく引っかかって仕方ない。



「予定が狂っちまうって……何か企んでます?」


 ゆっくりと立ち上がった更紗は探るような顔つきで隣を見つめる。永倉は視線を合わせたまま小さく息をつくと踵を返して玄関口の引き戸を開けていく。



「……まぁ、こうなったらしょうがねぇ。ナリは良いとして、一つ頼まれて欲しい事があんだ」


「頼まれて欲しいこと? え、何ですか……聞いてからじゃないと…」


「あー、お前に拒否する権利はねぇぞ。局長命令だ。まぁ、そんな大した事じゃねぇんだけどよ」


「………局長命令って……何でそれを永倉さんが」



 屯所の一日は、決まって六ツ半の朝餉の時刻に新撰組の隊士全員と顔を合わせることから始まる。


 今日も例に漏れず、近藤局長に朝餉の膳を運んで他愛のない会話をしたのだが、何か頼み事をしたいような素振りを感じることもなかった。



「そりゃ、お前がこの前までお梅さんの件でつれなくしてたから気ぃ使って言えねぇんだろうが。…たく、近藤さんに正面切って喧嘩を売る人間なんざ俺の知る限り、お前と芹沢先生くれぇなもんだぜ」


「……だって、あれは…!」


「ああ見えて、女にはすこぶる弱ぇんだからよ。あれだけ平隊士の前でもショボくれた姿を晒させたんだから、少しはお前も責任取って役に立つよう動けよ」



 呆れたように振り返る永倉の視線が何とも痛いもので、更紗は喉元まで出かかっていた反論を飲み込んで、その場に立ち止まる。


 今でこそ近藤とも普通に会話するようになったが、少し前まではギクシャクしていたのは事実だ。梅を売女呼ばわりしたことがどうしても許せず、素っ気ない態度を取り続けてしまった。


 流石に一ヶ月も経つと怒りも落ち着き、大人気なかったと反省しきりであるが、それを第三者からストレートに指摘されるのはかなり決まりの悪いものである。



「……私は何をしたらいいんですか?」


 前を歩く逞しい背中へ控えめな声を投げかけてみるも大した反応はなかった。永倉は軽い足取りで陽だまりへ溶け込んでいく。


 更紗も後を追って玄関を出て行けば、喜み乃屋の提灯の傍に二丁の町駕籠が待機していた。



「……どこかに行くんですか?」


「ああ、祇園にな」


「は? 祇園?」


「ちょっくら開国派の太鼓持ちにな」



 白けた顔つきの永倉に促されるまま町駕籠に乗った更紗は、独特の浮遊感に身を任せた。早々と過ぎ去っていく上七軒の景色を思案げに眺める。


「開国派の太鼓持ちって……何だろう」



 山際に見える群青色の空はいつの間にか朱を落としたような、深い紫陽花色の夕空に変わろうとしていた。

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