桜花一片に願いを

月波結

桜の花が散る前に

 ソメイヨシノばかりか、ヤエザクラまでとうとう散ってしまった。今年の春は気温の変動が激しくて、寒かった3月下旬からソメイヨシノはだらだら咲き続けて、暖かくなったと同時に最高気温も25度前後まで上がり、今度はヤエザクラが咲いた、散った、という感じになった。


 もうヤエザクラの木にはほとんど花が残っていない。風に乗って運ばれてきたひとひらの花弁を指先で摘む。


「何、暗い顔してるんだよ」

 声をかけられて顔を上げると、そこには陽介がいた。同じサークルの陽介は何かといちいち絡んでくる。平凡そうなくせに、よく見ると薄いからだのわりに肩幅が意外とある。細くてわたしより華奢な手首なのに、わたしより握力があって何だかズルい。

「桜、もう終わりだね、今年も」

「なんだよ、花見したかったの?」

「そんなこと言ってないけどさ」

「去年みたいに今年もする?」

 去年のことを思い出して、頬がかーっと熱くなる。

 わたしと彼は下宿先が近くて、用事がある時、話したい時なんかにお互いの部屋を行き来した。付き合ってもいないのに不思議な話だけれど、陽介なら、二人でいても平気だった。

 陽介はいつも、つまらないわたしの恋愛話を聞いてくれた。

 わたしの好きな人は今年、院に入った人で片桐さんという。会う度に陽介は、片桐さんの話をまるで何でもない雑談をする時のように、ある時はスナック菓子を食べながら、コーヒーを飲みながら、……花見をしながら聞いてくれた。

「いいよ、花見。早くしないと全部散っちゃうぞ。まあ、吉田兼好曰く、はなはさかりに』だけどな」

「何それ、じじくさいよ」

「浪漫があるじゃん。『花は盛りに、月は隈無きをのみ見るものかや』。桜は盛りだけが美しいわけじゃないし、月は雲ひとつない晴天の時だけに見るものだろうか? ――つまり、花のなくなった桜でも、風情はあるってこと」

「……文系?」

「理系だよ、知ってんだろ」

 「バーカ」と、陽介が隙だらけだったわたしの脇腹を人差し指で突いた。ガードレールに腰掛けていたわたしは危うくバランスを失いそうになって陽介に受け止められる。「もう!」、二人して笑い合う。


 片桐さんのどこがそんなに好きかというと、その笑顔だ。笑うと、優しげに目じりがやや下がる。人当たりのいい話し方をする先輩の、育ちの良さを感じさせられる。そばにいるだけで、ふんわりした気持ちになる。そうして、片桐さんを好きな自分の気持ちを肯定された気になる。

 片桐さんを好きな自分が好きになる。

 それは人生にとって、とても大きなことだ。


 あのコンビニ、と言うとわたしたちには共通のコンビニがあった。それはAだったり、Bだったり、Cだったりしたけれど、「ほらあそこの」と言えば、「わかったよ」となった。今日は去年花見をした公園近くのBのコンビニで待ち合わせだ。

 わたしの方が先に着いて、とりあえずコーラやらポテチやらを物色する。これ新しいな、なんていつもはあまりよく見ないスナック菓子コーナーで足を止める。

ああ、そう言えば花火も一緒に見たっけ、と思い出す。あの時もこのコンビニで待ち合わせて、自転車で炭酸飲料も揺らす勢いで花火の見えるところを探したっけ。思い出せば思い出すだけ、わたしたちはバカみたいだった。

「何、思い出し笑いしてんの」

「あ、いつ来たの?」

「今だよ。チャイム鳴ってただろ?」

 客が入ってきた時のチャイムはちゃんと鳴ったようなのに、わたしの気持ちは花火の向こう側にいたらしい。

「前にもここでいろいろ買って花火見に行ったなーと思ってさ」

「あー、結局見えなかったやつ!」

「やっぱビルの間からとか言ってないで、横着しないで海まで行けばよかったんだよ」

「それなー」

 くすくす笑う。陽介といると、上手くいかなくても笑えることばかりだ。

「まだ、何か買う?」

「いつもの大体買ったんだろ?」

「……ね、ね、新商品なんだって。これ、買ってもいい?」

 わたしはちょっと高級感のある金箔が押されたようなパッケージのチョコレートを指さした。

「高っ。……まあ、いーよ。たまには好きなの買えよ。どうせまたグチグチ泣くんだろ?」

「泣いてないじゃん!」

 はいはいはい、と言ってチョコレートをカゴに入れると、陽介はレジに向かっていった。


「ここに来て正解だったな」

「うん、桜、遅かったんだね。まだけっこう残ってる」

 へへへ、と少し締まりのない顔をしてわたしは笑った。陽介がコーラのボトルを開けるシュワッとした音が聞こえる。わたしはプリングルスのフタをペリッと剥がした。

「また何か悩んでんの?」

「あー……」

 長い付き合いのせいで、相談しようか迷う頃には悩みがあることに気づかれてしまう。

「何でいつも先読みするかなぁ?」

「お前が単純でわかりやすいからだろ?」

 そっかなー、と思う。わかりやすいところはあるかもしれないけど、単純かどうかはわからないんじゃないかな。もし単純だったらこんなに悩まない。

「わたしさ、先輩が就職するのかと勝手に思い込んでて」

「うん、人の話聞いてなかったわけだ」

「そうそう、噂なんか聞いてなくてね。それでまだ院に残るって知ったからさー」

「……から?」

 言葉が上手く出てこない。スマートな言い方を考えている、というのはたぶん言い訳で、勇気がなくて言い出せない。言葉が震える。

「告白しようと思ったの、桜が散るまでに。あ、ほら、院に行くと忙しいから片桐さんもそうそう部室には来られないでしょ? ダメでも気まずい思いしなくて済むかなって」

「告白か。そうだよな、先に進まないわけには行かないか」

「うん? 今じゃおかしいかな?」

「いや、いいんじゃない。片桐さん、お前みたいなタイプ、好きだと思うよ」

「お、おお?」

 えー、そんなこと今まで一度も言わなかったくせに、と思う。なんで今になってそんなことを言うのか困惑する。

「卒コンのときにさ、さりげなく聞いたの、好きなタイプ。『素直で飾らない子』だって。お前にも部がある」

「そんなこと聞いたの?」

「んー、ついでに彼女、いないってよ」

「……。がんばったほうがいいよね? 桜、散っちゃうんだよー」

 プシュッと金属音と炭酸ガスの音がして、陽介はいつの間にかビールを開けていた。

「なんだよー、知佳ちかと遊ぶのも最後かな、これは」

「そんなんわかんないじゃない……上手く行くとは限らないよ」

「これはもう最後だろ? 片桐さんと付き合うことになったら誤解されるとまずいしな」

 片手に持ったビールを、ぐいと一口あおるのを見ていた。銀色のアルミ缶が街頭の光を反射して冷たそうに見えた。


 何か、微妙だった。

 あんなことを言われると、何だか悔しいような不思議な気持ちになった。わたしたちの友情は、恋愛で壊れたりしないものだと思っていた。あれでは今生の別れのようだ。

「あれ、知佳ちゃん、ひとり? もう誰も残ってないかと思った」

「え? あ、そう言えばみんな帰って行って」

 陽介が現れたら今の気持ちをぶちまけようと、部室で考え事をしながら待っていたところだった。一人帰り、二人帰り、……気づけばいつもの時間に現れない陽介を待って、こんな時間になってしまった。

「春とはいえもう薄暗いよ。帰るんなら送ってくけど、まだ誰か待ってる?」

「いえ。でも先輩、まだ帰れないんじゃ」

「今日はたまたま早く終わってね。帰って部屋でゆっくりできそう」

 ガードレール脇に停めた自転車を二人で引いて、話しながら歩く。目を上げるとそこに先輩がいる。恋人たちの距離だ。

「どうしたの? 今日、あんまり喋んないね」

「え、そんなことないですよ」

 胸がいっぱいで、言葉はため息に変換されてしまう。連続するため息を聞かせる訳にはいかなかったので、一人、息を潜めていた。

「陽介と話してるとポンポン会話してるでしょ?見てると楽しいよ。仲いいよね?」

「え? 腐れ縁、みたいなものですよ」

「いいんじゃない、腐れ縁。そのまま持ち越しても」

 そーっと、そっと先輩の優しい目元を見上げると、4月の宵闇のような柔らかい微笑みをたたえていた。それはわたしのとても好きな表情で、それからそんな表情で陽介との仲を誤解されていると思うと複雑だった。……言おう、今、言おう。


「じゃあ、オレはこっちだから。あとは一人でもすぐだったよね?」

「……先輩」

「どうしたの?」

「先輩……あの、言おうって決めてたんです。わたし、先輩のことが好きなんです。ダメですか?」

 先輩の顔が見えなかったのは、下を向いていたし、目を瞑っていたからだ。小刻みに指先が震えて、変な力が入る。

「知佳ちゃん、ありがとう。ダメじゃないけど、知佳ちゃんにはもっと近くにいるんじゃないの? オレが知佳ちゃんを好きになるのは簡単かもしれないけど、その前にもう知佳ちゃんのこと、ずっと強く想ってるヤツがいるの、わかってるでしょう?」

「……わたしの好きなのは片桐さんなのに?」

「うれしいよ。でも、卒コンのとき、酔っ払って叫んでるヤツいたよ? 嫌いじゃないんでしょ、アイツのこと?」

「……そんなことしてたんですか?」

「してた、してた。あの時間まで残ってたヤツはみんな聞いたし。『誰にも渡したくない』とか言い出しちゃったから、一応、陽介に話してからじゃないとね」

 シリアスな場面のはずなのに、先輩はくくっと楽しそうに笑った。わたしは棒立ちになって混乱した頭の中を整理しようとした。

 ……確かに、そんなこともあるかもしれないと心のどこかでほんのり思っていた。陽介がわたしの話を聞いてくれるのに、わたしには好きな人の話をしてこないのはアンフェアを通り越して不自然だった。

 でもそんな、「渡したくない」って言われるほど想われてたって、そんなことあるわけない!

「陽介にそんなつもりはないって言われたらおいで。付き合いの長い陽介とは違ってオレたちのスタートはこれからになっちゃうけど、オレはそれでもいいよ。だから、気持ち、確かめてから来て」

 あやふやなムードに、ぺこりと頭を下げて自転車に跨る。意味もなくガシガシとペダルをこいだら、あっという間にアパートまで着いてしまった。息を切らせて門を開ける……。

「よう」

「ちょっ、敷地内にいきなりいるかな? 連絡してからおいでよ」

「既読つかねーし。ここ来る途中、片桐さんとお前、追い越したし。……上手く行ったんなら、ゲームとかマンガとか撤収しないとあらぬ疑いがかかると困るだろ?」

「……」

 わたしは唇を噛んだ。春のしっとり湿った夜露の中、陽介を見上げた。見慣れた顔だ。じっとわたしを見ている。

「髪の毛」

「え?」

「ほら、花びら。よかったじゃん、散る前に告白できたんだろう?」

 陽介のそれとは比べ物にならない小さなわたしの手のひらに、そっと、薄い花びらが乗せられた。風に吹かれたら簡単に飛んでしまいそうで、もう一方の手でふたをする。花びらを透かすようにその手を見ていた。

「陽介さ。……わたしを好きなの?」

「お前は片桐さんが好きなんだろ?」

「答えて。知りたい」

 まったくこんなやり方は不公平だった。自分を好きだと知っている人間に、告白することを迫るなんて、我ながらどうかしてる。

「……本当に知りたい?」

 お母さんに叱られて言い訳をする時の男の子のような目で、陽介はわたしを見た。甘えられている。いつもはわたしが彼を一方的に頼ってばかりだったのに。

「橋本知佳さん。黙ってたけどずっと好きでした。知佳が他の人を好きでも、気持ちが変えられなかった、ごめん」

「だってずっとそんなんじゃ」

「だっても何も。新歓で会った時からかわいいって一目惚れだったんだから、本当に好きだったんだよ。ずっと一緒だったから最近好きになったとか、そういうじゃないから」

 拗ねるような口調で喋る彼に、わたしは何も言えなかった。もしも魚なら、本当に口をパクパクさせたことだろう。

「片桐さんともう上手く行っちゃった? ……オレお前には怒られちゃうけど、上手く行かないように牽制しちゃったんだけど」

「バッカじゃないの? そんなんしたら上手く行くわけないじゃん。片桐さん、引き気味だったよ。第一、なんでフラれるかどうか、陽介の言葉、聞いてから決めるのよー」

 自転車のそばにとうとうしゃがみこんだわたしの隣に陽介が座って、頭にぽんと手を置く。それは彼がわたしを元気づけるためにしてくれる動作だったので、妙な具合に胸がドキドキする。いつもはそんなんにならないのに、当事者同士の話だと違うのかもしれない。

「片桐さん、そんなこと言ったんだ?」

「言った……。気持ち、確かめて来いって」

「知佳、オレさ、お前が何て言っても片桐さんにはやれない。他の男にも。こんなに一緒にいて、気持ちが募らない方が変だろ?」

「本気?」

「すげー本気。オレじゃダメ? 絶対今までよりもっと優しくするし、大切にする。泣かせないし、寂しい思いもさせない。お前のことなら大概わかってるからできると思うよ。だから、オレにしてよ」

「絶対?」

「絶対」

 しゃがんだまま膝を抱えた姿勢で動けなくなり、赤くなった顔は彼に見られずに済んだ。どうしてか滲んでしまった涙は絶対見られたくなかった。だってまるでわたしがすごく泣くほど喜んでいるみたいだもの……。

「悩み、あるの」

「悩み? え、今ここで相談?」

 こくん、と頷く。

「我ながら信じられないことなんだけど……わたしの心の中って、およそ9割は陽介のことでいっぱいらしいよ。それは友情込みだけどさ。……大事にしてよ」

 恐る恐る、ではなく、がばっと大きな両手がわたしの顔を挟んで強引に前を向かせると、頬の肉がたるんで絶対に変顔になってるんじゃないかと気になる。でもそんなことおかまいなしというように、目と目が合うより先に……唇が重なった。

「キ、キス……!」

「いいんじゃないの? もう、そういう流れでしょ?」

「違う! 陽介、キス上手い! やだ、不潔、嫌い! 追いかけてこないでよ!」

 ご近所迷惑な足音を立ててアパートの外階段を上がると、鍵を開けて部屋に滑り込む。さすがに彼も大きな声を出せずに、自転車の走り出す音が聞こえた。

 心臓の音が耳の奥でこだましている。力強いその音に耳を澄ますと力が抜けた。

 直ぐに思っていた通り、陽介からメッセージが入ってスマホのロックを外す。

『好きだから、大事にするって約束するよ』

 じんわり、心の奥の方から温かい感情が沸き起こってくるのを感じて、さっきのキスを思い出す。


 今までに何人くらいとキスしたのかなー?


 目じりに何かが溜まってきて、手のひらに握りしめていたものを思い出す。桜の花びら。わたしたちにとって新しいスタートの最初のプレゼント。

 色画用紙に貼ってラミネートしたら、思い出の栞ができるに違いない。

『明日は画用紙、一緒に見に行ってね』

 間髪入れず、OKのスタンプが押される。


 ――ロマンティックかそうじゃないかはわかんないけど、まあ、こんな始まりがあってもいいんじゃないの?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桜花一片に願いを 月波結 @musubi-me

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ